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2024.2.24会報No.112 NEW!

瞽女(ごぜ)のことなど

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 機会があって、瞽女について調べた。瞽には鼓という文字が見えるのは訳がある。室町時代から存在し、「鼓を打ったり三味線を弾いたりして、歌をうたい、門付けをする盲目の女芸人である。民謡、俗謡のほか説経系の弾き語りをする」とある。ずいぶん昔のことだが、「はなれ瞽女おりん」という映画を見てその存在を知った。団体で行動することを原則とするが、男子と関係したので、タブーに触れ単独で行動を余儀なくされ、日々苦難の連続の様子が描かれていた。さて、鼓はその後の年月を経てなくなり、三味線と歌が残ったのである。

 たまたま、ドキュメンタリーで人間国宝にもなった小林ハルさん(1900年―2005年)のことを調べたが、生後3か月で白内障を患い、両眼を失明した。5歳の時から「一人で生きてゆけるように」瞽女修行を開始、8歳の時から巡業を開始、生国の新潟、山形、福島と延べ、50万キロ、地球を10周した勘定になる。視覚障害者が生きてゆくには、当時、瞽女か按摩(マッサージ)ぐらいしか生きるすべがなかったようだ。同じく、津軽三味線の名手、盲目の高橋竹山も同じく、幼少の頃から芸を仕込まれた。

 瞽女の修行は厳しく、文字通り、血と涙の連続である。まず、三味線は毎日の猛練習、手の爪は、血にまみれる。人差し指、中指、薬指の皮が破れ、出血するのだ。声の方もやはり過酷だ。よくとおるようにと、寒声(かんごえ)といって、寒中に喉を鍛えておくといい声が出るということで、寒さが厳しい折に、早朝と夜に、信濃川の土手に出て発声練習をしたのだ。声を命とする人間にとっては気合もはいるが、瞽女独特の練習方法で出血するほど喉を傷める。民俗学者・佐久間惇一によると、「一度つぶしてから出す、腸から出る声」と評し、同じ瞽女でも順境に育った者の声とは、全く違ったようで、人によっては、「日本のベルカント唱法」という者もいる。聞く人は、その迫力に押されたといっている。瞽女歌は文字通り口伝であり、レパートリーは500曲ほどであったともいわれている。領域も多岐にわたり、常磐津、新内、清元、義太夫、長唄、端唄、三河万歳、都都逸なども出来たのである。一度聴いたら忘れない、絶対音感のようなものを持っていたのかもしれない。

 苦労の連続であったが、「川野楠己氏によれば、善い原因が、善い結果をもたらすという因果の概念に従って生きたのだと説明している」。確かに、芸術家としてでなく、個人の人生は、あまり幸福とは言えなかったが、身体的なハンディがあっても、それを逆に乗り越えたことにより、常人にはなしえなかった偉業を残したのかもしれない。その人生には感動する。(2024.1.27了)

 

新春浅草歌舞伎を堪能して

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 若手歌舞伎役者の登竜門と言われる「新春浅草歌舞伎」を堪能した。演目は、「本朝廿四孝十種香、与話情浮名横櫛源冶店、神楽諷雲井曲毬・どんつく」の三題であるが、このうち、歌謡曲「お富さん」で知られた与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)についてふれる。

 1954年というから、自分も子供の頃、「お富さん」という流行歌が一世を風靡した。春日八郎が歌ったこの歌は、発売からわずか四か月で40万枚、最終的には125万枚を売り上げるという空前のヒットとなった。

 

(お富さんの歌詞)

粋な黒塀 見越しの松に

仇な姿の 洗い髪

死んだはずだよ お富さん

生きていたとは お釈迦さまでも

知らぬ仏の お富さん

エッサオー 源冶店(げんやだな)

 

 テレフォンガイドを聞かない限り、内容はわかりづらい。あとあと、話のあらすじをネットで全容を知り、このお富さんや歌舞伎の意味合いが理解できた、もともとの歌舞伎の台本は、実話をもとに、幕末から明治にかけて活躍した三世瀬川如皐(せがわじょこう)が書き下ろしたもの。「・・切られ与三郎大いに評よし。与三郎は八代目團十郎が当たり役にて、・・・」とある。この原作者・三代目瀬川如皐なる人物は、はじめは呉服屋を営んでいたが、後、中村座の立役者となった。

 このお富さん、実話でも歌舞伎でも、必ずしも悲劇ではなく、源冶店の部分でもハッピーエンドの風情があると見たほうが当たっている。さて、そもそも、歌舞伎と言えば、その成り立ちは、関ヶ原の戦いの頃、出雲の国の「阿国」から始まる。出雲大社の巫女から出発したが、大社の修繕費用を賄うため、諸国をめぐって踊り始めたのがスタートらしい。自分も、電電公社・島根通信部勤務の折、しばしば大社の近くの丘にある出雲阿国の墓を訪れた。例えば、水谷八重子など多くの著名な役者も拝みに来ている。現在、女性が歌舞伎の舞台に立つことはないが、これには、曰く因縁がある。はじめは。女性によって歌舞伎が演じられたが、寛永六年(1629年)に幕府により、風紀紊乱とのことで、男子のみによって、現在まで演じられている。なお、阿国以来延々と続く歌舞伎が、戦争直後、一部が上演禁止となったことがあるが、すぐに解除された。その後は、ご存じ、市川猿之助の「スーパー歌舞伎」の創作など、数々の工夫が重ねられている。

 歌舞伎は、平成21年(2009年)には、正式にユネスコの無形文化遺産にも登録されている。(2024.1.16了)


2023.11.27会報No.111

「イーハトーボの劇列車」を観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 一世を風靡した映画界の風雲児、角川春樹のキャッチコピー「読んでから見るか、見てから読むか」ではないが、先日、井上ひさしの「イーハト―ボの劇列車」を観たあと、新潮の文庫本も読んだ。舞台は、青森発上野行き急行列車だ。車掌や様々な背景を背負った乗客の物語であるが、取り上げたエピソードは、筑摩書房発行の宮沢賢治全集全十四巻からピックアップしたという説明もあった。自身,賢治マニアでもあり、書庫を探ると、実に、第十五巻「書簡集」があった。

 前口上から始まるが、ここでは、良く言われる賢治の多面性が説かれる。朝は宗教者、夕べは科学者、夜は芸能者という農夫だ。ケチャダンスで有名なバリ島の農民を或いは想定していたのかもしれない。

 本編に移るが、井上ひさしは、原作を現代風にアレンジしている。例えば、「①コカ・コーラの自動販売機などなくとも②イッセイミヤケやハナエモリなどなくとも」と置き換えて表現している。文字の芸術である文学は、その時代の言の葉で表現しなければ、確かに訴えないのだ。賢治の原作を読むよりも、もっとストレートに賢治の人間性を浮き彫りにしたというのが正直な印象である。

 ゴッホと同じく、生前は全くと言ってよいほど作品は売れなかった。これもゴッホの場合は、テオという弟がいて初めて世に出た。賢治の場合は、弟の清六さんの存在がある。賢治の苦悩は最大のものは、家業の「古着屋兼質屋」の後を継ぎたくなくて、モノづくりの農業に本当は没頭したかったようだ。そして、今でいう、SDGsや動物愛護の考えに近い。肉食を嫌い、菜食主義のようだ。ものを単に右から左に流して利を得る金融業者や商社員を嫌うのはそこから来ているし、そもそも、家業の古着屋兼質屋もそのたぐいである。劇中、一橋大学(旧東京高商)出の商社員(三菱)や、野生動物を打って生業とする猟師などは最も唾棄すべき人種なのかもしれない。だから、劇中猟師を登場させているし、自身、ステーキを食べるごとに「南無妙法蓮華経」と唱える。父親は、浄土真宗、本人は日蓮宗。この信仰上の対立は、家業を継ぐかどうかとう葛藤にもまして溝は深かった。

 合計9回の上京のうち、4回を取り上げているこの作品、自身の賢治研究に大いに参考になった。因みに、タイトルの「イーハト―ボ」とは理想郷という意で、賢治が一時夢中になったエスペラント語のようだ。(2023.9.20了)


2023.9.21会報No.110

チェーホフの「桜の園」を観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 チェーホフは、四大戯曲として「かもめ」「三人姉妹」『ワーニャ伯父さん』と最後「桜の園」を残している。遺作ともいうべき「桜の園」の舞台を観たが、ロシア革命前夜の世相の移り変わりを劇中からも十分うかがわれた。

 ロシア文学者の安達紀子さんが、「劇場文化」の中でチェーホフと「桜の園」に触れ簡潔にかつ見事に劇の背景を描いている。

 最近手にした「ウィリアム・アトキンス」の「帝国の追放者たち」のなかで、1890年にチェーホフが、モスクワの自宅からサハリンまで6500キロの旅をし、西岸の流刑地アレクサンドロスク・サハリンスキーに3か月間滞在し、のち「サハリン島」を著した。自身、東岸のユジノサハリンスクに出張した記憶がある。ロシアは広いのだ。そして、これほど時代の荒波にもまれた国もない。ロシアのウクライナ侵攻をみても、いまだに流動している。

 まず、チェーホフの生い立ちから説明する。1860年に生まれた。父方の祖父は農奴であったが、後に3500ルーブルの身代金を支払い、自由の身となった。父は雑貨商であった。中学時代からすでに戯曲を書いていたようだ。卒業後、モスクワ大学医学部に入学する。

このころから、短編小説を量産し始める。したがって、チェーホフとは?と問われれば、短編小説の名手であり、医者なのだ。結核にかかり、最晩年、まさに死に物狂いに遺作である「桜の園」を書いたのだった。帝政ロシアは、専制政治と農奴制の土台の上に築かれた帝国だったが、不十分ながらも、1861年の農奴解放令がアレクサンドル2世によって出され、次第に時代は変わってゆく。このころ、ロシアの人口は6000万人、うち、自由民は1200万人で、農奴は実に2250万人を数える。貴族は9万人しかいなかった。

 「桜の園」は1903年にチェーホフによって完成され、1904年1月17日モスクワ芸術座で初演されるも、その半年後の7月2日ドイツで客死した。そして、翌1905年には、第一次ロシア革命が勃発する。

 「桜の園」は、主に地主貴族のラネーフスカヤ(女性)とロパーヒン(農奴の息子・実業家)を中心に展開する。農奴解放令の発布後、貴族は財産を少しずつ失い、その一方で、商人たちは次第に頭角を現してゆく。パリにあこがれる、金銭感覚のない女主人は、自分の領地である「桜の園」を売りに出す羽目となり、結局のところ、ロパーヒンに買い取られるという皮肉な結末となり、人々の境遇の逆転が起きる。農奴の息子に貴族が負けるという、果たして喜劇なのか悲劇なのかわからないが、このモチーフは、チェーホフの体験「・・自分の領地での零落した地主の生活ぶりをメモに書き留めていた」ことによるらしい。(2023.9.12了)

(引用など)「劇場文化」安達紀子「桜の園」世界史の窓「農奴解放令」


2023.7.24会報No.109

経理あれこれ

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 今も個人事業主として、主として営業に従事しているが、もともとは経理屋である。経理のセミナーにも時々出席し、研鑽を積んでいるが、元来好きなので疲労感は無い。

先日も、知り合いの税務会計事務所主催のセミナーに同席した。教材は國貞克則氏の「財務3表一体理解法」で実に楽しかった。著者は、東北大学工学部機械工学科出身で、神戸製鋼所入社、アメリカでMBAを取得、現在は経営コンサルタントであり、著書も多数。自身、大学で簿記・会計を学び、アメリカでもMBAを取得。電電、NTT時代でも、経理の経験は多い。本社は資材局原価調査課で、原価計算や、企業経営の分析など。現場も珍しく、電話局・庶務課会計係長。国際派に転じて、ガーナ郵電公社とスリランカ電電でCFO,クレディスイス証券で投資銀行部門のマネージングディレクターと経理経験は長い。

 「財務3表一体理解法」の方で、最も興味があったのは、貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー表のうち、キャッシュフロー表である。この表はどちらかと言うと、素人目には脇役であるが、玄人好みの書類である。

 事実上の黒字倒産をしていて、毎月の給与が払えなかったガーナ郵電公社のCFO時代、とにかく、現金確保が一番であった。電話料金の回収率が25%しかないので、当然の結果である。いつも給与の遅配で、頭が痛かった。誰も滞納の電話料を放置しているので、やむを得ず、自ら借金取りにまわった。

迷惑なのは実は職員だけでなく、業者とて同じこと。例えば、小切手を切っても銀行で不払いとなると、男の業者は、事務室のドアをけ破り、女の社長は目の前でわんわんと泣いた。労働組合が追いかけてくるので、昼間は街にとんずらする、夕方こっそり戻ってくるという次第。料金回収では、小切手を目の前で切るまで待ち続け、不払いでは、通話停止で対抗した。建設勘定は大蔵省に出かけて行って、次官に土下座して小切手を切ってもらった。次官も心得たもので、気配を感じると、すっと、裏口から逃げる。そこで、秘書を手なずけてチップを渡して協力してもらった。背に腹は代えられないので、この建設勘定の残高を資本勘定に振り替えて何とか給与の支払いに回した。もちろん、あとで、建設勘定にもどしはしたが。その後、回収率も頑張って95%にまで上げた。

料金値上げも2度実施、お陰で給与の遅配はすべてなくなったのだ。電話料金のあて先違いが多々あり、返送された請求書が箱一杯になり、試験カードを基に大々的な修正作業もした。いつかは、事態を重く見たガーナ中央銀行が私を呼びつけ、狭い部屋に2時間ほど閉じ込め、キャシュフロー表の作成を迫られた。いまなら、れっきとしたパワハラである。

 このような経験をした結果、財務3表のうち一番重要なのは自分にとってキャッシュフロー表であり、はらわたに染み渡る実務を通しての数字なのである。ガーナでの経験が初めてではない。電話局の会計係長の時には、電話帳の広告料の滞納で、神奈川県茅ケ崎まで追いかけて行ったことがある。個人情報が今ほどやかましかった時代ではなく、住所を何とか追跡して不払いを回収した。また、ある時は足立区まで2度行き、スキンヘッドの大男から回収したこともある。同行した庶務課長はがたがた震えていた。まさに、経理は、静かな業務でなく、格闘技なのである。そして、在野の経済学者・高橋亀吉ではないが、「経済は理論ではなく実践」なのである。(2021.11.28完)


2023.5.30会報No.108

牡蠣師の世界観

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 あるドキュメンタリーを見て衝撃を受けた。牡蠣の養殖を通して食物連鎖を学び、「山と海とは対峙するものではなく、限りなくつながっているものだ」というある種の世界観を身に着けた気仙沼の牡蠣師(士)の物語であった。「森は海の恋人」という書の著者・畠山重篤(はたけやましげあつ)氏の言葉である。

 畠山さんは、県立気仙沼水産高校出身で、大学の文学部出でもなければ、特別に文章表現を学習したわけでもないが、実に文章が練れている。学者の川勝平太氏が、こう表現している。「その筆致には高い文学性があり、叙事文学ともいえる」。

 まず、お金の使い方と次にキャッチフレーズの用い方に優れている。木の葉が落ち、堆積して腐食が進むと、その分解過程でフルボ酸という物質が出来、これが鉄イオンと結びついたとき、フルボ酸鉄と言う物になる。この形になると、植物が直接摂取出来、沿岸の植物プランクトンや海藻の生育に重要な働きをするというのである。特に広葉樹林は、毎年大量の葉が落ち、腐葉土層が早く出来るので、海にとって非常に大切なのである。

 このことは、北海道大学の教授に依頼して確認した事実だが、この調査費用こそは、重篤さんの母親が、新造漁船購入用にためていた「へそくり」であった。これがそもそも、キャンペーン発足の出発点であり、究極の目標でもあるのだ。母親の「へそくり」については、同様の例が、日本におけるエジプト考古学の先駆者吉村作治早稲田大学名誉教授にも当てはまる。教授が初めてエジプト発掘に赴いたとき、その経費一切を母親の「へそくり」で賄ったということを聴いている。母親というものはいつの時代でも子供にとって偉大な存在だ。

 キャッチフレーズについてはこうだ。大前提として、牡蠣の栄養分は植物プランクトンから吸収する。そして、海の食物連鎖の出発点は植物プランクトンなのである。したがって、植物プランクトンが無いと牡蠣は生育、成長できない。さすれば、植物プランクトンはどうやってできるのか?川の存在が決め手だ。河口に鉄分が無ければプランクトンは出来ない。例えば、牡蠣の大生産地と言えば、一つに宮城県の石巻湾だが、北上川の河口域と言うことである。そして広島は、日本最大の牡蠣の産地だが、ここには太田川という中国山地の水を集めた一級河川が注いでいる。牡蠣を好むフランス人だが、ロワール川の河口域の産地についても、やはり、広葉樹林が広がっているのである。

 どうも、広葉樹がポイントだが、オーダー家具の会社・家具蔵によると、針葉樹と広葉樹の違いの説明は解りやすい。針葉樹の組織は単純で90%が仮道管で出来ている。仮道管とは水を根から葉に送る官のことだが、隙間だらけで軽く柔らかい。一方広葉樹は、組織が複雑で隙間が無く重量も重くしかも針葉樹に比較して硬いので家具には適している。

 もともとは、森林率も世界有数の日本で、落葉樹が多かったが、植林を急ぐあまり、針葉樹の割合が比較的多くなったようだ。

 広葉樹を山に植える運動を熱心に展開している畠山さんだが、背景には、大自然の原理原則をしっかりとわきまえているのだ。一人の牡蠣師ではあるが、しっかりした世界観を持った海の人でもありかつ山の人でもある。海というものがいかに山の恩恵を受けているか?海外でも、例えば、スペイン北西部のガリシアにも「森は海のおふくろ」という言葉を地元の漁師が良く使うそうだ。そもそも、「森は海の恋人」という言葉は、気仙沼市出身の歌人・熊谷龍子の「森は海を海は森を恋ながら悠久よりの愛紡ぎゆく」から来ている。

 牡蠣は、日本人にとって、縄文時代からの重要な食糧源だが、牡蠣の養殖について、重篤さんは稼業として子息が継いでいるし、更には孫にも引き継ぐとしている。(2021.10.4完) 参考文献:森は海の恋人 畠山重篤 文春文庫


2023.3.20会報No.107

奥山真司の「地政学」から学ぶもの

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 地政学に興味を持つビジネスパーソンが多い。軍事目的ではなく、しかし、実際に営業などと結びつける場合により身近に感ずるようだ。自分なりに解釈すると、①ビジュアライゼーション②拠点というものだ。①については、数字の羅列ではなく、分かりやすいグラフなどもその一つだ。②は、全国展開する場合の出発点としての拠点などだ。地政学を簡単にいうと、「国の地理的な条件を基に、他国との関係性や国際社会での行動を考える」というものだ。国際政治が「劇」なら、地政学は「舞台装置」でその舞台装置で最重要なのが「地図」である。

 歴史のなかで、最も躍動的なのが、「大航海時代」なら、コロンブスのアメリカ大陸発見とマゼランの世界一周は、地政学上も大きな変化をもたらした。コロンブスが、最も手掛かりにしたのが、「マルコポーロ」の東方見聞録とプトレマイオスの世界地図であった。

 例えば、マルコポーロの東方見聞録を現在の地図上に表すと、実に面白い。まず、ベネチアから出発し、コンスタンチノープル、中央アジアを経て陸路大都(北京)に着く、帰りは海路で、マラッカ、セイロン(スリランカ)を通り、ホルムズ海峡を経て、アルメニアを通り、ベネチアに帰還した。これを、自分は小さい地図を次第に拡大して一覧すると、文字でたどるよりわかりやすいのだ。まさにビジュアライゼーションである。その頃、最も栄えていた元の首都大都への各地の拠点の旅路である。帰りに、雲南省に寄っているのが意外であり、この頃から栄えていたのかと驚く。プトレマイオスの地図は現在の世界とは相当ことなる。まず、アフリカとアジアが陸続き、インド洋は内海で、セイロン島はバカでかい。大西洋も、太平洋も描かれてはいない。これが、その当時の世界であったのだ。

「大航海時代」を経て、大西洋も太平洋も認識され、それこそ、地図が大幅に書き換えられ、「地政学」上も大変革したのだ。面白いのは、当時も世界の中心だった中国が台頭し、新大陸のアメリカと対峙していることだ。奥山氏の説は陸地の王者と海の盟主がそれぞれ分をわきまえていればいいのだが、欲を出すと失敗する。例えば、東シナ海に進出や、一帯一路を目論む中国は将来うまくいかないだろうし、もともと海の帝王(太平洋と大西洋に挟まれたアメリカ)はベトナム戦でこけた。海の自然の要塞で守られた日本が、大陸に進出した太平洋戦争も敗戦で終わった。

 奥山氏の「地政学」は生臭い。沖縄の軍事的重要性を説き、決してアメリカは手放さない。ロシアにとって北方領土もかなり重要視していると指摘。言われてみればまさに目からうろこである。幸いビジネスで、前記の拠点、ベネチア、コンスタンチノープル、北京、雲南、マラッカ、セイロンという今も変わらぬ拠点は巡った。拠点は重要である。点から面への展開でどうしても欠かせない場所だからだ。例えば、北海道に進出する場合、札幌に支店があるかどうかは重要で、既成の拠点・仙台から営業すれば良いというわけにはいかない。経営戦略、営業戦略などと、戦争用語が使われるが、地政学も例外ではない。(2020.12.31完)


2022.11.27会報No.106

冒険商人(The Merchant Adventures)への憧れ

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 就職は商社にするつもりであった。専攻も「貿易実務」「貿易慣習論」で大航海時代の上乗り商人に憧れを持っていた。上乗り商人とは、港に店舗を構えて商取引をするのでなく、商業航海の船に自ら乗り込んで彼の地に赴き、そこで自ら取引を行う。何せ、大航海時代の船旅は危険極まりない。難破、船員の反乱、先住民からの反撃、壊血病等で8割は命を落とす。最も利益率の高いのは、奴隷貿易であった。利益率がなんと100%であった。上乗り商人とは、まさに「冒険商人」そのものであったのだ。

 大航海時代に、ヨーロッパから新天地への航行は、主に次の三つの要素から可能になった。①羅針盤②航海術③地図である。最も著名なのはなんといっても、コロンブスであろう。インドの香料や黄金郷(エルドラド)を目指して、大西洋を横断した。東を目指すより、海路で目的地にはいち早く到達できるだろうと踏んだのだ。そのコロンブスが頼りにしたのが、①マルコポーロの東方見聞録と②プトレマイオスの世界地図であった。マルコポーロ自身も、陸路をたどる冒険商人ではあった。プトレマイオスはAD150年に既に世界地図を描いていたのだから驚きである。日本ではようやく弥生時代である。プトレマイオスの地図は、インド洋が内海で、今のスリランカは余りにも巨大な島であった。

 もともと、日本地図の作成に大いに貢献した伊能忠敬や長久保赤水に興味を以て古地図の蒐集を始めたのだが、とんでもない古(いにしえ)に既に世界をにらんでいたプトレマイオスなるアレキサンドリアのギリシャ人地理学者がいたのだ。コロンブスの背中を押したのが、同時代のイタリアの医者トスカネリで、彼の地図を見ると、確かに、ヨーロッパを出発して大西洋のかなたに既にジパング(黄金の国)があり、さらにその先には、インドとなっている。アメリカ大陸が発見された当時、当初、「地理上の大発見の時代」と呼ばれたが、それでは、既にそこの先住民には大変失礼だということで「大航海時代」となった。

 冒険商人が成功の暁には、巨万の富を得て、帰国後は王侯貴族のようにふるまったようだ。貧しい出の青年が生存率20%の大航海に賭けたものはやはり大きかったようだ。大航海時代を経て産業革命に続くが、それまでどちらかというと、東高西低の世界情勢で、インドや中国、中東(ペルシャ)の方が文化の面でも西欧を凌駕していたのだ。

 大航海時代が日本に及ぼした影響も大きい。種子島にポルトガル人が漂着し鉄砲をもたらしたのだが、それから、日本は戦国時代に突入し、鉄砲隊を駆使した戦国大名が戦でも主導権を握るようになる。アフリカのガーナに3年間赴任したが、その間、海岸部のエルミナにも立ち寄った。独立前は、ガーナは黄金海岸と呼ばれ、そこからヨーロッパに黄金を積みだしたのだ。その黄金海岸の東隣りは穀物海岸のトーゴ、西隣のコートジボアールは象牙海岸と言い、港から積み出した主要産物がその地の名前の由来になっている。エルミナでは、何気なくポルトガル人が作ったその砦の跡地をなんの意識もなく眺めていた。大航海時代は、3種類のプレーヤーがいた。即ち①軍人(時に海賊)②宣教師(イエズス会)③冒険商人がいたが、富を本国にもたらしたという点では、冒険商人の役割も非常に大きなものがあった。男は度胸である。(2020.12.21完)


2022.9.26会報No.105

古地図蒐集の楽しみ

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

最近、講演用の古地図を数種類手に入れた。はじめは、伊能忠敬より40年以上も前に日本全図を創始した長久保赤水のレプリカを入手したことから蒐集が始まった。教科書などでは、日本で最初に日本全図を完成させた人物として伊能忠敬があまりにも有名で、井上ひさしの「四千万歩の男」という小説でより身近な存在となった。ただ、伊能図は幕末、江戸幕府の図書館ともいうべき紅葉山文庫に収められて一般の大衆の目には触れなかった。その伊能忠敬が大いに測量の助けとして常に携帯していたのが、長久保赤水の地図であった。吉田松陰もこの地図は非常に便利だと述懐していたという。つまり、一般に流布していたのは、伊能図でなく長久保赤水の物だったのだ。ところで、これからが面白い、明治になって政府は伊能図を使って近代的な地図を完成させていったのだが、それでは、赤水図と伊能図の間は空白なのか?そこで調査して分かったのが、「官版全国実測図」の存在である。これは、伊能忠敬とその弟子である間宮林蔵の資料を基に、江戸幕府と明治政府が、樺太を含めた日本全図を完成発行していたことが判明した。地図は、やはり、実測が肝要で空想の物は近代的とは言い難いのだ。「つくば」の国土地理院・付属の売店にはあることが判明したが、何せ「つくば」は遠い。何とかならないか?

人類学では、人類と類人猿との間にミッシングリンクは存在しないことになっている。つまり、日本地図では、この「官版全国実測図」が赤水図と伊能図とを埋めるもので、おまけに樺太探検の間宮林蔵の物も加味されている。手に入れたのは、慶応三年幕府発行の北海道の物だが、一部樺太もその先端の方が覗いているしろものだ。北海道の南半分は忠敬、北は間宮林蔵の実測による。さて、遠い「つくば」でなく、近場でないものか?現代地図と古地図を扱っている新宿の紀伊国屋に相談すると、既に消滅した地図販売元の「人文社」のものがあったはずだが今は在庫は無い。そのかわり、日本橋の「ぶよう堂」ならあるかもしれないという返事。電話すると、日本の中央部のものなら一部(全体は五部)だけあるとのこと。不満だが、モノを見てみようということで出かけた。そこで、手に入れたのが、店員がその後に見つけた北海道の物だった。

その店に行ってみると、なんと「洋モノ」もあって、プトレマイオスやオルテリウスの世界地図もあった。アレキサンドリアの天文学者だったプトレマイオスは紀元150年に既に世界地図を完成させていたのだ。日本は弥生時代だ。なんという彼我の差か!このプトレマイオスの地図を頼りにコロンブスが西へ西へとインドを目指して航海したのだ。プトレマイオスの地図には当然だが、アメリカ大陸は存在しない。

ベルギー生まれのオルテリウスは、世界初の「近代的地図」を1570年に完成させた。これは、「世界の舞台」という名でつとに有名なものだ。当然ながら、ここには「南北アメリカ」も「日本地図」さえも載っている。今、コロンブス自身が記した「航海誌」を入手し、壮大なロマン小説を書きたいと思っている。(2020.11.17了)


2022.8.1会報No.104

マルティン・ルター伝説

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 宗教改革者ルターの伝説は、高校時代世界史の教師から聞いたある逸話から得たものである。ところが、ルーテル神学校名誉教授・徳善義和氏の「マルティン・ルター」を読んでみると若干の相違があることが分かった。

 まず、高校教師からは、「友人と二人で野原を歩いていると、突然雷鳴がとどろき、友人が雷に打たれたが、自分は助かった。そこでこころの中でもし助かれば、修道士になると決意した」と。

 ところが、前出の著書によると「・・実際に雷鳴と共に稲妻が走り、地面になぎたおされた。・・・死の恐怖の中で思わず『・・・お助けください。私は修道士になります!』」と叫んだのだった。つまりは、友人と二人でなく単独であり、しかもどうやら雷には実際打たれた様子である。つまり、このことが、修道士になり、宗教改革につながる重要な逸話である。法学部の学生であったルターはこの事件で修道院に入ることになる。

 ルターは、1483年11月にザクセン地方のアイスレーベンに生まれた。父親は、銅鉱夫から身を起こし、辛苦の末、銅の精錬所を三つも経営する実業家になったが、息子を大学の法学部まで行かせ、将来は宮廷の顧問官かあわよくば宰相か少なくとも同業者仲間の法律顧問にと考えていた。その教え通り、ルターは法学部の学生になった。当時の大学は、神学部、医学部、法学部からなっていたが、神学部が最も格上であった。

 次なる伝説は、免罪符である。町の司祭となったあと、日中、街の路上で一人の酔っぱらいを見かけた。「昼間から酔っぱらっていないで、まじめに働け、さもないと神のみ心にそむく」と注意すると「あっしには、これがあるから大丈夫だ」と免罪符を見せた。これには、さすがのルターも衝撃を受けた。免罪符を買えば文字通り、罪が免れるという代物だ。当然、それ以降、免罪符の発行に反対した。

 修道士は、爾来一生独身が掟だが、これもルターは破った。1525年、ルターが42歳の時カタリナという修道女と結婚、三男三女を設けた。ルターの名言の中に、当初自分が他の書物でみつけたのは、「人生は歌と酒でござる」というものだが、実際はもっと自由で「酒と女と歌を愛さぬものは、生涯馬鹿で終わる」というものだ。ルターはこれを自ら実践に移している。

 偉業の一つに聖書のドイツ語訳がある。それまで聖書は庶民からは程遠い聖職者だけの専有物であったが、これのドイツ語訳を発行し世に広めた。時もグーテンベルクの印刷機の発明もあって、他の宗教的パンフレットと共に一般に流布したのだ。自身、当時の印刷機のレプリカを見たことがあるが、ブドウの絞り機からヒントを得たものだ。

 いくつかの宗教裁判の果てに当然のごとく破門されたが、ついに処刑されなかったことが幸いした。それまでは、破門即処刑だったが、宗教的審判と処刑が分離され、更には、サポートする領主が現れたことが幸いした。(2020.7.19完)


2022.5.23会報No.103

名刺の数3000枚の意味するもの

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 1冊500枚の名刺ホルダーが7冊ある。都合3000枚余りの名刺を保有し、ビジネスにフル活用している。重要顧客から始まって作家、新聞記者、医師や弁護士まで幅広い。7冊のホルダーのうち、頻度が高いのが2つ、毎日のように検索している。

 実は、ほとんど使わない名刺はまとめて別の箱に保管してあるので、生きているものだけで3000枚で、頻度の高い重要顧客のものは、先述の2冊で、大まかにいうと600枚ほどだ。顧客の検索は、それ以外にもインフォーマルな6団体のものが6冊。これらが、すべて営業上の主要ツールになる。自分の社会上の役割すなわち職業が経営コンサルタント及び作家であるため企業、メディアそして接待場所である料亭やフレンチレストランのオーナーと言ったところが自分の“コミュニティー”と言える。そしてこの“コミュニティー”は毎日拡大を続けているのだ。

 面白い話がある。年々減少しているが、年賀状というものがあり、年に一度公式、非公式な挨拶状がある。ある役員経験者が、現役のときには300枚来ていたのが、引退したとたんに3枚に激減したという。これは、とりもなおさず、其の人物のコミュニティーの縮小を意味すると言っても良い。

 この“コミュニティー”という意義づけは、トム・ピーターズの伝説的名書「ブランド人になれ」からの引用である。

「私の場合、例えば、カバンをなくしたとしよう。痛い。だけどそうたいしたことじゃない。財布を落としたとしよう。痛い、泣きたい。だけど、そうたいしたことじゃない。この原稿をなくしたとしよう。痛恨の極み。大問題である。だけど、死にたいとは思わない。しかし、名刺ホルダーをなくしたら目の前が真っ暗になる。死にたくなる」と。結局のところ、名刺とはその人のネットワークそのもので、ずばりコミュニティーそのものだ。

そのコミュニティーの大事さは実にしつこく具体的に述べている。其の主要なものは、

・コミュニティーの維持

・コミュニティーの育成

・コミュニティー・メンバーへの関心

・コミュニティー・メンバーへの思いやり

・コミュニティー・メンバーとの助け合い

・コミュニティー・メンバーから得る信頼

 

 実体験だが、4年前に名刺交換して、その時は需給が合わなくて、仕事に直接は結びつかなかったが、突然、技術者を1名早急に派遣してほしいとの連絡が入りクロージングにまで行ったことがある。たかが名刺、されど名刺である。

名刺入れをコミュニティーと意義付けたのはさすが、天下のトム・ピーターズである。

年賀状も、「コミュニティーの維持」という観点から見ると、重要な作業かもしれない。(2020.4.25完)


2022.3.1会報No.102

富は海からやって来る

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 なかにし礼の「石狩挽歌」の二番は、様々なロマンを掻き立てられる。

燃えろ篝火 朝里の浜に 海は銀色 ニシンの色よ

ソーラン節で 頬そめながら わたしゃ大漁の 網を曳く

あれからニシンはどこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も

今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー

かわらぬものは 古代文字 わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る

 

 かつて、「一起こし千両」といわれたニシン漁。栄華の夢を今に残すのが小樽の「青山別館」であり、贅の限りを尽くした建築である。紫檀、黒檀など南洋材をふんだんに使い、なかでも安南の屏風が目を引く。大正の末の建築だが、その頃、酒田の本間家と交流のあった青山家の当主が、これまた圧倒的な優雅さで群を抜く酒田・本間家の本宅にも引けを取らないものを作ったのだ。酒田の本宅は、幕府の巡検使一行を泊めることを目的に作られたこの邸宅だが、それこそ、到底、庶民のものとはかけ離れたものである。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われたほどの富豪である。石高にして二十六万石、中堅大名と比較しても十分な収入である。日本一の大地主だが、農地の収入のみならず、海運業でも利益を得ていた言わば、総合商社である。酒田は本来、「べにばな」やコメの集散地であるが、河村瑞賢による西廻り航路の恩恵に浴し、西の堺、東の酒田ともいわれていた。日本一の大地主の元となったのは、そもそも、海で稼いだ種銭があたためである。

 シェークスピアの「ベニスの商人」の主人公は、金貸しのユダヤ人と貿易商アントーニオの裁判劇であるが、東方貿易で栄えたベニスを舞台としている。アントーニオはマーチャントという役割だが、マーチャントとは単なる「商人」ではなく「貿易商」をさす。

 昨今人気の高い、オランダの画家・フェルメールであるが、「天文学者」「地理学者」という著名な二枚の絵がある。これこそが、オランダの黄金時代を映し出した端的な絵画なのだ。今のバタビア(インドネシア)に「オランダ東インド会社」を作り、スペイン、ポルトガルのあとイギリスが出てくるまでの時期、栄華を誇っていた。この元となったのは、胡椒など香料を扱った貿易だった。その国が、富み栄えるのは、まず、貿易であり、次いで植民地支配である。長崎の出島はヨーロッパではオランダのみ貿易を許されたが、出島の商館とは正式にはオランダ東インド会社日本支店である。世界制覇のための遠洋航海には、どうしても「天文学者」と「地理学者」の知識が必要だったのである。

 小樽のニシン御殿、酒田の本間家本邸、ベニスの商人のアントーニオ、フェルメールの絵画いずれも「富は海からやって来る」の典型例である。但し負の要素も相当ある。航海は「板子一枚下は地獄」である。初期の大航海時代、海難や壊血病などの疾病で乗組員の生存率はわずかに20%であった。運よく港に船荷と共に着けば、どんな貧民も一挙に富裕層に跳ね上がり、王侯貴族の生活ができる。ニシンも同様で、なかにし礼も実兄が欲を出してニシンを本州までもってきたばかりにすべて腐ってしまい大きな借金を家族が抱え込んだ。酒田は千石船の航海、ベニスもアントーニオの所有船が一時遭難の情報が入る。さように、船は常に危険と共にある。まさにハイリスクハイリターンのプロジェクトと言って良い。(2010.2.5完)


2021.12.5会報No.101

「ザ・殺し文句」を読んで感じたこと

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 新潮新書「ザ・殺し文句」は非常に面白かった。結局、状況に応じて的確な文言を言い放つことだが、リスクも伴う。自分にとって一番の言葉は、今太閤と言われた田中角栄の言葉だ。以下の言葉は、田中角栄が大蔵大臣に就任してすぐに、大蔵官僚を前におこなったスピーチの一部だ。

「自分が、田中角栄である。ご存知のように、わたしは高等小学卒業。諸君は全国から集まった秀才で、金融財政の専門家だ。しかし、棘のある門松は、諸君よりいささか多くくぐってきている。しかし、今日から諸君と一緒に仕事をすることになるのだが、わたしは、出来ることはやる、出来ないことは約束しない。これから、一緒に仕事をするには、お互いをよく理解することだ。今日から、大臣室の扉は常に開けておくから、我と思わん者は誰でも尋ねて来てくれ。上司の許可はいらん。仕事は諸君が思うように、思いっきりやってくれ。しかし、すべての責任は、この田中角栄が負う。以上」

 一瞬で秀才たちの心をつかんだのです。これぞ、典型的な殺し文句です。著者の川上徹也はコピーライター。さすがに一言で納得させるにはどうすればよいのかがわかっている。

 個人的には、タイTT&Tの国際入札で相当の事前準備を重ねてある殺し文句を使いました。TT&Tが一体何を不安がっているのか?何を望んでいるのか?を入念に調べ上げたのです。私は、南カリフォルニア大学のMBAを取得しましたが、その卒業生の伝手を頼り、タイでコンサルタントをしている先輩米国人に会いました。いろいろ話をしているうちにその人物が最強の競争相手のフランステレコムのアドバイザーだとわかりました。会談中、TT&Tの不安は技術移転に伴う「実務訓練の中身」に関心があることに気が付きました。国際入札は、もちろん、入札金額など他の要素も重要ですが、実務訓練も非常に大事だとは思いつかなかったわけです。局外の通信工事や保守には手本を示さなければ技術移転は出来ません。会話の中でそのヒントを読み取ったわけです。あからさまに手の内を明かさなかったのですが、この「殺し文句」・・・「実務訓練の大切さ」をプレゼンの中で強調しようと決断しました。

 入札は勝ちました。もちろん他の要素もありますが、相手の不安を取り除くような「断定的な殺し文句」が功を奏したわけです。殺し文句は、政治や商売だけでなく、文学でも威力を発揮します。最近感動したドキュメンタリーで「森は海の恋人」があります。宮城県で牡蠣士と呼ばれる畠山重篤氏を扱った作品ですが、感動しました。牡蠣の養殖には、海に臨む森の健全化が要求され、森の栄養が、海の植物プランクトンが牡蠣には欠かせない栄養物なのです。そのための植林がポイントです。これを畠山さんはせっせとやってきた。東北大震災の津波にやられましたが、海は生きていた。この植林のお陰だったのです。

郷土の歌人熊谷龍子の言葉がまさにその殺し文句です。「森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく」。ここからドキュメンタリーのタイトルにもなりました。畠山さんの仕事は、三人の息子さらには孫まで引き継がれています。畠山さんは「自分は子孫のための腐葉土でいいんだ」とこれまた素敵な殺し文句ですね。(2021.9.8了)

 

「倉本聰の言葉」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 碓井広義が選んだ脚本家・倉本聰の多くの作品中の名言を集めた本である。倉本聰と言えば、「北の国から」や最近では、「やすらぎの郷」や「やすらぎの刻」といったテレビドラマで人々に印象深い言葉を数多く残している。生まれは1934年東京・代々木生まれ、本名・山谷馨。東大文学部卒業で、ニッポン放送に入社。その後、フリーの脚本家に転身。北海道・富良野市に移住。「北の国から」で話題を呼ぶ。ここでは、生き方を主に脚本の中からこれはと思うものをピックアップしてコメントしたい。

まず、象徴的なのが次のチャップリンの言葉であり、これが、倉本聰の人生哲学でもある。

 

・「人生は、アップで見れば悲劇だが、ロングショットでは喜劇である」。

 

 映画人らしいカメラワークで表現しているが、全体像を移す場合はカメラを引いて長めの映像にする技法だ。その時々では、思うように事が進まなくても、山あり谷ありで全体で見れば、まあまあの人生ではないかというコメントである。ただ、アメリカ人の高齢者の7割がもっと積極的に生きればよかったという感慨を持っていると言われている。

 私的には、これよりも次のチャップリンの言葉が好きだが。

 

・「人生に必要なものは、勇気と想像力。それとほんの少しのお金だ」。

・「人が死ぬときの問題は、その人が本当に“納得”したか、どうかだと」。

 

 やすらぎの刻のなかで出演者に語らせている言葉であるが、これは、あらためて、短刀を突き付けられているようで誠に凄い。東大法学部を首席で卒業、大蔵省にはいり、最終目標の事務次官になったエリートが「両手の指のあいだから砂がさらさらとこぼれ落ちるような虚しさ、自分の人生はいったい全体なんであったのか?果たして自身の人生を生きただろうか?」と。

 

・「わずかばかりで充分なのよ。本来、農業は商業と違う、自分で耕して自分で収穫して、自分が食えりゃあそれでいいのよ。・・・(中略)いっぱい作って売って儲けようなんて。そんなこと考えなきゃ楽に暮らせる」。

 

 コロナ禍で悪徳商人がマスクの転売で“やりだま”に挙がっている。額に汗して得た正直者が損してはいけないと。これなど、倉本聰の両親がクリスチャンであったことの影響だろうか?

 

・「男の頭と女の頭はお前―機械でいや配線が違うんだ。男の頭がラジオの配線なら、女の頭はお前―テレビの配線よ。信じられない複雑さよ」。

 

リコーの創業者市村清はそれこそ波乱万丈の人生を送ったが、インタビューで「市村社長、世の中で分からないこと等無いでしょうね?」との質問に「女ごころだけは未だに分からない」と返事していたそうだ。

 

・書くということは、即ち生きるということなのだ。一読を勧める。(2020.6.21完)


2021.10.1会報No.100

喜劇「老後の資金がありません」を観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 コロナ禍のなか、観客の席の間を十分すぎるほど間隔を空けた新橋演舞場の「老後の資金がありません」を観に行った。渡辺えり、高畑淳子というベテラン女優の演技を堪能した。本来、タイトルからして悲劇的なのだが、最終的には「人生は何とかなるさ」というケセラセラ的雰囲気が漂う喜劇なのだ。チャップリン曰く「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇なのだ」が言い得て妙である。

 以前、「老後には、2,000万円は最低必要な資金だ」が話題となり、俗にいう2,000万円問題として人口に膾炙されたが、この物語の出発点は1200万円である。ここから娘の結婚費用や父親の葬儀の費用を引くと残金がおよそ悲劇的な値になるということから始まる。

 原作者垣谷美雨の冒頭の文章から「こころ豊かな老後を送るには、「自分は自分、他人は他人という確固たる信念が必要です。世間の常識より、評判より、他人の意見より、貯金の方がずっと大切です。もう見栄を張っている場合ではないのです。」

 人生の三大支出と言われる①子供の教育費②住宅購入費③老後資金に困らない人ほど幸せな人は無いとは確かに言えるだろう。問題は最後のハードルである老後資金である。人は誰でも、その前のハードル①子供の教育費と②住宅購入費でヒーヒー言っているが、最後の老後資金の頃にはもはや青息吐息なのではないだろうか?

 皮肉なもので、福祉国家スウェーデンの老人を取材したとき、確かに年金は潤沢だが、「孤独に悩むあるお年寄りは、朝から酒浸りだった」。何故お酒をと問いかけると「将来の不安がよぎる」という、誠に切ない返事。

 原作の小説は30万部を突破するほどのベストセラーになったが、その解説の中で人気作家「室井佑月」いわく「面白く、ためになる、素敵な小説だった」と冒頭では言ってはいるが、そのなかで、まず、①自身の子供の教育費についてのハードルの高さについてこう言っている。「・・・最悪、入学金や学費がクソ高い私立の医学部や、ベラボーな金額の個人教授をつけて受検に挑む音大に入りたいと言ってもなんとかしようと。そうなったら、三十代半ばに買った、中古のマンションを売るつもりでいた。・・・都心の高層マンションの最上階を購入することにしたが、・・・息子のために将来、売ることも計算し、買ったのだ。・・ところが、息子はあっさり文系を選んだのだ。・・・医者にはならない。小学校時代、縦笛やピアニカもへたくそで居残りさせられていた息子は、音楽家にもならない。ヒヤッホー!最大の肩の荷が下りた瞬間である。」劇中の結論は述べるわけにはいかないが、脚色、演出のマギーの作詞の歌がこの劇の結論めいたことを言っている。

「・・・貯金が、貯金が貯まらない 内臓脂肪が増えてゆく 老後の資金が減ってゆく 白髪ばかりが増えてゆく 明日の為に何を増やせば 未来のために何を残せば 明日の私に渡したい 未来の私にプレゼント 中略 笑っていれたらなんとかなるさ お金はなくともナンクルナイサ ・・・明日は明日の風が吹く だいたいなんとかなるもんさ・・・」(2021.8.31完)

 

 

カレン・ブリクセンのことなど

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 深夜、テレビで「バベットの晩餐会」を観た。字幕が出たが、何語かわからない。

英語でもドイツ語でもない。内容からして、デンマークかスウェーデンらしい。筋というほどの物はない。ある家政婦が、突然フランス料理を創り出し、これが絶品で招待客の皆が褒めちぎるという他愛のない風景が展開するだけだ。探偵のように正体を突き止めだすといういつものいたずらを開始した。原作は、ちくま文庫のイサク・ディーネセンの著書と出た。隣が図書館だから、早速アクセスすると、在庫はあるらしいが、いつまでたっても係員が地下倉庫から戻ってこない。結局、在庫ありとデータがあるが、「実物は無い」というつれない返事。

 新宿の紀伊国屋で1冊だけの在庫を手に入れる。招待客の会話がものすごく哲学的でこれは、全員が貴族出身かと思わせる。舞台はノルウェーだった。しかし、本日のテーマはこの物語自身ではなく、作者イサク・ディーネセンだ。さあ、探偵の始まりだ。この作家の名前は、名前のイサクからして男性だが実際はれっきとしたデンマーク生まれの女流作家のカレン・ブリクセンだ。英語とデンマーク語を自由に操り、英語の場合はイサクを使い、デンマーク語で出版する時はカレンと使い分ける。不思議な作家である。そもそもカレン・ブリクセンとの出会いは、アフリカのケニアであった。

 1885年、デンマークのルングステッズに生まれる。1913年に父方の親戚のスウェーデン貴族ブロア・ブリクセン男爵と結婚。翌年ケニアに移住。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活も、農園経営も上手くいかなかった。このケニアでの生活が「名作・アウト・オブ・アフリカ」を生み、作家としての地位を不動のものにした。自分は、映画も観たし、小説も原書の英語でも読んだ記憶があるが、ケニアの風景を思い出させる見事なものだった。夕日を背景にキリンがゆっくり歩く姿は今でも目に浮かぶ。ケニアには、ガーナ滞在中会議のため、ナイロビに赴いたが、ガーナから乗った飛行機が、空飛ぶ棺桶(flying coffin)と言われたエチオピア航空だった。

 ナイロビでは、カレンが住んでいた家が博物館として保存されていて、現地のキクユ族との交流が写真で残っている。その後、これも縁だが、人材派遣会社に勤務していた時に、電動車椅子の購入をデンマークの会社からという件でデンマークの工場に視察で行ったのだ。この際だということで、鉄道を乗り継ぎ、コペンハーゲンから、ルングステッズの今はこれまた博物館になっている、アフリカから帰国後のカレンの住処だった家を訪問した。

当該企業の社長も「なぜまたカレン・ブリクセンの家などに興味を持ったのだ?」と不思議がっていた。「日本人なら人魚姫やらアンデルセンの生家などに行くのに」と。言ってみれば、樋口一葉の生家はどこかと聞いているようなものだ。そういえば、樋口一葉もカレンもそれぞれその顔がお札に印刷された時期があった。ルングステッズの鉄道駅を降りてからも、道々、人に尋ねながらの訪問であった。幸い、北欧は総じて英語がほぼ100%通ずる。つまりは、自分は、カレン・ブリクセンに関しては、ケニアの家にもデンマークの生家にも両方をおとずれた、稀有な日本人ということになる。普通、ケニアと言えば動物で、デンマークではもちろん人魚姫で終わりだ。自分には、博物館好きという癖があって、あっちこっちの国の博物館を歩く。この癖は日本国内でも同じだ。因みに、「バベットの晩餐会」は1987年度アカデミー賞外国語映画賞を受賞している。(2021.9.13了)


2021.8.1会報No.99

上海の芥川龍之介

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 およそNHKらしからぬドラマが放映され、再放送も深夜だが、食い入るように見てしまった。“魔都”上海を舞台に、ベースは“芥川龍之介”の「上海游記」であるが、「渡辺あや」が相当現代風にアレンジしている。芥川は、大阪毎日新聞の特派員として短期間、上海に滞在、艶めかしい部分を相当誇張して描いている。時は大正10年中華民国建国10年。清朝の残照も残る、国際都市の上海を余すところなく映し出している。

 游記とはなっていても、旧所名跡は全く出てこない。人間の方が面白いと主人公に言わしめて、そこにうごめく男と女、混乱している中国の政治家、思想家、芸妓をかなりストレートに描写している。孫文の創設した中華民国だが、底流に毛沢東の共産主義の胎動も見られる。そこは、中国であって、様々な民族が欲望の赴くまま生きている。「まじめなのは満州へ、少し柔らかい日本人は上海に流れたものだ」と職場の大先輩に聞かされたものだ。以前、「上海バンスキング」という二度にわたって映画化された舞台を、昔、興味を以てみたものだ。そのキャッチフレーズが「生バンドでつづる、黎明期のジャズマン達の恋と夢、あの街には、人を不幸にする夢が多すぎた」。町がいかがわしいが魅力を持っていた、まさに魔都なのだ。バンスとは前借りのことで、在るジャズマンがクラブのオーナーからいつも前借をするものだからバンスキングと綽名されていたためにこの不思議なタイトルになったようだ。

 芥川が表現したいくつかの文章は実に印象深い。「舞踏場はかなり広い。が、管弦楽の音と一緒に、電燈の光が青くなったり赤くなったりする具合はいかにも浅草によく似ている。唯、その管弦楽の巧拙になると、到底浅草は問題にならない。其処だけはいくら上海でも、さすがに西洋人の舞踏場である」。京劇も見る。女形の緑牡丹に興味を持つ。自分も京劇を何度も日本で見たが、あの胡弓、月琴、銅鑼は騒々しいが懐かしい。特に武劇は鳴り物の騒がしさはすさまじい。

 最も紙面を割いているのが、美女のことである。南国の美人(上)(中)(下)と具体的に中国人美女をほめたたえている。「・・・志那の女は、・・・耳が美しい・・」。政治については、ある中国人にこう語らせている。「・・志那の国民は、元来極端に走る事をしない。この特性が存する限り,志那の赤化は不可能である。・・・中庸を愛する国民性は、一時の感激よりも強いからである」。ところが、どうであろうか、国民党との内戦を経て、共産主義国に今はなっている。このころ、小規模ではあるが、既に共産主義者の全国集会が開催されている。中華料理も褒めている。「その代わり、料理は日本よりも旨い。聊か通らしい顔をすれば、北京よりは劣るが東京の志那料理に比べれば、・・・旨い。しかも値段の安いことは、ざっと日本の五分の一である」。原案の芥川の著作に無い美女「玉蘭」も登場させている。それを演じた女優の「胡子攻」は確かにおそろしいほどの美女だ。

 結局、低評価の部分もあるが全体のトーンは上海賛歌となっている。(2020.11.23完)


2021.6.1会報No.98

定年後の世界

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 定年本が数多く出ているが。ほとんど共通しているのが、①地域社会への参加②夫婦そろっての旅行③趣味三昧④学び直しの四つであるが、ひとくくりで言うと「暇つぶし」である。定年後は、別の表現で言うと、①教育と②教養ならぬ「今日行くところがある」と「今日用がある」ならば、まあましな生活が送れるというものだ。しかしこれとてまさに「暇つぶし」の変形と言わざるを得ない。

 私の主張は、暇つぶしはやめよう!である。いわゆる定年は、会社人生の終わりを意味する。会社人生という、人事や生き方まで他人に縛られるから、そこから抜け出した時何をすればいいのか迷ってしまう。

 定年まで待って本当に自分がしたいことはあるのか?それが無ければ、答えは二つ。一つは無為徒食、二つ目は、起業である。無為徒食は文字通り、禅僧のように無為に過ごすこと。あらゆる「しがらみ」から解き放たれ、自由な世界に遊ぶことである。前述の四つの行為、①地域社会への参加②夫婦での旅行③趣味三昧④学び直しはいずれもしがらみだらけだ。

 後世になにか残したいなら、やはり起業だろう。これは、経験上も一筋縄ではいかない。これで食べていくだけの糧を得るには相当の才能と努力がいる。「痛くない注射針」を発明した起業家は「技術より世渡りだ」と言っているが至言である。市場で評価されるには世渡りが必要で、これは、普段の付き合い、会社員時代からのコネクションがモノを言う。

 自身は、定年を経験していない。49歳で脱サラ後、起業して今日まで生きながらえている。自分の住む市で「IT化に関する審議会」の委員をしたときに、市役所の職員が、「定年退職、定年退職」と折あるごとに言う。彼らには脱サラ、起業の概念は無いのだろう。今や大学生の人気ナンバーワンの職業が国家公務員と地方公務員だから無理もないかもしれない。今やコロナ禍で打撃を受けた企業に対し国や地方が保証をしているが、金額的には、「焼け石に水」の感がぬぐえない。事業を展開しているとこの金額は一桁違う、否二桁かもしれない。しかし、焼け石に水でも全くないよりはずっとましである。

 幸い自分の住んでいる市は財政豊かで、県からの補助を一切受けていない。そこで、市長が小規模事業者や個人事業主でコロナ禍で売り上げが減少した住民に対し、10万円の給付金を出すことになった。自分も申込みぎりぎりの段階でこれを知り、早速申請した。

 同時にこれは良い制度なので、「市長への提言」の中で、「モチベーションが上がる」としてメールで称賛したところ、ほどなくして市長からも返信が来た。結果はまだ知らされてはいないが、楽しみではある。自分は74歳で来年から後期高齢者の仲間入りだ。どうしても働かざるを得ない事情から働いているが、定年後の「お金と暇のある恵まれた人物なら無為徒食が一倍良い」のだ。無理に世間と自分を合わせることは無い。あらゆる世のしがらみから解放されて禅僧のような全き自由な世を謳歌して欲しいものだ。(完)

 

「終わった人」・・・内館牧子を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 好角家、元横綱審議会委員で脚本家・内館牧子の映画化もされた話題作である。企業小説とも言っても良いほどのカイシャの取材が徹底している。メガバンク、零細企業、ソフトハウス、海外ビジネスも出てくる。久しぶりに納得の読後感である。今まで多くの「定年もの」の小説やエッセイを読んだが、これほど赤裸々に実態を描いたものは無かった。

 主人公は、岩手の名門高校・ラグビー部主将、東大法学部卒、メガバンクの企画部副部長、絵にかいたようなエリート街道を進み、次は役員かというところで、49歳の時、子会社に出される。その後、63歳の時、その子会社の専務でいよいよ定年を迎える。この時、「定年は、生前葬だ」と感ずる。つまり、本の題名通り「終った人」になったのだ。これからは、毎日が日曜日。仕事がすべてに人生だっただけにむなしい砂をかむような9か月を過ごす。その間、ハローワークに出向くが、ある零細企業の面接では、「あまりにも経歴が立派すぎる」ということで不合格。が、突然、スポーツジムで知り合った三流私大卒のベンチャーの社長と知り合い、年俸八百万円、個室と秘書をあてがわれた極く好条件で迎えられる。

 ところが、順調に顧問生活を続けるうち、その誘ってくれた社長が若いのに「大動脈解離」で急死する。そこで、人生が急展開、若い社員などに押されてとうとう社長に祭り上げられる。銀行マン出身で「代表」はいかに大変かを知っていながら、まさに「終らない人」になったわけだ。顧問の気楽さに比べいかに社長業が大変かを実感しながらも充実した日々を送っていた。ここで、また運命が急展開、ミャンマーの取引先が倒産、零細にしては、巨額の未収金が発生、しまいに、そのベンチャーも連鎖倒産する。ここで、多額の債務(9000万円)を自ら抱え込む。これがあらすじだが、自身の会社員人生、先輩、後輩を見ていて、出来事が随分と重なり、また同じ感慨を持つ。ここでコメントすると以下のようだ。

1)恋愛も出てくる。まさに、相手がカルチャーセンターの講師で渡辺淳一の失楽園を思わせるが、満足な結果では終わらず、不完全燃焼だ。「めしつき一般オヤジ」で終わってしまう。この、表現、あるCAに言わせると「ご馳走おじさん」となる。

2)なぜ、取締役になれなかったのか?協調性に欠ける欠点があったようだ。つまり、「世渡りが下手だった」ようだ。

3)ミャンマーの取引先の倒産の可能性をなぜ見抜けなかったのか?海外の企業の信用調査「DUE DILIGENCE」が甘かったのだ。

4)国内のビジネスの柱がいくつも無かった。つまり、多角経営が出来ていない。

5)銀行マンは保守的で、金庫番には適するが、事業拡大には向いていない。

6)その保守的な銀行マンがやすやすと経営者保証に印を押すとは、甘い。

7)ベンチャーには特有の経営上の難しさがある。

8)東大法学部、メガバンク出身という成功体験がかえって仇になった。

その他、時代の流れを示すものとして、チャレンジングな高校生は東大より、グローバルな昨今、ハーバードやケンブリッジを直接めざすとかという記述も出てきて、さすが、内館さんらしい研究熱心さである。いわゆる、「定年もの」に無い鋭い表現は、「公園や図書館、スポーツジムはジジババで一杯とか、昨今の流行語では、「離婚ならぬ卒婚」とか、「東京の高校出身者が都落ちでない」定義は、進学先が「旧七帝大か医学部」だとか、目からうろこの感がある。既に「団塊世代は遠くになりにけり」だ。是非、一読を薦める。(了)


2021.3.1会報No.97

「頭のよさとは『説明力』だ」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 日本語の奥深さを教えてくれる斉藤孝が今度は「説明力」を解説している。自分にとって特に目新しいものは無いが、国際入札でのプレゼン、外資系投資銀行でのお客への説明、米国留学時の過酷なコミュニケーション授業、テレ朝ニュ―スステーションでの生出演、現在も同行営業での気づいたポイントなどをなにか自分に替わって解説してくれているような気がしてならない。

 全編を解説せずに、思い当たった点の項目だけをまず列挙すれば、次のようになる。

 

①9割の人は「説明力」を身につけていない

②上手な説明の基本フォーマット

③説明では現物が最強の武器になる

④A41枚の構成力で説明力は向上する

⑤「15秒練習」で説明話術が身につく

⑥パーソナルな部分を見せるようにする

 

1.説明力不足は、学校及び企業での訓練の無さが如実に出てしまっている。先生となる人物の不足である。例えば、外国人を相手に工場の概要を説明する工場長などに、時どき、上手なのがいる。外国人は情け容赦なく質問をする。その回答に窮しただけ経験を積んで磨かれていくのだ。

2.国際入札での苦い経験はこうだ。入札結果が出て、落札したBTのプレゼン資料をみて愕然とする。結論が先に出て、途中に説明、最後に再び結論。印象に残る。

  斎藤孝はこう説明する。①まず、一言で言うと〇〇です②つまり、詳しく言えば〇〇です③具体的に言うと〇〇です④まとめると〇〇です。これは、米国のビジネススク-ルで学んだものと全く同じだ。そもそもから始まって、結論はこうなりますという起承転結方式では無い。時々、会社説明に時間をかける営業がいるが、だれもそんなものに興味はないのだ。ずばり、核心を突くべきなのだ。

3.日本地図作成者の伊能忠敬と長久保赤水の講演を時々するが、地図をズバリ出した方が分かりが良い。長久保赤水とは、忠敬の40年前に日本全図を作成した男であるが、ほとんど無名に近い。

4.A4枚にまとめる努力は昔からしている。実はパワーポイントは、スーッと頭に入るがまた、すーっと出て行って何も残らない。講演が無駄になる。聴衆に何か持って帰ってもらうという目的からは遠くなる。

5.15秒で説明する。短い!しかし、無駄なことは一切話せず、肝心な部分だけを集約する訓練にはちょうど良い。テレ朝・ニュースステーションでの生出演で、時々、久米宏から、「田上さん、15秒でコメントしてください」と振られたことがある。ドキッとするが、テレビの時間はそもそも、勝負が短く、15秒でも非常に貴重だ。

6.講演でも、自身の体験を挟むと聞いている人により訴える。(了)

 

粋(いき)と野暮(やぼ)

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 サラリーマンで日本人とアメリカ人ほど野暮な人間はいない。日本人で言えば、カラオケとゴルフ、時にマージャン。アメリカ人は、アメフトとハンバーガーだ。昼間のビジネスも夜の会食も話題は仕事とメディアが発した事ばかりである。

 講演の機会はあるが、ある年配の男性から「転職は35歳まで、仕事の話をしてほしかった」。何とも無味乾燥な指摘であった。講演の内容が「わが人生に一片の悔いなし」で、49歳で脱サラ、その後テレビのリポーター、投資銀行家、経営コンサルタントと転々と職を変えたが、そのたびに世界の価値観はがらりと変わった。それを面白がる人物も多々いて、特に女性の方がドキッとする感想を漏らすのが多い。ある時、サマセット・モームの「月と六ペンス」の話をしたら、講演後自分の方につかつかと歩いてきて「雨」の方がよりモームらしいと感想を語っていた。「月と六ペンス」はタヒチで没したゴーギャンをモデルにした作品で「月という夢を追う人間と六ペンスという日々の生活に追われる普通の庶民を対比させている」。この六ペンスという貨幣単位だが、三途の川を渡る船賃がたったの六文で安い娑婆の価値観を著している。「雨」は無神論者のモームのかなり重い作品で、禁を犯して自殺する神父の物語である。信仰とは何かという深遠なテーマを神父と娼婦という対照的な人物を浮き彫りにしたもので、読後、相当気分も滅入る。

 「酒間公務を論ずるなかれ」とは、新入社員教育で教わったが、どうしてどうして、社会に出てみると、「酒間公務」ばかりである。中でも最も面白く無いのが、公務員と銀行員である。話題がまさに仕事とゴルフだけ。ましなのが、メディアの送り手の方で、受け手は無味乾燥。以前、先輩に紹介されて芸者遊びをしたが、その時、高名な芸妓の言葉が「粋と野暮」であった。小唄や民謡を口ずさむようだと、「粋な人ね」と褒められるが、三味に合わせて全く沈黙な人物が「野暮なお人」なのである。

 なかにし礼が直木賞を受賞した作品が「長崎ぶらぶら節」だが、民謡によくある労働歌でなく、遊び人の歌である。以前隠岐の島出張の折、電話局長からシベリア抑留の話とこの「長崎ぶらぶら節」を初めて聞いた。それ以来、自分も気に入って謡っている。

 アメリカ人や日本人と違って、ヨーロッパ人相手では趣味が無いと酒席は務まらない。ギリシャ政府の顧問をしていた時、相手の高官が、いきなり英雄・アレキサンダー大王の話を自慢げに語り始めた。「田上お前知っているか?」と問われたので、「それでは、アレキサンダーの汗はかぐわしい香水の香りがしたという伝説はご存知か?」と逆襲した。これには、相手がぎゃふんとなった。このエピソードは子供の時母親から買ってもらった絵本の中に載っていた話で、その後、プルタークの「英雄伝」を読んで改めて確認した次第である。英雄伝は、ギリシャ・ローマの英雄たちの逸話の列挙だが、アレキサンダー大王とシーザーに相当な部分を割いている。ヨーロッパ理解には格好の書物である。(完)


2021.2.1会報No.96

ブランド人になれ!を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 一世を風靡した「エクセレント・カンパニー」の著者・トム・ピータースの1999年の著書である。邦訳の副題が「これからの会社員の教科書」とあるが、このフレーズは内容と異なりいまいちしっくりと来ない。テレビメディアで今を時めく池上彰の「なぜ僕らは働くのか」も合わせ読んだが、夥しい数の「定年本」とあまり変わらず、これも面白くなく説得力が無い。

1)高齢のアメリカ人の70%がもっと若いときに積極的に生きればよかったという気持を持っているという。

2)夥しい数の定年本のステレオタイプは、65歳まで何とか糊口をしのいであとは、貯金を取り崩し、趣味で生きる。そのために貯金は2000万円くらい必要というものである。

 大企業であれ、中小企業であれ、65歳までは、なんとか会社というブランドあるいは、看板を背負って生きれるが、それ以上は自身のブランドがない限りは積年の貯蓄に頼らざるを得ないのが本音だろう。そういう意味で「自身のブランド」が無いと百年時代は生きられない。中身はともかくこの「ブランド人になれ!」というタイトルだけはいただきである。つまりは「会社人」ではだめなのだ。

 「なぜ僕らは働くのか」では、ステレオタイプではあるが、人生の三大支出として①教育の費用②住宅購入③老後の費用を挙げている。そして、人生百年時代の計算で、次の数字を示している。

出費1億1、130万円―収入9、366万円=1、764万円

これでは、いわゆる「定年本」と何ら変わらない。そして老後は「趣味で生きる」。

 トム・ピータースは実に50のアドバイスをしている。原題がTHE BRANDO   YOU 50である。50のアドバイスのうち最も書名にふさわしいのは、次の二つである。

1.人はだれも、何かを売って生きている。

2.あなたは、営業ができるか。

ひとが取ってきた仕事をやるのが雇われ人、自力で取ってくるのがブランド人だ。

 大企業が生まれる前、社会保障も失業保険も無かったころ、職を保証するものは、これも2つ、①抜きんでた技量②ネットワーキングの力だ。まさに、人生百年時代に必要なのは,悠々自適の老後でなくて、死ぬまで働くことであり、自身のブランド力を磨くことにある。

 年金崩壊が話題になり、2000万円あまりの老後資金が必要との数字が物議を醸しているが、いずれ定年も65歳から70歳最後は75歳になるだろう。しかし、自身がブランド人になれば、考え方もがらっと変えなければならないだろう。自身のパラダイムシフトである。ブランド人になろう!(完)

 

三島由紀夫回想

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 三島由紀夫が没してからちょうど50年が経過した。思えば、当時日本は社会全体がたぎった時代だった。ノーベル文学賞候補にもなった文豪だが、若干45歳で自ら死を選んだ。最近、文学賞で「引きこもり文学大賞」なるものがあることを知った。常に社会というものと対決していた三島と比較すると、なんとも情けない世相ではある。

 岩波新書刊でごく最近、佐藤秀明氏の「三島由紀夫・・・悲劇への欲動」を読んだが、評論の集大成ということで、実に内容が濃くうまくまとまっている。引きこもりというものが俗世間との関係を断ち切ってゆく行為で生きている実感が持てないであろうと想像できるのに対し、佐藤氏の述懐で「人は、生きてゆく上で何らかの負荷がかからなければ、生の実感が保てない…」という正にこの言葉通りの短い人生を三島は生きた。45歳である意味で充分だったのだ。

 面白いエピソードを拾うと、本書には無いが、三島のペンネームの由来が、東海道線で三島の駅を通過した際、雪をかぶった富士の頂があまりにも美しかったので命名したそうだ。そして、書中にもある通り、自身が生まれたとき「盥(たらい)にひたした産湯の表面がきらりと光ったという記憶がある」と。

 大正14年高級官僚の家に生まれた。その後学習院の初等科から中等科を経て高等科に進む。中等科の時代、「花盛りの森」を発表している。早熟である。戦前官立であった学習院を首席で卒業、無試験で東大法学部に入ったが、後に辛くも大蔵省に入省、その時の高文試験の成績が167人中138番であったそうだが、よくその成績で難関の大蔵省に入省出来たなと思う。19歳で徴兵検査を受け、第二乙種合格、入営通知もきたが、身体検査で肺浸潤がみつかり、即日帰京する。軍隊経験は無いが、中島飛行機に学徒動員されている。大蔵省を23歳で退職、作家生活に入る。世界旅行の際、占領下の日本ではパスポートが手にはいらず、マッカーサーの署名入りの旅行許可証で旅立った。欧米を旅する中で感動したのがギリシャだ。

 そこでは、「私はついにアクロポリスを見た。パルテノン神殿を見た。ゼウスの宮居を見た」と書き記している。さらには、おんぼろバスで10時間かけて「地球の臍」と言われるデルフィにも行っている。デルフィは日本で言えば、伊勢神宮にあたり、ギリシャ人の心の故郷ともいうべき場所だ。

 最終的には100名ほどに膨れ上がった「楯の会」という私設の民兵団を創設したが、団の運営費はすべて三島の私費で賄ったという。日本の青年に期待する気持ちが強く、自決する1年前、自分の母校東大にも護衛を付けず一人で乗り込み「東大全共闘1000人VS三島由紀夫」という討論にも出席している。粗暴な学生の議論に丁寧に応答している。今どきこんな壮年の評論家がいるだろうか?最後は、あまりに有名な、市ヶ谷の自衛隊駐屯地での割腹自殺である。遺作ともいうべき「豊穣の海」を書き上げ、残されたのは自身の大義に基づく死を賭けた行動だけだった。三島の驚くべき美文と幅広い活動の裏付けは、佐藤氏いわく「前意味論的欲動」であり、①悲劇的であり、かつ②身を挺する行動力である。

 そこには、個人の為でなく、日本という国の為の「大義に基づく行為」となっていた。三島が今生きていたらどんな言動をするだろうか?(完)

 

最果タヒの世界

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 若い世代に圧倒的に人気のある女流詩人で作家の最果タヒ。プロフィールは謎で、写真も顔を出さず後ろ向きが多々ある。「グッドモーニング」で中原中也賞を受賞。一読したが、正に情念の塊。普通、文学は情念と論理の融合で、作者の世界観を「言葉」で表現する。

 「足の裏」という詩の冒頭のフレーズ。

 

真夜中、雨が降る中で、このむらでたったひとつの体育館に、わたしがみつけた

おおきな熊がたいこをたたき、それを見つけたわたしに

それ以上はいることを許そうとはしない

 

 他の詩もだいたいこんな調子である。ここでは、作者の世界観はなかなか見えてこない。対比して違いをみるため、金子みすゞを取り上げる。

私と小鳥と鈴と

 

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を早くは走れない 私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のやうに たくさんな唄はしらないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

 

 金子みすゞの世界観が如実に表現されている。実は、芸術、音楽でも絵画でも小説でも詩でも、その作者の世界観や生き様が表現されていないとなかなか心に響かない。

 むしろ、最果タヒの場合は、小説の方が世界観がよく見えてくる。例えば「十代に共感する奴はみんな嘘つき」を読むと現代の女子高生の心情がうまく表現されている。このあたりが、若者に受ける理由なのだろう。但しである。次のような若者言葉を理解しないと全体が意味不明で終わる。

・サブカル

・じゃがりこ

・エモい

・ハブられる

・ビッチ

・ブラコン

 そして、「自殺」というワードは後追い自殺も容易に想起させる。この小説を読むと今の女高生が何を考えているか誠によくわかるのである。(完)


2020.12.1会報No.95

「傍観者の時代」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 日本の経営者はドラッカーが好きだ。ドラッカーはアメリカではさほど読まれないが。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という小説も出るほど日本人はドラッカーを好んでいる。最近では、國貞克則氏の「現場のドラッカー」がある。自身、アメリカでMBAを取得したが、授業の中でマイケル・ポーターの「競争戦略」にはお目にかかったが、ドラッカーはついに一度も登場しなかった。

 ドラッカーに最初に出会ったのは、まだ私が二十代のころの「断絶の時代」であった。これは、むしろ未来学者の著作だとその時は理解した。この未来予測は100%ではないが、相当の割合で当たっている。

 「傍観者の時代」(Adventures of a Bystander) を読むきっかけは、一つには、ドラッカーが経営学の生みの親ともいわれてはいるが、果たして経営の経験はあるのか?二つ目は、ドラッカーが経営という分野のみでなくもっと幅広い知識を持っているのはどうしてか?この二つの謎を解くための格好の書物が「傍観者の時代」だからだ。「傍観者の時代」は、まさにドラッカーの自伝でもあり、思想形成の軌跡でもあるからだ。

一つ目の疑問、経営者としても経験はあるのか?について、NO!全くない。ドラッカーの軌跡を見てみると、1909年、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれた。それより以前、祖先のおおもとは、オランダで宗教書の印刷業。オランダ読みでは、ドリュッカーである。家系的にはユダヤ人で、高級官僚、法律家、医者が多く、父は貿易省の大臣、母は医師である。出身校はドイツのフランクフルト大学、2005年アメリカで没した。職業としては、ハンブルグで商社員、フランクフルトで証券会社のアナリスト、その後、金融記者、大学では、国際法と国際関係を教えている。実に、娑婆で様々な分野を経験している。このことで、多角的な目を養ったのではないかと想像できる。著作としては、1939年に「経済人の終わり」、1942年には「産業人の未来」を刊行。以降、社会に関するものとマネジメントに関する本を交互に世に問うている。「自分は大組織の歯車よりコンサルティングが得意」といっている。私は30代から(アフリカでの泥だらけの経営体験も含む)経営コンサルタントをしているが、日本では、経営者としての経験がないコンサルタントはどうしても敬意を払われない傾向にある。例えば、実務経験のない中小企業診断士が経営者を前にして講義する場合があるが、なんとなく、遠慮がちな傾向にある。「経営の経験がないのですが・・・」となると「きったはった」の思いを毎日している人間から見るといささか迫力に欠けるのだ。ただ、実務だけの経営者は、個別の経験を一般論の経営論にまで昇華させる能力は余りない。

 最近よく言われることだが、日本の経営者の弱いところは、「リベラルアーツ」に欠ける点である。芸術の分野に詳しい経営者はごくまれである。経営者教育を生業としている企業に聞いてみると、リベラルアーツ関連の企画をしても希望者が無くて講座が成り立たないという。一方、日本の著名な経営学の草分け的な人物が、自分の会社を倒産させるという衝撃の事実が相当以前にあったが、それ以来、どうも日本では経営学者は分が悪い。

 二つ目の幅広い知識は、育った環境が、ロスチャイルドとはいかないが、裕福な家庭で、様々な知識に溢れた多く人が出入りするサロン的な家であったこと。すなわち、リベラルアーツは、ばっちりである。そして、アメリカで教鞭をとったが、「アメリカという国は、母国にいるより一流の学者になるような環境を与えたし、学問の境界を超えさせられた」。別の言葉でより簡潔に言えば、「経済学者は企業を経済の観点から見、政治学者は政府機関を政治プロセスしか興味を持っていなかった」と、そこに共通なマネジメント(経営)という概念を導き出せないという悲しさがある。マネジメントは、企業経営のみならず、非営利団体の病院や学校にも当てはまるし、あらゆる組織に応用できる。この考えを推し進めたのがほかならぬドラッカーなのである。マネジメントとは一つの世界観であり、芸術もこれに当てはまる。したがって、リベラルアーツの必要性とは実はマネジメントの重要なファクターなのだ。

題名の傍観者とは、例えば、企業の場合、経営者が役者で、株主が観客。そのどちらでもない第三者が傍観者で、外部のアドバイザーに当たるようだ。ドラッカーはその助言者に該当する。(完)

 

ニシン御殿残照

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 小樽のニシン御殿・青山別館は、なかにし礼の言葉を借りれば、「屋敷全体が宝石」のようであった。創設者である青山留吉は、ニシン漁で財を成し、故郷近くの山形・酒田から宮大工の棟梁ら50名以上の職人呼び、建坪190坪、18室、総工費30億円というとてつもなく贅沢な屋敷を作った。中でも、床や柱は春慶塗、鴬張りの廊下、紫檀、黒檀、を使った書院づくりの床の間、枯山水の中庭など枚挙にいとまがない。自身が驚いたのは安南製の屏風である。

その昔“黄色いダイヤ”とも言われたニシンの魚卵“数の子”だが、おせちの主役でもあった。ただニシン漁そのものは、ハイリスクハイリターンの危険なゲームであり、多くの喜悲劇を生んだ。

 網元は、運が良ければ、立派な屋敷が建つし、悪ければ倒産の憂き目にも合う誠に気まぐれな漁である。これは、洋の東西を問わない。

 なかにし礼の「兄弟」という小説は、特攻隊あがりの実の兄がニシン相場に手を出し、本来小樽で収穫したニシンを処分すればよいものを、無理して秋田県能代まで運びすべて腐らせ莫大な借金を抱え、小樽の家から一家が追い出される羽目になるという私小説だ。

 記憶に残る「カズノコ倒産事件」というのもある。三菱商事の子会社であった「北商」は、昭和五十五年、まだ「黄色いダイヤ」と言われた時代、年末に価格が上がるであろうという見込みの元、数の子を大量に買い占めたものの、消費者の買い控えで消費は伸びず、多額の負債を抱え倒産の憂き目にあった。商社は、需給の見込が失敗すると大損するという典型的な事件だった。

 話を戻すと、この目で確かめた小樽の青山別館だが、札幌での講演の帰途、地元の人が案内してくれた。

創設者の青山留吉は江戸の末期1836年に山形県庄内地方遊佐町に生まれた。24歳で北海道に渡り、小樽市祝津で雇漁夫として働いていた。この頃から、青森、秋田、山形から出稼ぎでニシン漁の漁夫がシーズンには多く集まったのだ。

 留吉は、わずか1年で小規模ながら自ら漁場を開き、最終的には、漁場15か所、漁船130隻、使用人300人を使うほど拡張し、小樽の三代網元と言われるまでになった。ニシン漁は1年のうちたった4ヶ月ほど、2月から4か月間だけである。なぜ、留吉が成功したのか?4か月の出稼ぎ漁夫の為に近隣の農地を買い上げ、残りの8か月の為に彼らを定住させ、農作業や植林、造園に携わる仕組みを作ったのだ。すると、経験値の高い漁夫を継続して雇い続けることが出来、生産性が他の網元より高かったのだ。つまり、独自のビジネスモデルを作り上げたのが成功の秘訣だった。

 ここで、思い当たるのが、雇われサラリーマンがやがて起業、個人事業主を経て事業を拡張、零細から中小企業、大企業へと成長するにつれ、リスクは次第に軽減されてゆくという事実である。果たして、ニシンが来るかどうか、来ても自分の網にかかるのかどうか?網の数が増えれば増えるほどリターンは多くなるし、来る確率も高くなるのだ。

 留吉は、1908年、故郷の遊佐に里帰りし、青山本館で隠居生活をおくり、1916年81歳でこの世を去ったが、その前に250町歩の土地を購入、大地主となった。

 実は、この留吉、地元の名士・本間家が念頭にあり、実際に交流もあったようだ。本間家は酒田で代々資産を累積、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」と言われる日本一の大地主だが、なんと千七百町歩を所有し、庄内藩の殿様の16万石を凌ぎ、26万石の中堅以上の大名並みの財産を所有していた。その本間家の本邸が残っていてそれを青山留吉氏の孫娘が訪れたときに魅せられたという話だ。本間家の本邸は、私も訪問したが、幕府の巡検使の宿にもなるほど豪華で、北前船で運ばれた金沢の九谷焼など調度として多数所有する誠に豪勢な造りである。

 面白いことに、この本間家、海運や倉庫業、金融などで財産を増やしたのだが、米相場でも大成功し、本間宗久などは、出羽の天狗の異名を持った稀代の米相場師で、「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵前雨が降る」とも謡われたほどだ。ある時期に、博打を打っていたわけです。何かハイリスクハイリターンのニシン漁と似ている。

 北海道のニシン漁の歴史は古く江戸時代にまでさかのぼる。和人が漁を始める前は、アイヌが自家用に漁をしていたと言われている。ニシン漁は松前藩によって制限されていたが、明治になって自由にできるようになった。まずは、家族経営の刺し網から網元による大規模な定置網漁に代わってきた。取れたニシンは、ニシン粕は肥料に、身欠きにしんと数の子は食用にされていた。中でも数の子は関西を中心におせち料理には欠かせないものとなったわけだ。ところが、昭和30年以降、にわかに激減、昭和32年には日本海春ニシン漁は完全に幕を下ろすことになった。なかにし礼の石狩挽歌の歌詞は、ニシン漁の盛衰を見事に表現している。

(一)

海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると

赤い筒袖(つっぽ)のやん衆がさわぐ

雪に埋もれた 番屋の隅で

わたしゃ夜通し 飯を炊く

あれからニシンは どこへ行ったやら

破れた網は 問い刺し網か

今じゃ浜辺で オンボロロ

オンボロロー

沖を通るは 笠戸丸

わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る

(二)

燃えろ篝火 朝里の浜に

海は銀色 ニシンの色よ

ソーラン節で 頬染めながら

わたしゃ大漁の 網を曳く

あれからニシンは どこへ行ったやら

オモタイ岬の ニシン御殿も

今じゃさびれて オンボロロ

オンボロロー

かわらぬものは 古代文字

わたしゃ涙で 娘盛りの 夢を見る

 

ごく最近、ニシンが戻ってきたというニュースがある。2020年2月27日、小樽市の忍路漁港でニシンが産卵のために押し寄せる「群来(くき)」が見られた。群来はニシンのオスが、メスの産卵に合わせて出す精子で海が乳白色に染まる現象だ。小樽市周辺では、稚魚の放流などの取り組みで2008年以降、群来を毎年確認している。

 ニシンの食文化はヨーロッパにもある。ドイツやオランダである。特に発祥の地オランダでは、中世まで遡る。魚卵や白子ではなく代表的なものはニシンそのものを玉ねぎとの組み合わせで食したりする。オランダ語ではharing, ドイツ語でHeringそして英語ではherringである。因みにドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクは巨漢で、大酒豪大食漢、このビスマルクの好物の一つがニシン酢漬でBismarckheringである。

さて、かつて世界の海を支配したオランダだが、その要因がニシンにあった。オランダの黄金時代と言われる17世紀には、ニシンは一月から三月にかけて荒天の北海西部の漁場で多くのオランダ船の流し網漁で大量に捕獲され、塩漬け、酢漬けにしてヨーロッパ各地に送られ、オランダ富裕化の源になったのだ。おかげでオランダの造船技術も進んだうえ、海運業発展の土台ともなった。ニシン漁は、「オランダ発展の母」と認められるほどオランダにとって重要な産業部門だったのだ。十七世紀のアムステルダムの富裕層はニシンがオランダの富の源泉であることをよく知っており、口癖のように「この町は、ニシンの骨で建てられた」と自慢したと言われている。アムステルダムの堅牢な石造りの建造物はある意味「ニシン御殿」なのだ。ニシン漁で栄えたという意味では、東の小樽と西のアムステルダムと言ってよい。(完)                   

 

ちょっといい話

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 もう十年以上も前の話である。地元の商工会の紹介で高齢の自動車修理工場のオーナーから翻訳と通訳を頼まれた。ハワイにいる身寄りのない高齢の女性オーナーが無くなって、主に現地で所有する大型のスーパーの資産を巡ってその遺産相続の関係で当事者間で大いにもめているという。現地の日系人弁護士は、日本語はある程度は解るが、読み書きはだめだ。間に入って話をまとめてくれないかという依頼である。

 とにかくハワイと電話でその弁護士と話をするにも時差がある。早朝の4時か5時に起きて国際電話で話を進めた。ある程度のところまで来たときにもう十分だということで、それから全く音沙汰なしとなった。報酬は全く無し、菓子折り1箱だけだったので、苦労した割には報われない仕事だと痛感したが、何せ地元の商工会の頼みだから、引き受けたのだ。

 時は流れた。ある夏の昼下がり、ピンポンとチャイムが鳴って妻が応対に出た。私はたまたま昼寝の最中。事の次第はよくわからない。あとで聴くと、栗饅頭、月餅、松の実饅頭と3種類が25個入った段ボールと金3万円が入った封筒を受け取ったという。

 その自動車工場の前を自転車で通り過ぎるたびに、この工場の主はケチだったなと若干不愉快な思いがよみがえっていたが、今回「すべて解決した」ということで、若干のお礼ということらしい。自分は既に自動車も所有していないし、およそその修理工場とは縁もゆかりもない。十年の前の借りをこういう形で返してくれたことで、「人間捨てたもんじゃないな」と改めて考えなおした次第である。(了)


2020.10.1会報No.94

「半沢直樹」に思う

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 田宮二郎が演じた山崎豊子の傑作「白い巨塔」が、かつて視聴率32.1%を記録したが、今話題の「半沢直樹」は、最終回は実に32.7%を記録した。テレビ業界で二けた行けば成功、20パーセントでお化け。30パーセントはお化けの上を行くものだ。本来面白味の無いはずの銀行員ものが、原作はいざしらず、脚色によってこうもわくわくする作品に生まれ変わるのかと思うと、フィクションのもつ魔力は大したものだ。

 およそ、サラリーマンでは言えそうもないセリフを、企業社会の上下を無視して言いたい放題言っているところに、普段職場で鬱屈しているサラリーマンの共感を呼ぶのであろう。

 30代のころから仕事柄、銀行対策に頭を悩ましていた自分にとって、セリフのひとつ一つが心に響く。銀行とは「晴れの日に傘を貸してくれるが、雨の日には奪ってゆくものだ」は本当のことである。「銀行残高がゼロ或は赤字」という経験をした人間は大企業ではあまり多くは無いだろう。

 ガーナ郵電公社時代、給料日に給料が払えなくて、2~3日まえからキリキリと胃が痛んだものだ。しまいには、自ら借金取りに回って収納率を25%から日本並みに95%まで上げて、自死の恐怖から免れた。このガーナ郵電公社・CFO時代の経験が後日、中小企業の社長時の資金繰りに生きた。まず、銀行が「カネを貸す、貸さない」の判断基準は、企業の返済能力を見る。手元流動性というやつだ。端的に言うと、借入金の額に対し現金の割合が多ければ多いほど銀行は貸しやすいというわけだ。これはバランスシートを見れば一目でわかる。次に、銀行は安全を見て「経営者保証」を取る。経営者の財産目録を出させて、いざ借入返済ができないときには、経営者に自己の財産を売却して返済に充てさせるのだ。本来は、銀行側の目利きが良ければ、このようなことはさせないのだが、中小企業経営に疎い銀行員にこの「目利き」の能力は無い。

 中小企業の代表に就任した時に最初に取った非常手段は、この経営者保証を外させる代わりにメインバンクの地位を与えることだった。メインバンクになると、大量の資金が流入してくるという大きなメリットがある。そして、一行で経営者保証を外すとあとは邦銀の典型例「護送船団方式」で次々、経営者保証を外してきて、結局全行外すことに成功した。経営者保証は、歴代の経営者に踏襲されるから、遡っていく代か前の者まで外される。おかげで歴代の社長には大いに感謝されたものだ。半沢直樹のドラマの中で、膨大な倉庫の中の資料を探し回る場面が出てきたが、実際たまりにたまった古い紙ファイルは膨大で大変な時間を要するらしい。

 メインバンクの変更は「メガバンクから地銀へ」だったので、最初は、田上はとうとう狂ったかと言われたりしたが、当該地銀の頭取がたまたま同じ大学出身でOB会でも名刺交換しており、昵懇の仲だったことも幸いした。「企業は人なり」の典型例だ。(完)

 

コロナ関連小規模事業者等臨時給付金受領する

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

在住する市より、8月17日に既に提示した銀行口座に10万円振り込むとの通知を受けた。当初、申し込みが6月いっぱいだったのを妻が新たな市のチラシを見て、期限が7月末まで延長されたため、7月22日になって急遽、市の経済政策課に持参して受付してもらった。幸い在住する市は県からの補助金を必要としないほど豊かで、このような施策を打てたのだと思う。

コロナは一向に収まるどころか、爆発的には増えてはいないものの、経済の活性化を促すため緩和策をとったため、人の移動が活発になったり、若者があまり気にせずにカラオケ屋に出入りしたりで徐々に感染者が増えつつある。GO TOキャンペーンなど、まさに瀕死の居酒屋にとっては一時の潤いにはなるだろうが、焼け石に水の金額であることには違いない。一桁あるいは二けたも金額がちがうのではないだろうか?

 市の条件はおよそ次のようなものである。自分の場合は個人事業主だが、

1.コロナの影響でコロナ前とコロナ後を比較して売り上げが減少していること

2.それを示す書類の提出

3.開業届の提出

4.最新の確定申告書の控えの写し

5.本人確認の書類の写し

6.その他・例えば過去の市民税の完納の調査など

コロナの被害の報道がなされているが、公務員や議員或は大企業の社員などは或はあまり身に降りかかる損失は無いかもしれず、まさに対岸の火事に過ぎないかもしれない。一方で、大企業でも派遣社員の雇止めの話は報道されるし、求人倍率も例年になく低下している。自分に置き換えても、現実に収入減はあり、今回の申込みにつながった。

個人的には、コロナで業務上、例えば営業で以前のように気軽にお客さんがあってくれなくなったり、接待がほとんどできないなどの弊害がある。それで数字的には売り上げ減なのである。今74歳で後期高齢者一歩手前だが、未だ働かざるを得ない事情もあり、確かにコロナは痛い。やはり、今後の展望としては、ワクチンの出現を切望するものである。

世界48カ国ビジネスで歩いた人間としては、はるかに罹患率が高い諸外国の情勢も気になる。私はアフリカのガーナにも3年間滞在したが、アフリカ大陸の感染の広がりが特に気になる。医療環境を知っているだけに余計気がかりである。1年間留学で滞在したアメリカ・ロスアンゼルスやテレビ局の取材でしばらく滞在したブラジルも、メディアの情報では爆発的に感染が広がっているのが誠に残念である。さて支給予定の10万円の使い道であるが、我が事務室兼書斎のエアコンが相当古く、ぼろぼろの状態で、夏は熱風、冬は冷房の状況なので性能の良いエアコンを購入して、今以上に増収を図り、従来の売上減を取り戻すつもりである。(完)

 

リョウマの大往生

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

幕末の志士坂本竜馬の逝去ではない。わが愛犬ミニチュアダックスの昇天のことである。

つい数日前に天に召された。通常、この種の犬の寿命が15~6歳であるが、実に19歳5か月まで生きた。人間であれば優に100歳は超えている年齢である。因みにギネスの世界記録は21歳というから相当いい線まで行ったのだ。

全く病気知らずの強い犬で、歯茎が化膿したぐらいだったが、終わりごろは、ヘルニア、白内障、緑内障で歩くことも、寝返りもままならず寝たきりだった。ただ、聴覚はあったらしく、妻が呼びかけると唸り声も収まった。昼夜逆転の気味があり、夜中に叫ぶ声で自分でも目が覚めることがままあった。やや肥満気味で標準で5キロのところ常に6キロをオーバーしていた。が、死ぬ間際、極端に体重が落ち、3.5キロになってしまっていた。

犬と人間のかかわりは数万年前かららしく、ペットはもちろん、牧羊犬や麻薬感知など警察犬或は救助犬としても大いに活躍していることは承知のとおりである。日本全国では、犬猫あわせて1800万頭いるという。

リョウマとの出会いは、生後2ヶ月くらいで、ペットショップで、折の中から我々夫婦を見て、親し気にしっぽを振っているのを去りがたくなり相場の代金を払って即決で買い求めた。それまでは、せいぜい金魚やインコなどの魚類や鳥類だったが、飼ってみて、哺乳類とはかくも人間の意志が伝わるものかと感心したものだ。最初は金網に入れて夫婦の寝室と離れて置いていたが、あまり鳴くので金網から出し、同室のしかも同じ布団に入れたものだ。面白い習性があった。自分が会社に出かけるときは機嫌が悪く、妻がだっこして見送る際には絶対に顔を舐めなかった代わりに、帰宅してソファーに横になっているとぺろぺろと顔中なめまわし、しまいには目玉に及ぶことがばしばだった。

また、社会性があまりなく、他人には猛烈に吠えたが、一晩でも家で過ごした人には、それからは決して吠えなかった。一晩泊まればアミーゴのなるのだろうか?今でも心に強く残るエピソードがある。十年ほど前、体調を崩した妻の母親が養生を兼ねて我が家に滞在していたが、薬石功なく他界した。遺体を安置した8畳間で仮通夜が行われ、浄土真宗の僧を川越から呼んだが、ぞろぞろと近所の人の後をリョウマがついてゆき、敷かれた一つの座布団に生意気にもちょこんと単独で座った。そこで、読経が終わるのを待って皆と一緒に部屋を出て行った。誰からも指示されたわけでもないのに、状況を読んでの行動だったのだろう。「犬や猫は人間の言葉を理解する」と言われているが、本当にそうなのだろう。

今、リョウマは火葬が終わり、骨になって、我が家に骨壺で安置してある。今でも、まだ、家にいるような気がして典型的なペットロスで自分は放心状態である。江戸時代、「犬公方」と呼ばれた五代将軍・綱吉は「生類憐みの令」を出し、ことさらに犬をかわいがった。将軍自身も戌年のうまれで私自身も同じである。リョウマの冥福を祈る。(完)


2020.8.1会報No.93

現金に始まり現金に終わる-その2-

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

ドイツのフィンテック企業「ワイヤーカード」の前CEOブラウン氏が不正会計の疑いで逮捕された。6月23日、ドイツの検察当局が発表した。不正会計疑惑の内容は、①収益などを偽って株価操作した②19億ユーロ(2280億円)の現金が行方不明となっている点である。経緯を説明すると、既に2019年1月にはフィナンシャル・タイムスが不正会計疑惑を報道、2020年6月には、監査法人アーンスト・アンド・ヤングが預金残高の十分な確認を3年間も怠っていたというものだ。同時に、CEOが辞任、逮捕につながった。フィンテックとは、financial technology で、FinanceTechnologyを組みあわせたものだが、金融工学とは異なる。金融工学は従来の金融手法に情報処理を用いるが、逆に情報処理技術を用いて新たな金融サービスを創り出すものである。

ここで、問題にしたいのは、監査法人の杜撰さと、同時に内部監査人の怠慢である。現金の残高確認は経営上の基本中の基本動作でこれを怠っていたことになる。それと、CEOはもちろんだが、財務の責任者であるCFO(最高財務責任者)はいったい何をしていたのかである。

企業はどんな小さな企業でも日頃から現金監査を内部で行っており、その際、必ず、取引銀行から「残高証明書」Balance Certificateを取り寄せる。ましてや、外部の監査法人がこれを怠るとは、論外というべきだ。実際には、例えば、シンガポール大手のオーバーシー・チャイニーズ銀行の口座に持つと言われる10億ユーロ(1200億円)について銀行側に直接確認を行わず、書類などで済ませていたようだ。

企業側を言えば、架空取引を創り出すため、偽造契約書をもとに、債権額をふくらませ、債務超過に見せかけまいとしたようだ。つまり、16億ユーロもの長期借入金が手元資金を上回る計算となる。ソフトバンクグループからの出資受け入れや、アメリカのアップルペイやグーグルペイのシステムも手掛けてきている。つまり、この事件は今後、グローバルに影響が出そうである。

私が、アフリカ・ガーナの郵電公社の経営再建に赴く際、協力企業であるフィリピンの監査法人の幹部からこういわれたことがある。「予算管理などのかっこいい業務もさることながら、経理の仕事は毎日の地味な仕事の積み重ねであり、伝票を一枚一枚繰ってチェックしてゆくのもCFO(最高財務責任者)の大切な仕事のひとつだ」。

日経新聞の情報では、投資家から早くも監査法人の責任を追及する動きが出ているという。ドイツの投資家団体は6月26日、監査法人の新旧の担当者3人を刑事告発したという。銀行残高の確認という基本的な監査作業に不手際があったと指摘、株価指数を構成し有望とされた企業のスキャンダルで「ドイツの株式文化が永久に損なわれる」と批判しているようだ。ブラウンCEOは、発行済み株式の7%を持つ筆頭株主でワイヤーカードを欧州を代表するフィンテック企業に育てたが、25日に破産申請している。(完)

 

「知の旅は終わらない」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

知の巨人立花隆氏の最新作である。副題が「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」とある。本名・橘隆志。1940年生まれ。5歳の時北京から引き揚げ。相当、読みごたえがある。私より年上だが、随分時代的に共通点が多々ある。

氏は、ノマド、デラシネであり、組織に属さず、権力を極端に嫌う。幼いころから文武両道で、中学の走り高跳び全国二位。茨城のエリート小学校でIQテスト全校一番となる。そして、この頃から博覧強記。これが、のちの書くことの礎となる。

このあたり、単なる文筆の人でなく行動のヒトでもあるのだ。都立上野高校から東大文Ⅱに進む。在学中に安田講堂事件に出くわすが、仏文を卒業後、サラリーマンとして文芸春秋に入社。二年余りで退社し、今度は哲学科に学士入学。在学中、ロンドンの国際学生青年核軍縮会議に出席。渡航費はカンパだが、半分しか集まらず、残りは東大総長からの寄付である。行動の基本はキリスト教精神である。母親が熱心なキリスト教徒であったが、本人は洗礼を受けていない。しかし、精神はしっかりと受け継いでいる。立花隆の「権力嫌い」はここから来ており、のちの「田中角栄研究」に結び付くのだ。これにより、時の総理を退陣にまで追い込んだ衝撃の書なのである。「権力は嫌いだし、権力にひれ伏す人間も嫌い。権力をかさに着て威張り散らす人間と権力の前にひれ伏す卑屈な人間が大嫌い」。この精神的バックボーンと徹底した取材力がすべての著作の基本となっている。

単なる文筆のヒトでない証拠に「人間はすべて実体験が先」であり、「旅で経験するすべてのことがその人を変えてゆく」などは行為も重視している証拠だ。

作家の小説のモチーフは、伊原西鶴の昔から「色と欲」なのである。この欲には男女の愛欲、金銭欲と権力とがあるが、藤本義一は今東光に「西鶴を読め」と言われた所以である。歴史小説家・司馬遼太郎はこの「権力」に注目した。そして我が立花隆は「反権力」なのである。田中角栄研究のあとはそれこそ、宇宙、サル学、脳死、生命科学と己の好奇心の赴くままに書きまくっている。さらに上げれば、日本共産党の研究、天皇と東大など一見タブーとも思えるものに畏れなく切り込んでいる。「世俗権力を畏れたことは一度もない」のである。しかし、好きを仕事に生計を立てていければこれにこしたことは無い。

こんなことがあった。ニュースステーションで「アマチュア上がりの還暦に近いプロゴルファー」を取り上げたとき、久米宏から「本当に好きなことで食べていけるのは、ほんの1%ぐらいだ。自分はその1%にはいっている」と。立花隆も間違いなくその1%にはいる幸運な人間である。

生真面目な本だが、息抜きになるようなカ箇所もある、例えば「本物のフラメンコは夜12時を過ぎてからでないと見られない」。マドリッド出張で、私もこのことを既に知っていて、粘りに粘って、12時まではいたが、同行の人が極くまじめで「帰りましょうよ」ということで帰らざるを得なかった。至極残念であった。一読をお勧めする。(了)


2020.6.1会報No.92

現金に始まり現金に終わる

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

コロナ禍であり、倒産や世をはかなんで自殺という記事が毎日のようである。「経営は現金に始まり、現金に終わる」と言われるが何も経営だけではない。家計でも、国家でも個人でも同じだ。

日本の場合、中小企業は数では99.7%、人口では70%以上だ。経営者の最も大事な業務は資金繰りである。ベンチャーでも、設立はしたものの、創業者が製品の売込みに専念できず資金繰りに追われるという話はここかしこで聴く話である。

資金繰りで一番苦労したのはガーナ郵電公社の財務担当副総裁の時だった。とにかく、給料日に給料が払えない。組合と約束したボーナスはまさに空手形だ。給料日は毎月20日だが、近づくと胃が痛みだす。電話料金の請求書を発行しても、収納率はなんと25%である。ここでは、督促という営業上重要だが一番いやなことをする文化は存在しなかった。それと、だいたい宛名が非現行で段ボール一杯戻りが来る。まず、試験カードをベースに宛名の現行化から始めた。さらに、請求書は、自前の料金局など無く、民間の計算センターに委託していたのは良いが、催促しないと他社を先行させられて、後回しになる。やくざまがいの“脅し”をかけることになる。”脅し“は督促に出かけて行った時も同じだ。

「払わないと電話線を切るぞ」と脅して、実際バシバシ切った。ところが、ある時不払いの独裁者のオフィスの電話も切って、危うく総裁の首が飛びそうになった。

 請求書の発行作業や督促作業が軌道に乗るまで、労働組合や業者は追いかけてくるし、何度か「自殺」を思い立ったことがある。追いかけられて、街に昼間逃げ出し、夕方そっと戻ったりした。これはなかなか、資金繰りで苦しんだ人間でないと分からない。

 最終的には、25%の収納率を95%にまで上昇させた。給料は給料日に、ボーナスは協約通りに支払えた。当たり前だが、経営は当たり前のことを当たり前にするのが最も大事なのだ。しまいには、評判を聞きつけて電力公社の収納率の向上の手助けまでやり、ガーナにしばらく残って、今度は電力公社を立て直してくれと懇願されたが、マラリアにも罹患し、もう体力は限界であった。

 日本の中小企業の経営にも携わったが、「現金保有が多すぎませんか」とよく指摘された。しかし、これに関しては、絶対に頑固に譲らなかった。何せ、アフリカでの苦い経験があったからだ。現在、コロナ禍の緊急事態宣言で、店の休業を余儀なくされ、倒産するケースがあるが、すべて現金保有額不足である。教科書的には、月商の1~3ヶ月が理想と言われるが、自分の場合年商分を常に銀行に預けてあった。借入金総額にも匹敵していて、よく「無借金経営ですね」と銀行からも言われた。つまりは、借入金をすべて返済してもまだ現金がある状態である。調達先も以前の4行から11行に増やしておいた。つまりは、パイプは多いにこしたことはないからだ。金利はバカみたいに安い。平均1%としても1億円を100万円で借りられるのだ。地獄を見た人間の知恵である。(完)

 

吉村 昭と俳句の位置づけ

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 「戦艦武蔵」、「零式戦闘機」、或は、「桜田門外の変」など近代日本の戦争ものや歴史小説でサラリーマンによく読まれる作家吉村 昭がエッセイストでありかつ俳人であったとは気が付かなかった。東京日暮里で生まれ、「東京の下町」というエッセイの中で余すところなく戦前の東京の下町の風情を活写しているのが見事で、自分も戦争直後の東京赤羽に育ったから、なあんだ、戦前と戦後は、断絶でなく連続しているなとつくづく感じ入る。

新潮文庫の「わたしの普段着」という氏のエッセイを読むと、常日頃からの文章作成上の悩みが相当緩和された。以前、新宿のカルチャーセンターで、小説作法という講座を受講したが、エッセイと小説のギャップ感が埋まるどころかますます増すばかりだった。

「わたしの普段着」末尾の作家・最相葉月さんの解説を読むと、一言で今日のテーマを言い切っている。「吉村昭の視点を読み解くための鍵は、究極の短編としての俳句に秘められているのではないかと思えてならない。」

俳句と短編がつながっているし、短編の長いのが長編だとすると俳句と長編はこれも連続していることになる。俳句はいわば、ある出発点としての視点である。

最相さんは、春夏秋冬の俳句を次のように挙げている。

・無人駅一時停車の花見かな

・巻かれたるデモの旗ありビアホール

・夕焼けの空に釣られし子ハゼかな

・冬帽の人は医者なり村の道

 吉村氏と正岡子規との共通点もいくつかあるが、一つ目は、二人とも重い結核にかかっていた。ただ、子規は脊髄カリエスも併発していたのだが。そして、二つ目の共通項は、出身中学がいまの開成高校なのだ。氏の記述の中にこういうくだりがある。「母校である私立開成中学の前身は共立学校で、明治十七年卒の百五名の学生名の中に正岡子規の名がある。その年度の卒業生に、秋山真之、南方熊楠がいることに驚いた。」

三つめは、同じ日暮里に住んでいた。「さらに私が空襲時まで住んでいた家から子規が病没した、いわゆる子規庵は二百メートル」ほどの近さにある。

日暮里には私も縁がある。兄が開成中学・高校の出身で、文化祭でしばしば訪れた。それと、羽二重団子という江戸から続く老舗があり、子規も「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」という公表を意図せぬ病床記に「芋坂団子を買来ラシム」という記述がある。その団子屋は、吉村氏の生家のすぐ近くであった。その問題の団子屋だが、文政二年(1819)に植木職人だった沢野庄五郎が茶屋を開業し、往来の人々に団子を供したに始まるが、沢野家の子孫が、同じ職場の隣の席だった。よく、羽二重団子の自慢をしていたのを思い出す。

氏の小説の素材の掴み方は、「眼に生じたもの、耳にしたこと、書籍等の活字から触発される」という。俳句もエッセイも小説もそれは同じだと思う。手法でなく素材が命だ。(了)

 

原三渓(さんけい)と俳句

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 笹鳴くや横笛堂の真木柱 明治から昭和初期にかけて活躍した実業家・原三渓の俳句である。東京ドーム4個分の敷地を持つ横浜・三渓園は、文字通り、三渓の創造物だが、趣向をこらした木造の日本建築の一つに“横笛庵”がある。この横笛庵、その名の所以は、800年前の平家物語までさかのぼる。

 そこには、清盛の息子・平重盛の従者であった斉藤時頼と、建礼門院の雑仕女・横笛との悲恋が描かれているが、横笛が出家したのが、奈良法華寺であり、その法華寺には、「横笛堂」という瓦葺きの小さなお堂があり、横笛像が安置されているという。かつては、三渓園にもその後失われた横笛像があった。

 明治27年にベストセラーとなった高山樗牛の「滝口入道」の影響で、横笛は一大ブームとなり、それにあやかって三渓も横笛庵を建立したと思われる。私が、三渓園を訪れ、確かに横笛庵を見たときはそのあたりの歴史的背景もわからず、単なる古民家の一つぐらいの認識しかなかった。その古民家群、飛騨高山から匠を呼び寄せ、百年たっても一分の狂いも生じない精巧な建築物を現代に残した。

 原三渓の、恵まれた文才の背景には、国文学者で歌人の佐々木信綱が、原家の短歌の指導者で家庭教師でもあったということもあるようだ。実業家にもいろいろなタイプがあるが、「コレクター」「茶人」「パトロン」「アーティスト」と様々な側面を持つ人物は少ない(2019.7.13日経新聞特集)。自身も絵筆を持ち、歌を詠む実業家は、まれだ。

 岐阜の庄屋に生まれ、早稲田大学を卒業後、生糸業を営む横浜の実業家原善三郎の孫娘と結婚、家業の発展に努めた。生涯、5、000点ほどのコレクションを築いた。茶人としても知られており、初代三井物産社長の益田孝らとの交遊もあった。パトロンとしても、横山大観、下村観山らを経済的に支援した。そこまでは、金持ちの道楽と受け取られても仕方ないが、自らも詩作をし、絵筆を握って多くの作品を残している。面白いことに、三渓は一度も日本から出たことはない。只、1916年(大正5年)には、インドの詩聖タゴールが来園、松風閣に逗留、詩「さまよえる鳥」を書いた。

 対照的なのは、あの松方コレクションの松方幸次郎である。内閣総理大臣・松方正義の子である。東京大学に学び、エール大学で博士号も取得している。後、川崎造船の社長となった。財力にも恵まれ、当時3000万円(現300億円)ともいわれる購入資金で、文字通り膨大な絵画コレクションを買い求めた。ベルギー出身の画家、ブラングインやフランス人のヴェヴエールのアドバイスなどで3000点の西洋絵画や浮世絵8000点を収集したのである。買い方は実に豪胆で「ステッキでここからここまでの絵を全部」という買い方であったという。「絵の価値は自分には分からない」と言い、コレクターにあくまで徹し、アーティストの要素は全くなかった。この点が前述の原三渓とは異なっている。松方のコレクションは、戦災、火災で現在、日本、フランスに分散・所蔵されている。(了)


2020.2.22会報No.91

寺田虎彦と俳句

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 戦前の著名な物理学者である寺田虎彦氏が俳人でもあるとは実は知らなかった。

むしろ、虎彦氏の名前を世に知らしめたのは、「天災は忘れたころのやってくる」という警句かもしれない。

いくつかの俳句を残しているが、極めて素直なものが多い。

*煙草屋の娘美しき柳かな

*電線に凧のかかりて春の風

*昼顔やレール錆びたる旧線路

 随筆家としても知られていて、私も傑作「茶碗の湯」を読んだことがある。科学と文学を調和させたものが数多く見受けられる。実はこの「茶碗の湯」という随筆を読んだ旧制中学生竹内均が感激、東京帝大地球物理学科に進み、のち日本の地球物理学の権威となる。

虎彦氏は明治11年(1878年)に東京麹町に生まれる。東京帝国大学に学びそのまま学究に打ち込み東京帝国大学理科大学教授になり、それまでにベルリン大学に留学、パリ、イギリス、アメリカにも訪れていて、昭和3年には帝国学士院会員にもなっている。

 寺田虎彦との接点は高校時代にさかのぼる。都立小石川高校の同級に寺田俊彦という虎彦の孫がいたことである。俊彦君は英語が得意で、東京外国語大学を目指していたが、一浪して早稲田の法学部にはいった。残念だが、卒業後幾年かして病死したと聞いた。

 「俳句の精神」という虎彦の随筆は自身素人と謙遜しながらも、恐ろしくポイントをついたものになっている。

*日本人は西洋人のように自然と人間とを別々に切り離して対立させるという言わば物質科学的の態度をとる代わりに、人間と自然を一緒にしてそれを一つの全機的な有機体と見ようとする傾向を多分にもっているように見える。

*この自然観の違いが、一方では科学を発達させ、他方では俳句というきわめて特異な詩を発達させたとも言われなくはない。

*俳句の修行はその過程としてまず自然に対する観察力の錬磨を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでもきたかのように眼前に展開される。今までどうして気がつかなかったか不思議に思われるのである。これが修行の第一課である。しかし自然の美しさを観察し自覚しただけでは句は出来ない。次にはその眼前の景物の中からその焦点となり象徴となるべきものを選択し抽出することが必要である。

*俳句を研究することは日本人を研究することであり、俳句を修行することは日本人らしい日本人になるために、必要でないまでも最も有効な教程であり方法である。

*俳句の滅びない限り日本はほろびないと思うものである。(了)

 

森村誠一と俳句

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 推理小説作家森村誠一と俳句とはどうしてもストレートには結び付かないのだが、俳句の中でも、「写真俳句」という分野で自身、こう述べている。「ルールが無いのが写真俳句のルールのようなもの。写真俳句は生活の縮図ですから無季語でも構いません。写真に季語を語らせてもけっこうです。句材をカメラで撮影し、後で俳句を作っても良いし、俳句が先に出来て、それに合う写真を探してもいいんです。あなたも写真俳句の楽しさを知ってください」。

 テレビ人気番組「プレバト!!」の俳句でも、参加者に対し事前に「お題」と「兼題写真」を提示して始める。もともと、ビジュアルで勝負するテレビならではの手法だが、効を奏していると言える。

 私も時々講演をするが、他人の講演を聞くことも多く、最も感銘を受けたのが森村誠一の「人生の証明になるような小説」であった。店主の角川春樹に頼まれて執筆したのだが、「みやげの荒巻鮭を背にして、駆け出しの新進作家に対し人生の証明になるような小説を書いてくれ」といきなりの注文だったようだ。作家の小説作法は主に①体験②徹底取材の二通りであるが、映画やTVドラマとも相まって、爆発的に売れたのが自らの体験に基づいた「人間の証明」であり、映画の出演者でもあったジョー山中のテーマソングであった。

 全編に流れるテーマは「反戦平和」と「親子の情愛」である。出身地熊谷では、終戦の日の朝にも関わらず、市街の7割が消失するという空襲があり、12歳の少年の目に焼き付いた焼け跡の光景が反戦平和という情念の礎となっている。その後、青山学院に進学するが、就職もままならぬ大学四年の時に、従来山好きの筆者が、霧積高原にハイキングに出かける。その時、金湯館という名の旅館が準備してくれた弁当の包み紙に印刷されていたのが西条八十の「僕の帽子」という詩の一節である。

 

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓井から霧積へゆくみちで、

谷底へ落したあの麦わら帽子ですよ。

 

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、

僕はあのときずいぶんくやしかった、

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

 

 森村誠一のそれは、質問なしの二時間きっかりの講演だったが、推理小説のごとく、論理的で隙が全く無かった。二時間の講演のために実に六時間分のメモを用意するという周到さである。論理と情念この二つが小説でも俳句でも必須なのかもしれない。(完)


2020.2.1会報No.90 

風車(かざぐるま)、風の吹くまで昼寝かな

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 表題は、庶民宰相・広田弘毅(こうき)が残したよく知られた俳句である。あえて「平民宰相」と言わなかったのは、よく、原敬(はらたかし)が平民宰相と言われているが、原は祖父が家老職にあったほどの上級武士の出で、厳密には平民とは言い難い。そういう意味では広田はまさに庶民の出身である。この句は、次は外交官として栄光のポストである外務次官と目されながら、オランダ公使に左遷された時の心境を謳ったもので、やや自虐的なトーンもある。オランダだから風車だというメタファーも込めて。

経済小説の御三家の一人城山三郎の「落日燃ゆ」を感動を以て読み終えた。広田は、戦争直後の東京裁判(極東国際軍事裁判)で7人のA級戦犯のうち唯一の文官で絞首刑となった人物である。あとの6人はすべて軍人であった。その自らを一切弁解せず従容として死を受け入れたその態度に作者・城山三郎がいたく心を動かされたのが執筆の動機である。もともと、城山三郎は、「人と組織」に焦点をあてて作品を展開する。組織の中で人がどう行動し、苦悩するのか、それが、同じくサラリーマンが企業という時に非情な団体の枠の中でもがき苦しむかを想起させ、経営者をはじめ愛読者が多いのが理由である。一方、同様に経営層にファンの多い司馬遼太郎は「権力」というモノにフォーカスしている。

広田は、明治11年福岡の石屋の息子として生まれた。第二次世界大戦以前、外務官僚から総理大臣にまで上り詰めたのは極めて珍しい存在である。一高、東大と進むが、貧しくて数人の学生仲間で今でいうシェアハウスをした。そこで賄いをしていたのが、のちの婦人静子さんだ。二人は結婚するが、新婚旅行は江の島。そこで結婚指輪は、そこで買った貝細工。「いつかは本当の指輪を買うから本日はこれだ」と夫人にあきらめてもらったという。後に、左遷されたオランダで今度は、ダイヤの指輪を本場で買ってあげたのだ。

広田弘毅が常々言っていたのは、「自ら計らわず」つまり、「自分の利益になることは求めない」というのが一生の信条だった。外務省にはいっても、一生懸命に仕事はするが、上役にゴマをすったり、猟官のための一切の運動はしなかった。

裁判に臨んでも、決して命乞いをするでもなく淡々と事実を述べた。位人身を極め総理大臣になった後、乞われるままに近衛文麿内閣の外務大臣になった折、運悪く昭和12年(1937年)南京事件が起きた。南京事件そのものも未だに事実確認も含め議論が続いているが、「外務省ルートで南京事件の発生をいち早く知りながら、外務大臣として閣議で取り上げるなどの対策をとらず、被害を拡大させた」ことが、「不作為の罪」とされ、通常の戦争犯罪(戦時国際法違反)として死刑判決となった。この「不作為の罪」というのは当時も批判が多く、判決そのものも6対5というぎりぎりのもので、検事側からも疑問視された。広田弘毅は、要領の良い官僚的な外交官でなく常に軍人と対峙する「国士」であった。因みに、本日文化勲章受章者が発表されたが、これも、広田の発案によるものであった。「軍人や役人ばかりであなく、文化人にも勲章を」というアイデアからである。(完)


2019.12.13会報No.89

「酒と旅と人生と」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 タイトルは名随筆家、佐々木久子のエッセイ集である。若いときに読んだものと別物のような気がする。自分が経てきた人生経験と国内出張で各地を旅した時間の積み重ねが、同じ文章を感じる厚みの差なのだろうか?

 かつて公営競技に関連する企業の経営者だったが、社内的に「観光は厳禁」という文化をぶち壊し、「必ず観光し、その街の人とその土地の話をするように」と方針変更をした。すると、話題の広がりとともに、仕事にも良い方向に跳ね返ってきた。佐々木久子自身も、「地方に行ったら、その土地の日本酒と酒の肴を味わうべし」と薦めている。

 印象に残っているのは、金沢の居酒屋と一流料亭「太郎」である。金沢もかつて滞在していた30年前と段違いの変わりようだ。名前は忘れたが、駅前の居酒屋のメニューの数の多さだ。「ノドグロ」の刺身のうまさは本当にすごい。

 金沢の主計町にある「日本一の鍋料理屋・太郎」のだし汁が絶妙な味わいをみせている。作家の五木寛之も愛好する料亭だそうだ。金沢は加賀百万石の城下町で、能、狂言、金箔、加賀友禅、九谷焼、輪島塗などその文化的背景が何とも重厚である。

 金沢在勤中、課の忘年会をやろう、そうだ、有名な太郎でということになった。総勢15名ほど。酔うほどに歌も出て賑やかになった。そう、以前はカラオケなどなくて、十八番の持ち歌を皆が披露する。富山は富山、福井は福井、石川は石川。誠に楽しい宴会であった。だが、あとがいけない。店の女将が「最近の電電の方は元気いっぱいですね」とチクリ。

 四国徳島の出張も楽しみだった。駅前の、板前がすこぶる愛想が悪い、小さな料理屋だが、「和食のコース」が絶品だった。たしか、酒は「ゆず」がふんだんにはいった実にすっきりした酒だった。

 各地の日本酒ほどしっとり日本人に合うものはない。地方、地方で、独特の味わいがある。ロシアのサハリンで飲んだウォッカ、70度で燃える。ブラジルのピンガー、メキシコのテキーラなど、ただやたらと強いが、こんな類の酒は、やはり焼肉としか合わない。但し、毎晩の晩酌で飲み続けるスコッチのシーバスリーガルは例外である。NTT国際部で世界中飛び歩いているとき、ビジネスクラスの英国航空で出たのがこの酒。それ以来病みつきで、同じくKLMで提供された「ハイネケンビール」も欠かせない。

 佐々木久子は、広島市出身。自宅が爆心地の近くで、被爆している。実は、私自身の本籍地のすぐ近くなのも何かの縁である。昭和三十年五月から「雑誌・酒」の編集人兼発行人であり、熱烈なカープファンでもあった。

 エッセイは酒の話ばかりではない。「“仕事”この苦しき努力よ」では、「働いている男の姿は、最も魅力ある姿だ。反対に、自分の仕事に不平や不満、愚痴ばかり言って、要領よくさぼっている男。こんな男は、まったくくだらない。」と切り捨てている。恋人はいたらしいが一生涯独身。佐々木久子がなにか「侍」に思えてきた。ご一読乞う。(完)     

 

「ベトナム残留日本兵家族の旅」を観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 涙を禁じ得ないドキュメンタリーだった。ベトナムの主にハノイで通算半年に渡り勤務した。南のホーチミン(旧サイゴン)はアメリカナイズされていたが、北のハノイは旧宗主国のフランスの面影を残す風雅な街だ。テレジアンイエローの趣のある黄色い壁の官庁街は、ふと、19世紀にタイムスリップしたような錯覚を覚える。

 第二次大戦中、旧日本軍のおよそ数百名はベトナムに残留、ディエンビエンフーなどの激戦地でフランス軍と戦った。その日本兵とベトナム女性との間に生まれた子孫が、父の故国日本を訪れ、日本の家族と交流を深めるドキュメンタリーだ。独立戦争は勝ったが、ベトナムが共産圏に入ったため、残留日本兵は“敵国日本”ということで、今度は日本に単独で強制送還、家族は残された。ベトナムは中国文化の色濃く残る国で、家系はあくまで、父方が「内」で母方は「外」である。したがって、子孫の祖国はあくまで日本なのだ。

 縁あって、祖国日本へ異母弟などに会う旅に恵まれた子孫は、或は生存する実の父、弟或は叔母などと会うことになったのだ。

 子孫の旅行地は、家族が判明している人は、或は金沢、静岡で、そして、父親たちが故国の土の第一歩を踏み出した舞鶴港であった。かつて父達が降り立ったその港は感慨無量のようだった。このことは、自身の体験に通ずる。それは、ビジネスで上海を訪れた際、戦時中彼の地をこよなく愛した父を思い浮かべたからだ。さらには、彼らは、二葉百合子の「岸壁の母」に日本人と共に涙を流す。

 私が滞在したころのハノイはまだ資本主義に慣れていない土地であった。利子やローンという経済用語は、なかなか理解してもらえず、説明に四苦八苦した。外国語のなかでも、英語があまり浸透しておらず、フランス語やロシア語の方が幅を利かせていた。そのくせ、ホテル代は1泊70ドルと偉く高かった。メコンの上流の地で、冬はなかなか寒く、だだっ広い会議室で交渉していても、足元からゾクゾク寒気が上がってくる。一計を案じ、パジャマを穿いて、そのうえからズボンをさらに重ねるという寒さ対策をした。

 トイレに行き、手を洗うための石鹸は、粗悪で強烈な匂いがした。オフィスに戻っても他人が「ああトイレ帰りだな」と気が付くほどだった。お客にはお茶菓子は無く、ミカンが1個必ず添えられていた。確かに、パンは硬く、コーヒーは苦かった。我々が訪れるひと昔前の日本人ジャーリストの表現をいまだに思い出す。「木槌のようなパンを食べ、せんぶりのようなコーヒーを飲み」と。食事はよくホーを食べた。日本のうどんとよく似ている。勤勉で日本人とも顔もよく似ている。滞在中、様々な不自由は感じたが、それでもベトナムは大好きだった。終戦直後の日本を知っている自分にとって、かの国に強烈ななつかしさを感じさせた。テレビのドキュメンタリーを観ている間中、涙が溢れて止まらなかった。何故か?登場するプレーヤーはベトナム人なのに、昔の日本人がそこにはいた。

 

宮沢賢治と俳句

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

童話作家賢治、詩人作家賢治は同時に短歌作家でもあった。ちくま文庫宮沢賢治全集3には、文学としての出発点である短歌がかなりの部分を占めている。盛岡中学から盛岡高等農林の学生時代そして研究生時代の十二年間で相当な数に上る。

それでは、俳句はというと解説者の言葉を借りれば、「晩年にわずかに手すさびのように、書き遺された」。収録されたものもいたって少ない。なかで目を引くのは、菊に関する数点で以下のものである。

・たそがれてなまめく菊のけはひかな

・夜となりて他国の菊もかをりけり

・花はみな四方に贈りて菊日和

昭和七年十月に花巻で開かれた菊花品評会に寄せるために作られたと言われている。

ただ、多少私が興味をひかれたのは、俳句の次に収録されている連句のなかで、およそ賢治らしからぬ色気を感じる次の作品だ。

・どど一を芸者に書かす団扇かな

・三味線の皮に狂ひや五月雨

石部金吉・賢治らしからぬこの感性である。さらに、これらの句が書かれたペーパーが、(「東北砕石工場花巻出張所」用箋)なのだ。幼いころから石集めが好きで「石っこ賢さん」と綽名され、働くのが嫌で嫌で、特に家業の質屋を継がずに逃げ回っていた。唯一サラリーマンを経験したのが「石灰岩のセールスマン」でその勤務先が「東北砕石工場花巻出張所」であった。

第158回直木賞は門井 慶喜氏の「銀河鉄道の父」である。従来、賢治本人はもちろん、世に出ている人物としては、弟で、結局家業の質屋を継いだ清六さん、それと、「永訣の朝」という詩で有名な、愛してやまなかった妹のトシであって、賢治のわがままの全てを許した政次郎に切り込んだ作家は誰一人としていなかった。この点で、作品としては大成功している。

 

私の本棚は、宮沢賢治の全集、エッセイ、評論で埋め尽くされ、宮沢賢治語彙辞典まで所有している。いわば正真正銘の賢治マニアである。食い扶持を稼がずとも、勝手気ままに寛大で、無償の愛で包み込み、賢治を生かし続けた父のおかげで、恐ろしい語彙力が賢治のなかで培われた。宮沢賢治語彙辞典を編纂した原 子朗さんは、賢治の事を百科全書的詩人と呼んでいる。天文、気象、地学、歴史、習俗、方言、地名、哲学、宗教、農業、化学、美術、音楽、文学、宗教など実に多面的である。

「たられば」ではないが、もし、賢治が童話や詩に費やす時間の十分の一でも俳句にエネルギーを費やしていれば、詩集「春と修羅」や童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」並みの優れたものをこの世に残していただろう。(完)


2019.10.1会報No.88

「銀河鉄道の父」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 第158回直木賞は門井 慶喜氏の「銀河鉄道の父」である。久々に宮沢賢治ものを読んで感心したことが2つある。1つ目は、エッセイと小説とのギャップの埋め方である。2つ目は、主人公の選び方だ。

私の本棚は、宮沢賢治の全集、エッセイ、評論で埋め尽くされている。宮沢賢治語彙辞典まで所有している。いわば正真正銘の賢治マニアである。宮沢賢治研究会にも属していたし、岩手にも取材に出かけたことがある。テレビ朝日ニュースステーションで、その頃湧き上がっていた賢治ブームに乗り、賢治ものを特集で取り上げたかった。自分としては、「石っこ賢さん」をテーマとした石灰岩のセールスマンを筋にしたくてシナリオを描いたのだが、ディレクターはどうしても「銀河鉄道の夜」ならと譲らない。宮沢賢治は石集めがよほど好きで、神田小川町の「水晶堂」あたりにも出入りしていた。本気で生業としての宝石商を夢見ていたのだ。

結局、ディレクターとの距離は埋まらず、この企画はお流れとなった。作者門井氏はよく取材している。まず、花巻の質屋という生家のなかで、父政次郎、弟清六、妹トシの人物像のとらえ方のうまさだ。この人物像の描き方で小説の良しあしが決まってくる。その人物の話し方、表情などだ。例えばエッセイと小説の溝はものすごい。エッセイ風に書けば、単に賢治は家業の質屋は合わないと言って済むが、小説ではそうはいかない。お客が来る。貧しい農民が鎌を持ってきて、これを担保とし金を借りに来る。その駆け引きを言葉づかいで表現しなければならない。したたかな農民のペースで事が運ぶ様子を作者は見事に描写している。お客の事を考えすぎると店はつぶれるのだ。賢治は非情にはなれない。一方で、帳簿はしっかりつけている。商いは営業と経理は表裏一体で、そのどちらかがかけても、うまくいかない。賢治は確かに、経理は出来るが営業ができないのだ。人気作家・林真理子が、エッセイで、はなばなしくデヴューしたが、小説が描けず、作家がつききりで指導に当たったと聞いている。小説では、息遣いや、心臓の鼓動まで表現しなければ読者に伝わらない。エッセイは静なら小説は動であり、まったく似て非なる物である。さすが、直木賞作家門井氏は、熟達した筆使いだ。

次いで、主人公の選び方だ。結局、質屋という家業は弟の清六さんが継ぐことになる。清六さんは兄賢治の作品の売込みをはじめ、賢治の亡くなった後も、表に出て活動をしたために、世に多く知られた存在だ。妹トシについては、「永訣の朝」で賢治にかわいがられた存在として、あまりにも有名だ。

父政次郎は、賢治のわがままをすべて許した。質屋に学問はいらないはずだが、賢治を盛岡中学や岩手農林までも進学させた。花巻農学校の教師を勝手にやめた後、羅須地人協会という農民運動まで許した。「好きなことを全部させたのだ」。この存在なくして宮沢賢治の作品は一つも生まれなかっただろう。前出の語彙辞典が出るほど、多面体の言葉の使い手なのだ。これは、自由気ままに様々なことを父親のおかげでかじった成果だ。宮沢賢治語彙辞典を編纂した原 子朗さんは、賢治の事を百科全書的詩人と呼んでいる。天文、気象、地学、歴史、習俗、方言、地名、哲学、宗教、農業、化学、美術、音楽、文学、宗教などなど、食い扶持を稼がずとも、勝手気ままに寛大で、無償の愛のなかで生かし続けさせた偉大なる父「銀河鉄道の父」の存在に気付かせた作者の勝利というべきだ。そういう意味で、主人公の選び方においてこの作品は大成功しているのだ。(完)

 

 

一時(いっとき)「苦役列車」の時代

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

中卒の私小説家・西村賢太氏が「苦役列車」で芥川賞を受賞した時は、受賞インタビューの”本音“が物議を醸した。”風俗“という言葉が混じっていたからだ。受賞作のなかにはごく普通に出現してくる言語だが、それが、作者の語りになると、あまりにもどぎつかったのだろう。

主人公の働き口が、あるいは製本工場だったり、冷凍庫だったり、自分の貧乏学生時代のアルバイト先に酷似しているから、身に染みて心情が良くわかる。

苦役列車は、自分なりに共通するキーワードを整理すると次の5つとなる。1.冷凍の物流倉庫 2.製本工場 3.仲間の怪我 4.友人なし、恋人なし 5.19歳の男子。

さすがにこれほどオーバーラップすると、自分の青春を描いてもらったのではないかと錯覚するほどだ。1浪のすえ第4志望の私立大学に入学直後。とにかく、のちに効率の良い家庭教師のアルバイトに就く前に、肉体労働で学費を稼ぐ必要があった。主に、1.ビラ配り 2.葛飾区の製本工場 3.品川の冷凍・物流倉庫などなど。

兄貴のよれよれの背広で大学に通ったが、アルバイト斡旋業者の紹介で向かった先が、まず「製本工場」というより下町の製本所。プレスで絞めても締めても「緩い」と女子工員にどやされ続けた。しかし家庭的であった。晩飯とビールがふるまわれ、「しゅんたろう」も帰りにはやや気分を持ち直すことが出来た。

「稼げるよ。あまり重労働じゃない」と甘言に乗ったのが、冷凍倉庫だ。ただ、寒いというので、レインコートを着ていった。カチカチに凍った鯨肉の四角いコンクリート状のものを、まず、零下10度の工場内に潜り、猫(魚を運ぶからこういう名がある)と呼ばれる台車に載せて、+20度の外に運び出しこれをトラックの荷台に乗せるのが仕事だ。その労働のきつさと言ったらない。休み時間はあるが、疲れで誰も口がきけない。ベテランは、手を使わず、メ鍵で引っ掛けてトラックに載せる。ある時、他人のメ鍵が仲間の手の甲を貫通する。これを医者にも見せず、ヨードチンキで上から流すだけだ。なんという荒っぽさ。自分も、ある時小指をぶつけ、傷が今でも残っている。へとへとになって帰りの通勤列車にぶつかると、レインコートにこびりついた凍った鯨肉が溶け出して、異様な匂いを周囲にまき散らす。まさに赤面ものだ。一方、ベテランの学生アルバイトの中には、パックなどないその頃、稼いだ金でヨーロッパ旅行に行った猛者もいたにはいた。

浪人明けで、友人なし、恋人なしの19歳。本当に酷似した状況だ。学園闘争華やかなり時代。「プロレタリアート独裁」を叫び学園紛争をやるなどという「ブルジョワの子弟の恵まれた運動家」とは程遠い生活だった。その後、肉体労働から家庭教師に生きる糧が代わり、地獄から天国に生活も変化した。

おそらく、同じ芥川受賞作で全く対照的なのが、石原慎太郎の「太陽の季節」で、こちらは、裕福で無軌道な青年の有様を描いた問題作だ。その石原が、同名の新潮文庫での解説で、西村の事を「魅力的な大男」と評し「・・・人生の底辺をあけっぴろげに開いて曝け出し、そこでしんぎんしながらも実はしたたかに生きている人間を自分になぞらえて描いている」としているのも皮肉だ。(完)


2019.8.1会報No.87

渋沢 秀雄と俳句

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 財務省は、この度2024年度上半期に日本銀行券を一新すると発表した。まず、千円の表の図柄は、北里柴三郎、五千円は、津田梅子、一万円は渋沢栄一である。20年ぶりの刷新である。うち、今すでに出版などで一番動きがあるのは、渋沢栄一であろう。財務省は、「明治以降の文化人から選ぶ」としているが、果たして渋沢栄一が文化人と言えるかどうかの疑問は残る。渋沢は日本の資本主義の父と言える「こてこての実業家」ではあり、パリ万博の視察など国際派には違いないが、文化的業績となると何があるかと首をかしげたくなる。

渋沢栄一の孫敬三は、渋沢一族の中では例外的な文武両道で、日銀総裁、大蔵大臣、国際電電の社長などを歴任したが、同時に、国立民族学博物館の創設につながる日本の民俗学の草分け的な存在の一人でもあった。さて、今の今まで、文化の香りのする人物はこの敬三だけだと思っていたら、思いがけず他の文化人を“発見”した。それが、栄一の四男渋沢秀雄である。東京帝国大学卒業後、実業家としては、東宝取締役会長、後楽園スタヂアム監査役、東映監査役を歴任したが、戦後は一転、風流三昧に身を投じ、随筆、俳句、油絵、三味線、長唄、小唄などを大いに嗜んだ。

私が気に入った句を挙げると次のようなものがある。

*左右より薔薇の垣きて薔薇の門

 拙宅も、垣根が11種類の大輪の薔薇に囲まれていて、ちょうど角地なので道行く人が、それぞれの言葉で薔薇を愛でてゆく。この句から情景がありありと浮かんで来る。

*児がひとり手にうけてをり花吹雪

 杭州西湖に遊んだ時の句で、私も中国の上海、蘇州、無錫の旅を思い出す句だ。

*秋刀魚焼くにほいの中に帰り着く

*片耳のすこしほてりし火鉢かな

*雪の夜やゆるりと打ちし置時計

この三句はもはや説明の必要がないほど、日常のさりげない光景を平易な言葉で綴ったもので富豪なのに決して庶民感覚を失わなかったと想像できる。渋沢栄一が徹底した仕事人間、長男の篤二が真反対の風流人、それのミックスが孫の敬三とこの四男・秀雄で、ヨーロッパのビジネスマンに多く見られる。

 最近、日本の経営者の経営力が落ちたと言われ、その原因がリベラルアーツの欠如だと。リベラルアーツを極く簡単に言うと、一般より高い教養、或は芸術の素養と言い換えても良い。経営判断というものが、単なる経営数字だけで測られるものではなく、今まで遭遇したことのない事象だと、決断できなかったり、判断を誤ってしまうのだ。よく言われる「最後は経営者の勘」で、この勘とは、とりもなおさず「リベラルアーツ」によって養われると言われる。(了)

 

 

バートランド・ラッセルの幸福論

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 「100分de名著」というNHKEテレの特集番組がある。古今東西の名著を取り上げ毎週25分全4回、合計100分で作品の背景やキーワードを分かりやすく解説している。少し前にラッセルの幸福論を取り上げていた。

 バートランド・ラッセル、英国の名門貴族出身で、ノーベル文学賞を受賞した「知の巨人」である。数学者、論理学者、哲学者、教育者、平和運動家でもある。58歳で幸福論を書いているが、世界の三大幸福論と言えば、アラン、ヒルティ、それとラッセルのそれである。若いころヒルティの幸福論を読んだが、敬虔なプロテスタントであるヒルティはその信仰に基づいており、一般の日本人にはなじみが薄かった。

 我々の年齢になると、必ずしも、毎日仕事に追われるという人は数少ないと思われるので、年金生活或は悠々自適的生活を主体とするグループをターゲットにした方がよさそうである。まず、①趣味を持つ。ラッセルはスポーツ観戦、観劇、ゴルフである。このあたりはおよそ日本人にも共通であろう。決してだいそれた趣味を言っていない。現在はテレビで、しかも世界同時のライブが見れる。例えばピョンチャンオリンピック。フィギュアスケートの羽生選手の演技には皆しびれた。観劇、これは自身妻に同行して歌舞伎、ミユージカル、京劇、芝居など広範のものを楽しんでいる。但しである、約8割が女性である。日本の文化は女性が支えている。ゴルフは自分では最近はしないが、同期会などこれを織り込んでいる場合が多い。②社会とのつながりを持つ。先輩などに聞くと社会貢献活動にいそしんでいるケースをよく聞く。

 最近読んだ記事で、面白いのがあった。人生「必要最低限のお金と友達、これで十分だ。このハードルを上げると人間苦しくなる。自分は京都大学を出て大企業に就職した。だがちっとも面白くなかった。親の言いつけ通りに生きてきて、借り物の人生だった。本物の人生は結局、必要最低限のお金と友達だ。そして好きなことをする」というもの。

③退屈を楽しむ。退屈を味わう。時間は十分すぎるほどある。要はこれをどう感じるかだ。自分の家から遠く離れて地中海クルーズや南極探検旅行に行かなくてもいい。ラッセル曰く、マルクスは大英博物館に一日中こもって資本論を書いた。哲学者カントは、生涯自分の生まれたケーニヒスベルクから一歩も出なかった。ギリシャの哲学者ソクラテスは悪妻クサンチッペと静かに暮らしたに違いないと結んでいる。④宇宙と比べて悩みを相対化する。いくら年齢を重ねても悩みは尽きるものではない。宇宙的な視点で見ると自分の悩みなどちっぽけなものであると。最近のベストセラーで小野雅裕氏の「宇宙に命はあるのか」というものがある。「宇宙は果てしなく広い。それに比べて人類は限りなく小さい。確かに人類は太陽系の八つの惑星すべてに探索機を送り込んだ。しかし、銀河系にある惑星の数は約一千億個と言われている。人類はその一千億個の八つしか知らないのだ。たまには、スマホをポケットにしまい、夜空を見上げて欲しい」。時々自分も客先に行くのに満員電車に乗ることがある。いたるところでスマホをいじってゲームを楽しんでいる。否一見楽しんでいるように見えるが、果たして「愉しくない職場に着くまでのほんの息抜き」のように見えて仕方がない。

ラッセルの幸福論を我々向けに直すとおそらく次の一言になるのではないだろうか?「一番大切なことは、日々の生活で極力外界の事物に注意を向け、社会とのつながりを保ち続けることだ」と。(完)

 

 

ネオ・ラッダイトは起こるのか?

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 病院での待ち時間で、「ピペット」という臨床検査技師の団体が発行している季刊誌を手にした。羽生永世7冠のインタビューが出ていたが、将棋の棋士とAIとの対決は、藤井五段が天才棋士として彗星のごとく現れたのと時期を同じくして、昨今ホットな話題の一つだ。

 一部のプロを除いて、アマチュアにとってAIに負けたとしても将棋はあくまで趣味であり生活そのものを脅かすものではないが、問題は職業がAIにとってかわられると事は重大である。文中「あるシンクタンクの報告では、医師や弁護士といった高度専門職のみならず私たち臨床検査技師も人工知能によって職が奪われる職業の一つにあげられたりしています」と。

 例えば、医師は、カルテをビッグデータ化し整理すれば、ロボットが医師の代わりに診察できるだろうし、弁護士の場合、過去の判例を分析すれば、ある定型化した判決に結び付けられる。こうなると裁判官も失業か?

 1930年代、資本主義と機械文明を批判したチャップリンの「モダン・タイムス」という映画で人間が歯車と化した様子を描いている。現代でも、例えばヘッジファンドのファンドマネージャーが売りと買いの数字的な枠を設け、コンピューターに覚えこませて取引を実行している。投資家の人間的な判断などもはや必要がないのかもしれない。

 かつて、産業革命で機械が人間にとって代わるのを恐れ、人々が機械の打ちこわしをした「ラッダイト運動」が起こったが、AIやIoTの進化と台頭によって個人の雇用機会が奪われるのを警戒し、それらの開発を阻止し、利用を抑えようという考え方も出てきている。このネオ・ラッダイトともいうべき現象が本当に起こるのであろうか?

 翻って、経営や経済予測はどうだろうか?社長室にコンピューターが置いてあり、経営のソフトが組み込まれていれば、社長など要らなくなるのか?経済予測はどうか?様々な経済のファクターを予測ソフトに組み込めば、経済企画庁は廃止か?

 将棋に話を戻すと、文芸春秋昭和三十四年六月号に小林秀雄が「常識」というタイトルで将棋の事をあげ、アメリカの作家エドガー・ポーの時代の常識では、将棋の世界で「人口頭脳」はまだ人間に負けると結論づけてはいるが、自分の考えでは、将来は分からぬという意味の文章を書いている。

 小林秀雄の予測は見事にあたっている。まず、2016年、IBMのコンピューターがチェスの世界チャンピオンに勝ち、同じくグーグルの「アルファー碁」が韓国のチャンプを一蹴。さらには、日本の将棋でも第一期電王戦で「ponanza」が山崎八段に2連勝している。

 それでは、人間に救いようがないのか?どうやら、直感、大局観、五感に基づく判断などは確かにまだ勝っているようだ。俗にKKD(経験、勘、度胸)と言われるうち、勘と度胸は優れていると思う。人口知能は過去志向であるが、夢とか未来志向は人間的な要素かもしれない。ネオ・ラッダイトは、わずかな希望ではあるが、避けられるかもしれない。(完)


三笠宮崇仁親王と俳句

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 改元で平成から令和に改まり、日本中が「何か良いことありそうな」という気分が満ちている。国民全体が皇室というものに注目が集まってもいる。三年ほど前に百歳で亡くなったが、軍人や貴族院議員という公職の他、文才にも恵まれた三笠宮崇仁親王が俳句をよくたしなんでいたことはよく知られている。

 自作の句集「夕虹」を探し回ったがついに見つからず、ようやく、ネットで数句探し当てた。

・短日や戻れば我が家灯の点り

・女子高の卒業証書見せに孫

ほのぼのとした好々爺の表情がしのばれる句である。

戦時俳句としては、

・枯野ゆく匍匐(ほふく)前進せし むかし

・残雪の中の演習忘れ得ず

崇仁親王は、学習院初等科・中等科を経て昭和11年(1936年)に陸軍士官学校を卒業、のちに陸軍大学も出て少佐で終戦を迎えた。この時代、ノブレス・オブリージュの名のもと皇族男子は軍務につくことになっていたが、近衛師団など内地勤務が主の中、「若杉参謀」として中国戦線の支那派遣軍に送られた。現在のイギリスでも、第二次世界大戦では、エリザベス女王も従軍し、近年、フォークランド紛争でもアンドリュー王子も同じく従軍しており、このノブレス・オブリージュの原則は今でも英国王室では生きている。

 中国戦線では、陸軍の将校だった我が父とも出会い、「今何時かな?」と直接時間を尋ねられたというエピソードを父の生前よく聞かされた。

 俳句については、星野立子に師事、2012年には、当時、俳人協会会長だった鷹羽狩行さんの勧めで句集「夕虹」を出版している。中国語やヘブライ語も流ちょうに話し、社団法人日本オリエント学会の設立にも尽力した。

今は若干下火になったが、女系天皇に関する意見では、かなり進歩的なお考えを持っていた。改元特番の中でNHKが報じた報道では次のような事実がある。「新憲法が発布された日に三笠宮崇仁親王が皇室典範の草稿を審議していた枢密院に提出した皇室典範改正を巡る意見書の中で『今や婦人代議士も出るし、将来、女の大臣が出るのは必定であって、その時代になれば今一度、女帝の問題も再検討するのは当然だ』と」。

昭和20年(1945年)終戦の年、複雑多岐であった陸軍飛行部隊を一元管理すべく航空総軍司令部が置かれたが、この航空総軍第三課の参謀に崇仁親王少佐が任命され、奈良の航空総軍司令部・戦闘指令に赴く予定であった。奇しくもこの指令所の建設にあたったのが、航空総軍第十九地下施設隊長を命ぜられた我が父であった。完成を待たずに終戦を迎えたが、何か不思議な縁を感ずる。(了)

 

 

テレビドラマ「陸王」を観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 銀行員出身の作家・池井戸潤のテレビドラマ「陸王」を観て涙が止まらなかった。メーカーの経営者の視点でこのドラマを見ると本当に身につまされる場面が多すぎた。舞台は埼玉県行田市の足袋屋。100年の老舗だが、何せ足袋製造は斜陽産業。このままでは、衰退するばかりだと、四代目の社長は、隣接する事業領域だが、異業種のランニングシューズに挑む。メーカーの難しさは、小規模な注文生産では問題はないが、市場をにらんでコスト削減である程度のロットの大量生産を目指す場合は難しい。需要に追い付かないとお得意先から見放され、見込み違いでは在庫の山となる。すでに製造停止のぼろぼろの縫製用のミシンをだましだまし使い、廃業した同業の工場から交換用の部品を調達する場面は思わず胸が痛くなった。

 「半沢直樹」で一世を風靡した池井戸潤が挑んだのは、斜陽産業のモノづくりの会社だ。モノづくりは日本の社会では、尊敬される。日本は基本的に職人を一目置く。資源がほとんどない国土で対抗できるのは、頭と腕だけだからだ。経団連の会長は例外なくモノづくりの会社出身者である。

 舞台となった行田市という街にも想い出がある。実父がお世話になった、H自動車の関連会社の本社と工場がある。出席した株主総会で「父が御社に職を得たおかげで大学を出た」と、ひな壇の役員連に対し、涙を流しながら感謝の言葉を送った。総会が終わった後、出席していた年配の元従業員の人物が「一緒に働いていたが、お父さんは温厚な人だった」と声を掛けてくれた。

 登場する銀行員がいかにも保守的で典型的な融資担当で、思わずうなずく。事業が拡大して、途中で地銀からメガバンクに乗り換えるのだが、取引銀行がたった一行だけというのは通常無い。例えば、どんな小規模でも3~4行あり、信用金庫、地銀、メガバンクとダイバシティーでリスク分散するのが普通だからだ。ただ、方針として「晴れの日に傘を貸してくれるが雨の日には傘を奪ってゆく」というのは、金融機関のスタンダードな姿勢だ。只、中には例外もあって、貸した以上絶対に潰さないというS信金やT地銀もある。昨今地銀の経営は厳しい。収益率が悪化している。対応策として、地域の地銀が情報交換のネットワークを構築しているところも出てきた。

 アグレッシブな四代目社長と、銀行担当でもあり保守的な経理担当常務の確執も面白い。常に「いけいけどんどん」だけでは会社はつぶれるが、時代の変化を読み取らないと生き延びてはいけない。

 M&Aの話も最終段階で出てくるが、単に会社を大きくさせてゆくためにグループの膨張を狙うバイヤーとあくまで企業の成長をねらうオーナー経営者とのバトルも見ものだった。この膨張か成長かでずいぶん経営方針も変わってくるのだ。

 テレビドラマ「陸王」は平均視聴率16%、最終回は20.6%で、地域の経済効果は3か月間で10億円以上となったという。劇中の挿入歌で女性ボーカルグループLittle Glee Monsterの謳う「Jupiter」もなかなか良かった。(完)            

 

 

借景を香華としての冬の墓所

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

東日本大震災のあと、1年ほどして作家森村誠一が、宮城県石巻で詠んだ句である。森村誠一といえば、夥しいほどの推理小説を書く傍ら、俳句を愛する作家でもあることも知られている。後述するが角川春樹と出会ったことが、俳句を作るきっかけとなった。小説と俳句との関係については、「小説はその世界を拡大し膨らませていくが、俳句は情景を徹底的に凝結させる。異なる表現を知ったことが、小説を書く時に役立っている」と。

森村誠一の2時間余りの講演を、感動を以て聴いた事があった。自分も講演をする機会が多いが、逆にいわゆる作家や講談師などの座談のプロの話も聞くことも多く,参考になる。森村氏は質問なしで2時間の講演をこなすのに、推理作家らしく膨大なメモを準備しており、6時間分の内容があると説明していた。タイトルは「人生の証明になる小説」で、角川春樹との出会いからスタートした。

ある時、角川春樹が、突然、荒巻鮭を背にして、新進作家森村を訪れ「人生の証明になるような小説」を書いてほしいと頼まれたという。人生の証明になる、それ以上でもそれ以下でもないという。それだけだったそうだ。ここからは、小説作法の話でも自分にとって非常に興味深く聴いた。舞台は終戦直後の東京、ニューヨークそして群馬だ。

のちに、「人間の証明」という題名でベストセラーとなり、角川春樹のプロデュースで映画化もされたが、この小説には2つの大きなファクターがあり、一つは戦争の悲惨さと他の要素は「麦わら帽子」に象徴される母と子との情愛である。まず、森村氏自身、少年時代、出身地熊谷で終戦時当日の大空襲を経験、その悲惨な光景が目に焼き付いている。もう一つは、学生時代ハイキングに凝っていて、就職もままならぬ間の青山学院大学4年生の時に行った霧積高原でのエピソードである。

霧積高原では、金湯館(きんとうかん)という伊藤博文、与謝野晶子といった名だたる政治家や作家が泊まったことのある由緒ある旅館だが、早朝その宿が作ってくれた弁当の包み紙に使われたのが、西条八十の詩が印刷されたもので、「帽子」だった。

 

母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落したあの麦わら帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、

僕はあのときずいぶんくやしかった、

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

 

実際、映画化されたものを見ると、くるくると回転しながら赤いリボンのついた女ものの麦わら帽子が谷底に落ちてゆく画像がクライマックスで使われている。

表題の句は、地震で倒れた墓石の向こうに、借景として、工場の煙突からの煙がたなびいている。それがあたかも、香華すなわち仏前の香と華を象徴していると。(完)

 

 

井原西鶴の俳句と日本永代蔵

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

西鶴と言えば、東の芭蕉、西の西鶴と言われた俳句作家だが、むしろ「世間胸算用」「日本永代蔵」などの商人世界を描いた経済小説のパイオニアとしての名声の方が通りがいい。

・大晦日定なき世の定かな

・茶を運ぶ人形の車はたらきて

・辻駕籠や雲に乗り行く花の山

だいぶ、芭蕉とは作風が異なる。自然を描くというより、なにかこう人間の匂いがぷんぷんとするような、浮世により近い感じがする。

戦後、昭和30年代「落日燃ゆ」などの代表作で知られる城山三郎を「経済小説の祖」と定義するむきが一般的だ。日本永代蔵は、「永遠に続く堅固な蔵」を示すが、30編の短編小説集である。その30のうち、どうやって金持ちに至ったかを表す成功談がおよそ三分の二、残りがどう失敗し、倒産にいたったかの教訓的なものである。

なかでも、突出した成功例で現在にもいたる旧財閥三井を取り上げている。松阪商人をルーツに持つ三井高利が江戸に出て、越後屋三井呉服店を創業、その頃、武士相手で一反を単位として、つけ払いの訪問販売を改め、店前売り、定価現金、切り売りをモットーに庶民にまでマーケットセグメントを広げ大成功。さらに、①金が金を生む両替に力点を置き②長崎を通じる貿易にまで家訓で言及、のちこれが維新後、三井銀行の創設や、三井物産の設立につながっている。

三井銀行は、三野村利左エ門という、無学な金平糖売りから、両替商に転身した人物の創業によるものである。幕末の勘定奉行小栗上野介への奉公人から四十六歳でその才覚を買われ三井に中途入社した。一方、三井物産初代社長は、益田孝という旧幕臣で父と共に遣欧使節に参加したり、維新政府の大蔵官僚の経験を持ち、英語が堪能で、若干二十八歳で三井物産を創設してしまうという、スタートはともかくエリート街道まっしぐらの人物である。この無学な苦労人と英語に堪能で茶や俳句の趣味もあった教養人という対照的な二人の人物により三井財閥は作られたと言っても過言ではない。

益田孝は、茶道については「鈍翁」という号も持つほどの数寄者だが、俳句も多く残している。さらには、語学については、「ビジネスもさることながら、雑談が出来るくらい外国語を学べ」、「もし家が裕福なら留学せよ」と言っている。

「小説三井物産初代社長」を書いた小島直紀の「出世を急がぬ男たち」のなかで、グローバルな財閥という意味では三井とよく似た「ロスチャイルド」を取り上げていて、その相違点と類似点を述べている。持論としては類似点ばかりだが、端的な類似点は「富豪」による「統制」と「同族」の団結だ。時代背景をよくにらんで、金融資本家から産業資本家への転身をうまく図ったという点でも酷似している。

大晦日、西鶴の句から思わず、三井家やロスチャイルド財閥にまで思いを馳せた。18.12.31完)


「帳簿の世界史」を読んで

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 アメリカ建国の父の一人であるハミルトンが「権力とは財布を握っていることである」と喝破したこの一言が表題の「帳簿の世界史」の内容を物語っているような感じである。会計数字をいかに正確に公開するかあるいはいかに隠すかの戦いが世界中の今日の国や企業で相も変わらず毎日展開されている。言葉を換えれば、会計はまぎれもなく「資本主義の支柱」ともいうべき存在だからだ。

 最近の日本の某大企業の実例では、「いかに利益を大きく見せるか」という利益至上主義の作業が上からの圧力で会計数字をゆがめさせたかがわかる。管理会計が厳正であるべき財務会計を凌駕してしまった典型的な例であろう。「帳簿の世界史」は、「不正会計の世界史」でもある。

 古代バビロニアの時代から帳簿はあった。しかし、不正を自動的に浮き彫りにする複式簿記ではなく、単式簿記であり、複式簿記の誕生は、ルネサンス期のイタリアまで待つ必要があった。日本はどうかというと、大阪の鴻池、江戸(もともとは伊勢商人)の三井、近江の中井家が江戸時代にすでに独自に複式簿記を発展させている。

 ルネサンス期のベネチアで、メディチ家が当時ヨーロッパ最高の富豪と言われたが、それを支えたのが「複式簿記」であった。面白いのは商人と銀行家が特に「不労所得である金貸し」ということで、常に罪の意識にさいなまれていた。このことは、近江商人も同様で、逆に信仰心は篤かったのである。

 国の統治者が自身で複式簿記を学んで、財政を理解できるのなら、その国は繁栄し滅ぶことはない。ベネチアのその後の衰退は複式簿記を軽視したからである。逆にスペインの次に一大貿易帝国を築いたオランダは、国を挙げて「会計学校」を各地に創立して、その普及に努めたのだ。

 イギリスでは、著名な陶器ブランドであるウェッジウッドでは、統計学や原価計算を導入、やはり、会計の恩恵にあずかっていた。そして、複式簿記の考え方は、「ロビンソンクルーソー」でも見受けられる。人生のプラスとマイナスをそれぞれ帳簿の借り方と貸し方に振り分け、どうやら差し引きプラスだという結論に達したうえで、絶海の孤島での生活を乗り切ったのである。

 公認会計士の登場は、膨大な資産の管理を要求される鉄道事業の出現に端を発する。なにしろ、用地と線路から石炭、駅舎、・・・膨大な貨物など膨大な会計報告の陰で不正の入り込む余地も大きかった。スコとランドやイングランドの制度化のあと、1887年になってようやくアメリカ公認会計士協会が設立されたのである。

 そのアメリカで、エンロンやサブプライムローンによるリーマンショックが起きたことは記憶に新しい。正しい帳簿(財務会計)こそが国や企業、国民を救う、これがこの本の結論のようである。(完)

 

イチローと正岡子規

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 本日未明、記者会見で、米大リーグマリナーズのイチローが現役引退を表明した。昨年五月に選手登録を外れ会長の特別補佐に就任、その後も現役復帰を目指していたが、東京ドームでの大リーグ開幕戦で選手として出場し、日本での幕引きをした形となった。

 日米通算安打4367というのは、比類なき金字塔である。これからも練習を続けるという「野球に対する無類の愛」には頭が下がる。45歳ながら、徹底した節制と準備でその体形と動作は若い時と少しも変わらない。

 私は、1995年頃、オリックス時代のイチローにテレビ局で会ったことがある。ちょうど、阪神淡路大震災の年で、私がテレビ朝日のニュースステーションに出演していた時の事だったが、この時イチローも所属していた神戸市内のオリックス寮で被災していた。

 その年イチローは、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最多出塁率の五冠を達成していた。その日、確か、ピッチャーの平井と二人がテレビ朝日に来局していた。ところが、そのため、私が普段使っている出演者用の更衣室から追い出され、何か、洗濯機や掃除道具の置いてある倉庫のような小部屋で着替えをせざるを得なかったのだ。イチローと言えば、別に背広に着替えるどころか、ジャージにウィンドブレーカーで外からそのままスタジオ入りしていた。結果的には、私は普段通りの更衣室を使えたはずであった。その頃イチローはすこぶる寡黙で気難しく、「サイボーグ」などと言われていた。今回の饒舌な1時間余りの未明会見など当時は想像だにできなかった。

 

 「野球に対する無類の愛」にはイチローに負けない人物がいる。俳人の正岡子規である。子規の本名は升(のぼる)だが、それをもじって野球(のぼーる)と雅号を称していたともいわれている。子規は大学を卒業して新聞記者になったが、「四球」「死球」「打者」などの訳語は子規だと言われている。

 多くの野球に因んだ句のうち数句を選べば、

・春風や まりを投げたき 草の原

・草しげみ ベースボールの 道白し

・若草や 子供集まりて 毬を打つ

等が見受けられる。

野球に対する思いは、親友夏目漱石にも受け継がれたようで、現在、松山には「坊ちゃん球場」があり、松山という街自身が、高校野球の名門校をいくつも擁しており、さながら「野球王国」の様を呈している。

 町のあちこちには、「俳句ポスト」が配置してあり、まさに「俳句王国」である。

奇しくも、伝説的なスポーツ選手と俳人が野球というもので繋がっているとは面白い。2019.3.22了)

 

「戯伝写楽」を観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

極めて奇想天外である。作者中島かずきは、こともあろうに、写楽を女に仕立てている。いかに写楽が素性が知れないとはいえ、まさか、女流の浮世絵師とは、北斎の娘ではあるまいしである。十辺舎一九、北斎、歌麿、それに版元(出版人)蔦屋(つたや)重三郎も舞台には登場する。

写楽の浮世絵は、対象を美しく描くというより、内面の真実、時に醜く写し取っている。そういう意味では、世紀末のフランスの画家ロートレックに似ているかもしれない。迅速かつ的確に対象の形態を捉える才能や、人物の内面をえぐり取る観察力に秀でていた和製ロートレックともいうべき存在であろう。

 現代で言えばプロデューサー業ともいうべき蔦屋の存在の大きさも舞台で良く伝わってくる。安室奈美恵や華原朋美を世に出して、ごく最近引退した小室哲哉のごときである。人の面倒見がよく、新進の芸術家の才能をいちはやく見抜く才も持ち合わせていた。レンタルビデオの大手TSUTAYAの創業者も「現代の蔦屋になりたい」といことで店の名前を付けた」と言われている。蔦屋は、隆盛を極めたが、松平定信の寛政の改革により財産の半分を没収されたりもした。

 私が初めて写楽に接したのは、少年時代、切手収集ブームのころだ。記念切手の花形ともいうべき切手趣味週間シリーズの中でも特に人気のあった浮世絵シリーズの一つで写楽の描いた歌舞伎役者「市川蝦蔵」である。面長で鼻がばかでかくお世辞にでもハンサムと言えない。役者絵はブロマイドともいうべきで、出来るだけ美しく描かなければ意味がないのだが、まったく逆である。同じ浮世絵シリーズでも「ビードロを吹く娘」や「見返り美人」などは、正統派絵師、喜多川歌麿、菱川師宣によって実に艶めかしく描かれている。「見返り美人」は当時から収集家にとっても垂涎の的で10円切手なのに時価6、000円もする。因みにビードロは1、200円、写楽の蝦蔵は1、000円ほどだ。

 謎の多い東洲斎写楽、生没年不詳で、約10か月の短い期間に145点余りの作品を残している。今一番有力視されている説は、宝暦13年(1763年)から文政3年(1820年)まで生存、本職は阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛というもので、中島かずきもこの説にのっとっている。

 東洲斎というペンネームの意味は、江戸の東に洲があったという土地を意味し、住んでいたところが八丁堀か、築地あたりか。斎藤十郎兵衛がたしかに八丁堀に住んでいたという事実もあるらしい。一番肝心の能役者が果たしてこれほどの絵を描けるのかという事実もあり、別人説もある。それは、例えば同時代の初代歌川豊国、北斎、歌麿、円山応挙などである。しかし明らかに彼らとは絵の傾向が異なる。写楽の評価は毀誉褒貶相半ばで、「レンブラントやベラスケスと並ぶ『世界三大肖像画家』と称賛する」一派もいれば、素人の好事家ごのみと切り捨てる向きもある。言えるのは、浮世絵師の中で時代の流れに乗らず極めて特異な存在であったことだ。あとは、個人の好みであり、本来芸というのは好きな人もあれば、つまらないと無視する集団もどこにでもいる。写楽は、おそらく世の評判などどうでもよく「写楽(しゃらく)せい」と江戸弁で吐き捨てるに違いない。好きな対象を好きな風に描く、これが真実に近いだろう。作者中島かずきもこの筆致で描いている。(完)

 

北斎を考える

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

国立西洋美術館で「北斎とジャポニズム」を観た。北斎はそれこそ語るにたる事象があまたあり、さらには書籍も画集を含めて調べるには困ることはない。そこで、人生百年時代という観点から見てみよう。

寿命も伸びて、定年後の長い時間をどうするか、いわゆる定年本が世に溢れている。最近それを批判する「定年バカ」なる新書が大いに売れているという。起業、趣味、地域との接触、投資などだいたいパターンが決まっている。何かやらねばという多くの本の中で、「余計なお世話だ。何もしない自由もいいではないか」という主張で十分納得できる。

90歳で亡くなった北斎だが、その時何と言ったか?「天が、あと五年の命を与えてくれるなら、本当の絵かきになってみせるものを」。恐ろしいパワーだ。概して画家が長生きなのは、つねにクリエイティブなことを夢想し、手先を常に動かしているからだともいわれている。

ジャポニズムという観点からは、フランスの印象派に或はアールヌーボーの工芸作家(例えばガレなど)に多大な影響をもたらした。しかるに北斎を敬服する点は①90歳でなくなるまで、上昇志向を常に絶やさなかった、②ヨーロッパの芸術に日本の画家として寄与したという点だろう。1999年に発売されたアメリカの著名な雑誌「Life」で「過去1000年で最も業績を残した100人」のなかで唯一日本人として第86位にランクされている。

最も有名な作品は二つ、①神奈川沖浪裏、②凱風快晴(通称赤富士)いずれも富嶽三十六景に含まれる。画家として世に確固たる名声を確立したこの作品集を手掛けたのは実に七十一歳の時、当時はおそらく五十歳が寿命の時代、おそろしく晩成である。

特に藍の使い方が、ヨーロッパの印象派に受け入れられ、「藍狂い」(インディゴマニア)という一群の画家をも生み出している。神奈川沖浪裏もそうだが、同じく富嶽三十六景の一つ「甲州石班澤」は藍の濃淡だけで富士を描いている。

「北斎漫画」という、後進のための写生本は「自然をあるがままにスケッチする」という発想のもと、花、動植物を描いているが、これが、自然を有るがままに映すというモネの「睡蓮」を描く動機とさえ言われている。昨今の北斎を見直す機運の中で、娘の応為も脚光を浴びている。光と影のとらえ方が絶妙で、江戸のレンブラントという異名ももらうほどだ。「吉原格子先之図」などは逸品である。

 北斎の実像は、①酒もたばこもやらず、②甘いものが好き、③三食とも出前、④ごみはそのまま放置、要するに、画業以外は全く興味がなく、一生貧乏な長屋暮らしで90回以上も引っ越ししたそうだ。人生百年時代、一つの生き方として参考になるのではないだろうか?(完)


ブルーの誘惑

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 日常目にするブルーは或は、ジーンズのブルーであったり、交通信号の緑がかった青かもしれない。このブルーだが、この色の持つ様々なエピソードが興味をそそられる。

まず、アメリカで、デニムハンターという職業の人がこの世に存在するらしい。つまりは、掘り出し物の古着のジーンズを高値で売買するのだ。古着と言っても、百年以上の昔の、いわば骨董に近いものまで扱うわけで、「ビンテージ・ジーンズ」である。ジーンズとは、アメリカで、金鉱山や工場の労働者に愛された誠に丈夫なズボンである。従来の物はすぐに破れるので、幌馬車の幌の布を使って藍色の染料につけたものである。「青い黄金」と言われ、高いものは1,600万円もする。このような高値の物は、あるいは未使用なままで、投資の対象にもなる。しばしば、JRの中で若い乗客が、わざわざ穴を空けた白っぽいものを穿いているのを見かけると思う。デニムハンターは、アメリカ中の鉱山の廃坑や工場跡を訪れ、頭にライトをつけ、口にはマスクをはめ、あちこち探しまわる。

 深いブルーつまりインディゴブルーである藍の染料はもともと、植物の藍(たで)からとった。原料の蓼を育てるのに時間も手間もかかる。そこで、1880年にドイツで、合成染料が発明された。それからというもの、合成が主流となったが、ジーンズでもあくまで天然の染料を使う場合もあり、これを「ビンテージデニム」と呼ぶ場合もあるそうだ。

 オランダのデルフトには2つのブルーがある。一つ目は、フェルメールブルー、そして、デルフトブルーである。画家フェルメールが使ったブルーでこれは実に高価だ。原料は、日本名で瑠璃(るり)という宝石。ラピスラズリとよばれ、その当時は金より高価だった。二つ目は、「デルフト焼」という陶器に着色されるが、おそらく、インディゴブルーだろう。「デルフト焼」はKLM航空のビジネスクラスのお土産でもらったタイルを今でも大切に保管している。フェルメールは、生涯38という寡作ということもあり、つとに昨今人気が出ている。本物を鑑賞したが、「真珠の首飾りの少女」で描かれた鮮やかなターバンは実に印象的である。

 この高価なラピスラズリは、日本の金沢でも見られる。ラピスラズリを使ったコバルトブルーの壁は、前田家の成巽閣やお茶屋にも使われている。そのブルーは感動さえ覚える。このブルーをひときわ引き立たせているのは、茶屋街の東、西、主計の3つの廓にある。赤いべんがら(紅殻)格子である。インドのベンガル地方の紅料を使用していることから「べんがら」と呼ばれるようになった。どちらかというと、真紅というよりエンジに近くて、芸者の舞に似つかわしい艶めかしさを漂わせている。

 ブルーというと、憂鬱の代名詞のようだが、深みのあるインディゴブルーや目の覚めるようなフェルメールブルーを見るとおよそかけ離れた感動さえ起こさせる色彩である。(完)

 

藤田嗣治のこと

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

画家・藤田嗣治の企画展が、没後50年を記して上野の東京都美術館で開催されている。藤田嗣治のイメージは、パリ滞在の長い「おかっぱ頭の目立ちたがり屋」であった。すぐイメージとして浮かび上がるのが、「ロイド眼鏡にちょび髭、おかっぱ頭」である。自身高校時代・美術部に属し、油絵を描いていた身としては、その独特の色の出し方や絵の具の使い方に興味があった。

 藤田は、明治19年(1886年)に東京・新宿に生まれた。両親とも名門で、父は嗣章、その嗣を1字もらい次男のため治(2番目の意)の一字が入っている。父親は、軍医、最終的にはトップの軍医総監まで昇りつめ、文豪・森鴎外の後任である。小学校のころから絵が好きで、医者にしたかった父の勧めには従わなかったが、比較的リベラルな家風のようだった。長じて東京美術学校に進むが、この時、森鴎外のアドバイスもあったようだ。

 美術学校卒業後巴里に修行の為、26歳で、「父親が30歳まで資金援助をする」という約束でパリに渡る。その後、日本とフランスを行き来したが、フランスでの高評価とは異なり、日本では長い間評価が低く、1969年の死後、ようやく勲一等瑞宝章を受けている。フランスではその11年前1957年に既に最高勲章レジオン・ドヌールを受けていた。

 藤田の専売特許である「乳白色の肌」の秘密は、十分に解き明かされていない。藤田自身も決して他人には明かさなかった。藤田の技法は、決して絵の具を塗りたくることではなく薄く重ねる技法である。まず、キャンバスも市販でなく自分で制作していた点である。普通は2層であるが藤田のそれは3層である。詳しくは省くが、藤田嗣治の著者「近藤史人」によると「黄色と白の絵の具の微妙な配合具合」である。これを試行錯誤で最適なものを発見したようだ。

 ついで、シンボルの「おかっぱ頭」については、床屋に行く金が無いときに、自分ではさみで簡単なおかっぱに仕上げて以来で、特に目立とうと思って始めたものではない。丁度ビートルズが、売れる前、自分たちで勝手に髪を伸ばしっぱなしにしていたのと同じである。但し、メガネは高価な『鼈甲』であった。

 従軍画家として「アッツ島玉砕」などを描くなど「戦争に協力した」ということで、戦争直後、画家としては一人責任をかぶされそうになったのがどうやら最終的にフランスに帰化した理由のようだが、最後はカトリックの洗礼を受け、5人目の婦人である日本人の「君代さん」と南仏ランスで静かな余生を送った。名前も日本名の嗣治をやめ、尊敬するレオナルド・ダヴィンチにあやかってレオナール・フジタと改名した。結局、日本ではフランス人、フランスでは日本人とみなされ、終生『異邦人』であり続けた。

 自分は、企画展には無いが新秋田県立美術館の壁画「秋田の行事」が好きだ。縦3.5メートル横20メートルの大作で、早筆・藤田が174時間の短期で仕上げた。パリのサロンで粋人に称賛される作品がほとんどだが、それを見て庶民が拝み涙を流させた「アッツ島玉砕」や日本人の心のふるさとを思わせる「秋田の行事」など大衆に訴える作品も数多い。

 時代的には両世界大戦、画家として、後期印象派、エコール・ド・パリ、シュールレアリズムを駆け抜け、酒も一滴もやらない不器用なお人よしだが、ある意味で時勢と妥協して生きた藤田は誠に興味深い謎に満ちた人物である。(完)

 

暁の寺(ワット・アルン)

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

「アキノカゼ 木ノハガイルヨ 山のウエ」

 

日経新聞のごく最近の「文学周辺」に三島の「暁の寺」が取り上げられている。

さて、表題の句は天才・三島由紀夫が6歳の時に作った俳句である。すでに文豪の片鱗を見せているではないか!三島が割腹自殺した時、ちょうど新入社員の研修中であったが、教官になだめられながらも勉強どころでなく詳細を知りたかった記憶がある。数多くの美文調の短編、長編をものにした作家だが、最も印象的だったのが「豊穣の海」の中の「暁の寺(ワット・アルン)」だった。タイ・バンコックの長期出張で数々の寺を巡ったが、七百あると言われるバンコックの寺の中で、最も印象に残ったのが、暁の寺(ワット・アルン)であった。高さ75メートルほどの塔の印象が美麗な陶器で覆われていたこと、高所恐怖症の自分が、恐ろしく急な塔の階段を登ったことを覚えている。

三島由紀夫の同名の小説は「豊穣の海」という遺作ともいうべき長編小説全4巻のうち第3巻に当たる。「豊穣の海」という奇妙なタイトルの海は地球上には無く、月面の海の一つであることがあとで分かった。三島由紀夫が、インド、タイなどの旅行を下敷きに書いているが、相当な事前、事後、仏教を中心に研究の跡がうかがえる。

 「暁の寺」の小説の由来は、小説の主題ともなっている「輪廻転生」をビジブルに具現化したものが、バンコクに聳え立つ「ワット・アルン」なのである。

 作中に曰く、「かつてあれほど若い日の自分を悩ました唯識論、あの壮大な大伽藍のような大衆仏教の体系へと、本田(主人公の弁護士)は今や、バンコックの残した美しい愛らしい一縷の謎をたよりに、却ってらくらくと帰ってゆけるような心地がした。さるにても唯識は、一旦「我」と「魂」とを否定した仏教が、輪廻転生の「主体」をめぐる理論的困難を、もっとも周到な理論で切り抜けた、目くるめくばかりに高い知的宗教的建築物であった。その複雑無類の哲学的達成は、あたかもあのバンコックの暁の寺のように、夜明けの涼風と微光に充ちた幽玄な時間を以て、淡青の朝空の大空間を貫いていた」。

 筋書きというものがあるとすれば、タイの幼い姫が「自分はある日本人の生まれ変わりだ」とする、その姫に年甲斐もなく恋をし、後刻、成長した姫を自分の別荘に招くというものだが、戦前戦後の時代の移り変わりを、巧みに登場人物を通して語らせている。

 夫婦間に子のない、莫大な成功報酬を得て経済的には全く不自由のない弁護士が、唯一生きがいとして残されたのが、この姫の輪廻転生の生き証人としての確証を得たいという欲求のようである。三島はインド政府からの招待旅行で、帰途バンコックにも立ち寄っているが、強く衝撃を受けたのが、聖地インド・べネレスで、そこで「究極のものを見た」(新潮文庫・森川達也解説)のである。

 旅を旅で終わらせるのでなく、それを小説のモチーフに転化させるのが、プロの物書きの仕業である。三島はそれをこの小説で見事に証明して見せた。(完)


真藤さんのことなど

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 アフリカ・ガーナ滞在中、一時帰国の際、30分ほど真藤さんと雑談したことがあった。私は、すっかりアフリカナイズされてしまって、約束の8時半はおろか、9時過ぎに社長室に入った。当時の秘書役の田島さんは、かなり慌てていて、「田上君、いったい何をしていたんだ、早く社長室に入れよ」と声を荒げていた。

 入るなり、真藤さんは遅れたことは何も咎めず、「生活はどうなんだ。何を食べているのか?タピオカなんかはみんな食べているのか?年間の降雨量はどうかね?」。そのうち、児島副社長を呼んで「何か仕事で困ったことがあったら副社長に言ってくれ」ということで、雑談は終わった。こちらは、電話料金収納率が低いことや、労使交渉が厳しいことなどを言うつもりだったが、そういうことには一切触れられなかった。

 日本通信協力の役員の人から、「経験談をまとめて出版したら」と勧められ、NTT出版に赴き、生まれて初めて出版してみようかという気になった。ちょうどタイ出張で、出先のホテルで時間の隙間を利用して骨の部分はほぼ書き終えていたが、帰国してさらに書き足したのだが、書いても書いても出版するにはページ数が足りない。細かいことは、編集の西山君や飯田さんに助けてももらったが、大筋のことは、当時の出版部長で、東洋経済新報社のやはり出版部長をしていた赤木邦夫さんからアドバイスを受けた。

ようやく200ページを超える見通しがたった頃、赤木さんから「田上さん、現地女性との恋愛のことなどを書き足したら、さらに2割がた販売数が増えるのだけど、何か無いですか?」。言われる意味は納得だけど、残念だがその希望には添えなかった。マラリアにも罹患し、ようやくの事で帰国した身、給料の遅れやボーナスの未支給など死にたいと何度思ったことか?恋愛のゆとりなどは皆無であった。

凱旋パーティーを日本通信協力が開いてくれたが、マラリア後遺症で、何せまっすぐ立っていられない。テーブルの端につかまって倒れるのを阻止していた。本の出来上がりに合わせ、NTT出版が日経新聞にも広告を出してくれたおかげで、順調に販売は伸びた。幸いなことに、NTTの新入社員の教科書にも指定され、中央学園の新入社員は「国際希望」がずいぶんいたようだ。ただ、その頃は今と異なり、国内重視の経営方針で、2年間で教科書指定は終わったという。ただ、全国学校図書館推薦図書になり、今でも公立図書館では所蔵しているところが多い。

真藤さんはちょうどそのころ事件に巻き込まれ、不遇な時代にあったが、前述の赤木さんが「真藤さんにも、持って行くよ」と言って1冊届けたようだ。突然、真藤さんから葉書でコメントが来た。「大変な思いをしたようだね。・・・自分もブラジルに造船所を造る時、同じようなカルチャーショックを受けた・・・」(了)


世界観の広がりとは

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 立花 隆の「宇宙からの帰還」を改めて読んだ。初めて読んだのは、若いころ仕事で海外に出る前の事だったので、感動する部分が今とは違った。かなり、有名な部分に同じ感情を持ったのだ「・・・地球を離れて、初めて丸ごとの地球を一つの球体として見たとき、・・・はじめはその美しさ、生命感に目を奪われていたが、やがて、その弱々しさ、もろさを感じるようになる。感動する。宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石。それが地球だ」。

 宇宙空間で感じた「はかない物体」という表現が、体験者でないとわからない感情ではないだろうか?知識では計り知れないこの体験というもの、人々がお互いをコミュニケーションできる共通の基盤が、あるいはこの「体験」というものではないか?だれもが、地球を「はかない物体」などと思ったことはおそらくないだろう。宇宙から地球をみるという誠に稀有な経験者のみが持ちうる特権だろう。

 この稀有な特権をもった宇宙飛行士の「その後」を記述したのが「宇宙からの帰還」だが、実にさまざまである。あるものは伝道者に、あるいは政治家やビジネスに身を投じたものなどだ。

 なかでも共感を持つのはジョン・スワイガートだが、宇宙体験というものに対するコメントは次のようなものだ。「一つは、ものの見方、考え方が変わったということだ。人間の物の見方というのは、すべて経験の産物だ。小さな経験しかない人間は考え方も狭い。例えば、あなたが小さな子供の時、あなたの全宇宙は家の中だけだ。しかし、やがて家の外に出て近所を歩き回るようになれば、それだけ世界は広がり、世界の見方が広がる。もっと大きくなって隣の町まで出るようになれば、さらに広がる。隣の州、隣の国までいっていれば、もっと広がる。世界の広がりが世界を見る見方を広げる。我々宇宙飛行士は、地球の外から地球を見るという経験を持った。これはその体験をした人間の物の見方を変えずにはおかない経験だ。・・・」

 スリランカ滞在中、モルジブに2度遊んだ。ウォーターコテッジというサンゴ礁の海に建てられた家の台所の戸を開けると、階段でそのまま海に入れる。そこで感じたことは、小さなサンゴ礁には小さな魚類しか棲まないし、大きくなれば魚のサイズもそれに従ったということだ。近頃「外国には行きたくない」という若者が増えてきたらしい。何とも情けない現象だ。日本という国の力が衰えているのではないか?

 学生時代、アルバイトで金をためて、船とシベリア鉄道でヨーロッパに行った友達もいた。それほど外国へのあこがれが強かった。西村賢太の「苦役列車」を読むと、アルバイトで自分と同じ零下30度の品川の冷凍工場で働く場面が出てくるが、そこでも20万円の金をためてヨーロッパに行っていた大学生もいた。外国に行くということは、今と違って大変なことだったが、それなりに「世界観の広がり」があり、その後の社会人生活に影響を与えたのではないか?以前は「平家、海軍、国際派」という言葉あり、企業でも国際派は非主流であるかのような印象を与えていたものだが、今や日本企業もグローバルな展開をしないと生き残れないご時世である。個人の人生をもってしても、「外国に行くということは、たとえ観光でも『世界観の広がり』を期待でき、より豊かさをもたらすもの」ではないだろうか?(完)


演歌考―石川さゆりの「天城越え」-

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 数ある演歌のうち、一番人気が石川さゆりの「天城越え」との説がある。他の歌手ではなく、「女の情念」を歌い上げたら天下一品の「石川さゆり」のそれでなくてはならない。実際、吹き込んだ当時、石川は、人生の機微を謳うには若すぎる若干28歳であった。

 

 作曲家・弦哲也と作詞家・吉岡治がタッグを組んで、それこそ、伊豆の山荘で作り上げた。数々のヒットを飛ばした吉岡治であるが、冒頭の「隠しきれない移り香が、いつしかあなたに滲みついた」の次のセリフ「誰かに盗られるくらいならあなたを殺していいですか」のたった一行がこの曲の全てを物語る。そら恐ろしい文句である。そしてこれが作詞家・吉岡の真骨頂と言っていい。

 

 伊豆半島の中央部で、静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境である「天城峠」が舞台であるが、下田に抜けるこの道をテーマとした主な文学作品が、①川端康成の「伊豆の踊子」と②松本清張の「天城越え」である。

 

 「伊豆の踊子」は映画化され、著名な女優たちが一度は通る「登竜門」的なものであるが、内容は、松本清張の「天城越え」とは、真反対の純愛ものと言ってよい。主人公は、20歳の一高生と14歳のまだ幼さのこる旅芸人一座の踊子だ。

 

 これと対照的なのが、「天城越え」である。登場するのが、男14歳の印刷工、女は少年の母を思わせる美しい売春婦ハナである。草むらで情交を重ねたハナだが、相手の土工が殺される。結局釈放されるが、真犯人は実はその「少年」だと清張は読者に推理させる。

 

 ほのかな、恋心を抱いた少年は、土工にハナを盗られたと感じたのであろう。そして、少年が土工を殺した。推理小説らしい証拠品を清張は巧みに提示している。現場に残された足跡が、ハナと少年の物が同じ「九文半」なのだ。

 

 作詞家・吉岡治が感銘を受けたのが、清張の「天城越え」で、土工にハナを盗られたと感じた少年の心情を謳った次の歌詞に、作詞上スランプ気味だった吉岡が賭けたのだった。

 

「誰かに盗られるくらいならあなたを殺していいですか」。(完)


ふるアメリカに袖はぬらさじ

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 有吉佐和子の戯曲だが、明治座で大地真央主演の芝居を観た。幕末、新開地ともいうべき横浜が舞台。開国か攘夷かで国論は二分。支配階級の武士がそのどちらかで争っていたのだが、町人も生業によっては、そのどちらかを選ばざるを得なかった。つまりは、クライアントたる武士を引き寄せるには、次第に旗色鮮明にしてゆくことが必要だったのだ。

 

 例えば、遊郭。数ある遊郭の中で、岩亀楼(がんきろう)がそのステージである。外国人相手の芸者(らしゃめん或は、「唐人口」と言われたが)、と日本人を客とする日本人口の両方をそろえた遊郭だったが、看板の花魁・亀游が、アメリカ人を相手とするのを拒み、その場で自害したのをきっかけとして、攘夷派に楼主が経営方針を転換。逆に、亀游を死後もレガシーとして使い、病気がちな亀游を世話していた主人公芸者お園は、亀游伝説をさらに膨らませていった。そして、虚像と実像とが次第に境目もはっきりしなくなっていった。

 

 亀游が辞世の句と称して、使った「露をだに厭ふ大和の女郎花、ふるあめりかに袖は濡らさじ」から、後半の部分を有吉佐和子がこの戯曲のタイトルとして使ったのだが、はたしてこの句はどこから引用したのだろうか?

 

 どうやら、幕末の戯作者・染崎述房の「近世紀聞」のなかの一節を基にしたものらしいということが、磯田光一氏の解説で分かった。岩亀楼も実在した遊郭のようだ。神奈川県立図書館に「横濱港崎廊岩亀楼異人遊興之図」として残っている。それをみると、外国人が芸者の三味線に合わせて足を上げて楽し気に踊っている様子が見て取れる。

 

 有吉佐和子は、自身の短編「亀游の死」を杉村春子のために戯曲化したものだが、その後、坂東玉三郎や水谷八重子といった名優たちに引き継がれた。その坂東玉三郎が、お園を描写した一文が見事だ。「実際、吉原から横浜に流れてきた芸者お園は、ほんとうに明るく愉快な女なのです。実に様々な人生の経験をしてきて、どんな状況にも対応できる女でもあり、しかも大のお酒好きです。人生の垢を舐めつくした人間であって、百戦錬磨、状況をかぎ分けて平気で作り話もします。世の怒涛にどんなに踏みにじられても起き上がり、たとえ戦車のキャタピラに轢かれても、それでも立ち直っていく女だろうと感じます」と。

 

 実際、お園は、初めは単なる廓の裏方である三味線芸者に過ぎなかったのにも関わらず、次第に、伝説のおいらん「亀遊」の語り部として、岩亀楼に無くてはならぬ存在になってゆく。舞台では、本当に弾けるのかなと心配した大地真央がちゃんと三味線を演奏している。大地真央の祖母が淡路島生まれで、浄瑠璃三味線をよく弾いていたよし、これも血筋だろうか?かつて、評判になった映画「戦場のピアニスト」で、ピアノには全く素人の主演俳優が見事にピアノを弾きこなしていたのを思い起こす。

 

 余談だが、JRの関内(かんない)という駅名は、どうやら、時代に押されて急遽造成した横浜の出島「外国人居留地」Yokohama Foreign Settlementへの関門の内側という意味の名残らしい。()


ミュシャの「スラヴ叙事詩」

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 ミュシャについては、アール・ヌーヴォーの時代の人物としか知らなかった。チェコの画家で、むしろ後半生は、祖国チェコの「歴史絵巻-スラヴ叙事詩」に心血を注いだ。今回の「ミュシャ展」、最終日は切符を買うのに30分、並んで入場するのに70分であった。

 

国立新美術館での開催であったが、壁一面の巨大な絵画が20点で、圧倒された。ミュシャと言えば、2004年の「プラハからパリへ 華麗なるアール・ヌーヴォーの誕生」の展覧会を観たのが自分にとっての全てであり、特に「ジスモンダ」にまつわるエピソードは、広く世に知られている。

 

1860年、チェコに生まれ、画家を志し、ミュンヘン美術アカデミーに学ぶ。その後、パリに出てきて、水彩画などで糊口をしのぐ。1895年、突如、奇跡が起こる。ほとんど伝説化したエピソードだが、ルネサンス座から、サラ・ベルナールが主演する「ジスモンダ」のポスター制作を依頼された1894年のクリスマスのことだった。新年1895年正月の4日からの公演にあわせて、「元旦からパリ中に貼りだしたい」というとんでもない注文だった。ミュシャにとって、何せポスター制作は初めてであったが、クリスマス休暇でデザイナーは他に誰もいない。「やるっきゃない!」。この事件は、ミュシャをして、一晩で売れっ子のポスター作家に押し上げたと同時に、サラ・ベルナールについても、それまで一定の評価を受けてはいたが、一気に世界一の舞台女優へと駆け上がった。

 

ミュシャに仕事が来るわ来るわ、ご飯のことを心配する必要は無くなった。一方のサラ・ベルナールも「クッションのきいた棺桶の中で寝る」という伝説や「聖なる怪物」とあだ名されるほどになった。これほどこのジスモンダは2人の運命を激変させたのだ。

 

しかし、である。ミュシャの後半生はまたしても大きな変化をもたらす。その動機は、1900年のパリ万博で、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の内装を依頼され、スラヴ民族の歴史を調査したことのようだ。さらには、スポンサーがついた。これが実に大きい。およそ、本当に好きなことに没頭できる芸術家は少ない。「スラヴのナショナリズム」に興味を持ったアメリカ人の富豪チャールズ・クレーンが、1909年に資金援助を約束、1910年のチェコ帰国から20年間にわたる「スラヴ叙事詩」の制作がはじまった。前述したが、大きいものでは、縦6メートル、横8メートルにも及ぶ壁画で、テンペラや、油彩の物である。そのため、普通のアトリエでは足りず、チェコのモラフスキー・クルムロフ城の巨大な部屋のなかで作業がおこなわれた。作品は、”愛国的“なものばかりで、プロテスタントの宗教改革者「ヤン・フス」やドイツ騎士団を打ち破った「グリュンワルトの戦闘のあと」、そのものずばり「スラヴ民族の目覚め」などである。どの作品にも、オーストリー・ハンガリー帝国圧政下の民族の「怒りと情熱」が込められている。(完)


「黒蜥蜴」-世相を映す鏡

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 以前から観たいと思っていた「黒蜥蜴」の舞台を、とうとう観る機会に恵まれた。多くの著名な舞台俳優や女優がかかわってきたが、少年時代にこの作品を読んで、昭和三十六年に脚本を発表したのが、三島由紀夫なのだが、サンケイホールで上演された際、原作者の江戸川乱歩は、宣伝ビラに次のような寸感を記している。筋を説明するでもない、すべては、この中で表現されていると思う。

 

 「『黒蜥蜴』は戦前の私の多くの通俗連載長編の一つで、私の小説では唯一女賊ものである。美しい女賊と明智小五郎との、おそろしいトリッキーで、アクロバティックな冒険物語だが、この二人、追うものと追われるものの、かたき同士が愛情を感じあう。三島由紀夫君はその女賊と探偵との恋愛に重点を置いて脚色されたようである。筋はほとんど原作のままに運びながら、会話は三島式警句の連続で、子供らしい私の小説を一変して、パロディーというか、バーレスクというか、異様な風味を創り出している。」

 

 さて、その三島由紀夫は、初演プログラムでこう述べている「私は少年時代に読んで、かなり強烈な印象を与えられた(略)私の劇化の重点は、原作ではごくほのかに扱われている女賊黒蜥蜴と明智小五郎との恋愛を主軸にしたことで(略)セリフもロマンティックで大時代的なものにした。現代の話でありながら、1920年代のジャズ時代のような味を出すことを狙ったのである。」

 

 今回の舞台は、原作が発表された昭和九年の世相がよく反映されている。前年、満州事変が起こり、この年には5・15事件で軍人による首相暗殺などもあった。セリフはほとんど無いが、舞台に陸軍の将校を登場させている。

 

 明智探偵事務所は、銀座。仮面舞踏会は新橋。豪商は大阪一の宝石商で、住まいは芦屋。宝石受け取りの舞台は大阪通天閣。誘拐事件の現場は、満州にチェーンのあったヤマトホテル。今ならさしずめ、探偵事務所は、新宿。仮面舞踏会は渋谷。豪商の事務所こそは東京・銀座で、住まいは田園調布。宝石受取場所は、スカイツリー、ホテルはフォーシーズンといったところか。また、受け渡しの対象となった高価な宝石の名前が「エジプトの星」ならぬ、より粋な「クレオパトラの涙」に変えられていた。

 

 江戸川乱歩は、アメリカの推理作家エドガー・アラン・ポオをもじったものであることは、つとに知られている。日本の探偵小説の黎明期を支えた文学史上の重鎮である。

 

女主人公、黒蜥蜴は今回、女形の河合雪之丞が演じたが、初代水谷八重子、小川真由美、坂東玉三郎、松坂慶子、そして、人々の記憶に最も残るのが、おそらく、三島と親交のあった美輪明宏だろう。美輪は、繰り返して上演を重ね、演出、美術、衣装まで務めた。

 

世相を反映と書いたが、逆に庶民とは異なるごく少数の一部の富裕層は、意外と現在の中間層に近い生活を送っていたかの意外な印象も受ける。それが、冒頭のこの一説である。

 

「この国でも一夜に数千羽の七面鳥がしめられるという、あるクリスマス・イブの出来事だ。」(完)


金子兜太を悼む

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 俳人金子兜太が亡くなり、家の隣の市立図書館では、早速、専用のコーナーが設けられ、20冊ほどの著書が並べられている。まさに異色の俳人である。通常の季語、五七五などにこだわらず、率直に人間の生きざまを描いている。

 秩父の生まれ、開業医の父親も自宅で句会を催すほどの環境に育った。其の父は、秩父音頭を俗っぽいものから洗練されたものに直すほどの粋人で、この秩父音頭のリズムが自然と兜太の体内に沁みついていると言う。その父親が上海同文書院の校医で赴任したことから、兜太自身中国好きになっている。兜太の俳句が「金子の中には中国がある」と言われる所以である。どこか、大陸的なおおらかさが確かに句風に感じられるのだ。さらに、置かれた環境が句風に影響を与えたものの決定的になつた出来事は2つあると述懐している。

 まず、一つ目は戦争体験だ。東京帝国大学経済学部を繰り上げ卒業して日銀に入るがたった3日で海軍経理学校に入学。ここからがいかにも金子らしい。卒業後の任地の志望を聞かれると「南方第一線」と答える。教官からは「貴様、死ぬぞ」と言われたが、「私の家にはほかに兄弟がたくさんいますから」と答えた。そして、最前線のトラック島に海軍主計中尉で送られる。食料不足から多くの餓死者を見ながら、捕虜も経験し、終戦から1年3ヶ月後にやっと帰国する。この時「捨身飼虎」・・・自分を捨てて、人のために生きる決意をしたのだ。去る前に、戦没者のためにトラック島に墓碑を建てたのだが、祖国に帰る船の中で作ったのは「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」。これが、まず人生の最初の転機で作った句だ。この時すでにある程度、立身出世を諦めていたのではないか。

 日銀に帰っても、学閥廃止など組織の近代化を叫び、組合の事務局長まで務めている。福島支店を皮切りに、神戸、長崎と十年間の支店暮らし。定年の時はようやく、本店証券局主査。東大出にもかかわらず、まさに、出世とは縁のない行員生活だった。

 二つ目の決定的な出来事は、神戸支店の時だ。ある朝、神戸港にたたずんでいた。一羽のカモメがさっと急降下して海に突っ込み魚をくわえて飛び上がったのだ。それは、まさにトラック島で、ゼロ戦が敵の攻撃を受けて海に落ちるのを連想させた。この時、自分は銀行での出世を捨てて俳句に生きることを明確に決意させたようだ。この時の句が、

朝はじまる海へ突っ込む鷗の死」である。

 俳句は世界でも最も短い詩である。五七五たった十七文字の詩など、どこにもない。金子兜太はこの殻を破り、花鳥風月の季語にこだわらず、五七五にも収まらない。時に、短歌のように社会性も帯びている。戦後俳句に新風を吹き込んだ画期的な前衛の俳人と言える。芭蕉より本能に生きた小林一茶をこよなく愛し、もっぱら自らを「荒凡夫」と称している。さらには自らを「俳句そのもの」と言ってはばからない。98歳見事に天寿を全うした。(完)


「利休にたずねよ」の着眼点

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 東京国立博物館・平成館で「茶の湯」展を観た。およそ、芸術は実物に触れなければ、その価値は論じられない。茶の湯の小道具は広範囲で、茶碗、茶杓、茶筅、香合、花入、掛け軸、水差し、釜、茶入れ、茶室。時の流れに伴う趣向の変化もある。すなわち、室町時代の美術品の鑑賞に重点をおいた武家貴族の「書院茶」から、豪商・庶民が好んだ精神的な充実を求める「侘茶」まで同じ茶と言っても幅広い。

 主役ともいうべき茶碗そのものも、その価値世界一と言われる「曜変天目」から、本来朝鮮の日用雑器から端を発した「井戸茶碗」では、相当趣が異なる。曜変天目などは、おそらく一度見たら決して忘れない華やかさがある。「器の中に宇宙が見える」とも表現され、夜空にちりばめられた星が浮かび上がり、見る角度によってそれが移動する。私は好きである。竹の茶杓も、利休自身が作成したものなどが残っていて、竹を削る微妙なカーブが何とも艶めかしい。

 話は侘茶の方である。徹底的に虚飾を廃し、精神世界を実現しようとした茶道としての生き方であるが、その到達点が利休である。この利休に対する大方の見方をどんでん返したのが、直木賞作家の山本憲一氏であった。「利休にたずねよ」は、確かにフィクションではあるが、「・・・さもありなん」という想像が掻き立てられる。

 彼が着目したのは、茶碗や茶杓ではなく、水差しと香合入れという脇役だ。世間では、利休の確立した侘茶の世界は禅にも通じ、おそらく、利休は禅の求道僧のような、ストイックではあるが、あまり色気のない、つまらない「いっこくもの」というイメージが強いが、この固定概念を覆した。利休が愛したという水差しが妙に「色気」を放ち、こんな世間で言われるような人物とは真反対のきっと面白い男に違いないという設定に変えたのだ。

 水差しという脇役に着目したあと、もう一つの「香合入れ」を登場させた。この小道具を脇役から主役に抜擢させたのだ。まず、利休そのものの設定が、若いころ色街で遊びほうける国際都市堺の魚屋の若旦那とし、最初で最後の真の純愛の対象であった高麗の姫との駆け落ちをテーマとした。姫は自害するが、利休は死にきれなかった。形見として「香合入れ」に姫の小指と桜貝のような爪を入れ肌身離さず持っていた。

 秀吉から切腹を申し渡されたおり、最後に妻から「あなたには秘めたる恋人がいたのでしょう?」という問いかけ、これが正に「利休にたずねよ」というタイトルどおりの設定である。利休はかたくなにこれを否定する。この脇役の香合入れを庭石に投げて壊すか壊さないかが、まさにスリルとサスペンスである。

 作者山本憲一氏のすばらしさは、香合入れという、いつでも手のひらに入るほどの小物で、中に何か生涯の秘密を入れられるという脇役の小道具を小説のポイントにしたことである。言ってみれば、「着眼点」の勝利である。(了)


魯迅と藤野厳九郎のこと

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 あわら市を訪れた。久々に会った福井の旧知から、藤野厳九郎の旧居がここにあると教わったが、あいにく飛行機の時間の関係で降りしきる雨の元、外形だけを撮影できた。藤野厳九郎が当地の出身だとはつゆ知らず、中国の文豪・魯迅が仙台留学中の恩師の事を「藤野先生」という小品に収めていたことを思い出した。

 魯迅は1904年に仙台の医専(現在の東北大学医学部)に入学、とにかく中国人留学生のいない学校を選んだ。藤野先生は非常に厳格で、怠け者の学生からは敬遠されていたようだが、留学生魯迅には優しかった。

 藤野先生の文中にこう表現している。「・・・私が書き写したノートを差し出すと、彼は受け取った。そして二、三日後に返してくれて、これから毎週、持ってきて見せるようにといった。ノートを持ち帰って開いてみたとき、私は驚いた。と同時にある種の不安と感激に襲われた。ノートの初めから終わりまですべて、赤い色の筆で添削してあって、多くの脱落していた部分が書き加えてあるだけでなく、文法の間違えまで、みんなひとつひとつ訂正してあるのだ。これが、彼が担任する学科の骨学、血管学、神経学が終わるまで、ずっと続いたのである。」このおかげか、魯迅は同学年百人中、中ほどで落第しないで済んだと書いている。

 その後、魯迅は医学を諦め、文学に転向するのだが、恩のあった藤野先生の事だけは忘れず、「藤野先生」の末尾をこう結んでいる。「・・・ただ彼の写真だけが、今でも北京の家の東側の壁の、机に面したところに掛かっている。毎夜、疲れて怠けたくなる時、ふと上を向いて、明かりの中に、黒い痩せた、今にも抑揚の強い口調で話しだしそうな彼の顔が目に入ると、たちまち私は良心に目覚め、かつ勇気を与えられ、そこでたばこに一本火をつけ、再び正人君子の輩に深く憎まれる文字を書き続けるのである。」

 最後のこの部分の文章だけは、たしか、高校の教科書で読んだ記憶がある。

中国に帰国したあと、魯迅は、「阿Q正伝」などの傑作を残し、ノーベル文学賞の候補にも挙がるほどであった。藤野厳九郎は、仙台医専を去り、生まれ故郷であるあわら市に帰り、開業医として晩年はすごした。

 驚いたことに、中国でも「藤野先生」は中学校の教科書に掲載されていたことから、ほとんどの中国人が承知し、日本でも一部の高校の教科書にあることから、かなりの人によく知られている。魯迅の故郷浙江省紹興市と藤野厳九郎の故郷あわら市が姉妹都市であったことから、藤野先生の旧居が芦原温泉に移築された模様である。

 

 出張中の慌ただしいさなか、ふと高校時代の「藤野先生」を読んだ時の懐かしさがよみがえってきた。(了)


コロンボ空爆の記憶とその後

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

スリランカテレコム滞在中に年配の一人の職員で、「日本軍のコロンボ空爆の記憶が残っている」という人物がいた。太平洋戦争でまさかセイロン島まで空爆か?と思うかもしれないが、1942年、南雲艦隊により、当時、首都であったコロンボと東部の軍港トリンコマリーが空爆されたのだ。

問題はその後だ。戦時中の空爆の被害のため出席し、1951年に戦後処理で開かれたサンフランシスコ講和条約で、日本4分割案を断念させたジャヤワルダナ氏(当時蔵相、のちに大統領)の存在とその有名な演説である。

日本4分割案とは、北海道と東北をソ連、関東と中部の一部を米国、四国を中華民国、中国と九州を分割統治しようとするものだった。

ジャヤワルダナ氏の演説の骨子は「セイロンは幸い日本による侵略を受けなかったが、日本軍の東南アジアでの軍隊の駐留、天然ゴムの採取など確かに賠償を受ける資格はあるが、これを請求しない。・・・過去、アジア諸国のなかで、日本だけが強力で自由だ。・・・我々は日本を尊敬してきたし、これから復興を目指す日本に対し何等の賠償を請求しない。」そして、「憎しみは憎しみによって止まず、愛によって止む」という仏陀の言葉を引用している。

日本が分割されようとしながら、分割されなかったという事実、サンフランシスコ講和条約で日本を卓越した演説で擁護した人物がいたということは承知していたが、具体的に「ジャヤワルダナ」氏という名は、長い間、自分の頭の中にはなかった。しかし、ある時、記念碑が建っている、鎌倉の大仏、長野の善光寺、八王子の雲龍寺のどこだか定かではないが、初めてその名をガイドの説明で知った。

同様、スリランカ以上に被害を受けたにもかかわらず、賠償請求をしなかった人々としては、中国の蒋介石、周恩来らがいた。彼らに共通したことは、親日的で、若い時に日本に留学経験があることだ。蒋介石は陸軍士官学校、周恩来は明治大学である。

さらに、もっと精神的ともいうべき共通点は、日本をこよなく愛した「孫文」という師を持っていたことによる。ジャヤワルダナ氏自身、同じく来日し親日的な「ダルマパーラ」という、尊敬する先生がいたことである。これらの多くの影響力のある要人による日本の「味方」のおかげで今日の日本の平和と繁栄があるということを忘れてはならない。

「やられたら、やりかえす」ということであれば、いつまでたっても、世界から戦争はなくならない。同時に分割統治された日本を想像するだけで心が凍る思いである。(了)


ウバ茶と仁多米の関係

 

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

え?ウバ茶と仁多米とどんな関係があるの?皆そう思うに違いない。自分にとってはかなりの相似性がうかがえる。一言で言うと「ドアを開くなり、持ってきましたよ」と中年のおじさん(別人)が大きな布袋を小脇に抱えて運んできたのが、ウバ茶であり、仁多米なのである。

ウバ茶と仁多米、知る人ぞ知る逸品である。ウバはスリランカが世界に誇る逸品の紅茶である。世界三大紅茶は、ダージリン、ウバ、キーマンで個人的にはストレートで飲めるダージリンが好きだが、ミルクを入れて楽しむウバも捨てがたい。先刻ご承知だと思うが、ダージリンはインド、ウバはスリランカ、キーマンは中国産である。

ウバは独特のメントールの香りがして、若干の渋みがある。そのため、ミルクを入れるとまろやかになる。ウバ地方はスリランカ島の南東部標高1,800メートルの高地である。寒暖の差が激しく、よく霧が発生する。スリランカ滞在中、ウバ地方通信部の会計課長と会食していた時、一度ウバ茶を試してみたいと話していたら、しばらくたったある日、突然「持ってきましたよ」ということで、袋を小脇に抱え部屋に入ってきたのだ。その光景がどういうわけか脳裏に残っている。それが、世に言う「デジャブ」(既視感)である。

そう、同じ事象を、島根通信部会計課でいち早く体験したのだ。会計監査で管内の拠点を巡るが、C局の仁多電報電話局を訪問の際、局長に「仁多米ってうまいんだってね」と話しかけた。広島市内繁華街のすし屋のシャリは全部仁多米だと聞いていたからだ。

仁多地方も島根県内陸部の盆地で、標高も平均400メートルほどで、ここでも寒暖の差が激しい。品種的にはコシヒカリであるが、環境条件が魚沼以上で非常に高い品質評価を得ている。「東の魚沼コシヒカリ、西の仁多米」と言われているそうだ。

仁多の電報電話局長が、これも予告なしに「持ってきましたよ」とドアを開いて大きな米袋を運んできた。ウバといい、仁多といい、事務所のあるコロンボや松江から遠く離れているにも関わらず、会計課長といい、仁多の局長が「えっさほいさ」と運んできてくれたのだ。

スリランカの場合はCFO(最高財務責任者)室、島根は会計課の人数でそれぞれ小分けして楽しんだ。スリランカは紅茶王国とはいえ、普段、庶民が飲んでいるのは、ダストといわれる、くずの紅茶で、みっちり砂糖とミルクを入れないと苦くて飲めない代物。島根通信部会計課の連中も、まさか、仁多米を普段から食しているとは思えない。

ウバ地区の会計課長と仁多の電報電話局長が同じように、突然、予告なしに「持ってきましたよ」と大きな布袋を抱えて部屋に入ってきた光景は、未だに目に焼き付いて離れない。わが人生にとって遠い日の心和むいい話である。(了)


欧米女性の社交性

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

先日、山手線に乗っていたら、5~6人の欧米系とおぼしき男女が座っていた。うち一人は青い目の超美人。私の姿を見るや否や、目くばせで、座れという。私が「I am young」と即座に断った。それからしばらく動いて、別の席が空いたので、そこにすわったら、また目と目が合ったので、「Thank you!」と口に出した。そしたら、相手も「にこにこ」とうなずいた。

普通、超美人だと、国を問わず、「つんつん」が多いのだが、例外もあるのだとほっとした。席を譲るといえば、少し前の韓国旅行の際、地下鉄で青年に席を譲られた。儒教の国でさもありなんとおもわれるが、今の日本では到底あり得ないこと。朝夕の通勤列車は、スマホに見入る人間ばかりで、一瞥だにしない。

アメリカ留学時代、カリフォルニアの「金持ちのお坊ちゃん、お嬢さん」大学だったせいか、陽気でまことに明るい校風で、廊下や階段ですれ違う時、かわいい大学生の女子がにこっと微笑む。別に気があるせいではなく、軽いあいさつ代わりなのだ。エレベータでも必ずや「おはよう」は必ず耳に入る。日本の場合はみなむすっとして沈黙が支配している。

タヒチに夫婦で行った際、気象状態が悪く、予定の島でなく、別の島に寄り道を余儀なくされた。たまたま、パリから来た2人の若い女性客と同席した。浄水装置のエンジニアで、巧みな英語を話す。食事の間中、雨水をためて飲料水にするという島の上水道の問題点や、我々夫婦の旅行目的である「ヒバオワ島でのゴーギャンの墓参り」にちなんで「喜びの家」のエピソードを詳しく解説してくれた。たしかに、社会性に富んだ若いエンジニアということもあったろうが、「そらさない」。

総じて欧米の女性の社交性には感心する。生まれてこの方の環境のせいなのか?日本人の男の自分としては、さりげない会話することが出来るそのつかの間の時間を楽しんでいる。(了)


フェードルを観て

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

大竹しのぶ”の「フェードル」を観た。元々はギリシャ悲劇であるが、フランスの作家、ジャン・ラシーヌの作で、今までサラ・ベルナール等著名な女優が演じてきた名作である。

自分はかつてギリシャ政府の顧問を2年ばかりしてきて、まがりなりとも土地勘もあるので、普通のひとより身近に感ずるのかもしれない。

一言で述べれば、アテネ王テゼの後妻であるフェードルと義理の息子イッポリットとの近親愛の物語。

フェードルそのものは、クレタの王ミノスと太陽神“ヘリオス”の娘パジフェの間の子である。ギリシャもローマも神話の神々は読み方がいろいろある。まず、ミノスという男性名は、クレタでは、ごくありふれた名前で日本だとさしずめ“太郎”さんというところだろうか?ギリシャ政府の顧問の時、ヨーロッパビジネスの進め方の師であったのが、クレタ出身の元ギリシャ中央銀行総裁ミノス・ゾンバナキスさんで、英国に帰化していた。風貌はさしずめ映画「戦場にかける橋」に出演していたアレック・ギネスを彷彿とさせていた。実は、クレタは古くからのミノア文明があり、姓にも特徴があって、例えば、ゾンバナキスさんのように、末尾がISで終わる場合が多い。ヘリオスというのはむしろ「アポロ」という名の太陽神のほうが通りやすいだろう。

ミノス王も全能の神ジュピターとエウローペの間の子で、エウローペとはヨーロッパの語源となった女神である。フェードルはイッポリットに告白するも、当のイッポリットは、フェードルは眼中になく、心中にあるのは、テゼに反逆したアテネ王族の娘アリシーである。しかるに、ことは面倒になる。

還暦を迎えようという年齢の女優・大竹しのぶは若い!舞台狭しと動き回る。カーテンコールで舞台前面に出たと思えば、挨拶後、走って奥に引っ込む。日頃のフィジカルな訓練が足りているのではないか?“大竹しのぶ”のフェードルである。つとに主役がすべてである。

反骨の先祖を持ち、天才の名をほしいままにしている大竹しのぶ、仕事はひっきりなしに来る。これからも元気な姿を見せ続けるだろう。(了)


ロンドン漱石記念館

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

1984年に設立された「ロンドン漱石記念館」は残念ながら2016年9月末をもって閉館となった。5回下宿を変わった漱石だが、最後の下宿ザ・チェイスの向かい側に設立された記念館を、かつて訪れたことがある。創設者は、「こちらロンドン漱石記念館」の著者でもある恒松郁生さんである。

仕事柄、松山にはしばしば訪れるが、ここには、ご存知「坊ちゃん」の舞台となり、漱石の赴任先である旧制松山中学の跡地がある。この地には、なんと、NTT西日本事業本部と愛媛支店のビルがある。ところが、それ以外で漱石にちなんだものは。ほとんどなきに等しい。あえて言えば、下宿としていた「愚蛇仏庵」くらいか。たとえば、“松山・漱石記念館”なる物はどこを探しても無いのだ。

漱石は1893年(明治26年)東京帝国大学を卒業後、高等師範学校の英語教師となるが、2年後、旧制松山中学(現・松山東高校)に赴任する。わずか1年で熊本の第5高等学校に転任、そして、1900年(明治33年)から2年間文部省からイギリス留学を命ぜられる。これが、ゆくゆくは、ロンドン漱石記念館につながっていくわけであるが、話を松山に再び戻そう。

松山は、なんといっても漱石より俳句の「正岡子規」なのである。司馬遼太郎の「坂の上の雲」で一躍世に知られたのが、正岡子規、帝国陸海軍の基礎を築いた、秋山好古、正之兄弟であり、今はそれに因んだ「坂の上の雲ミュージアム」なるものもある。松山は「俳句王国」であり、NHKで同名の番組も流されている。松山には当然のごとく「松山市立子規記念館」もしっかりと存在する。

かくして、ロンドンという異国の地で「漱石記念館」があったのは、不思議ともいうべきだった。ロンドンの漱石は神経衰弱に悩まされ続け、大学の講義は受けずに、シェイクスピアの研究家を家庭教師として雇ったり、滞在中、800冊以上の本を買いこんで読んでいた。

ロンドン見物としては、倫敦塔を一度だけ訪れ、その名も「倫敦塔」という小品をものにしているが、文中、倫敦塔を見事に数行で表現している「倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。・・・すべてを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂い来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して、馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。」古代とは言わないまでも、実際訪れてみると、中世にタイムスリップした感があるのは事実だ。

もう一つの作品は「虞美人草」である。留学時、漱石は、1900年に開催されたパリ万国博を訪れたが、その後、1907年(明治40年)に開催された東京勧業博覧会を舞台とした「虞美人草」を著している。パリ万博を訪れた時の衝撃が作品のきっかけとなったと言われている。

松山という地方都市での大都会東京との違和感、当時世界の中心ともいうべきロンドンとアジアの新興国日本との違いなど、細い神経ながら、案外ちゃっかり作品に残しているのが夏目漱石なのだ。(了)

 

(追伸)

本日(5月9日)の日経新聞にびっくりするニュースが載っていた。「ロンドン漱石記念館」が来夏に再オープンするという。研究者やファンからの要望で、館長の恒松郁夫さんが、ロンドン南部の恒松さんの自宅に展示スペースを設け、再開することとなった。


麗(うるわし)のスリランカ

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

 かつて、スリランカに2年滞在した。映画タイタニックで、伝説のブルーダイヤモンド「ハート・オブ・ジ・オーシャン」が出てきたが、あれは、スリランカ産のブルーサファイアが本当のところで、宝石商を営むモズレム(イスラム教徒)からの借り物だった。スリランカと言えば、①宝石②紅茶である。

 ゴルフなど一切やらずに、毎週土曜日には妻と宝石商を巡った、というより、なじみの宝石屋に入りびたりであった。合計35個の宝石を帰国するまでに求めたが、スリランカは世界で第4位の宝石産出国で、一言でいうと、ダイヤモンド、エメラルド以外は全部出る。日本人は異常にダイヤモンドに執着するが、少し視点をずらせば、多彩な宝石類を楽しめる。ご承知のとおり、硬度7以上が貴石で、ダイヤモンド、ルビー、サファイアで、スリランカは上質のサファイアを多く産出するが、ブルー、ピンク、イエロー、ホワイトなど実に多彩だ。ホワイトは、見た目はガラスの破片と見間違う。ガーネットやキャッツアイもよいのがあるが、ルビーはどうも近隣のミャンマーやインドには負けるかもしれない。硬度6以下の半貴石が面白い。アメジスト、スピネル、ムーンストーンなど実に美しい。最後には宝石を見ただけで、何カラットでいくらと言い当てられるようになった。

 紅茶も世界3大紅茶、ダージリン(インド)、キーマン(中国)と並んで、ウバを栽培している。金・銀色に輝いていて見て楽しむ、ゴールデンチップやシルバーチップはさておき、産地ごとにヌワラエリア、キャンディー、ルフヌ、ディンブラもあり微妙に味が異なる。かつて、イギリスの植民地であったが、現在、1日に7回もイギリス人に紅茶を嗜む文化をもたらしたのだ。日本に聴き茶の文化もあるが、かつて製茶工場に赴き、50種類くらいの紅茶を試したが、素人の舌には判別が難しい。

 かつて、スリランカは“セレンディブ”と呼ばれた。古いペルシャの寓話のなかに、「セレンディブと3人の王子」の物語があり、旅の中で「予期せず素晴らしいものに出会う」わけだが、そこから、そういうものに出会う才能を「セレンディピティ」と言われる言葉が生まれた。アラビアンナイトのなかで、シンドバットが最初に上陸したのが、セレンディブで物珍しい素晴らしいものがあふれていることが当時のアラビアの世界ですでに知られていたに違いない。

 「セレンディピティと近代医学」-独創、偶然、発見の100年―という書物が最近発刊されたが、医学の世界でも、偶然の発見で人類に貢献してきたペニシリン、ストレプトマイシンなど枚挙にいとまがない。親戚に医者がいて、戦前、国民病と言われた「結核菌」をシャーレで培養していた時、なぜかカビで結核菌が崩れる現象が起きたが、「化学」の知識があれば、ストレプトマイシンを発見できたのにと残念がっていたのを思い出す。

「麗(うるわし)のスリランカ」を想起するたび、様々な不思議を思い浮かべて楽しい。(了)


AIの進歩と2001年宇宙の旅

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

AIの進歩は、著しい。人工知能と訳されるが、今や単なる暗記からひらめきまでの能力を持つものの開発段階に入ったと言われている。ここで思い出すのが「2001年宇宙の旅」に登場するコンピュータのHALである。映画でもその悪役ぶりはいかんなく発揮されているが、HALはいわば、宇宙船全体のオペレーションの監視役のAIである。しかし、とうとう最後は人間に悪さを始める。言い換えれば、人間がAIというものを駆使したつもりがいつの間にかAIが人間をコントロールしかねないほど発達してしまうという警告を3大SF作者の一人アーサー・C・クラークは発したかったのではないか。「2001年宇宙の旅」は実は映画の方が早く完成した。それが1968年だったが、今、改めて映画を見ても作者とキューブリックという映画監督の先見性に驚かされる。

HALという名前だが、映画製作に全面協力したIBMのIをH、BをA,MをLとアルファベットを1字ずつ前にずらして命名したようだが、作者は頑固に最後まで否定したという逸話が残っている。

アーサー・C・クラークとは、スリランカ滞在中に親交があった。3Sという、Sea, Serendive, Space(海、スリランカ、宇宙)という3つのものをこよなく愛し、90歳で死ぬまでかの島を離れようとはしなかった。しばしば講演も聞いたが、いつもソ連が1957年に打ち上げた人工衛星スプートニク1号のレプリカを片手にもっていた。その頃は、多大の功績にも関わらず、CBE(大英帝国勲章)しか授与されていなかったが、最終的にはサーの称号を得ている。「宇宙の旅」のアイデアは、もともと、ソ連邦の科学者・ツィオルコフスキー(1857年~1935年)がすでに持ちあわせていて、次のような「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう」という名言を吐いている。スピートニク1号は、彼の生誕100年と国際地球観測年に合わせて打ち上げられたものだが、米ソの宇宙開発競争は圧倒的なソ連リードで始まったのだ。

会社の応接室には、自分と並んで映ったアーサー・C・クラークの写真と手紙が飾ってある。それをお客さんに説明するごとに、AIの急速な進歩をすでに予言していたアーサー・C・クラークの想像力に頭が下がるばかりだ。(了)


サンパウロの運動会

日本ベンダーネット社長 エッセイスト 田上 智

 

日経新聞に「日系移民史 新たな視座」という記事が載っていた。従来の公文書だけでなく、スポーツや映画などの観点から移民社会を描こうとする試みがされているという。

かつて、テレビ朝日・ニュースステーションでブラジル・サンパウロ州の日系移民を取材したことがある。

広島や沖縄からの移住者が多いブラジル日系人社会だが、そこで、沖縄県人会の運動会に参加し、200メートルを疾走したのだ。いやそのつもりだった。陸上はかつて中学で陸上部に属し、文京区の大会に出場、国立競技場で走った経験があったが、取材時すでに49歳、疾走のつもりが緩走で終わった。

移民とは自身関係が深い。広島出身の曾祖父がアメリカ移民、祖父がペルー移民であった。父は職業軍人で大陸を転戦。私自身は、NTTをはじめ、国際部門で投資を業としていた。その他48か国を訪問、アフリカ、アメリカ、ギリシャ、スリランカ、タイなどに長期滞在もした。

日本人のグローバル化のステップである、(1)移民(2)戦争(3)国際ビジネスという典型的なステージを踏んでいる。

ニュースステーションでは、「ブラジルに渡った隠れキリシタン」というタイトルの元、隠れキリシタンの子孫で、ブラジル下院議員になった「平田 進(ひらた すすむ)」に焦点を当てた。自分とは、遠い親戚筋にあたる。そこで、3週間にわたって、サンパウロ州で取材したが、大学時代には「海外移住研究会」に属し、真剣に南米行きを考えていた。

海外渡航解禁の1866年から150年あまり、日本からの海外移住者とその子孫は、約250万人、うちブラジルでは、160万人となっている。日本から持ち込まれた「運動会」という文化は、記事によると、最初陸上だけだったのが、今や、卓球や柔道などに広がりを見せている。今回のリオ・オリンピックでは、確かにお家芸的な柔道は圧倒的な力を見せたし、卓球も復活をうかがわせた。サンパウロ取材時も、大学の先輩で、ミュンヘンオリンピックで銅メダルを獲得した日系一世にお目にかかった。移民船で港町サントスに上陸、収容所などで苦労をなめたが、商売で成功をおさめていた。

サンパウロ・沖縄県人会の運動会で走ってからはや20年、一緒にトラックを一周した日系人は今、どうしているだろうか?(了)


 

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