海外便り Letters from Overseas

 

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2024.2.24会報No.112 NEW!

やどかり族の中国俳柳紀行序章(7) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

8月17日(土)

午前8時、ドラの音とともに仙娜号(Princess Sheena)は出航した。今日から3泊4日、武漢まで長江(揚子江)の長い船旅が始まる。仙娜号は1992年ドイツ建造、5,936総トン、134室、258人乗りの豪華客船であり、三度の食事は船内ビュッフェで世界中の料理を堪能できる。また、時々キャビンを出てはルーフデッキに上がり、大河を行き交う大小の船や、大陸の田園風景の移り行く様を眺め興ずることもできる。なんとも贅沢で優雅な旅である。

午後、豊都(Feng Du)で上陸、小高い山の上にある‘The Ghost City’をグループになって見物に行く。ロープウェイで上ると寺があり、その周囲に勧善懲悪を諭すいろいろな幽霊のディスプレイがある。それらをガイドの案内で見て回る仕掛けになっている。いわゆる典型的な観光地のワンスナップに付き合う。

 

8月18日(日)

2日目の午前9時頃、三国時代蜀の劉備が呉との戦いに敗れ逃げ込んだという白帝城の先、「瞿塘峡(Qu Tang Xia)」に差し掛かる。岩壁に穴を開けて棺を埋葬した跡が絶壁の所々に見られる。その風箱峡を通り過ぎ、巫山(Wu Shan)で40人乗り位の底の浅い小型船に乗り換え、大寧河の小三峡に入る。この船はエンジン駆動であるが、その馬力だけでは急流を遡ることができず、ときどき長い竹竿を持った船頭が二人がかりで渾身の力をこめて船を押し上げる。河辺で水浴をしている子供たちもいる。しかし彼等の多くは、手にした水晶玉のようなきれいな玉を船客に売りつけようと流れを泳いでくる。よく観察していると、中には商品の玉を見せびらかし代金だけ奪って船をやり過ごす悪質な子供もいる。休憩上陸した停泊地で家内と二人だけ先に船に戻ってくると、スイカをうまそうに食べていた船頭たちが、しきりに我々にも食べないかと勧める。さすが中国も奥地まで来れば心優しい人々がいるものだと感心していると、かわりにカネをくれと言い出す。もともと衛生状態も判らぬところで切ってきたスイカ、いただく気などさらさらないので無視していると、今度は石の玉や古銭等を持ち出してきて買わないかと催促する始末。一見純朴そうな人々も一皮むけばお金目当てで、見てはいけないものを見てしまったような気がした。

小三峡から戻り第2峡「巫峡(Wu Xia)」へ入る。この辺りは2000m級の山々が両岸に連なり、全長44㎞の水路も絶壁に囲まれて幅が狭い。夕焼け空をバックに連山と往来する船のシルエットが美しい。思わず写真を撮りまくる。

 

8月19日(月)

3日目早朝、第3峡「西陵峡(Xi Ling Xia)」を通過する。入口近くに屈原の故郷、その先に王昭君の故郷がある。この渓谷は全長75㎞と長いが、その出口に今話題の「三峡ダム」工事現場があった。すでに山を崩し、岩石を運ぶダンプカーが列をなして往復し、大規模な工事が進行中である。1997年の秋には長江の本流を堰き止め、本格的なダム工事に入るという。これにより多くの史跡・名勝も水没すると聞いているが、小三峡で見てきた岩壁の水面と並行して開けられた小さな四角い穴、これはその穴に横木を差し込んで通路をこしらえた跡であるが、この水上に出っ張る細い道を通って行き来した山奥の人々の知恵の跡も、すべて水位上昇とともに視界から消えることになる。

水位20~30mを調節し、長江を往来する船の交通整理をしてきたのが葛州覇(Ge Zhou Ba)堰である。大変興味があったので水門の開閉、船の出入りの一部始終を仙娜号のデッキから観察した。原理は浮きドックと同じ、ここでは一度に大小10隻位の船をドックに入れて上下に運ぶ。ドック内への水の出し入れに時間を要し、通行に30分以上もかかるのが難である。

 

沙市(Sha Shi)で上陸、バスで江陵の博物館へ行く。ここで楚時代の音楽実演を観賞、次いで荊州古城を訪れる。矛盾の語源にもなった矛があったり、諸々の展示物で関羽の名が見られるなど、三国から戦国時代に亘る歴史観光巡りとなった。山口県庁から水利調査のため当地に来て、たまたま仙娜号に同乗していた7人組の一人は、新知事就任式に出席しなければとここから上海に飛び、さらに香港経由で日本に帰ることになった。こういう話を聞くと折角の桃源郷から急にうつせみの世に引き戻されてしまう。

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2023.11.27会報No.111

やどかり族の中国俳柳紀行序章(6) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

8月14日(水)

楽山からデラックスバスで、とは言っても普通のバスに毛の生えた程度の、時々床から水が溢れ出てくる如何にも今の中国らしいバスであった。約4時間、再び成都に来る。前と同じYINHE DYNASTY HOTELで旅装を解き、さっそく五代十国動乱期に前蜀を打ち立てた王建の墓を訪れる。こじんまりした墳墓内の陳列品は、それなりに歴史的遺物として価値あるものと思われるが、すっかり「成都の茶」の虜になった我々は、奥まった庭園の木陰に例の竹製のテーブルとイスを引っ張り出し、自然のティールームを心ゆくまで愉しむことにした。ここは受付で茶葉の入った湯飲み茶碗と、湯の入ったポットを貰って好きな場所に行き、セルフサービスで勝手に純喫茶するシステムであった。のんびり時の経つのを忘れていると、閉園時間の午後5時が近づいていた。そのままホテルに戻る。

 

8月15日(木)

ホテルから約2.5㎞歩いて武侯祠に行く。武侯とは諸葛亮の諡号、ここには主君劉備とともに蜀漢時代の逸材が顕彰されている。まさに三国志の世界である。成都を離れる前の一仕事を終えてホテルをチェックアウト。YINHE DYNASTY HOTELから直接空港まで行かず、まずタクシーで岷山飯店まで21元、そこからミニバスに乗り換えればあとは5元/人で済む。通しでハイヤーを使うと20~30倍は掛かるだろう。熟年やどかり族のゲルピン旅行はきめ細かく行かにゃならぬ。成都発14:30、重慶着15:30(SZ4422便)で同じ四川省内を移動する。ところが搭乗手続きを済ませ指定された待合室で待っていると、本便はエンジントラブルにより出発が遅れるとのアナウンスがあった。30分、1時間待っても一向に飛び立つ気配がない。当初50~60人もいたはずの旅客がだんだんと姿を消し、待合室の中は大分寂しくなってきた。日本人も何人かいたが、今残っているのは大阪から来た年配のお医者さんと我々だけになった。彼はときどき単独で中国内を旅行した経験を有する人で、「中国では予定した飛行機が遅延し欠航することはよくある。特に乗客の少ない時はエンジントラブルと称して急にフライトをキャンセルすることがある」と言う。今回の場合も修理が終わるのは明朝になるかもしれないから、そろそろ食料を確保して空港で一夜を明かすことも覚悟せねばなるまいと脅かされる。そう云えば待合室にはもう数人しかおらず、その内の中国人家族はカップラーメンを買い込んで腹ごしらえをし始めた。その少し前には航空公司の小姐が水ボトルを配りに来たので、出発遅延のお詫びの印にしては少々お粗末ではないかと囁きながら、我々も一本ずつ貰ったばかりである。重慶のホテル代は払い込み済みだが、これは諦めるにしても、明晩は三峡下りのため乗船しなければならない。ままよ明日中に重慶に着けばよいではないかと思いながら、つのりくる不安に我慢できず、しばしば空港インフォメーションカウンターに飛行見通しを尋ねる。最初のうちは何時飛行可能になるか分からないの一点張りで、急ぐ場合は成都市街に戻りバスで行ってくれ、そうすれば重慶まで4時間で行けると言う。私の知るところでは、成都・重慶間は約250㎞、列車で10時間、バスだとまともな道路がないのでそれ以上の時間が掛かると認識していた。カウンター嬢の言には狐につままれた思いが強く、なかなか搭乗キャンセル・預け荷物返還・バス手配の行動を起こさせるまでにはならなかった。それにカウンター嬢が午後6時頃航空公司から公式見解が出る予定と言うので、大阪の産業医とも相談しそれを待ってみることにした。その時刻になり窓口に押しかけると、丁度今SZ4422便はエンジンの修理が終わり飛行できる状態になったという。重慶行きのお客さんは至急搭乗口に集まれとアナウンスがある。待合室にいた中国人家族は食いかけのカップラーメンを手に持ったまますっ飛んで来た。それでも実際に搭乗した客は20人もいなかったであろう。多くの搭乗予定者はほとんどバスの方に回っていたらしい。後で分かったことだが、成都・重慶間にはすでに高速道路ができており、バス変更組はカウンター嬢が言った通り確かに4時間で重慶に行けたそうだ。ただ、空港・バスセンター間のアクセスや手続き・待ち合わせ時間も入れると、重慶のHOLIDAY INN HOTELに着いたのは夜の10時頃と我々の到着よりも一寸遅い時間になる。それにしても噂に聞いていた中国航空事情の実態に触れ、貴重な体験をさせていただいた次第である。4時間待たされて我々が乗った60人乗りロシア製中型機の右エンジンを見ると、黒い煤が付いたままであった。すっかり話友達になった大阪のお医者さんが、今回の中国旅行でこの区間だけ何故か生命保険料込みの航空券になっていると述懐していたのが印象的であった。

すっかり暗くなった飛行場から民航バスで一旦重慶市街まで行き、そこから再びタクシーで長江大橋を渡ってホテルに着いたのは午後9時頃、自分たちで担いでもよかったバッグをボーイが運んでくれたので1元渡したらムッとされた。チップが少なすぎたのであろう。誰がしつけたのか知らないが悪い習慣である。

 

8月16日(金)

この日、大足まで足を伸ばして釈迦涅槃像でも見に行こうか考えていたが、朝のスタート時間が遅くなり、かつ170㎞も走ってくれるタクシーが捕まらず、方針を変えて丸一日重慶市内を探索することにした。日中戦争当時はここが国民党政府の臨時首都で、革命後の発展によって今では四川省の省都である成都を凌ぐ大工業都市になり、かつ中国政府直轄市の一つでもある。揚子江(長江)の上流、三峡下りの起点に当たり水運の要衝でもある。町中は坂が多く自転車は少ない。とは言え市街中心部は人口密集地帯で、人混みの雑踏にもまれながら解放碑、朝天門埠頭など今夜から乗船する三峡下りへの下見をかねて逍遥する。

次にミニバスと徒歩で、日中戦争の頃、中国共産党中央南方局と八路軍事務所の職員住居であった曽家岩50号を訪れる。周恩来が起居し毛沢東も出入りした場所である。嘉陵江に面した裏口からは対岸の赤茶けた製鉄所の全景が見える。重慶といえば中国三大火炉の一つと言われるくらい暑い。じっとしていても汗が湧き出てくる。後で確かめたらその日の最高気温は摂氏38度、とにかく外を歩き回るのは身体にこたえる。

郊外にある紅岩村に行く。重慶に国民党政府の臨時首都があった頃、ここが中国共産党の代表部でもあった。小高い丘のあちこちに革命博物館や、毛沢東・周恩来・葉剣英等ゆかりの建物が点在する。彼等はこの鄙びた場所で合宿生活を送り、日本軍の爆撃を避けながら国民党との会談を行なった。建物の中には執務室・寝室・医療室・無線室などがあり、当時の緊迫した様子が偲ばれる。博物館には抗日運動と革命の歴史が克明に展示され、50年以上も前の出来事をしっかり国民の心に植え付ける愛国教育の基地にもなっている。

二両連結の公共バスに乗って再び市街へ戻り、1953年建築の人民大礼堂に立ち寄る。遠くからも彩色鮮やかな天壇がひときわ大きく目に入る。堂内は全体主義国家に相応しい劇場型空間があるだけだ。人気の無いホールで共産党の大集会を夢想しながら一休みする。

疲れた足に気合を入れ、途中、露店でリンゴを買ったりしてぶらぶらと枇杷山公園まで歩く。そこからタクシーでホテルに帰ったが、タクシーは渋滞に巻き込まれヒートオーバー、ボンネットから白煙を濛々と出す始末、順調に行けば5分のところを30分以上かかった。おまけに運賃請求はメーターでは9元なのに20元よこせと言い張る。毅然とはねのけ1元チップで10元だけ払う。

夜8時ホテルロビーで待ち合わせの旅行社の人がなかなか現れない。我々を三峡下りの船着き場まで連れて行ってくれるはずだ。30分待っても来ないのでホテル従業員の手を煩わせて旅行社事務所へ電話をかける。すると、これから出るのでもう10分待ってくれと言う。ところが9時になっても未だ来ない。どうにでもなれといい加減諦めていると、9時半頃になってようやく旅行社の女性が現れた。彼女はあまり悪びれた様子もなく、これからタクシーで船着き場まで案内すると言う。ホテルから乗船までの出迎えサービス料として、すでに香港で250HK$を支払い済みである。きっとベンツかロールスロイスで迎えに来てくれるであろうと淡い期待を抱いていた。タクシーで行き着いた先は真っ暗闇の工事現場のような所、船までの僅かな距離を、荷物担ぎのチップ狙いに集まった風体のよくない連中に取り囲まれる。「不要!不要!」を連発しながら彼等を払いのけ、ごろごろした岩場の足元に注意しながら彼女の誘導で船に乗り込む。場所は今朝下見した朝天門埠頭ではなく、スクラップ置き場みたいなスラム街に近い川岸であった。家内とはこんな筈じゃなかったと口喧嘩に発展、狭いキャビンでやけビールを飲み早々とベッドにもぐりこむ。とんだ一日が終わり船内での前泊となる。なお、これらの行き違いを香港に帰ってからAssociated Tours Ltd.の鈴木さんに報告したら、送迎料250HK$を丸々返してくれた。旅行エージェントのプロとしての矜持からであろう。

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2023.9.21会報No.110

やどかり族の中国俳柳紀行序章(5) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

8月13日(火)

午前4時過ぎに起きて御来光を拝みに行く。これを見なければ峨眉山頂上に泊った意味がない。セーターの上にウィンドブレーカーをまとい完全武装、まだ真っ暗な中を出かける。カメラ・ポジションをどこにするかは昨日の下調べで決めている。五時近く東の空が白んできたかと見る間に、遠く雲海の彼方が赤みを帯びてきた。白い雲が紅に染まり、その先が一瞬真紅に輝くや否や黄金色の太陽が顔を出してきた。広場にはいつの間にか大勢の人が集まり、彼等から歓声が沸き上がる。辺りの草木はまだ影絵の世界だ。このコントラストが感無量である。

今いる場所は標高3000m、真夏とはいえ日出の頃は冷気を感じる。大勢人が集まるところ即ち商魂あり。峨眉山名物の猿を引き連れて観光客に写真を撮らせて商売をする人がいる。この猿が面白い。普通の猿には違いないのだが、ここは中国、孫悟空の末裔に当たる彼等は頭部を中心に金色スプレーで化粧し、金箔猿に仕立て上げられている。それが猿回しの号令で滑稽なポーズをとり、観客に愛嬌を振りまく。中には金粉が剥げて斑となった安物芸者のエテ公もいる。我々はさっそく彼等に「茶髪猿」のニックネームを付けて密かに楽しんだ。ところで後日談となるが、このエテ公と観客をシルエットにした御来光を撮影し、香港日本人倶楽部の写真コンテストに応募したが当然ながら落選。香港における我が写真の師と仰ぐ宮島武二氏からは「フラッシュを効かせ、猿に焦点を当てた写真にすべき」とのアドバイスを頂いた。道中携えてきた三脚を使用したのが、今回の長途でこの峨眉山頂上だけとは、まだまだ修行が足りぬと悟る。ともあれ三脚には出番のないとんだ中国旅行をさせてしまったものである。

いよいよ下山、上りの時の乗り物をそのまま逆に辿ることにした。ロープウェイを降りた先から徒歩で山道を下れば、途中野生の猿にも巡り遭えて面白いとガイドブックにはいとも安易に書いてある。これに乗ったら大変なことになっていた。後で分かったことだが、父親と叔父(ともに50歳代)を連れて沖縄から来た青年の三人組は、ここを歩いて下りたため難航苦行の連続で一日がかりの仕事になった由。おまけに年配の二人は足を痛めたと見え、杖を頼りの旅になっていた。一方、体調不十分な我々は客引きに勤しむミニバスに我慢しつつも一気に山を下る。

遠ざかる峨眉山、仙人が住むかもという夢は見事に消え去った。ミニバスとロープウェイで3000mの頂上までいとも簡単に行ける。この10年前に完成したロープウェイの支柱なき最後の500mを上るときの大パノラマは筆舌に尽くし難い。されど天下の名峰も今や俗物うごめく単なる聖山と化す。

麓の街、峨眉市のバスセンターまで来て、別のミニバスに乗り換え楽山へ向かう。このミニバスも例の客呼び込みバスである。しばらくすると満席になり発車した。我々の運賃は一人5元だというので、いわれた通り二人で10元払った。すると、すぐ脇にいた一人の中国青年が「高すぎる。4元/人ではないか」と言う。私は車掌に文句を言って、押し問答の末、渋る車掌から2元返して貰った。車掌は「お前が余計なことを言うから損したじゃないか」と青年を罵る。彼は珍しく英語を話した。私が車掌に向かって「だから中国人は信用できない」等、聞こえよがしに英語で喚いたのを耳にして、中国人としての誇りを傷つけられたのであろう。私たちの中国に対する印象を少しでもリカバリーしようと、今日の我々の予定を聞いては親切にアドバイスしてくれた。

雑踏の分かりにくいバスセンターからホテルまで、この青年の案内を頼りにタクシーで行った。彼にはチェックインの間中待ってもらい、せめて昼飯でも一緒にとりながら楽山の話を聞きたいと思った。彼は時間もないので昼飯は固辞したが近くの茶屋には付き合ってくれた。名は羅航と言い23歳の青年である。四川工業学院の電力学科から四川大学の本科に進み、卒業後今の電力会社で仕事をすることになったと言う。その日は峨眉の銀行に用事があって行き、帰りのミニバスで我々と出会った由。これから近くに住む家族とともに昼食をするからと、お茶だけ飲んで別れることにした。英語はまだダメと言いながらも、その律儀な態度と謙虚な話し方の中に、明日の中国を担う青年の姿を見つけることができ救われる思いがした。

羅航青年に言われた通りホテルの前からタクシーに乗り、楽山のシンボルである大仏見物に出かける。大仏がある凌雲寺入口で入場料一人20元を払って中へ入ろうとしたら、門番が「どこから来たのか」と尋ねるので「香港」と答える。すると彼は「それじゃ一人40元出せ」と言う。これらの会話は全て普通語でやり取りしたが、風体から何となく外国人だと見抜かれたようだ。「看板に外国人料金など書かれていないじゃないか」と食い下がり、「カネを取りたきゃちゃんと料金表に書いとけ」と罵声を浴びせる。中国入りして既に十日経ち、こっちも理不尽な外国人料金にはいい加減頭に来ていたので、ここを先途と大和魂でぶちかます。「それならもう入らない。さっき払ったカネは全部返せ」と啖呵を切る。こちらの毒気に相手はもうたじたじ、「それじゃ追加料金は不要、そのまま入場してもよい」というところまで来た。しかし私も日本男児、今さらおめおめ入場できるかと、払った全額を返して貰うやいなや今来た道をせっせと歩き始める。炎天下かなりの道のりではあったが、家内とともに意地を通した爽快感を噛みしめつつ、タクシー等の客引きの声には耳を貸さず自分の足で街中へ戻った。「楽山に入って、大仏を見ず」の一幕、彼等に外国人対応を誤らぬよう覚醒の一撃を下したかったからである。

翌日成都に戻るときの足は是非ともデラックスバスにしようと、その予約のために楽山入りした折のバスセンターまで行くことにした。このアイディアも羅航青年の薦めで切符の買い方まで詳しく教えて貰っていた。大した距離ではないと歩き出したのはいいが、なかなかそれらしい場所に辿り着かない。小一時間歩いたところで人に聞くと、どこで勘違いしたのか全く逆方向に歩いていた。戻るのも面倒くさい。それならいっそ近くのバス券発売所でも何とかなるだろうと尋ねて行くも取り扱っていないことがわかる。やむなくもと来た道を行き返し歩き始める。当初は、凌雲寺の切符売りを怒鳴りつけた勢いと、新しい町に対する興味もあってフットワークは軽快、だがもうすぐもうすぐと思いきや、なかなか目的地に達しないとなると疲れが一気に湧いてくる。そろそろ乗り物に乗ろうかという誘惑に負けそうになったその時、何という不思議な偶然であろうか、かの羅航青年にバッタリ出会ったのである。車の往来が激しい大通りを再び彼の案内で500mも行くと見覚えのあるバスセンターがあった。窓口で午前出発は一本しかない明朝八時半の便の予約を行う。定員47人の最後の2座席にかろうじてありついた。安堵の缶ジュースを飲みながらしばし羅航青年と再会を喜び合った。だが「凌雲寺の大仏はもう見に行かれましたか」と問うこの親切な中国青年に、まさか喧嘩して入ってこなかったとは言えず、「大変よかったです」と嘘をつく羽目になってしまった。

羅航青年と別れて、我々は人力三輪車に乗りホテルに戻ることにした。タクシーだと20元のところ車夫と交渉の末4元で行くことになった。自動車が激しく動く車道をのろのろと走る。また時には人混みに警笛を鳴らしながら堂々と行く。おまけに車夫は途中から河岸通りに出て楽山名所の案内を始める。我々が泊まるホテルは料金が高いので、もっと安くて便利なホテルに連れて行ってやろうと言う。話ついでかと思っていたら本当にそのホテルに横付けし、前のホテルから荷物を引き払ってこちらに移れと言い出す。もう前金も払ってそれはできないと言うと、それなら次に来たとき泊まることにして、今日はどうせ只だから見るだけでも見て行けと強引にロビーの中に案内される。ここのインテリアは素晴らしいだろう、壁の装飾もよいだろうと褒めちぎる始末である。この饒舌にして過剰親切な車夫のおかげで、時間の経つのも忘れ楽しい楽山見物ができた。

楽山では当地に来てから宿泊ホテルを決めた。一番高いホテルを目当てに来たのだが結果は正解であった。嘉州賓館というが、その中でも料金の高い部屋(ツイン一泊480元)を頼んだ。楽山は岷江・青衣江・大渡河という三つの河の合流地点にある。我々の部屋は大渡河に面した8階にあり、これらの河を見渡す広々とした立派な部屋であった。ここで長々と記してきた楽山物語のおちに入るが、実はこの部屋から凡そ1kmばかり離れて凌雲寺の大仏が丸見えだったのである。300㎜望遠レンズを通してしっかり眺め、写真も撮った。大渡河の瀬音を聴きながら、長い一日の疲れも忘れいつしか心地よい眠りについていた。

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2023.7.24会報No.109

やどかり族の中国俳柳紀行序章(4) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

8月11日(日)

成都市内の探検に繰り出す。まずは明日から出かける峨眉山行きバス予約のため、人民南路から錦江沿いに歩いて新南門バスセンターに行く。一仕事終えて気楽になり、そこから望江楼公園へは輪タクならぬバイタク(50ccバイク牽引の人力車)で向かう。人の良さそうな運チャンと交渉の結果、運賃は二人乗り5元、風を切りながらバスや自転車の錯綜する街路を走る。日曜日とあって公園内は人でごった返していたが、百数十種類のいろんな竹を植え込んだ園内は広く、望楼あり、餐庁・茶屋あり、遊戯施設ありと庶民が憩うには絶好の場所である。我々も竹林の一角に竹製のテーブルとイスを勝手に持ち出し、自然の野外喫茶を愉しむことにした。蓋付きの湯飲み茶碗にお茶葉を入れ、各テーブルを回りながらウェーターの爺様が、煤けたヤカンから熱い湯を注いでくれるのを待つ。時折そよ風が竹の葉を揺らし我々に涼感を恵んでくれる。あゝ何という風情だろう。まわりの人々は持ち込み自由の弁当を広げたり、麻雀に興じたり、それぞれ家族や仲間と思い思いの時間を好きなようにして過ごす。我々は「成都の茶」がすっかり気に入ってしまった。ヤカンの爺様が我々のテーブルに来ては湯を注ぐこと7、8回はあったろうか、その数も忘れてしまうほど長居をしてしまう。時間的には約2時間、ゆったりと避暑を兼ねた休憩を満喫する。私にとっては、このところ体調が優れず血便も出るくらいお腹を悪くしていた。従って日中の食事は果物とアメ程度に抑えていたが、この喫茶のお陰で快気快調に転ずることができた。

私にとっては何ものにも替え難いオアシスとなった望江楼公園を後にして、公共バスに乗り杜甫草堂を目指す。青羊宮行きのバスを途中で降り、百花潭公園を通り抜け市場や露店を覗きながら約半時歩く。安史の乱を逃れ760年から約4年間杜甫が住んだ成都、そこで彼が240余りの作詩をした場所がある。それが杜甫草堂で竹林に赤壁の小径、草蒸す白壁もある。緑なす池塘の東屋、折々に百花ありて、どこか京都の庭園を思い出させるものがある。広大な園内には観光客とおぼしき団体の群れが次から次と現れる。こうなっては一人思策に耽ることなどできない。あちこちでガイドによる日本語の説明も聞こえてくる。入園料外国人価格一人30元も高い、とにかく観光名所になり過ぎて面白くない。疲れた足を引きずって帰途につく。途中「成都の茶」が恋しくなって近くの茶屋に立寄り休憩、夕食は腹具合を案じホテルのレストランでうどんを特注する。

 

8月12日(月)

タクシーで新南門バスセンターへ、予約の峨眉行きバスは意外やミニバスであった。狭い車内に補助イスも使い目いっぱい客を詰め込んで出発、片道四時間半、ほとんど休憩なしで突っ走る。この運チャンがすごい、走行中運転席の窓を開けて外へ痰を吐き出す。時には手持ちのガラス瓶から水を含み、うがいをするや否やぺっと吐き出す。一度や二度ではない、しょっちゅうやっている。お陰で運転席のすぐ後ろに陣取った私は、その都度飛沫の洗礼を受ける。そう云えば至るところで平気で唾を吐く人を目撃した。「カッー」と言っては「ペッ」と吐く。この連中を私たちは「カッペ族」と呼ぶことにした。何でも効く漢方薬の名産地にありながら、気管支の良薬だけはないのかしら。あるいは最近の急激なモータリゼイションによる大気汚染に人間の喉が冒され、それに対抗する薬剤開発が未だ追いついていないのだろうか。つまらないことを考えているうちに峨眉に着いた。

峨眉バスセンターから峨眉山へ上るミニバスが発着する報国寺まで行くのが実は大変だった。その辺りの土地感覚が全くないところに、今まで乗って来たミニバスが報国寺まで行くと聞いたので、ほとんどの乗客が降りたにも拘わらずそのまま乗っていると、運転手が交代し走り出す。すると案内人らしき者が、峨眉山に上るなら今晩は報国寺の何やら旅館に泊まって、明朝午前3時発の御来光ツアーで出かける方が安上がりだしタイムリーだと言う。我々は麓で一泊するつもりはなく、今日のうちにどうしても山上に行きロッジに泊まりたいのだと主張した。するとロッジはべらぼうに高く一泊600元だが、ここだと一泊250元で済むと言う。彼と問答しているうちにその旅館の所まで来て、残りの乗客は皆降りてしまった。我々はさらに街道を少し戻り某レストランまで連れて行かれ、峨眉山終点まで600元で運ぶから先ずはここで何か食っていけと言う。事前調査のミニバス代一人30元とあまりにかけ離れているので駄目だと断る。それなら300元ではどうかときた。こういう奴等とこれ以上係わり合うのはやばいと悟り、とりあえず街道を往来する公共バスに飛び乗ってその場を離れることにした。結局、停留所一つ先でバスを降り、そこから約1km歩いて報国寺のバス溜り場にたどり着く。そこで峨眉山へ行くミニバスに乗り込んだ。しかしこのバスがなかなか出発しない。乗客は北京から来た親子二人と我々だけ。運転手と連れの車掌は道端で行き交う人々に向かって、「オウメイ、オウメイ」(峨眉の中国語呼び名)と叫び客引きをする。なかなか乗客は増えない。今度は車を走らせながら窓から顔を出して「オウメイ」と怒鳴り始めた。我々が散々苦労して悪質駕籠かき屋から脱出した地点まで行ったり戻ったりするではないか。何たることか、ここではバスの時刻表など無い。彼等は満席になったら目的地に向け出発するつもりなのだ。もう午後2時過ぎ、昼飯も食わずにかれこれ2時間も足踏みしている勘定になる。こんな所でいつまでも客引き車に付き合っていてよいものかと一瞬不安がこみ上げる。その時、同じように客待ちしていたミニバスに出会う。様子を窺うとそちらの方の乗客が多そうだ。運転手同士なにやら相談していたが、結局我々四人はその車にトレードされることになった。報国寺から車で行ける一番高い所の雷洞坪(標高2430m)まで約1時間、バスはだんだん山の奥へと上がっていく。中国大陸の神秘的な聖山がヴェールを脱いでいく姿にうっとり見とれていると、さっきまでの人災は嘘のように忘れてしまった。

雷洞坪からロープウェイ乗り場まで500mは誰しも歩いて上らなければならない。但し、この間をモッコのような物で二人の強力に担がれて登る手はある。私は興味が無いので料金が幾らか聞かなかったが、相当ぼられるのではなかろうか。

ロープウェイに乗るとき、例の調子で中国人になりすまし切符(20元/人)を購入、だが乗り場で係員から家内が何やら話しかけられ外国人であることが発覚してしまった。二人とも差額(20元/人)を払う羽目になる。混雑していたので家内と離れ離れになったのが悔やまれる。ここのロープウェイは川崎重工製、同じ日本製の人間が乗るのに何で倍額払わなければならないのか外国人価格への怨みがつのる。北京から来た親子連れは外国人が高い料金を払うことにさほど疑念をもっていないようだった。彼は上海の大学時代、長崎から来たという先生に日本語を習っていた由、私とは北京語と日本語を混ぜて会話を交わす。現在、北京に住み、娘の方は完璧な普通話を話すが、父親の中国語は上海訛りの北京語であった。

峨眉山の山頂から見渡す四囲の眺望は中国大陸の大きさと山水画の世界を思い知らせてくれた。太陽が西に傾く様を茫洋と心ゆくまで堪能した。中国仏教三大霊場の一つたる由縁も偲ばれる。山頂ロッジの宿泊料金は、麓の駕籠かき屋がほざいたような高額ではなく、ツイン一泊360元とリーゾナブルなものであった。

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2023.5.30会報No.108

やどかり族の中国俳柳紀行序章(3) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

8月9日(金)

朝7時頃、昆明に着く。昨夜来大雨が降ったとみえて街中は至る所に水溜りがある。バスセンターから昆明飯店までは相当の距離があるので小型タクシーを拾ったが、乗ろうとしたところで唖然とした。客席の床が水溜りになっているではないか。別のタクシーを探すにもなかなか捕まりそうになく、意を決してこの車で行くことにした。途中、大通りの十字路は完全に水没、もと来た道路まで引き返し別の道を走る。すると突然、車の様子がおかしくなった。走り具合がガタガタしてきた。どうもパンクのようだ。道路右肩に車を止めて調べると、右後輪がやられている。運転手は早速、車輪の交換作業に取り掛かる。その間タクシーのメーターはどんどん上がっていく。たまりかねて別のタクシーを探すからもうよいと言っても、運チャンは取り合ってくれない。修理にどれくらい時間がかかるか尋ねると、すぐ終わると言う。その間に別のタクシーが来ないか見張りながら、一方では諦めながら運チャンの作業を急かす。10分位してようやく車輪交換作業が終わった。実に長い時間が過ぎたように感じる。やっとの思いで昆明飯店の見える所まで来た。ところがホテルの前は大きな池になっている。タクシーの運チャンは思い切ってこの池に突入した。ボンネットから白煙が濛々と噴き出す。何とか車は四つ星ホテルの玄関に横付けすることができた。タクシー代は16元、実害は軽微で済んだ。最後にあの水位もわからぬホテル前の池を横断する勇気を示したのは、ポンコツタクシー運チャンがパンクロスを少しでも挽回するためのサービス精神ではなかったのか。幸いにもホテルは朝8時前のチェックインが可能であった。二晩続けて削岩機の上で寝てきたので体調は良くない。早朝からホテルでゆっくり休めるのは大変有難いこと、久し振りにシャワーを浴びて午前中じっくり睡眠をとる。

午後から外出、2日前に頼んだ印鑑を受取りに行きそのまま市内探索を行う。翠湖公園の中には入らず外周をかすめ円通寺に行く。唐代創建というから古い寺である。入口から少し入った所で、やはり2日前節竹寺に行ったとき出会ったオランダ・イギリス組み大学生男女ペアーと再び遭遇する。彼等は同じ街に1週間逗留しのんびり名所旧跡や古刹を訪ね歩く。成都に1週間いて昆明に来たと言う。今夜出発で大理に向いさらに1週間滞在する由。丁度我々と逆のコースで時間をかけ中国旅行を楽しんでいる。円通寺内を見物していたら雨が降ってきた。しばし雨宿り、やがて雨も上がり再び街の探索を続けるがホテル近くになってまた激しい雨に遭う。濡れた服を着替え、近くのレストランで夕食をとる。その夜腹の具合が悪くなり4、5回トイレに駆け込む。いよいよ本格的に薬の世話になる必要がありそうだ。

 

8月10日(土)

午前中、石山森林公園の龍門に出かける。タクシーで雲南飯店へ、そこからバスで龍門入口へ行く。切り立つ岩の石段を登り始めるとまたしても雨が降ってきた。本来天気の好い日だと昆明湖を見下ろす雄大な眺めが可能のはずだが、今日は傘をさしての岩山登りとなった。龍門手前の道路わきの雑木林の中に抗日戦争記念碑があるのをバスで通り過ぎながら見かけた。こんな所にまで55年前の戦争の影響があったのかと一抹の感慨がよぎる。

帰りは効率よく昆明市内に戻るべくミニバスに乗り込む。ところが龍門から少し下ったバス停で乗客の大半が降りたため、我々を含む残りの少数乗客は別のバスに乗り換えてくれと強制的に降ろされてしまった。料金一人4元のところ1元だけ返してくれた。それにしてもミニバスのご都合主義で他人の迷惑も省みず客を放り出すとは。しかし、すぐに2両連結の小西門バスターミナル行きの公共バス来たので、ぶつぶつ怒っている暇はなかった。ところがこのバスが大変な代物でかえって楽しくなる。座席の枠組みには板張りしてない所や、窓はきちんと閉まらずガラスのない所もある。床は木製で接続部分に隙間ができ路面が見える。走り出すと風がひゅうひゅう吹いてくる。タイヤは鉄製ではないかと思われるほど弾力性がない。女車掌が切符を売りに来た。行き先を告げ値段を尋ねると一人1元である。ミニバスの値段と妙につじつまが合っている。最初のうちは空いていた車内も次第に混んできた。おんぼろバスだが、いろんな乗客がいて結構楽しい庶民の乗り物である。

小西門バスターミナルから、もう少しましなバスに乗り換えて昆明飯店まで戻ってくる。荷物をまとめ空港までタクシーを飛ばす。X09406便昆明15:35発、成都16:50着。片側3席、一列6席の烏魯木斉(ウルムチ)行き新彊ウイグル航空の中型機である。機中で知り合った中国人青年の案内で空港から成都市内へ向う。彼は四川省成都の出身であるが、上海の大学を卒業、現在は米系外資会社に勤める23歳のサラリーマン、姉は今アメリカに行っていると言う。家族をはじめ、親戚のいる成都と仕事場のある上海を行ったり来たりしている。岷山飯店前で空港連絡バスを降りタクシーに乗り換える。この方が経済的で理にかなっていると言い、私が宿泊する銀河王朝飯店(YINHE DYNASTY HOTEL)まで送ってくれた。応分の車代を彼に渡そうとしたが本人は一切受け取らず、名前も聞かないままに別れてしまった。中国にも気骨のある青年がいるものだと感心する。

夜遅くなって本場四川料理の麻婆豆腐を食すべく外出、かなり探し歩いて解放路二段にある陳麻婆豆腐店を訪れる。本場の味は酷のある美味ではあったが、淡白好みの私たちには少々油っぽい感じがした。わざわざ薄暗い悪路の夜道を歩いて出かけるほどのレストランではなかった。中国の都市はどこもインフラが未整備で、特に電力事情が遅れていて節電のため照明は暗めである。

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2023.3.20会報No.107

やどかり族の中国俳柳紀行序章(2) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

8月7日(水)

節竹寺に行く。昆明市内雲南飯店前から乗り合いバス(運賃4元/人)で約40分、市街を離れ小高い山に入る。うっそうとした樹林の中に寺があった。入場料外国人価格10元/人のところ中国人になりすまして3元/人で入山する。寺内を散策していると僧房二階の一角から大きな声がした。よく見ると茶色の僧衣をまとった一人の老僧が我々に向かってなにやら怒鳴っている。何か悪いことでもしたのか一瞬戸惑い、かかわり合いを避けるため無視しようとしたが、こちらを見据えて再三声をかけてくる。どうやら我々に彼のいる所に来いと言っているようだ。覚悟を固めて階段を上り彼の部屋を訪れることにした。四畳半位の狭い部屋には老僧ともう一人68歳位の尼僧が、ソファーに腰を下ろして我々が来るのを待っていた。彼は雲南省昆明市西郊玉案山節竹禅寺の圓照法師と言い当年80歳、かくしゃくたる態度で我々にお茶や菓子を勧める。私も壁に掛けてある彼の書画を称えながら仏教や世俗の話を楽しむ。数年前台湾に行ったとき記念に貰ったという腕時計も披露してくれた。どこにでもある並の時計ではあるが、きっと彼にとっては思い出深い貴重な品なのであろう。小一時間二人の僧との会話に花咲かせてから記念写真を撮り、部屋の奥に祀ってある本尊に参拝して高僧等と別れた。節竹寺では他に清の光緒帝時代につくられた五百羅漢の塑像が堂内いっぱい陳列されており、そのリアルな風貌が面白かった。こちらに来るバスの中で知り合ったオランダ人とイギリス人の男女大学生ペアーの勧めもあって、昼食は寺の精進料理(素食)を賞味することにした。4品とったがいずれも油濃く我々の口には合わない感じである。昆明市内へは待ち時間のないミニバス(運賃5元/人)に乗って帰る。

雲南飯店の前にある文具書籍店で四角い印鑑をつくることにした。2日あれば篆刻できると言うので、今日依頼し大理から昆明に帰った日に受け取ればよい。雲南省博物館見学(入館料外国人10元/人)、少数民族についての展示など見応えのする博物館である。55年前の抗日運動の資料もしっかり展示している。そこで出会った東京の女子大学生は、宿泊している茶花賓館からレンタサイクルで昆明市内を回っているそうだ。そして来年は一層中国語に磨きをかけるため雲南大学に留学する予定だと言う。今回はその下見の由、親は何と言うか分からないがタフな若者にむしろ頼もしさを覚える。

大きな荷物は昆明飯店に預け、簡単な食料を買い込んでいよいよ大理行き夜行寝台バスに乗り込む。雲南友好旅行社の窓口で中一日、往復夜行便しかないと言われ、やむなく二晩連続の寝台バスによる強行軍となる。我々の席は二段ベッドの上段、しかも天井にすぐ頭がつかえ横になるのが精一杯、窮屈な旅を強いられそうだ。客がいっぱいになるのを待って午後10時過ぎようやくバスは出発する。一度は乗ってみたいという好奇心から寝台長距離バスになったが、こりゃ大変な事になったというのが実感である。今さら止めるわけにもいかず、心を決めてなるべく安楽にできるよう狭い空間に身の置きどころを按配する。とにかく身動きできない。途中2・3カ所15分位のトイレ休憩だけで一路大理を目指し夜行バスは行く。言葉の上ではロマンチックな旅のイメージもあろうが、実際は夜通し削岩機の上で寝ているようなもので一睡もできなかったと言ってよい。おまけに途中のトイレはめちゃくちゃに汚く、男女とも全てドアー無しのオープントイレである。しかも使用料一人2角をしっかり徴収する。

 

8月8日(木)

朝7時頃大理に着く。今回の大理旅行は中国人ツアー客に混じっての団体旅行である。朝食を済ませ、アールハイ湖のクルージングに出かける。途中2ヵ所(アールハイ公園・普陀堂)で上陸して名所の自由見学を行なう。約200人乗りの遊覧船で昼食をとり、白族ゆかりの三道茶をふるまわれる。あでやかな民族衣装を着た若い男女が繰り広げる民族舞踊が終わる頃、船は湖北の船着き場に到着、下船。バスで周城・胡蝶泉・三塔寺・大理城と巡り、下関で夕食後、再び昆明行き夜行寝台バスの乗客になる。この大理ツアーを通して北京から来た年配男女の三人と、それに甘粛省蘭州から来た若い親子連れ三人とは、食事の時はいつも一緒、何かにつけて言葉を交わしながら旅をした。彼等でさえ他の中国人旅行者のマナーの悪さには眉を顰め、トイレの汚さに閉口していたようだ。

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2022.11.27会報No.106

やどかり族の中国俳柳紀行序章(1) 

(1996年8月3日~同25日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之 

 当時イギリスが委任統治していた香港を発着点とした中国旅行記である。およそ11か月後に中国への香港返還(1997年6月末)を迎えるにあたって、中国南西部を巡り、その実態に触れて置きたいとの思いから本旅行を実施することにした。以下、日記風に記す。

 

8月3日(土)

 KA700便にて香港19:05発、桂林20:20着。照明は薄暗く何となく陰気な空港、入国審査を済ませタクシー乗り場へ。辺りには手持無沙汰な人たちが三々五々たむろしている。たまたま乗り合わせたタクシーはHOLIDAY INN HOTELまで60元だと言う。土地勘がなくよくわからないのでこの車で行くことにしたが、後でよく考えてみると確かに割高である。それに車内灯もむき出しの配線を手で繋げないと点灯しないオンボロ車である。幾分人の良さそうな運転手なので乗ってはみたが、真っ暗な道中「ちょっと電話をかける」と言っては車を止める。疑心暗鬼の中を2,30分走ってようやくホテルに着いた。小銭が無いので荷物を運んでくれたボーイにチップ10元はやり過ぎである。情報不足の初訪問地、多少の授業料は止むを得ないところか。ホテルで明日の漓江下りの予約をして第一夜の眠りにつく。

 

8月4日(日)

 漓江下り一日ツアーに出かける。ホテルから出発のバンに乗り込み船着き場の竹江港に同道したのは、私たちの他にはUSA Pennsylvaniaから来た熟年夫妻、イタリア人夫婦、それに上海から来た赤ちゃん連れの若い日本人家族である。彼等とは折に触れ語り合いながらのツアーとなった。遊覧船には日本人団体客や他国ツアー客など大勢が乗り込み満員の盛況である。漓江(桂江)は広西チワン族自治区内で柳江と合流、広東省に入って西江となり珠江三角州に到る。だが漓江と呼ばれる流域は奇鋒林立、柳枝竹林の岸辺が続き、評判に違わず水墨画の世界そのものである。そうこうしている中に「陽朔(Yangshuo)の山水は桂林で甲たり」の陽朔に到着、下船。後はバンでホテルに戻るだけ。なお6時間のクルージングでは途中、昼食をはさみ冠岩の鍾乳洞見学(2時間)を行う。これまたライフジャケットを着けてボートに乗り、さらにモノレール型観覧車での雄大な洞窟見物となった。夕方、桂林の街中を散策、書道本を渉猟して街のネオンが瞬き出した頃ホテルに戻る。

        

悠々と山川竹の漓江下り(陽朔)

山水にニックネーム楽し像鼻岩(桂林)

 

8月5日(月)

 桂林に来た時のタクシーを半日借り切って市内・近郊を巡る。運転手の欧陽運国さんは、英語を少し勉強している14歳の娘さんを助手席に乗せて、私たちとの通訳代わりにさせようと張り切って午前8時に迎えに来た。桂林最大の鍾乳洞「蘆笛岩」を見学の後、実弾射撃場に連れて行かれる。私は平和を愛する人間なので人殺しの道具を使って遊ぶ気はありませんと断ったが、見るだけでもよいからと勧められ小銃を手に取り実弾を入念に眺めて責めを果す。戦後間もない子どもの頃、派出所のお巡りさんにピストルを触らせてもらった時の事を思い出す稀有な体験であった。

 桂林博物館にも立ち寄る。ガイドさんは近隣の少数民族について詳しく説明してくれた。広西チワン族自治区には漢族のほかに36の少数民族が暮らし、その総数は約1800万人(自治区全体の人口比では約22%)、そのうち最大民族はチワン族(少数民族比85%)が占め、他にヤオ族、ミャオ族、マオナン族等の少数民族が続く。

 次に、博物館の隣りにある桂林市西山公園桂林熊本友誼館の中日友好中医医療諮問部を訪れる。暇そうにしていた白衣の案内人が我々を見るやいなや、すぐ二階の治療室に導く。何が始まるのか不安げな我々に諮問部の程連壁氏がお茶を勧めながら、日本語で同部が今までに施してきた東洋医学の実績を少しずつ話し始める。やがて電気治療との併用によりその効能が格段に現れることに触れ、無料なので体験してみてはどうかとしきりに勧める。相手は客もなく暇を持て余していた所に飛び込んできた火中の虫に興味を持って貰おうと一生懸命である。我々も乗りかかった船、ものは試しと体内に電流を通す治療に挑戦することにした。治療師の手を通して弱電気が流れ、自分の意思とは裏腹に各部の筋肉があたかも痙攣したように反応する。これにより体の疲れもとれ肩こりも治ると言う。信ずるべきか信じざるべきか。最後に当医院の秘伝処方になる漢方薬を持ち出し、今後長期に服用すれば如何なる難病も必ず治ると17に亙る効能書きの説明を受ける。一連のパフォーマンスの狙いは此処にあったのかと合点した次第である。だまされついでに一瓶600元の黒粒漢方薬を500元に値切って購入することにした。二人で約一時間の遊び代にしては高い買い物かもしれない。人生初めての経験を土産に同所を後にした。因みに9月以来言われた通り毎日10粒ずつ服用している家内は、持病の関節炎が最近あまり起こらなくなってきたと言う。これが本当なら、かつて幾つかの病院検査でも分からなかった宿痾が治るという快挙になる。

 続いて象鼻山見物に行く。タクシーは喧噪の街中を横切り、遠くに象の形をした岩が漓江の水を飲む姿を望めるところに出てきた。川岸から30mばかり離れた中州へ渡ろうと小舟のおばちゃんと交渉を始める。最初往復20元と言っていたのを10元に負けさせて舟に乗り込んだ。大きな岩穴の舟着き場に待たせて小高い丘に上り市街の眺望を楽しむ。タクシーの待つ川岸に戻ろうと小舟のいる所に来ると、往路の女船頭の姿が見えない。やむなく他の船頭に戻りの舟を出すように頼むと新たに10元よこせと言う。冗談じゃない。それならオレが勝手に漕いでいくから櫂を貸せと強引に舟に乗ろうとした。すると先方も折れてしぶしぶ舟を出してくれた。つい目と鼻の先の距離を行くのにとんだ芝居をしなければならない。全く油断がならない。

 最後は飛行場への途中だからと美石宮へ立ち寄る。どうと言うことはない。珍しい形をした貴石の博物館であった。一人30元の入場料はちょっと高い。新しい飛行場はここからそう遠くない所に建設中で、この9月某日から開港の予定になっていると言う。これで一昨日の夜、桂林に着いた時の空港のみすぼらしさを納得した次第である。空港関係予算は多くを新空港オープンに回し、旧空港への設備投資を控えていたからなのだ。かなり走って午後2時頃、桂林飛行場に着く。半日貸し切りドライブ代140元に対し、運転手の欧陽親子に昼食の足しにして貰おうと200元渡し桂林と別れることにした。来た時と違い昼間見る辺りの牧歌的田園風景は素晴らしかった。

 CZ8947便にて桂林15:05発、昆明16:40着、市中との連絡バスに乗るため空港出口でうろうろしていると、客引きがきて一人20元の高いバスの方に連れて行こうとする。それを振り払い一般の乗り合いバスに乗る。一人2元。市中に入ると少々渋滞気味であったが、無事これから3泊お世話になる昆明飯店に着く。ホテル内にある雲南友好旅行社で明日の石林一日ツアー(一人450元)を申し込む。夕食はホリディイン・ホテル内のウェスタンバイキングで済ませ、さっそく付近を散策して土地勘ならしする。

 

8月6日(火)

 石林一日ツアーに出かける。客は私たち二人だけ、あとはガイドと運転手の四人でドライブすることになる。ガイドの段建栄さんは22歳、人当たりの爽やかな青年である。英語が話せないのでコミュニケーションは中国語で行う。小生の普通話の知識を総動員して足らざる所は筆談でカバーする。彼曰く、雲南省で世界的に有名なものは、①漢方薬:天麻(脳病)・杜仲・三七(止血作用)など。これとともに東洋医学の宝庫であり、雲南省中医学院から多数の名医が輩出している。彼等は病人を診てたちどころに適薬を処方する。②玉石類:ビルマ(ミャンマー)との国境地帯から産出される良質の石を使った硯・美術工芸品など。➂中国書画、少数民族の衣装と手編み絨毯や壁掛けなど。なんでも欲しいものがあれば購入のお手伝いをさせて頂くと言う。

 小型バンは快適に石林に向かって走る。途中街道に面した政府直営の大きな土産物店に立ち寄る。あれこれ陳列商品を見ているうちに、ふと清代康煕の作になる一対の徳利に目が止まり値段を訊いてみる。高さ20㎝程の恐らく祭祀に使った品であろう。売値は2700元だがいろいろ交渉しているうち最終的に600元になった。しかし私が欲しいのは一対ではなく一本だけでよい。いやがる店員をなだめて一本だけ300元で買い店を後にした。ところが車に戻って走り始めると、ガイドの段さんが曰くには、この祭器は二つ揃って美を完成する。どうせ買うのなら一対の品として購入すべき代物であり、それでこそ「吉祥如意」の意味があると言う。縁起ものであるならなおさらのこと一本では気味悪い感じがつのり、帰途再びこの店に立ち寄ってもう片方の徳利も買うことにした。おかげで現在わが家では同じ2本の祭器が相並んで飾られ、どことなく安泰感を醸し出している。

 片道3時間かけて石林に着く。地元民族料理の昼食を済ませ石林公園に入る。いたる所でカラフルな民族衣装をまとったサニ族の若者たちが観光客相手に道案内をしている。大昔海底だったこの地が隆起して海水が退いた後、このような奇岩の織り成す迷路を作り上げたと云われる。上ったり下ったりの繰り返し見物を約2時間行って、往路と同じ道をたどり昆明へ帰る。ホテルで明日と明後日の夜行バス大理往復便の予約を行い、近くの大衆レストランでタイ料理の夕食をとり一日の予定を終了。

 

奇岩なるジャングルジムの遊園地(石林)

派手派手の民族衣装に迎えられ(石林)

 

<事務局注>本稿はやや古いが、かえって新鮮であり、切にご寄稿をお願いしたものです。


2022.9.26会報No.105

スペインバスク地方・フランス南西部俳柳紀行(最終回) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

暗闇にイラクの灯り点々と

下々(しもじも)は秋霜烈日上(うわ)の空

わが旅は障害競走難避けて

 

 季節外れの秋台風襲来、イラン対サウジアラビアやクルド人を巡るシリア・トルコ情勢の中東問題、スペイン国内の独立運動とデモ隊の暴徒化、常態化したフランス交通機関のストなど、わが旅の行く手には予見できない多くの障害が予想される。だが一旦旅程を決めると、これらの時限爆弾がいつ弾けるか戦々恐々である。何が起こってもいいように即応の次善策(contingency plan)を案じながらの旅である。それでも機上の人となれば、下界のイザコザなど糞喰らへ、あとは野となれ山となれ運を天に任すのみだ。

帰りのフライトはバルセロナからチュニス、シチリア・マルタ島間を通り、クレタ島、キプロス島と地中海を縦断、レバノンから中東に入りシリア、イラクへとややこしい空域を飛ぶ。カタール航空と提携するマルタ航空機(AirBus350-900型)だからできることなのかな。丁度、イラクのバグダッド上空は夜間、意外にも下界は広範な街の灯りで明るい。国内の混乱など微塵も感じられない。最短距離飛行のお陰で6時間半にてドーハに着く。一息入れて2時間後には東京成田行きの便に搭乗、こちらもボーイングの最新鋭機、途中、中国上空のハザード地帯も加速で大した揺れもなく9時間にて無事の帰国と相成る。懸念されたトラブルもなく全く以って冥加の至りである。

   

カタルーニャや独立如何(いかん)ひと騒動

 

 今や地球上、世界各地で紛争が絶えない。その一つにスペイン・カタルーニャ地方の独立運動がある。数年前、中央政府に抗しカタルーニャ自治州は独立を問う住民投票を主導してきたが、その時の同州副首相等は拘束され弾劾裁判に処されていた。その結果2019年10月14日彼等に対し有罪判決が言い渡され、首謀者は禁固13年の刑となった。これに反発した独立派は同10月18日数千人規模の抗議デモを行った。現州政府首相は直ちに正当性なきデモと非難し暴力を止めるよう呼びかける。しかしデモ隊はバルセロナのプラット国際空港にも押しかけ治安部隊と激しく衝突した。ために当日かなりのフライトが取り止めになる。観光をベースに経済活動が活発なスペインでは一番潤っている筈のカタルーニャ州であるが、独立志向が強く長年に亘って中央政府と抗争が続いている。一部の急進的暴徒によるデモ騒動は州都バルセロナの宿痾とも言える事件で、外来観光客にとっては迷惑以外の何ものでもない。

 

老いらくの夫婦(めおと)旅行やちょぼちょぼと

飲み食いにリハビリ要す胃拡張

満月が迎える我が家無事帰宅

 

 今回はどちらかと言うと軟弱なグルメ旅になったようだ。バスク地方にしても、フランス南西部にしても食道楽には垂涎の地、よだれを垂らしながら巡る。お陰でフォアグラダックのような胃拡張、同時に呑み助になって戻って来た。老い先短い爺婆だからこそ貪欲に各地の名物珍味に挑戦する。その結果は帰国後日本でリハビリすればよい。まずは平生の粗食を以って減量に励むことだろう。出国から半月、丸々と肥えた満月が我々を迎えてくれた。これからお月さんもだんだんスリムになっていく筈だ。我等もまた月に見習おう。

 

あな楽し旅は世につれ人につれ

前中後戯(ぜんちゅうこうぎ)愛でるが如く旅三昧

 

旅行前の下調べ、旅本番の直接行動、そして帰国してからの反省とまとめ、これ等一連の取り組みが旅行であり、旅の醍醐味はこの前戯・本番・後戯を全うしてこそ味わうことができる。旅との戯れもいよいよフィナーレ、ボロが出ないうちに擱筆するとしよう。(完)

 

<日程>

10/29(Tue) NRT(QR807)22:20→翌04:30DOH 機中泊

10/30(Wed) ドーハでStop Over、今回は747番バスではなくタクシーでホテルへ、チェックイン後、市内散策(イスラム美術館、スーク・ワキーフetc.)  ドーハ泊(Al Najada Hotel By Tivoli)

10/31(Thu) タクシーで空港へ、空港ラウンジで朝食、DOH08:15→13:55MAD renfe列車でチャマルティン駅へ、ホテル・チェックイン後市内散策(チャマルティン周辺&プラド美術館etc.)  マドリッド泊(Hotel Weare Chamartin)

11/01(Fri) am.マドリッド(チャマルティン)08:00→13:04ビルバオ(アバンド) pm.ホテル・チェックイン後市内散策(旧市街、etc.)  ビルバオ泊(Hotel Merecure Bilbao Jardines de Albia)

11/02(Sat) am.ビルバオ散策(グッゲンハイム美術館、ビスカヤ橋、etc.)、pm.バスでサンセバスチャンへ(1時間)、ホテルチェックイン後、市内散策(晩飯はバルのピンチョス)  サンセバスチャン泊(Hotel Arrizul Congress)

11/03(Sun) 終日サンセバスチャン市内散策(旧市街) サンセバスチャン泊(同上Hotel Arrizul Congress)

11/04(Mon) サンセバスチャン(PESAバス)10:00→11:30バイヨンヌ、ホテルチェックイン後市内散策(大聖堂、屋内市場、チョコレートショップ(Port Neuf通り)etc.)  バイヨンヌ泊(ibis Styles Bayonne Centre Gare)

11/05(Tue) am.市内散策後、バイヨンヌ10:11→11:58ボルドー(TGV)、ホテルチェックイン後、pm.市内散策(シティ・デュバン(ワイン博物館)等)  ボルドー泊(ibis Bordeaux Centre Gare Saint Jean)

11/06(Wed) am.ボルドー市内散策(ワイン博物館、サンタンドレ大聖堂、ベイ・ベルラン塔、etc.) ボルドー泊(ibis Bordeaux Centre Gare Saint Jean)

11/07(Thu) ボルドー9:05→11:11トゥールーズ、ホテルチェックイン、pm.市内散策(キャピトル、サン・セルナン・バジリカ聖堂、ヴィクトル・ユゴー市場、etc.)  トゥールーズ泊(ibis Toulouse Gare Matabiau)

11/08(Fri) (往)トゥールーズ8:53→9:37カルカッソンヌ、旧市街散策とシテ・コンク城見学、(復)カルカッソンヌ15:45→17:05トゥールーズに戻り゙市内散策  トゥールーズ泊(ibis Toulouse Gare Matabiau)

11/09(Sat) 朝の市場巡りの後 NOVATELバスでトォールーズ・マタビア駅(No.150バスストップ)10:30→14:45アンドラ・ラ・ヴィリャ(バリラ川近くバスターミナル)、ホテルチェックイン後市内散策(メルキエリ通り、ロトンダ等)   アンドラ泊(Mercure Andorra Hotel)

11/10(Sun) バスでアンドラ10:00→12:30バルセロナ・サンツ・バスターミナル、サンツ駅ホテルチェックイン後、市内散策(グエル公園、etc.)  バルセロナ泊(Barcelo Sants)

11/11(Mon) am.バルセロナ市内散策(カタルーニャ広場、etc.)、正午までにホテルチェクアウト、電車で空港へ、BCN15:25→23:45DOH、 機中泊

11/12(Tue) DOH(QR896)02:05→17:45NRT

 

<費用>

総額: \454,642(二人分)

内訳: 航空賃:\178,660、 ホテル代:\165,173、 交通費:\60,260、 飲食費:\34,638、

入場料:\5,324、 その他(土産・チップ等):\10,587

換算レート: \121/€、 \109/US$、 \31/QAR(カタール・リアル)


2022.8.1会報No.104

スペインバスク地方・フランス南西部俳柳紀行(4) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

通(つう)が来る興味尽きないトゥールーズかな

音に聞くヴィクトル・ユゴーは熱気充満

 

 トゥ―ルーズでの滞在は初めて、ここはミディ・ピレネーとラングドック・ルション地方を合わせたオクシタニー地域圏の中心都市で、フランスでは3番目に大きい(人口比、因みに北隣のヌーヴェル・アキテーヌ地域圏の首都ボルドーは6番目)。このフランス南西部はトリュフやフォアグラの産地として美食でも有名、かつサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路沿いとあって多数の教会が点在する。概して鄙びた田園地帯の南西部はフランス最後の秘境とも言われている。このような地域を背景に発展著しいトゥールーズは、過去と未来の二つの顔を併せ持つ面白い街である。

 歴史を感ずる旧市街を中心に新興住宅や近代的産業が郊外へと広がる。広域人口は約100万、狭域だと約50万人である。ここに三つの大学と、エアバス本社工場や航空宇宙基地があり四囲の農業地域とは極端に異なる。元はと言えばガロンヌ川と運河で大西洋と地中海を結ぶ交易の中継点として栄えた街である。旧市街の中心はキャピトルと呼ばれる市庁舎、周囲の建物の色も白と渋いベージュ、そこから「バラ色の街」とも言われる。同じ12Cに完成したサン・セルナン教会は、ロマネスク建築としてはフランス最大で巡礼の教会としても有名である。雨の中、私達が訪れた時は丁度、古色蒼然とした聖堂内にパイプオルガンが響き渡り厳かな雰囲気が漂っていた。トゥールーズには異邦人も多く移り住み国際都市に変身しつつあるが、当地に住む日本人も現在200人位いるそうだ。

    

旧市街の一角、キャピトル広場から徒歩7分位のところに大きな市場がある。フランスの詩人・小説家・劇作家で「ノートル・ド・パリ」や「レ・ミゼラブル」等を著したヴィクトル・ユゴー(Victor Marie Hugo,1802~1885)、グルマン(食いしん坊)として勇名を轟かせた彼に因み名付けられた市場である。ここは地元民や観光客にとって人気の場所で、腹を空かして尋ねてみたら店仕舞いの時間になるところだった。市場内のレストランで昼食を旨そうに食べている残客を横目に退出する。翌朝あらためて訪れ酒屋でロゼワイン1本ゲット(10€)、これは晩飯の折飲んだワインが気に入って、バーテンダーに銘柄と値段を聞きわざわざ買い求めに出掛けたわけである。だが近くのスーパーに立寄るとピンからキリまでたくさん並んでいる。安いのは1本2€からある。「よっしゃ、2€と10€とどう違うか飲み比べてやろう」と思いこれも購入、重たい土産を背負って旅を続けることになる。帰国後、賞味したら値段の差ほど風味に違いがないことが分かった。価格は強いか弱いかアルコール度に比例しているようである。

 

ピレネー越えキセル巡礼完結す

積年の思い果てなき巡礼路

 

 巡礼路の正式な起点はフランス内に4か所ある。北から順に、パリを発しボルドー経由のトゥールの道、ヴェズレーを発するリモージュの道、ル・ピュイ・アン・ヴレイを発しコンク経由のル・ピュイの道、そしてアルルからトゥールーズを経るトゥールーズの道である。その後はいずれもピレネーを越えスペイン北部に出て、終着サンティアゴ・デ・コンポステーラまで約2か月の徒歩の旅となる。これではきついのでピレネーからサンティアゴまで約800㎞を踏破すればよしとするのが一般的な巡礼コースになる。しかし近年は終着地まで約100kmの最終区間だけを歩けば認定される簡易巡礼が盛んである。私の場合はさらにショートカット、聖ヤコブの遺骸が安置されているサンティアゴのカテドラルで以前ミサに参列したこと、そして今回トゥールーズのサン・セルナン教会詣でとピレネー越えを以って聖地巡礼を達成したことにする。とんでもないキセル巡礼である。

    

アンドラやタックス安しと観光客

小国に日本の未来占うや

 

 ピレネー山脈の奥深い中腹(標高1030m)、フランスとスペインそれぞれの国境に囲まれてアンドラ公国という独立国がある。面積は468㎢、主要産業は観光・サービス・流通・金融で小さな都市国家といった感じだ。人口は7.6万人、GDPは27億4千万€、従って1人当りGDPは3.6万€である(数字はいずれも2018年)。首都はアンドラ・ラ・ベリャ(Andorra la vella)、元首はフランス大統領とウルヘル司教(スペイン側)の共同大公が司る。当地域の歴史を辿れば839年にウルヘル大聖堂の聖別詔書が認められ自治権が与えられたが、10世紀頃から宗主のウルヘル司教とフォア伯爵(フランス側)の間で争いが起こる。しかし1278年両者は対等な封建領主権(徴税・裁判・徴兵)を共有しアンドラの共同領主となる。以降、スペイン側はウルヘム司教、フランス側はフォア伯爵からブルボン朝アンリ4世を経て代々国家元首たる大統領が継承することになる。そして1993年新憲法制定、アンドラ国として独立、同時に国連加盟国になる。小粒でも山椒の如くピリリッとした山国の存在を知る。

 経緯はざっと以上の通りであるが、同公国は2011年まではタックス・ヘイブンであったこともあり輸入関税が低い。ために免税店に観光客が群がり押し寄せる。特に土日にはスペイン・フランスはおろか近隣国からも大勢の買物客が訪れる。交通の便は決して便利とは言えないが、公道は整備されており車でトゥールーズから4時間、バルセロナから3時間で来ることができる。公用語はカタルーニャ語であるがスペイン語・ポルトガル語、フランス語・英語も通じる。軍隊はないが公安警察が厳しく入出国を管理している。私たちが滞在したのは土曜日、市街の目抜き通りはブランド品を求めて散策する家族連れや若者で溢れていた。スーパーストアーもあり、ビール(350ml缶)は0.5€、水ペットボトル1本より安く、SNCF駅の有料トイレと同額である。早速ホテルでの寝酒用に購入する。果物から生鮮食品、総菜など何でもある。免税店でも高級品の品揃えが豊富だが、スペインから来たと思しき熟年夫婦はバーゲン品のリキュール瓶(7.9€)を買おうか買うまいか迷っている風、私たちと目が合って「買うなら一番の割安でなくっちゃ」と本音を漏らし笑う。月夜にイルミネーションの繁華街、路上ではバンドや歌手、大道芸などのパフォーマンスが賑やかに人々を惹き付ける。そして街の所々には芸術的モニュメント、カフェやレストラン、ここが山深き飛び地の小国である事を忘れさせる。丁度ピレネー越えの1泊2日は天候に恵まれ、バスでの移動はパノラマの連続であった。峠の辺りでは前日の積雪で徐行することもあったが、無事通行できたことは正に神様のご慈悲あればこそ、僥倖という外ない。

 

懐かしのグエル公園サグラダも

旅の締め土産買い物バルセロナ

 

 旅の最終地バルセロナでの目的は三つ、一つはガウディに因んだグエル公園を散策すること。家内は初めて、私は2回目の訪問だが土地勘が薄れ通行人の中年男性に道を尋ねる。同じ方向なので一緒に歩きながら、ついでにカタルーニャ州の独立について問うてみる。彼は「何があっても独立しなきゃ」と強硬派、道が急な上りに差し掛かった辺りで「年寄りはゆっくり行くよ、有難う」、お互いアディオスで別れる。やっとの思いでグエル公園の入口に到着、懐かしき佇まいに安堵する。しかし相変わらずの人混み、それも世界各地からの観光客ばかりだ。昨日までは、あまり見かけなかったアジア系人種がうようよ、中には超派手な薄着で自撮り写真に夢中な若い中国人女性もいる。公園内からはあちこちで大きな声の中国語が聞こえてくる。園内所々で遺構の補修工事が行われている。観光名所の世界遺産の維持はどこも大変だ。小高い丘の一角からサグラダ・ファミリア聖堂が見える。まもなく完成の予定と聞いているが、もう来ることもあるまい。同じように眺めていたフランス人の若いカップルと写真を撮りっこする。晩秋のサンセットは早い、暮れなずむ公園を後に地下鉄を乗り継いで次の目的地に向かう。

 二つ目は、スペインの米料理パエーリャを食すこと、バルセロナの老舗レストランを訪れる。海鮮の味がしみ込んで美味い。かつて本場バレンシアで食した時は少々オコゲがあり、それが正統と断じた家内シェフは、毎々硬めパエーリャを食卓に供してきた。実際はいろいろバリエーションがある。気がつけば店内に日本人客が結構いる。それも若者たちで何故か男女別、同性同士の仲間内グループのようである。

三つ目はカタルーニャ広場の‘El Cork Ingrés’というデパートで土産物の買物をすること、ここの地下はスーパー形式になっていて低価格と品揃いが売り、近くの観光客相手の地元市場より魅力的である。韓国から来たという青年が物色中、ディスカウント品ばかりカゴいっぱいに入れていた。私たちも負けじと選別に傾注する。これで良し、あとは空港に向かうだけだ。

 

端境期旅人(たびと)あちこち銭撒きに

欧州路人の往来多種多様

 

 旅行シーズンとしては秋から冬へと丁度切り替わる時期、観光客はそう多くないだろうと高を括っていたが、確かに遠方からの旅客は少な目だった。でも近隣ヨーロッパ系観光客は多い。但しアジア系人種はめっきり減った感じだ。これは単にオフシーズンというだけでなく、それぞれの国の景気や経済事情、不穏な国際情勢の影響によるのではなかろうか。その中でツアー離れした個人自主旅行について二、三紹介しておこう。

 ビルバオのバスターミナルでバスを待っていたら、日本人らしき2組の熟年夫婦が何やら不安そうな表情で私のところにやって来た。「サンセバスチャンに行きたいのですが、発着掲示板に該当する便が出ていません」と尋ねる。ここはスペインでも独自性の高いバスク地方、行き先は現地の呼び名ドノスティア(Donostia)でしか表示されていない。彼等が迷うのも当然だ。大分県人の一人は64歳竹細工の職人さん、もう一人は65歳定年退職したばかり、皆さん外国語は分からない様子だがホテルもバスも全て日本で予約してのスペイン初来訪である。ご立派、よくやるよ。他方アンドラからバルセロナ行きのバスでは一人旅のアメリカ人と一緒だった。車中では彼が数か月前日本を訪れた際の写真がびっしり詰まったスマホを見せてくれた。短時日のうちに歩き回るのが上手い旅慣れたサラリーマン風の青年である。バルセロナのサンツ駅前に着いて私たちは下車、彼はそのまま空港に行くはずだが、別れの挨拶もそこそこに15分間休憩を運転手に確認して駅のトイレにまっしぐら、さすがに3時間ノンストップのバス旅はきつかったようだ。ところが翌日、私たちがバルセロナ空港で出会った日本人男性は、新婚旅行だというのに一人ぼっちで帰国するところだった。聞けば途中でパスポートを紛失、バルセロナの日本総領事館で仮旅券の発行手続きをしていたので遅れたとのこと。新婦は先に帰国、それにも拘らず本人はケロッとしている。今更くよくよしても始まらない。「いい厄落しになったね」と激励、二人の新生活に幸多かれと祈る。やれやれ、十人十色、人それぞれの旅がある。


2022.5.23会報No.103

スペインバスク地方・フランス南西部俳柳紀行(3) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

人っ気なく街を貸切る鉛空

青い目が漆(うるし)に燃えるバイヨンヌ

 

 冷たい風と激しい雨の中、大橋を渡ってバイヨンヌの旧市街散策に出掛ける。いつもなら賑やかなはずの目抜き通りも月曜日の午後とあって人通りが少ない。まずは街のシンボルであるサント・マリー大聖堂を目指す。厳かな雰囲気が立ち込め歴史を感じる古刹である。そう云えば当地は、古代ローマ時代からその存在を知られ中世には港湾都市として栄えた。その後も人々の往来が盛んで交易地らしい面影を宿す。街角でふと一人のフランス人老年男性に声を掛けられた。京都に7年間滞在し芸術大学で漆工芸の勉強をしていた由。その後フランスに戻りパリで漆細工に取り組んでいたが、気候風土(湿度)が適しているバイヨンヌに移り住むことに決めたと言う。「漆の入手が難しいのでは」と野暮な質問をしたら原材料は日本から取り寄せているそうだ。漆と聞いて昨今の日本は、2014年には生産量が極度に落ち込み645kgであったが、その後文化庁の重要文化財保存修理という旗振りもあって最近は年平均2.2トンのレベルまで回復してきたそうだ。それでも未だ足らないと言われている。思わぬ場所での一期一会によって日本の伝統工芸を知るきっかけになった。

 

ワインミュゼ試飲連(れん)荘(ちゃん)酔い心地

歴史追いワインに浸かるボルドーかな

女郎(めろう)までメローなワインで酩酊せむ

 

 「ワインの郷」ボルドーへは26年前に一度訪れたことがあるが、その時の記憶はほとんど残っていない。サン・ジャン駅から中心街の安ホテルまでかなり歩いたこと、その近くの海鮮料理屋で生牡蠣を2ダース平らげたこと位しか覚えていない。従って今回は家内同伴でもあり後の旅程との繋ぎによい駅前に宿をとる、。ボルドー探索はトラム乗り放題と一部観光施設が入場無料になるシティ・パスを事前に購入しての行動となった。当初、シャトー(ワイン醸造所)巡りも計画していたが、折からの悪天候のためこれを割愛、代わりにシテ・デュ・ヴァンというワイン博物館を二日続けて2回訪れることにした。

 最初に向かったのはブルス広場の水鏡(Miroir d‘Eau)という人工的噴水場、天気もよく解放感を楽しむ。その後トラムを乗り間違え遠回りしてCAPC現代美術館へ、ここは日本人芸術家の作品が展示されているやに聞いて訪れるも見当たらず、19C港湾建築の倉庫の面影だけを堪能して早々に退散する。再びトラムに乗ってガロンヌ川添いに建つ奇妙なデザインのワイン博物館へと向かう。ここはワインに関する複合施設、まずは日本流3階の展示場からスタートする。世界のブドウ畑をビデオで紹介、エジプト時代からのワイン生産の流れ、ヨーロッパ王朝とワイン文化の結びつき、ワイン積み出し港ボルドーの繁栄、戦争がワインに及ぼした影響、そしてワインは飲むだけではなく色艶、匂い、味覚など人間の五感との関係を解き明かしてくれる。単にワインの醸造や方法だけの博物館ではなかった。一通り見るだけでも2時間以上はかかる。最後の試飲は閉館間際になってしまったが、8階の展望室で好みのワインを指定して賞味する。グラス片手にボルドーの夕景を眺めながら至福の時を送る。時季・時間的な理由で訪問客は少ない。アジア系はほとんどいない。お茶目な西欧系ご婦人から「お二人のツーショットをお撮りしましょうか」と写真まで撮ってもらう。女性客も結構いるようだ。皆々ワインにお強いようである。

 翌日は朝から雨模様、午前中は再びワイン博物館を訪れ前日の復習をする。最寄りのトラム駅で降りて歩き始めると雨脚が激しくなり、おまけに雷の追い打ちである。開門と同時に20人程度の客人と入館、すでに歩きなれたコース順に見学する。時間的制約は無く興味に応じてじっくり観賞することができた。あとは試飲会でワインを頂くだけだ。展望台の外に出てボルドーの街を心行くまで眺める。この頃には雨も上がりガロンヌ川の上流には虹が架かる。これまたワインとともに気分を高揚させる。かくして下手なシャトー巡りより充実したワイン体験になった。以下、ほろ酔いから覚めてワインに関する蛇足を付す。

 フランス・ブルゴーニュ地方のワイン専門家の言によると、世界中のブドウの栽培は大体、気温12~22℃の地帯で行われている由。それが最近の地球温暖化による気温変化で崩れ、ブドウの収穫にも影響を及ぼし、例年10月の採取を9月に早めねばならなくなったそうだ。収穫時期によって糖分の度合いが決まるからである。産地の温暖化がワインの品質を決定するという問題を抱え、ワイン生産者の苦労が増したようである。第3句は五七五頭韻句。

    

クイズ旅カスレとカヌレ違い追う

 

 ボルドーの菓子屋でバーゲンしていたカヌレを買って食す。私としては初めての体験、薄甘味でモチモチ感のする焼き菓子である。その生い立ちには諸説あるが、卵黄・砂糖・小麦粉を液状にした生地をバニラとラム酒で香り付けし、一晩寝かしてバターをたっぷり塗った型にはめて焼き上げる。一時は騎士団名からカスレとも呼ばれたこともあったが、その後カヌレ(canelé or cannelé)と呼ばれ登録された。なかなか旨い菓子である。

 それではこの菓子と呼び名が似ているカスレ(cassoulet)とはどんな食ベ物か。カルカッソンヌの城内にあるレストランで食す。白インゲン豆に豚肉・ベーコン・ソーセージ・鴨またはガチョウのコンフィ、さらにタマネギ・ニンジン等の野菜を土鍋に入れて煮込んだフランス南西部特有の郷土料理である。なかなか脂っこい鍋料理で、これをパンと一緒に食べれば腹いっぱい、すぐさま元気モリモリになりそうだ。兵士や農民たちの栄養食に適している。カルカッソンヌとトゥールーズの間にカステルノダリー(Castelnaudary)という町がある。ここの農家が土鍋(cassole)で煮込んだことから名付けられたらしい。この三地域はいずれもカスレが盛んで、具材に少々違いはあるにせよ600年位前からの伝統的料理として名が広まった。(注)コンフィ(confit):風味や保存性を保つため肉等の食材を油に漬けて火を通したもの。なおブラジルの「フェジョアーダ」も類似の煮込み料理である。

 

妻と来て義父の語りしカルカッソヌ

 

 カルカッソンヌ(Carcassonne)は凡そ26年前に一人で訪れたことがある。丁度同じような季節、駅を降りて次便の列車に乗るまでの2時間シャカリキになって街歩きをした。城壁の近くまで来たがタイムリミット、シテ(城塞都市)の中に入るに至らず引き返した。この残念な思いを、以前当地を訪れたことのある義父(故人)と語り合い、将来再び近くに来ることがあったら必ず立ち寄ろうと心に誓う。かくして此処に家内と一緒に訪れ雪辱を果たした次第である。

 この城塞都市の歴史は古い。入口で貰ったパンフレットによると、最初にシテ(Cité)という要塞が築かれたのは紀元前3世紀、後期ローマ時代は堅固な城壁によって護られてきたが、やがて西ゴート族、サラセン人、フランク人に支配される。中世になってローマ教皇によって派遣されたアルビジョア十字軍に制圧され、その後フランス国王の所有になるも、17世紀にスペインとの国境が西方に後退したこともあって一時は廃墟同然になった。しかし19世紀に塔や城壁が復元され今日の姿になる。1997年ユネスコの世界遺産に登録された。とにかく広大で無類の堅城と見受ける。ここを攻め落とすには余程強力な軍隊がないと難しかろう。我々が訪れた時は、前日までの雨模様とは打って変って快晴、塔屋からの眺望は絶景なり。南西に雪を被るミディ・ピレネーの連峰、そして近くは松林とブドウ畑、さらにオリーブ園や牧草地が広がる。先代の御霊のお陰か素晴らしいお天気の一日を頂いた。

 ところが帰途、駅への道をぶらぶら歩いていたら急に天気が怪しくなってきた。晴天に虹、いやな予感がしていたら雨が降り出す。駅の待合室で休憩、予定の列車まで30分以上もある。日本で予約した列車番号が電光掲示板に出ているので安心していたが、それが到着5分前に突然消えた。驚いて駅員に尋ねると英語が話せる窓口で聞いてくれという。結局、予約していた便は運休になっているので次発の各駅停車に乗ってくれと言われる。さらに数10分待って全自由席の普通列車(TR)に乗り込み無事トゥ―ルーズに戻る。往きはTGV直行便で40分、帰りは各停の80分、それで料金は同額である。フランス国鉄SNCFの運賃システムは、一か月以上前の早割だと普通列車より高速列車の方が安いことが多い。かつ時間帯によって運賃に高低差が生じる。なかなか複雑な料金体系なので、それと旅程を合わせるには一苦労する。日本に帰ってパソコンを開いて見たら、SNCFの‘TGV in Oui’から、私たちが旅行中に起こった大雨のため、「ベジエ(Béziers)辺りの線路復旧工事により一部列車を運休する」との速報が入っていた。カルカッソンヌ駅の掲示板でもそのことを知らせていたに違いない。仏語での掲示をちゃんと読んでいなかったことによる失態である。


2022.3.1会報No.102

スペインバスク地方・フランス南西部俳柳紀行(2) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

バカンフォース渡る世のつね街歩き

 

見知らぬ街を尋ね歩くのは至難である。まず方向性、晴れていれば太陽の位置で方位が読める。地図上は平面でも実地は凸凹、段丘がある。それに街路は曲がっている。現在地が地図の上で確認できない。街並みの家屋が立て込んでいれば探すのが大変だ。ましてやバスク地方のように3種類の言語で併記された町名・番地表記は複雑怪奇である。そんなこんなで行ったり来たり‘back and forth’(行きつ戻りつ)を繰り返す。

ビルバオ旧市街の郷土料理店探しに30分以上もかかってしまった。ここでは英語も西語も通じない。返事は私の分からないバスク語である。狭い路地を幾人もの人に尋ねながら巡る。半ば諦めかけて水ボトルを買おうと立寄ったファミリーショップ、レジを一人で切り盛りする中年女性に英語で訊くも判らない。すると10代と思しき娘を呼び出して彼女に聞いてくれという。言葉が通じる娘はスマホをいじくりながら悪戦苦闘、店の外に出て同様の動作をしていたら「わかりました。この先の道をまっすぐ行って、突き当りを左に数10m行けばありますよ」と笑顔で答えてくれた。当地に住みついた華僑母娘の連携プレーでようやく目的地にたどり着く。賑やかな店内に入ろうとしたら、店員が威勢のいい声で「今、店仕舞いするところだよ。夜8時から再開するから出直して来てね」と言う。欧州や中東の常として午後4時頃までには大半の店は一旦閉店する。先のレストランの店員は「朝から働きづめだ。俺たちにも休憩時間をくれよ」と笑いながら言った。

 仕方なく3軒先のピンチョ店に入る。ここは休憩なしで店長が一人夜に備えて仕込み中、声を掛けるのも躊躇したくなるほどの忙しさだ。カウンター越しに白ワインを注文、すでに出来合いのピンチョを二、三勝手に選んで自席に運びチビリチビリと賞味する。店内には数人先客がいたが彼等も気ままに飲み食いを楽しんでいる。隣席で一人静かにビールを飲む青年がいたので声を掛けると23歳の独身男性、地元でエンジニアとして自動車関係の仕事をしている由。エンジニアと言っても詳しい説明がない所を見ると、代理店の修理工辺りではなかろうか。聞けば今日は彼の誕生日だそうだ。チカ(chica:若い女性)もいないこの哀れな男に我々が代わりに‘Happy Birthday’の乾杯で祝ってあげる。そろそろ潮時のようだ。カウンターに代金を置いて店長に一声かけ店を出る。

 

ビルバオのビスカヤ橋で肝試し

どんと来い出たとこ勝負絶景かな

 

 大西洋ビスケー湾に面するビルバオは、かつて重工業を主体にする港湾都市であった。その頃の名残りを留めるビスカヤ橋を見学に行く。街の中心から地下鉄に乗り、やがて地上に出て15分位ビルバオ川沿いを行くと鉄骨構造のか細い橋梁が見えてくる。これが1893年に開通した運搬用の橋で、エッフェル塔を製作した時の弟子アルベルト・デ・パラシオ(ビルバオ出身)が設計したものである。両岸の主塔からケーブルで支えられた橋の下を、ゴンドラと称する曳船が橋桁沿いにワイヤーロープで曳航していく仕組みである。このようにして物資や人車を運ぶわけだが、2006年に世界遺産に認定され今も現役で稼働している。

アリータ駅を降りて川べりまで歩く。この橋に上るか否か思案しながらスーパーマーケットに立寄り水や果物を調達していたら、ホテルで朝食の折ご一緒した熟年女性二人(北海道から来たという)にバッタリ出会う。彼女たちはビスカヤ橋上を往復してきたと言う。二度と来れないと思い度胸を決めて渡ったそうだ。これを聞いて私達の逡巡は吹っ飛んだ。高さ50m、川幅160m、橋上の歩道桁幅は二人並んで歩いても余裕があり、金属性網目の上を板張りにしてあった。ただし両側は吹き曝しのまま、簡易柵があるだけで見晴らしは最高、眼下を船が往来、周囲を山で囲まれた港湾都市ビルバオの繁栄が蘇ってくるような景観である。微風を感じながら一時のスリルを楽しむ。上り下りのエレベータを運転する係員に聞いたら風速7mの風が吹けば登楼は不可となる由。来て見て上って好かったと旅冥利に浸る。

    

セバスチャン美食求めてバル巡り

 

 ピンチョの居酒屋と言えばサンセバスチャンの方が本場かもしれない。旧市街の飲み屋横丁には興趣あるバルが軒を連ねる。ホテルで幾つかお薦めをノミネートして貰い、物色に出掛ける。同じように渉猟する観光客がぞろぞろ、でも時間が早い所為か営業中の店は少ない。そんな中、たまたま客で混雑している店に入り二人用の席を特別に拵えて貰う。普通はカウンターでワインを飲みながら席の空くのを待つところだ。他客の食らいつくのを参考にメニューを決め、大きな茹でタコと白身魚のコロッケ等を発注する。これが当たりの舌鼓、たまたま店名も「アタリ」、ホテルでの推薦順位は第4位の店であった。

 店内を見渡すと日本人客もちらほら、ブリュッセルからやって来た子連れファミリーや、出身地不明の熟女6人衆など。後者のグループは軽く飲食、雰囲気だけ味わって早々に引き上げる。この連中、翌日の私たちの移動先であるバイヨンヌ(仏)でも見かける。老舗チョコレート屋でお土産買いに夢中だった。今を時めく典型的な有閑ババァ集団であろう。サンセバスチャンのホテルでは、他にブダペストからやって来た日本人の若い家族連れが二組もいた。恐らく海外駐在の人たちで新天皇即位による休暇を利用しての外遊だと思われる。

 

旅行けば晴れの日もありゃ雨の日も

Traveling broadly has, not only quite a fine day, but cats and dogs’ one.

 

 今回の旅行は前4分の3が曇りないし雨、後4分の1は晴ないし曇りで、全体として雨の影響を強く受けた。特にサンセバスチャン滞在時には、とんでもない暴風雨に見舞われる。街路樹が根こそぎ倒れ、大西洋の荒波が容赦なく打ち寄せ、砕け散る白波はウルメア川を遡上する。モタ城への道はすべて封鎖され外海岸へは近づくことができない。どこにも行けなくなった観光客はコンチャ湾内を散歩して旧市街へと足を運ぶ。中には立入り禁止テープをくぐり抜け少しでも怒涛に近づいて、この稀有な波しぶきの記念写真を撮ろうと挑む。当日朝私たちは外出を試みるも、傘が差せないほどの強風と激しい雨に一歩も進めず、結局、半日ホテルにしけ込んで天候の回復を待つことにした。当初サンセバスチャンは1泊2日で通過の予定だったのを2泊に変えた。土日にかけてホテル代も高く、できたら1泊に止めたかった。しかし、ここのホテルは1階ロビーには飲み放題の飲料とスナック類があり、時間の制約はあるが部屋への持ち込みも可、さらに室内小型冷蔵庫の飲食物も全て無料であった。これらのお陰で心置きなく嵐が過ぎ去るのを待つことができた。結果はオーライ、かくして午後には風雨も収まり市内散策に出掛けた次第である。

 スペインTV放送の24時間ニュース番組を観ていたら、この季節外れの嵐による被害はあちこちで発生、特に地中海沿岸寄りではヤシの樹が多数倒れ、交通事故や死者まで出たと報道されていた。つい一か月半前の千葉県を襲った台風被害を思い出す。わが家から500m離れたスギ林でも同じように多くの倒木が見られた。サンセバスチャンの被害は比較的軽微だったらしく我が旅の続行に支障はない。不幸中の幸いである。第2句は英語俳柳。

 

雨の中パスポートチェックで国跨ぐ

ビアリッツに何しに来たかG7(じーせぶん)等(ら)

 

 サンセバスチャンからバイヨンヌへはバスで行く。鉄道を使う手もあるが、これが簡単で時間も早い。山中を貫くハイウェーを降りて所々途中の街に立寄る。高速道路沿いには牧場、工場や倉庫、そして瀟洒な別荘風の館もあり、バスク地方の活気が伝わってくる。大型バスの運ちゃんは道に無案内と見えて、街区に入ると女車掌の指示に従って運転する。二人とも熟年の老々コンビ、車掌は風邪を引いているらしく咳が止まらない。見かねて「のど飴」を取り出し彼女に渡す。「メルシー」、二人の会話も仏語、フランス系バス会社の運行である。こんな運転手と車掌で大丈夫かなと思っているうちに、フレンチバスクの領分に入る、ここで厳めしく銃も携えたポリスのパスポートチェックを受ける。相変わらずそぼ降る雨の中、しっとりとしたスズカケ街道を走り、いかにもフランスらしい可愛い家並みのサンジャン・ド・リュズを過ぎてビアリッツ空港に着く。ここまで来ればバイヨンヌはもう近い。

 ビアリッツの飛行場からそう遠くない海辺には、2か月ほど前に世界7か国首脳が集まり会議を開いた由緒あるホテルがある。ナポレオン3世妃ウージェニーの別荘だった所だ。辺りは19C以来の王侯貴族の保養地で、今でも大西洋岸屈指の高級リゾート地である。ここで世界首脳は何を語ったのであろうか。「会して議し、議して決し、決して行い、行ってその責めを負う」、これが会議の鉄則である。トランプ氏や安倍首相、その他皆々ご夫人同伴で会合を持ったはずである。しかし世界はますます混迷を深めるだけで何一つ解決していない。皆さんは高級ワインで乾杯、フランス料理を頂いて和やかにお友達同士談笑されただけだ。ホスト役のマクロン君はこの円満会食に全力を注ぎ、フランス国内に幾多の問題を抱えながらも悲しきピエロを演じたわけである。そんな雑念に耽っていたらアドゥール川沿いの停留所にバスが着いた。何もない川べり道を傘差しながらホテルまで黙々と歩く。川面を伝わり寒風が吹き付ける。さらに雨脚が強くなったようだ。


2021.12.5会報No.101

スペインバスク地方・フランス南西部俳柳紀行(1) 

(2019年10月29日~同11月12日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

わが旅はインバウンドの欧州路

ストップオーバー旅の仁義や方違(かたたが)え

 

 私のヨーロッパ旅行もかれこれ20回を超える所に来た。なぜヨーロッパを巡るのか、そこには歴史と文化の糧が詰まっているからである。そしてEUとしての統一は、単一通貨とシェンゲン条約で国境を意識せず自由通行ができるというメリットもある。勿論、諸国言語の壁はあっても英語をベースにすれば意思疎通に事欠くことはない。それに世界人類史の培養基として人流・物流・金流を構築してきた地勢的条件が整っている。陸路だけでなく地中海やバルト海から大西洋まで河川と運河の水脈もある。今回の旅は、今まで置き去りにしてきたスペインバスク地方とフランス南西部を踏査するのが目的である。俗に美食・ワインの産地として人口に膾炙され、その意味では目新しさはない。もう一つ付け加えるならば、サンチャゴ・デ・コンポステーラに通じる巡礼路の出発点に近く、聖地探訪に繋げたい意図もある。そのため最後はピレネー山脈越えを狙うつもりである。

 先ずは、その前に私のヨーロッパへのハブ空港であるカタールのドーハに立寄り市内で一夜を明かす。これは旅の災厄を払う儀式にも通じよう。わが家から見たら東北の相対方向になる方違えとし、アッラーの神に安全祈願の仁義を切っておこうというものである。建前口上は以上だが、延べ20時間を超えるフライトの途中で一泊、骨休みをしたいというのが本音である。

 

払い過ぎチップが謎解くタクシー代

買物は交渉次第値札なし

出稼ぎの外国人が国支え

 

 早朝のドーハ着陸、荷物を受け取って未だ真っ暗な中タクシーを走らせホテルへと急ぐ。レセプションでチェックインの手続きを終え、いざ部屋へとコンシェルジュが案内してくれる。ホテル到着からこの間、彼はずっと私の荷物をしっかり管理、室内の機器操作や注意事項を説明してくれた。あと何か用事があったらご連絡をとなったところでチップを渡す。空港で換金した現地通貨から少額でも渡そうと思ったが、手頃な5リアル紙幣がすぐには見当たらない。あまり意識せず同じ財布の中にあった5ドル紙幣を渡してしまう。彼が部屋を出た後「やり過ぎたな」とボヤクも後の祭り、「オマエがチップを渡せと急かしたからだ」と家内に八つ当たり、二人で口喧嘩になる。

ところが翌日チェックアウトのとき、このバングラデシュ出身のコンシェルジュがにこやかに声を掛けてきた。「空港までのタクシーなら私が手配して上げましょう。24リアルで行かせます」と、こちらがびっくりするような安値を提示、「あと5分で来ますから」と大変ご機嫌な振る舞いで私たちの荷物を運び出す。実は、前日カウンターにいたインド人レセプショニストにタクシーの予約をお願いしたら、当日受付で申し込めば40リアルで行けますと言われ、そのつもりでいた。ドーハに着いたとき乗った正規の空港タクシーはメーター制で50リアル払った。一体全体ドーハのタクシー料金はどうなっているのか。正規料金でタクシーに乗るのは愚の骨頂、白タク横行の実態を知る。タクシー運転手は殆どが他国からの出稼ぎ労働者、今回は行きも帰りもパキスタン人だった。最後に空港まで運転してくれた運ちゃんは、車内で「24リアルだね」と念を押したらしぶしぶ応諾した。でも飛行場で降車の際、私は30リアル支払った。中央アジア辺りから皆々苦労して出稼ぎに来ている人たちだ、できたら平等に料金を払いたいとの思いからである。

    

 

 物価の値段についても一般には値札は付いていない。スークワキーフの市場を冷やかし散策した。日本で着ても涼しそうだなと思いながら、真っ白なアラベーヤの衣服を眺めていたら、店主が色々説明してくれた。安いのでは200リアルからあるが上限はきりがない。その中で私に勧めたいのはこれだと取り出したのが800リアルの代物、もしこの場で購入されるなら700リアルにおまけすると言う。こちらは元々買う意思はなく、サイズが大きいのは調整してくれるのか、頭に被るハッタはあるのかと勝手な質問を発して結構楽しむことができた。値段交渉の始まりは此処から。店主も客の居ない時間帯、無聊を変な日本爺との親善会話に尽くしてくれたわけだ。また水を買い求めんと、大型のペットボトルを脇において雑貨を売っていた露天商に「その水は何処で売っているか」と尋ねたら、自分の店を近くの友人に頼んで私たちを数十m離れた販売店まで連れて行ってくれた。砂漠の地では飲料水は意外と高くかつ必需品である。この店、近辺のボトル価格よりかなり安かった。一見の観光客相手ではなく地元の人が直接買う店がちゃんとある。郷に入れば郷に従うのが上善である。

 

いつもフリーおらがムセオのプラドかな

 

 なぜゲートインにマドリッドを選んだか。今まで3回の訪問時はアトーチャ駅や中心街ソルに照準を当てて宿を取ってきたが、バスク地方への玄関口でもあるチャマルティン駅周辺にも興味があったからである。当初マドリッド空港からのアクセスを心配したが、スペイン国鉄(renfe)に乗れば空港T4ターミナル駅から3っ目がチャマルティンだ。実に最短明瞭な立地にある。この時の乗車券は2時間有効なのでホテルチェックイン後の行動に追加料金を払って活用した。アトーチャ駅までレンフェに乗って移動、今旅行最初の目的であるプラド美術館見学へと向かう。午後6時の無料入館に合わせて辿り着くとすでに長蛇の列、直ぐ後ろに並んだ人から「入場無料はEU加盟国の人に限定されている」と言われ、「そんなことはないはず、3年前の訪問時も同じように無料入館しましたから」とは言ったものの、その後変更されたのか不安になり正面玄関まで係員に確認に行く。長い行列にはアジア系の人たちも並んでいた。とんでもない法螺を吹く奴(中年の女性)がいるもんだと、このEU女に言葉を荒げて「予定通り私たちは入館しますよ」と一矢報いる。

 私にとってプラド美術館は三回目の観賞、大方の展覧物は既知のはずだが、印象に残っている物は少ない。今回の狙いはゴヤ、中でも「裸のマハ」と「着衣のマハ」に的を絞って鑑賞、この一対の絵画の主人公たる美女の表情には微妙な違いがある。わが家の雌犬(老犬)はいつも裸のマハのようにソファに横たわる。この姿態が何とも艶めかしく、愛犬とゴヤマハの同一視から実物に再会したくプラドを訪れた次第である。入館6時半から1時間足らずで退出、辺りはすっかり夜の気配に包まれ、前庭の街灯が色づいたカエデを鮮やかに照らし、重厚な美術館の建物もライトアップされ一層ゴージャスな雰囲気を醸し出す。ここは間違いなく「私たち専用の美術館」である。(注)マハ(西語maja:いい女)

    

 

晩秋の車窓を飾る黄葉(こうよう)かな

殺伐と荒野の如き農閑期

 

 レンフェの長距離列車でビルバオに向かう。早朝の出立とあって朝食は出来合いのものを調達、駅の待合室で頂く。まだ時間に余裕ありと見ていたが、電光掲示板にチェックイン開始の表示が出る。急いで飲みかけのコーヒーカップを手にしながら出発ホームへ、カップを脇に置いて荷物類をX線装置に通す。慌ただしい一時を過ぎれば後は一等指定席で寛ぐだけだ。約5時間、車窓からスペイン北部の晩秋風情を楽しむ。天気は曇り、街並みや原野の佇まいまでがどんよりしている。秋の収穫が終わり冬を迎える時期、田畑に人影や牛馬の姿なく、どことなく物寂しさを感じる。それを打ち消してくれたのが青松をバックに欅やプラタナスの黄葉である。マドリッドから列車は北へセゴビア、バリャドリッド、ブルゴスを経てミランダへ、ここでサンセバスチャン行きとビルバオ行きの部分に分けられ、それぞれ4両編成となって終着駅へと向かう。

 南部の柑橘類や広大なオリーブ畑の景観とは違い、北部は穀薯類や酪農が主体の農業なのであろうか。また主要都市を含めどこか産業自体が不活性化している印象を受ける。鉄道も途中、異電圧区間を跨ぐところもあって減速・停車する。高速道をぶっ飛ばす自動車を遠く近くに眺めながら、鉄路輸送のインフラ整備の遅れが感じられる。昔日の栄光とは裏腹にカスティーリャ地方の後退を覗き見た思いである。


2021.10.1会報No.100

ハンガリー・オーストリア・ドイツ俳柳紀行(最終回) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

ドナウ川塩が行き交う人類史

産地より消費地安価塩加減

 

 ドイツ・バイエルン地方をドナウ川は貫通するように流れる。その河畔にあるレーゲンスブルグの街を一目見たくなり訪れる。ミュンヘンから片道2時間弱、列車は長閑な田園風景の中を走る。ここはローマ時代からの要衝で塩の交易などで栄えた古都である。その倉庫兼管理棟が新・旧市街を結ぶシュタイネー橋のたもとにある。ドナウの川面に遊ぶマガモが餌を貰えると思って気安く近づいてくる。南ドイツ・ウルムから発してドナウの流れは西から東へ、ドイツ(パッサウ)→オーストリア(リンツ、ウィーン)→チェコ(プラチスラバ)→ハンガリー(ブダペスト)→セルビア(ベオグラード)と流れ、ルーマニアの湿原三角州で黒海へ注ぐ2,850㎞の水路である。ハルシュタット(オーストリア)やヴィエリチカ(ポーランド)の岩塩も、先史時代からドナウ川を介して流域の人々の生命を支えてきたのであろう。

 レーゲンスブルクの旧市街は世界遺産に登録されている。大聖堂(ドォーモ、13~14C建築)や17C後半に神聖ローマ帝国議会の建物だった旧市庁舎など、石畳の迷路じみた市街とともに歴史の重みを感じる。水ボトルを求めて新市街のスーパーマケットに立寄る。ここでも岩塩の土産品が売られていた。定価を見たらハルシュタットの土産売り場のそれと比べ半額以下、こりゃ一体どうしたことか。産地から遠く離れた河べりの街なのに、絶対買わない手はないと大きい袋で購入する。

 

ミュンヘンや飲んで騒いで皆元気

何てったって老舗ビヤホール丸飲みや

 

 ミュンヘンに来たら必ずビヤホール、それも元はバイエルン侯国宮廷直営ビール会社だったホーフブロイハウス(Hofbräuhaus)を訪れる。年季の建物にいつも大勢の呑み助が集い、音楽演奏を聞きながらジョッキ片手に賑わう。地元の常連も一見の観光客も酔うほどに語らい浮世の一期一会を謳歌する。我々も重いリッター・ジョッキでまずは辺りの人々と乾杯を重ねる。旬のシュパーゲル(ホワイト・アスパラガス)に茹でた白ソーセージ、ジャガイモとソテー等を肴に大きなプレッツェル(ドイツ・パン)をかじれば、やがて満腹、鼓腹撃壌と出来上がる。隣席の女性の勧めで店専属の愛飲家たちとスナップショット、聞けば86歳の老爺もいる。ここは庶民の気さくな社交場なのだ。

 

オリンピック公園緑地の置き土産

旅行けば上にゃ上あり愛犬家

 

 第20回夏季オリンピック(1972年)はミュンヘンで開催された。当時のことはすっかり忘れてしまったが、その数年後ドイツを訪れた時は空港のチェックが物々しくなっていた。やはりオリンピック開催時の銃乱射事件の影響の所為であろうか。それから47年後、オリンピック会場を訪れ、半世紀近い時間の経過でどのように変わったのか見ることにした。オリンピック起源の競技場を偲ぶような小さなスタディアムと体育館に、イベント会場などが付加され広大な緑地の一部に残る。むしろ池や丘を配した大規模公園へと変貌した。ただし高速道が近くを通るので騒音が気になる。丘の頂上からミュンヘン市街を一望することができる。景色を堪能して丘を下る途中、思わぬ犬飼族に出くわす。7匹連れの中年女性が自転車で上ってくる。うち4匹はイタリアン・グレイハウンド、他3匹は別種大型犬である。当方はイタグレ1匹でもようやく飼っているのに、これはまた偉い飼主に出会ったものだ。いろいろ話を聞きたいところだが、その日の離独予定で慌ただしく、「犬がたくさんいてお幸せですね」と義理挨拶程度に止める。犬世話の大変さが頭を過ぎり、正直な所、とてもそれ以上の追究は不能と判断した。

 

自動車の本丸訪ね人気知る

 

 ダイムラー、ベンツに次いで長い歴史を有する自動車メーカーBMW本社を覗く。BMW(バイエルン・モーター工業の略)は、元はと言えば二輪車からスタート、航空機エンジンも手掛けたことがある。18C末創業の自動車メーカーだが、特に商用車として戦後の発展は目覚ましい。最新モデルを展示する会場には、多数のモーターファンが詰めかけ熱心に見物している。特に子供たちが社会見学の一環として先生に連れられ来館している有様に頷かされ、肯(ガエン)じる次第である。

 

欧州路民度は上質落し紙

小銭要る何処も有料トイレかな

生理費用水より高き小便代

 

 日本から外へ出れば何処も有料トイレが常識、公衆便所の入口には厳つい小母さんが客を待っている。国情にもよるが1回の使用料は大体50~200円位、清掃員へのチップ代くらいに思えばよいのだが、飲料水のペットボトル1本の方が安い所もある。また発展途上国では、一般にペーパーの備え付けが無く入口で落し紙一切れ分を渡される所もある。そんなトイレでも清潔ならよいが、ろくに掃除をしていない所にぶち当たったら「カネ返せ」と言いたくなる。しかし今回の訪問地はどこも民度が高いと見えて、有料・無料に関わらずトイレットペーパーはすべて立派な上質紙であった。旅行中は、ほとんど有料トイレを使わず、ラウンジやカフェ、レストラン、ショッピング・モールと、機中や車中のトイレを使用した。「無料」でもみな「優良」トイレである。

 

WiFiもラウンジスペース専用か

 

 最近は空港やホテルなどWiFiの利用範囲が広がってきた。スマホ片手に遠く離れた日本とも通話ができる。最早、旅の必需品と言っても過言ではなかろう。しかし場所によっては、なかなか通じないこともある。現地の慣れている人に聞いても、いろいろいじくり回した挙句「おかしいな」と言ってギブアップすることも。本来、通信機能が発達している筈の空港内でも、通話が可能な場所とそうでない場所がある。貴賓ラウンジでは大抵繋がるのに、そこから一歩出れば通話不可。幹線鉄道中央駅でも同じことが起こる。特定SIMを装着していないと差別化の対象になるらしい。地獄の沙汰もカネ次第ということか。

 

オーストリア石投げ当たるモーツアルト

長旅もミュージック三昧ひま潰し

クラシックや坊主の読経と同じかな

 

 中欧はクラシック音楽ファンにとっては垂涎の地であろう。名だたる作曲家や演奏者が綺羅星の如くいる。特にオーストリア、首都ウィーンは勿論、地方に行っても彼等の高名に出会わないところはない。ウィーン古典派三巨匠の1人モーツァルト(Mozart, 1756~1791)は、「無駄な音がない」と言われるほど洗練された曲を多数(約600曲)作曲した。彼の家系はドイツ・アウクスブルグの出身だが、本人はザルツブルグの宮廷音楽家の元に生れた。幼少時から音楽に励む環境が整っていた。ウィーンのシェーンブルン宮殿には彼が6歳のとき御前演奏した部屋があり、歌劇「フィガロの結婚」を作曲した住居モーツァルトハウスがある。ウィーン中央墓地にはベートーヴェンやシューベルトの墓とともに彼の記念碑が建つ。また新王宮のブルク公園にも楽器をもつモーツァルト像がある。かくしてオーストリアで石を投げれば必ずモーツァルトに当たることになる。

 ウィーン古典派三巨匠の他の二人はハイドン(Haydn,1732~1809)とベートーヴェン(Beethonen,1770~1827)、前者はオーストリア、後者はドイツの出身である。彼等同時代の三人がお互い切磋琢磨して古典音楽を高度に昇華していったのであろう。普段クラシック音楽とは無縁な小生であるが、長時間フライトの無聊を紛らわさんと機内ミュージックに耳傾ける。思うに任せぬ選曲メニュウの中でベートーヴェンを見つけて夢想のBGMにする。どうせ聴いて役に立つ曲ではない。コーランの読経の方が音楽的要素もあり面白そうだ。その方が少しはアラビア語の勉強になるのではなかろうか。

 

気がつけば異文化狩りがガラパゴス

ミイラ取りいつの間にやらミイラかな

陶酔の未来求めて旅するや

 

 異文化を探し求めて世界を徘徊するも行き着くところは皆同じ。どうせ人間どもの生き様は一時的に位相は違っても究極は同一文化共同体、ホモサピエンスそのものに帰着する。しかし一方では、宗教、国籍、地勢などの多彩な属性を乗り越えて、今や個性化、情報化、国際化の流れは加速の一途を辿り、人類のフレームワークさえ大きく変えようとしている。そこから生ずる価値観の変容はすさまじく、あらためて化石人間化している自分に気づく。人類多数派から見れば己こそ希少種に分類されよう。かくしてミイラ取りがミイラになる(Go for wool and come home shorn)。然らば丸裸のミイラ(mummy)となりて先進人類を見上げ、新しい旅の目的と在り様を再構築せむ。過去の異文化、即ち人類史との照査考察も必要だが、これからの人類のあるべき姿を求め、我もまた未来異文化との闘いという課題を得て、ようそろ魅惑の旅路へ舵を切ることにしよう。(完)

 

<日程>

5/6(Mon)  HND(QR813)00:01→06:00DOH Stop-Over 空港で換金後777バスでウェストベイ地区Ascottへ、ホテルチェックイン後散策(City Center Mall等)、ドーハ泊(Marriott Marquis City Center Doha Hotel)

5/7(Tue) 早朝タクシーで空港へ、チェックイン(朝食)、DOH(QR199)08:20→12:55BUDリスト・フェレンツェ空港(換金、ブダペストカード24h購入)→市内中心部(デアーク広場)へ(100Eバス)。 ホテルチェックイン後市内散策(キラーイ温泉etc.)、ブダペスト泊(Mercure Budapest City Center Hotel)

5/8(Wed) am.トラムで鎖橋へ王宮の丘、漁夫の砦など踏査、センテンドレへ(HEVで往復)、pm.ブダペストへ戻り市内散策(中央市場、etc.)、ブダペスト泊(Mercure Budapest City Center Hotel)

5/9(Thu) am.ブダペスト市内散策(マーチャーシュ教会、国立歌劇場、アンドラーシ通り、英雄広場etc.)、pm.列車でウィーンへBudapest Keleti13:40→16:18Wien Hbf、ホテル チェックイン後ウィーン市内散策(ベルヴェデーレ宮殿etc.)、ウィーン泊(Novotel Wien Hauptbahnhof)

5/10(Fri) 終日市内散策(ホーフブルグ(王宮)、庭園(モーツァルト像)、宝物館、ペーター教会、ペスト記念柱、シュテファン大聖堂、ナッシュマルク市場、カフェ・ザッハ等)、ウィーン泊(Novotel Wien Hauptbahnhof)

5/11(Sat) 列車でザルツブルグへ、Wien Hbf09:55→12:48 Salzburg Hbf ホテルチェックイン後市内散策(ミラベル宮殿、三位一体教会、モーツァルトの生家、レジデンツ広場、大聖堂、ケーブルカーでホーエンザルツブルグ城へ etc.)、ザルツブルグ泊(H+ Hotel Salzburg)

5/12(Sun) 鉄道でザルツブルグ駅09:12→0958アットナング・ブッハイム(乗換)10:11→11:24ハルシュタット駅、フェリーでハルシュタットへ、マルクト広場のカトリック教会、ゼー通りをケーブルカー山麓駅へ歩き(15分)ハルシュタット塩坑へ徒歩15分(見学ツアー約70分&ケーブルカー往復料金込み€26/人)、列車&バスでザルツブルグへ戻る(19:00頃)、ザルツブルグ泊(H+ Hotel Salzburg)

5/13(Mon) 列車(メリディアンのバイエルン2等Super Spartrets切符)でミュンヘンへ、一旦ホテルに荷物を預け列車でアウグスブルグ往復(ICE片道30分、市庁舎・大聖堂etc.)、ミュンヘンに戻り市庁舎界隈散策(ホーフブロイハウスで夕食etc.)、ミュンヘン泊(アートホテル・ムニック)

5/14(Tue) am.列車でレーゲンスブルグ往復(IREで片道1.5時間、市内散策(大聖堂、シュタイネー橋、旧市庁舎、聖エルメス宮殿)etc.)、pm.ミュンヘンに戻り市内散策(英国庭園、ヴィクトアーリエン・マルクト等)、ミュンヘン泊(アートホテル・ムニック)

5/15(Wed) am.ミュンヘン市内散策(オリンピック公園、MBW博物館、テアティナー教会、フラウエン教会(悪魔の足跡)、レジデンツ庭園etc.)、pm.空港へ、MUC(QR058)16:55→23:30DOH、機中泊

5/16(Thu) DOH(QR806)02:10→18:40NRT (機中泊)、北総線にて帰宅

 

<費用>

総額:444,028円(2人分)、換算単価:\128/€、\112/US$、\31/QAR、\0.5/Ft(フォリント)

内訳:航空賃193,920円、交通費51,830円、ホテル代141,650円、飲食費29,526円、   入場料等18,699円、土産・他8,403円


2021.8.1会報No.99

ハンガリー・オーストリア・ドイツ俳柳紀行(2)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

世(よ)変わるも花持ち集う終戦日

 

 5月9日はオーストリアの終戦記念日だという(The end of war against Soviet)。オーストリアの歴史は神聖ローマ帝国、ハプスブルグ家(王朝)の時代を経てプロイセン、ロシアとの関係に揺れる。普・露・墺の三帝同盟(League of the Three Emperors:1873年締結)後、仏の台頭もあり普・伊・墺三国同盟(Triple Alliance:1882~1915)に動くも、欧州の連合関係は複雑な展開を見る。これはパン・スラヴ主義とパン・ゲルマン主義の対立が根底にあり、オーストリアは1938年以来ドイツに吸収され、枢軸国形成に加わり第二次世界大戦へと突き進む。戦後は英・米・仏・ソ4連合国の管理下に置かれるも、戦前からの対立国ソ連から執拗に狙われる。それでも1955年5月国家条約で独立を回復、同年10月永世中立国となってソ連の容喙をも完全に遮断する。

 このような背景があっての終戦記念日かと改めて思い知る。ベルヴェデーレ宮殿の下宮を抜けて楽友協会方面に歩を進めて行くと、中央に噴水を構えた大きな広場がある。軍服や民族衣装を着た大勢の人々が手に手に花束を持って集まって来る。傍にいた若い二人連れに声を掛ける。二人のたどたどしい英語を繋いでみると、70年前の対ソ連防衛戦の終焉を記念して祝う集いだということが分かった。彼等の祖父や祖母たちの団結と犠牲によってもたらされた勝利だと強調する。世代を跨ぐ老若男女に暗い影はない。祭壇に持参の花束を添え、みな和気藹々談笑、今日の平和を享受する。ついでに街頭デモ行進を行い解散する。

 

セレブるや一重(ひとえ)二重(ふたえ)に見栄を張り

カルチャーぶる鴨(かも)葱(ねぎ)背負う観光客

感激で眠気もとれる歌劇場

 

 ウィーンのリング内の繁華街には多種多様な人間が蠢く。一般に派手で賑やかなムードが漂う。ホコ天(歩行者天国)を特異なコスチュームで練り歩く者や、街頭パフォーマンスで大衆を惹き付ける者、また大きなブランド名の買物袋をぶら下げた女性や、パリッと身形を決めた紳士も見かける。金持ちもいれば乞食もいる筈だ。彼等の国籍もまちまちであろう。特に国立オペラ座界隈では名だたるホテルやブランド店、レストランが品格を競い合い、集まる人間どもも上品ぶる輩が多いように見受ける。そんな観光客をカモろうと古式衣装を着用して道行く人に「今宵のオペラ観劇はいかがですか」と客引きする。己は文化人だと、のぼせ上がった連中が誘いに乗る。ウィーンはやっぱり見栄っぱりが跋扈する街のようである。でも実際にオペラ観賞の御仁は皆没我の境地に陥る由。第3句、感激は観劇に通ず。

 

ガフェするやお菓子の梯子(はしご)ウィーン市街

街楽しトラム地下鉄乗り継ぎて

 

 シェーンブルン宮殿やウィーン西駅周辺は探査済み、今回はリングという環状線内側の見残し所に絞って踏査しよう。二度目のウィーンともなれば各種乗り物を熟(コナ)して行きつ戻りつ気ままに巡る。ウィーンは昔からお菓子の街、王家へ献上の銘菓がいくつもある。名門ホテルが兼営するカフェ・ザッハー、一度は体験しようと企んでいた場所、お上りさん気分で立寄る。店内には気取ったお歴々がケーキや食事に至福の時を過ごす。勿論、同類の日本人もちらほら、お行儀よくザッハートルテを賞味する。チップもたんまり置いて自己満足する。その日の午後、場所を変えて1788年創業の皇室ご用達のケーキ店デーメルを訪れる。午餐に近い時間帯とあってか店内は満席、立ちん坊の席待ち客で大混雑、とても待ちきれない。店のショーケースに並ぶケーキを買ってテイクアウト、立派な紙袋に入れて貰い、そおっとホテルに持ち帰る。大抵のホテルには湯沸かしポットとティーバッグが置いてある。ゆったりと二人だけの午餐を楽しむ。これが一番の正解である。

 

これでもか奢侈(しゃし)を誇示する王宮展示

絢爛の一品ごとに職人技

 

 栄耀栄華を極めたハプスブルク家の本丸ともいうべき王宮に踏み込む。ハプスブルク家の覇権は、1278年に同家の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオーストリア公に就いた時から始まり、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代などを経て第一次世界大戦でオーストリアが降伏、革命で共和制に移行した1918年を以って同家による支配は終わる。この640年間、ハプスブルク家のオーストリアはヨーロッパの波乱に富む歴史の中で版図を維持してきた。ある時はオスマントルコの脅威、また三十年戦争とウェストファーレン条約、ナポレオン・フランスとの妥協、プロイセンの台頭と普墺戦争など多くの試練に耐えた。それができたのは何故か?領邦・列強との融和(e.g.血縁関係)、莫大な富の集積(e.g.塩・工芸)、宗教改革の影響(e.g.カソリックに専信)、地政学的条件(e.g.要塞堅固)等々。けだし内政では人民保護、外交では絶対主義に距離を置く等、合従連衡と余計な戦争はしないという専守防衛に徹したからではなかろうか。

 したたかなハプスブルク家の煌びやかな形見の品々を広大な王宮とシシイ博物館に見ることができる。フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリザベート(シシイ)との出会いも歴史の偶然として興味をそそられる。銀器博物館では宮廷の生活調度品が多々展示され、ザクセン経由で収集した見事な伊万里焼や、タオルの品質向上と芸術的収納法の経緯展示も面白い。とにかく豪奢な逸品ばかりで目がくらむ。その一つ一つに当時の職人たちの魂が込められ、洗練された技量の質の高さが伝わってくる。

 

中世の城塞堅固サバイバル

 

 ザルツブルグに着いたのは午後2時ごろ、天気は好し。これなら傘もいるまいと軽装で街歩きに出掛ける。そして最後はホーエンザルツブルグ城塞に上り、絶景ポイントから街全域を眺めて一日の締め括りにしようと目論む。ミラベル公園は土曜日とあって観光客でいっぱいだ。パンジーやチューリップが彩る美しい花壇、庭園の所々にユーモラスな彫刻、人々は午後のひと時を思い思いに憩う。ミラベル宮殿で結婚式を終えた花婿花嫁が仲間と写真に納まる。その頃、ポツリと水滴が顔に当たる。周囲の空を見上げると一部に黒雲が見える。でも我々の方角には動いていない。ザルツブルグはモーツアルト生誕の地、彼にまつわる見所も多い。それらを尋ねるべく歩き出すと雨脚が早くなってきた。それなら観光ポイントを外から眺めるだけで足早に通り過ぎて行く。旧市街の中心レジデンツに来ると本降り、最早街歩きは無理と判断しケーブルカーで城塞へ一気に上ることにした。

 煙雨の中、城塞テラスから一応絶景を確認、後は城塞内の展示へ移る。雨を気にせず当地・当城の曰くに耳傾ける。これが結構面白い。ザルツブルグ城は1077年大司教ゲープハルトによって着工される。当時はローマ教皇派の司教が善政を敷いて統治していた。でも完成は17C、城内には各種武具の展示や拷問部屋もあって戦乱の中世を生きてきた証を留める。実に堅牢堅固な山城である。中世は火薬以前、石球弾を撃ち込んで攻めるしかなかったのだ。下山する頃になっても雨脚は衰えない。ずぶ濡れになってホテルに戻る。

 

塩の道残雪煙る雨の中

テーマパークや岩塩坑道ハルシュタット

 

 翌日は足を延ばしてザルツカンマーグートへ、本来なら残雪の山々に囲まれた湖沼地帯、緑深き自然の中にカラフルな集落が佇む景勝地である。雨の中、今旅行最大の目的地であるハルシュタットを目指す。行きは列車を乗り継ぎ、帰りはバスでサウンド・オブ・ミュージックの舞台となった辺りを巡りザルツブルグに戻る。

 ハルシュタットは古くから岩塩鉱で栄えた町、先史時代の人類にとって塩は貴重な存在、その命の源を探る。ケーブルカーで上り数百メートル山道を歩いて坑道入口に、すでに大勢の見学者が待っている。皆汚れてもいいように指定の専用服をまといグループで行動する。その仲間に加わり狭い坑道を歩き、木製のスロープを滑り下り、トロッコにまたがって移動するなど、スリリングな見学コースである。坑内の所々で映像やサウンドによるインストラクターの説明がある。総じて1時間半、びっしりと学び・遊び・楽しむ仕掛けである。

 そもそもハルシュタットを選択したのは、古代から中欧に人が住み、往来した「塩の道」の素因を探りたかったからである。前川君と麻衣さんのコンビが繰り広げるTV「ドイツ語講座」を観て決めた。快晴の自然景観は彼等と共有できなかったが、雨中のしっとりとした湖畔の街を堪能した。そして何よりも電気もない山中から岩塩精製方法の術を知り得たことは大きい。地底で掘削した岩塩を水に溶かし地上に送る。それを再び固形化ないし粉末化して利用する。電気もない時代から続く製法は、まさに人類の知恵である。

 

観光地いずこもチャイナ占領地

世は狭しチャイナ問題よぎるかな

 

 ハンガリーにしても、オーストリアにしても、はたまたドイツにしても、今や世界中の観光地は中国人に占領されている。レッドチャイナだけでも世界人口の20%を占めるご時世である。それに華僑や台湾人も彼等と同国人に見做され、さらに日本人、モンゴルやアジア系諸国人も黄色人種として同一視されかねない。その中で中国本土からくるツアー客は圧倒的に多く、はた迷惑を顧みない横柄な振る舞い、大喚声、超派手な服装など、傍若無人な集団行動に皆々眉を顰める。それでも面従腹背、彼等が大歓迎されるのはカネを落としていくからである。

 中国共産党政権に抗するウィグルやチベット、香港や台湾など、中国国内問題の余波をザルツブルグやレーゲンスブルグに見る。ハルシュタットに行く途中、自然に溶け込む瀟洒な人家の庭先に「西蔵独立」の看板が建つ。チベットから遠く離れた地、世界遺産の中に政治問題の歪みを見る思いである。またドナウ川岸のレーゲンスブルグ、街中で信号待ちしていたら自転車に乗った若い女性から声を掛けられた。チベットからやって来た大学1年の留学生、よほどホームシックに掛かっていたのか日本語と中国語でしばし立ち話。祖国の未来に対してどう思うか時間が無くて結論まで至らなかったが、彼女にとっては大きな問題である。

 

大帝の名前と共に街栄え

大聖堂桐(きり)花(はな)添えて荘厳なり

 

 中世ヨーロッパは、キリスト教徒の聖地巡礼や十字軍の遠征などを通じて交通網の発達と交易が盛んになる。各地に帝国自由都市が生じ、地中海地域と北海・バルト海地域を結ぶドナウ川周辺も繁栄する。その一つアウグスブルグを訪れる。ここはローマ帝国創始者アウグストゥス(尊厳者の称号)の偉大な名を冠した都市で、年季の入った大聖堂(904年着工)がある。ステンドグラス(11C後半の作、世界最古)など内部は荘厳にして高貴な雰囲気が漂う。折しも満開の桐の薄紫花が辺りに香気を振り撒く。大聖堂から南に700mほど下ると、17C前半に造られた市庁舎が風格のある姿を現わす。正面には市の紋章の松ぼっくりと趣あるファサード、館内には当時の権勢を示す黄金のホールがある。この他にもドイツ・ルネッサンス様式の建物はたくさん残っている。これらは中世に財を成したフッガー家のもとに築かれた遺産であるが、当時、貧しきキリスト教徒のための福祉施設を創設したマクシミリアン大帝等の善政も忘れてはなるまい。それが街の発展を促したのである。現在、ロマンチック街道の一都市としてドイツ観光に寄与しているようだが、これからの将来像はいかに?


2021.6.1会報No.98

ハンガリー・オーストリア・ドイツ俳柳紀行(1)

 (2019年5月6日~16日)

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

未知の道旅する心満たすかな

羽田発日付も変わる深夜便

旅立つや星がきらめく菖蒲の夜

 

 今回の旅の宿泊地でドーハ、ブタペスト、ザルツブルグは初めての逗留、どんなハプニングが待ち構えているか興味津々である。旅路は未知なる道に心惹かれる。その一方、二番煎じの既知の道 は、狙い処がはっきりして明確な仮説を立て易く、それを検定していく楽しみがある。とにかく出かける前は希望と期待の塊みたいなもの、旅のしんどさなぞ微塵もない。折しも5月5日は端午の節句、本来なら菖蒲湯に浸かり晩酌で一杯のところ、まずは羽田のラウンジで前祝いしてから機上の人となる。第3句「菖蒲」は「勝負」に通ず。

 

摩天楼一炊夢見るゲストルーム

ラマダンも夜景燦然ドーハ市街

 

 カタールのドーハ空港は今まで何十回かトランジットで通り過ぎるも空港外へ出たことは無く、街そのものは上空から眺めるだけだった。今回長旅の疲れを少しでも減じておこうと一泊することにした。場所は飛行場から遠く離れたビジネスセンター地区、高層ビル街のど真ん中、一応名の通ったホテルである。近くのバス停を降りて歩く。地図の上では至近のはずだが道に迷い、ビル街の駐車場をうろうろ、人っ気のない地上に出て彷徨い、お目当てのホテルの裏口を見つけて入館すれば守衛が1人、言われるままに背負い荷物をエックス線装置に通す。そこから正面玄関フロントへと歩く。やれやれ!空港近くのホテルなら簡単なのに手間をかけてしまった。バスではなくタクシーで乗り付けるべき場所のようだ。

  

 チェックインを済ませ通された部屋は、地上36階のスペシャル・ゲストルームである。カタール航空のキャンペーンに乗っかって正規料金の10分の1の宿賃にも拘らず、まさかの豪華なツィンのベッドルーム、他に広々としたリビングルーム、書斎の間、化粧室は二つ、テレビも2台ある。びっくりついでに窓外を見ればライトアップされた夜景が一面に広がる。これがアラビア半島の一角、狭い砂漠の地で毎年一人当たりGDPの世界ベストスリーを競っているカタールなのかと思い知る。私達の本ホテル投宿の目的は‘Just Sleeping’、フロントにその旨伝え、念のため翌朝午前3時のアラームコールをお願いする。滞在24時間足らずの間にゴージャスな一炊の夢を見る。「中東跨ぐ旅の途次、雨水を凌ぐ庵あり、干天俄か慈雨降りて、一瞬夢みる昇天消地」、まさに神様の御蔭、アルハンドリッラ!

 

ラマダンにビール買うにも一苦労

ミュージアムもスークも夜間の営業や

 

 イスラム圏にはラマダン(断食月)の決まりがある。これはヒジュラ暦(太陰暦)の9月に当たり、日出から日没まで水と雖も一切口にすることができない。太陰暦の一年は354日で回る。太陽暦より11日短い。私達の到着した日はまさに断食の禊が始まる日であった。道理でショッピングセンターのレストランやカフェは全て休業状態、モール全体が閑散としている。その中で買物客が大勢詰めかけ混雑していたのがカルフール(スーパーストア)、皆々ラマダンに備えて大量の食品を買い込んでいる。我等はせめてビールでも手に入れてホテルの部屋で静かに寝酒でも飲もうとレジに並ぶが、店員は別のレジに行けと相手にしてくれない。2~3回試行錯誤を繰り返し、空いているレジでようやく買うことができた。迂闊にもラマダンの流儀を忘れていたのだ。イスラムの現地人に配慮し、酒類はそっと隠れて買わねばならない。食料調達だけでなく地元で有名なイスラム美術館やワキーフ市場も、日没後に開業という変則的な運営になっている。従って平時と違い観光客は少なく、ホテルの超割安待遇もラマダンの影響によるものではなかろうか。

 

人も荷も全て自動化チェックイン

ストップオーバー・カタールに学ぶ未来都市

 

 ドーハのハマダ空港にて初めてチェックインを体験する。24時間空港なので人の動きは多い方だが、それでも乗客はまばら、手続きはスムースに行われる。持参のコンピュータ・アウトプットシートを機械にかざせば、コンビニのレシートみたいな搭乗券が出てくる。次にこれを係員の居ない預託バッゲージ・カウンターの機械にかざすと、荷札が出てくる。バッゲージに張り付けトレイに送り込めば荷物は自動的に搬送される。かくして無人のカウンターで搭乗手続きは全て完了。勿論、我々のような機械に不慣れな者には、手取り足取り導いてくれるガイドが1人いるだけである。無人チェックイン(unmanned check-in)空港がすでに現出している。

 空港からの海岸通りはヤシの樹が続く。沿道には所々緑地帯が整備され、色とりどりの植栽や花壇の公園もある。此処は半世紀も前までは荒涼たる砂漠と殺風景な漁村が点在する浜辺であったはずだ。そういえば東端の地にはザ・パールという天然真珠産出の面影を残す一角もある。だがそれらは今や高級リゾートに様変わりしつつある。街中にゴミが見当たらない。他の中東諸国ではプラスチックやポリエステル系のごみが散乱しているというのに、此処ではタバコの吸殻すら落ちていない。早くから欧米以上に文化度の高い国造りを標榜していたからであろう。人材登用と移民受け入れ統制、外国企業活用、イスラム戒律の厳守と高度技術開発、アルジャジーラの自由・先進的広報とも相俟って国力を向上させてきた国である。

 

空港外写真撮影ままならず

バスタクシー乗り分けドーハは身分制

 

 ドーハ・ハマダ空港周囲の植栽に綺麗な黄花が咲いていた。名前が分からなかったので写真に撮り、帰国してから調べようと思った。すると近くにいた清掃員の小父さんから「空港周辺では写真撮影は禁じられていますよ」と忠告あり、「あゝ失礼しました」。ただそれだけのことだったが、よく考えれば国防や宗教上の意図から写真撮影禁止区域がある所は多い。中南米でも現地人を無断でカメラに収めようとして石を投げられた某私大教授がいた。私自身はエジプト・ルクソールで荷馬車を牽く牛の写真を撮り、飼い主から金を払えといちゃもんを付けられたことがある。勿論、即座に「人間じゃない動物が対象だ」と怒鳴りつけて無視した。中東では黒衣の女性を撮ることは難しい。遠くから望遠レンズでこっそり仕留めることになる。

 ホテルから空港に向かうタクシー、運転手は黒人、どう見てもカタール人ではないと思い「どちらのご出身ですか」と問えば、「1年前にウガンダから来ました」と言う。運転席の上部に張り付けてあるドライバー証明書の顔写真は白人系の人物、タクシー業界の裏社会を覗き見た思いである。運行されているバスの乗客は現地労働者、気の利いたカタール人はマイカーないしタクシーを利用するのが常識のようだ。以前、ドーハ空港のトランジットの折、カタールで働く若いイギリス人家族に出会った。子どもの教育費が高くて困るとこぼす。はて異なことを宣う人だ。当地では教育費も医療費も無料のはずだがと思って突っ込んでみると、「無料なのはカタール人だけ、外国からの出稼ぎ者は正規の費用を払わねばなりません」と答える。彼は母国イギリスに一時里帰りするところだった。教育費はともかく彼にとって医療費は、イギリスの方が無料でかつ手厚い治療が受けられるはずである。

 

名にし負う好きも嫌いも温泉じゃ

ブダペスト温泉浸かりローマ偲ぶ

緑葉に野鳥囀る野天風呂

 

 ハンガリーのブダペストは、古今東西名にし負う温泉の街である。それぞれ風趣ある温泉施設が幾つか散在し、地元民はおろか観光客の憩いの場となっている。早速、そのうちの一つキラーイ温泉に出向く。オスマントルコ朝の1570年に造られたものだが、湯船のある本格的温泉、別に熱いサウナ式蒸し風呂や冷たい水風呂もある。湯治客も来るのか控室も多い。男女混浴と言っても皆水着を着用して入浴しなければならない。他にジャグジーを備えた小風呂や、広い中庭のど真ん中にしつらえた露天風呂もある。私が一番気に入ったのは、この野天風呂である。冷たい外気に触れながら適温湯の噴流に身を任せることができる。丁度、何語か知れぬ言葉で話し合う髭面の若い男二人と小さな湯船に浸かりながら、鄙びた陋屋や篠懸の大木に囲まれ、時々シジュウカラなど鳥たちの囀りの中で入湯する。少々古臭いが歴としたローマンバース、大いに癒される。

 

わが処女地切符買うにも人の情

若者に助けられたる旅路かな

 

 ブダペストのリスト・フィレンツェ空港に着く。ドーハとは様変わりで一昔前のローカル空港といった感じである。バッゲージクレイムの動きも遅鈍、かなり時間が経ってからハンガリー通貨への換金、そしてバス乗り場へ急げば、自動切符販売機の前は慣れない手つきで操作する客でいっぱいだ。手に入れたフォリント貨幣を全部入れても僅かながら料金に足りない。アテンドするバス会社のおっさんが手持ちの少額コインを投入して、ようやく切符をゲットする。自販機は高額紙幣を入れてもお釣りが出てこないので、不足分はバス会社が支払ってくれたことになる。この後もリリカルな七五調律詩「旅路遥かにぎすぎすと、窮地に遭うも助けあり、心落ち着く人の情、車中に満つる呵々和声」の出会いがある。

 市街中心部のデアーク広場へは直通バスもあるが、料金をケチり市バスと地下鉄を乗り継いで行くことにした。これがまた厄介なことになる。終点で降りて地下鉄の駅探しをしなければならない。ところが捨てる神あれば拾う神もある。大混雑の市バス内、たまたま座れた席の隣にスマホを操る大学生の青年がいた。丁度1年前、日本へ旅行に行ったとか、それが話のきっかけでブダペスト交通の手ほどきを受ける。彼のスマホには東京・浅草、新幹線・富士山、京都・伏見稲荷など、その時撮って来た写真が連綿と収納されており、期せずして日本絵巻物を通覧する羽目になる。専攻はITソフトだと言う。彼の導きによって地下鉄の乗車もスムースに運び大助かりであった。

 翌日は王宮見物の後、ブダペストの北約20kmにあるセンテンドレの探策に出掛ける。14Cドナウ河畔にできた交易の街と云われるが、オスマン朝から逃れてきたセルビア人が築いた街である。教会等街中の目立つ建物は概ね17Cにできたもの、こじんまりとした街区に当時の生活文化が息づく。ブダペストから郊外電車で凡そ30~40分、途中は長閑な田園風景が広がり、古い駅舎に廃車、ほとんどが無人駅とあって懐古的風情を楽しむことができた。この鉄道の切符は自動券売機で買わなければならない。慣れないフォリント貨幣を投入しながら苦戦していると、老母と一緒の青年が手助けしてくれた。発車間際だったが、この人たちの協力によって何とか電車に乗り込む。そうでないと30分以上も次発の電車を待たねばならないところだった。

 

複雑な歴史が匂うブダペスト

目抜き通り行きつ戻りつ街歩き

 

 デアーク広場から英雄広場まで、地下鉄1号線上のアンドラーシ大通りを往復する。行きは左側の歩道を、帰りは右側の歩道と並木道の大通りを散策、時々路傍のベンチに腰を下ろして一休止、新旧種々雑多の建物を品定めしながらブダペスト市街の景観を楽しむ。

 スタートは大通りから外れるが、初代ハンガリー王イシュトヴァーンの名を冠した大聖堂(高さ96m)、これはエステルゴムにある大聖堂(高さ100m)に次ぐ大きさ、まずはハンガリーの堂々たる聖堂に驚く。ついで国立オペラ劇場、折悪しく補修中で全体がネットで覆われ入館できない。前庭に作曲家リスト・フェレンツ像を確認するにとどむ。続いて建物の庇に‘TERROR☆TERROR’の透かしが異様な「恐怖の館」、ここは、第二次大戦中はナチスの支部、共産主義時代は秘密警察本部があった所。その先道路反対側にはリスト記念博物館があり、隣接する国民人形劇場へは面白そうな人形に誘われて入館する子供たちの姿があった。その他、作曲家コダーイが住んでいた博物館など芸術・音楽に関連する施設が点在する。大通り突き当り英雄広場にも国立美術館、現代美術館などハンガリーの文化遺産がひしめき、とても短日月で見聞すること能わず。英雄広場の中心には1896年に建てられた建国千年記念碑(高さ35m)が建つ。なお、途中のアンドラーシ通りとテレーズ通りの交差点に建つビルの屋上から、今日のハンガリー経済を象徴するかのようにファーウェイとサムスンの大看板が異彩を放っていた。さて、この二つの宣伝いつまで続くか見ものである。

 

ドナウ川黄禍に淀む遺産都市

籍不明市場群がる観光客

 

 ブダペストはドナウ川を挟んで東のペスト地区と西のブダ地区からなり、あわせて「ドナウの真珠」と称され世界遺産になっている。国会議事堂、鎖橋、王宮、マーチャース教会、漁夫の砦など、名所はどこも観光客で溢れている。特に中国人のグループツアーが大型バスで次々とやって来る。その渦に巻き込まれたら最後ドナウの真珠を愛でるどころではない。這う這うの体で逃げ出すに限る。王宮の丘からドナウ川に沿って閑静な住宅街に下る。すると私達以外は誰もいない歩道を利用して、高校生が4人づつ短距離走の駆けっこをしていた。総勢40人位、スタート合図は赤シャツ、短パンの体育教師である。車もめったに通らない丘の中腹、緑の樹々に覆われた一般道が運動場とは素晴らしい。教官の指差す先には年代を感じる立派な校舎があった。屈託なき若者たちとの一会に旅の疲れも吹っ飛ぶ。

 ブダペストの地下鉄は欧州でも最古の起源をもつと言われている。現在4路線の内M3とM4を乗り継いで中央市場に行くことにした。ここの地下鉄と言えば地下深く、上り下りのエスカレーターのスピードが速い。深度、速度ともロンドン地下鉄を凌ぐのではなかろうか。場所によっては地上に出るのにエレベータを使った方が便利で安全かもしれない。ゲッレーロの丘を正面に見て自由橋方面に少し歩くとお目当ての市場がある。場内には生鮮食品から衣料、雑貨まで多種多様な店舗が並び、土産物屋やレストランなど何でもある。ために地元民はおろか観光客でいつも賑わっている。丁度、午餐時とぶつかり狭い通路は人でごった返す。ハンガリー音楽の演奏が鳴り響く中、手頃なビュッフェ方式のレストランで昼食を摂る。隣の人は何人か、何語をしゃべっているかも判らない喧噪の中での食事である。帰りしなに銘酒トカイワインを1本購入、せめてハンガリーの思い出にする。

 

クリムトや日本出稼ぎ留守訪問

 

 オーストリアを代表する画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt:1862~1918)の名画を常設展示しているベルヴェデーレ宮殿を訪れる。土地勘はあったはずだが、ホテルから至近の場所にも拘わらず勘違いし遠回りをしてしまう。何人もの人に道を尋ねてようやくたどり着くも閉館時間になってしまった。ヴェルサイユ宮殿を模した広大な庭園だけ散策し、次の目的地へと足を運ぶ。今回はこれで良し。というのも彼の主作品は東京都美術館の「クリムト展ウィーンと日本1900」に貸出中、帰国後日本でじっくり鑑賞すればよい。主の居ない立派な住まいだけを見てまずはご挨拶とした。

 クリムトの作品は浮世絵の影響と金箔使用、平面画法になるものが多く、その変化の流れを東京に戻って確認する。父は金工職人、兄弟も美術関係の家系、さらに描画を競う友人にも恵まれる。ウィーンでは従来の宮廷絵画に飽き足らず、「分離派」を結成(1897年)、斬新な芸術の創出を目指す。「女の三世代」、「ユディットI」等の名画を残し、さらにデザイン性を帯びる「ベートーヴェン・フリーズ(部分)」や、晩年にはザルツカンマーグートに移り住み「丘の見える庭の風景」など癒しの風景画をものす。興味尽きない異質の画家である。


2021.3.1会報No.97

南イタリア俳柳紀行(最終回) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

ヴィールスよりヴィーナス愛でたしイタリアに

金(かね)落せ菌は落すなアジア人

 

 イタリアの地勢は日本と似ている。山あり谷あり島嶼あり、北のフランス・スイス・オーストリア・スロヴェニア国境から、西のリグリア海・ティレニア海、南のイオニア海、東のアドリア海へと三方は海に囲まれ、険しい山岳地帯がある一方平坦地は少ない。その少ない適地を利してブドウ栽培や酪農、営農を行う。火山噴火や地震の災害も多発する。そんなアジアとは遠く離れた南欧の国にどうしてコロナウイルスが入り込んだのだろう。今や地球上の交流は、距離の遠近を問わず複雑に入り組みグローバル化は進む。中国人観光客だけでなく中国へ商用で出かけるイタリア人も多い。北部ロンバルディア州で最初の感染者が出たというニュースを知ったのは、実は旅行中の1月末だった。私たちの旅は南部、せいぜいローマが北限である。確かにローマでは比較的中国人が多く、宿泊したホテルでもかなり見かけた。中国本土でのコロナウイルス蔓延のニュースを聞いても、まだ実感としてはピンと来なかった。中伊交流の歴史は日伊のそれより古い。シルクロード交易の昔から数々の物品が両国間を往来した。中世にはヴェニス商人の東方貿易もある。マルコポーロの東方見聞録はその頃の事情を伝える。さらに2世紀を経ると北京で没したマテオ・リッチ(イエズス会士)の布教活動もあった。そして中伊の絆は深まり今日では中国での事業に係わるイタリア人も多い。彼等が春節休暇に一時帰国することもあり得よう。中には保菌者がいるかもしれない。伝染は中国人観光客からかイタリア人によるものか定かではない。イタリアにはローマ時代からの遺跡が多数ありユネスコ登録遺産の数はトップクラスだ。さらにファッションやスポーツ等のイベントも盛んである。年間を通じ世界中から人々を呼び込み、国家財政に占める観光収入の割合は大きい。コロナ菌は要らない、欲しいのは菌ではなく金である。しかし欧州諸国の中で真っ先に中国からの「貰い火」が大火となり呻吟する羽目になった。

 

打上げはイタリア統一エマヌエーレ

 

 旅の打上げは俗称ヴィットリアーノ「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の見学である。ローマのランドマークみたいな存在でありローマ観光はここから始まるのが一般的、それが最後になってしまった。朝一番で出向くも未だ開門していない。東京から来た一人旅の熟年男性と出会う。彼は27年振りの再訪で何か変わったことがないかと興味津々、「毎月第一日曜日はサンピエトロ寺院など主たる施設は入場料が只になるはずだ」と言う。「それは好いことを聞いた、もう少し後でまた来ましょう」と挨拶を交わして別れる。前日一部見残したフォロロマーノの復習や近辺を散策して再びヴィットリアーノへ、一階部分の狭い入口から中に入ると、そこはイタリア軍事博物館になっていた。大理石の荘厳な建物、2、3階へと陸海空軍の遺品が陳列されている。帽子を被ったまま閲覧していたら係員から脱いでくれと注意される。ここは1861年3月17日イタリア王国を樹立したサルデーニャ王エマヌエーレ2世を祀る聖堂なのだ。失礼ついでに日伊修好通商条約締結(1866)、日独伊防共協定(1937)の話を係員に投げ掛け返礼とした。ともあれイタリア共和国の成立は、当時のベニート・ムッソリーニ首相率いるファシスト党が崩壊し連合国側に靡いた戦後(1946)になる。聖堂から一旦外に出て裏手に回るとエレベータがある。折よく空いている。高さ80mの屋上まで一気に登ると、そこは360度の別世界、ローマ市街が一望に広がる。近くは足下に人が蠢くヴェニス広場、昨日訪れたコロッセオやコンスタンティヌス帝の凱旋門、遥か北西方向に目を転じればヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂まではっきり見える。天気晴朗、壮観な絶景を丸々無料で堪能して最高のローマを後にする。

       

朝一番のヴィットリーノ(エマニエル2世像前) コンスタンティ帝の凱旋門

エマヌエル2世記念堂屋上 ヴェネチア広場に群がる人と車

 

イタリアに菌もて追わる旅せわし

ゴビ砂漠機上の小便慈雨となれ

中東の火種も消さん我が放水

 

 いつも行き帰りのフライトが何処を通るか興味がある。行きの成田・ドーハ間は日本海沿いに韓国を横断、北京からゴビ砂漠、アマルティを抜けてイランのシラスへと通常のルート、帰りのドーハ・成田間は珍しく南回りでアーメダバードから、ムンバイ、コルカタとインドを横断して中国の昆明、貴陽、合肥、上海へと抜け、済州島を経て日本へ。他方ドーハ・ローマ間は往復ともほぼ同じクウェート、イラク、シリアと地中海上のコースである。問題の多い地域を通るたびにいろいろ思いが巡る。中国からの偏西風に乗ってコロナ菌が日本に飛んでくるのを抑えられないものか。私にできることと言えば、小便でも振り注ぎ黄土に湿り気を与えるくらいか。それも良し、またペルシャ湾辺りでは同様にきな臭い火種に小水を振り掛け消し止めてやろう。狭い機内にじっと座っていたら、それこそエコノミー症候群に陥るだけだ。せめてトイレにせっせと通い歩き回るに如かず。ヴィールスにおののく下界の人間どもをデカンショ節で救済してやろう。雲上では天下睥睨、気宇壮大になる。御免!

 

今一つ形ばかりの機内食

元気だぜ喧嘩道中夫婦(めおと)旅(たび)

老いぼれも旅に揉まれて若返り

 

 旅行期間の短い美食自堕落の旅も終わりに近づいた。大言壮語の割には収獲はちょぼちょぼ、それでも無事に帰国できれば僥倖と感謝したい。食傷気味の疲れた身体をひっさげ機上の人になれば、そこでも飲食供与が待っている。サービスしてくれる人たちへの感謝の気持ちで更なる義理食い、人間試練の連続である。これこそ体力・健康診断のメルクマール、今後の行動指針を図る貴重な機会になる。このところ家内同伴の旅行が増えた。私の足らざるところを彼女が補ってくれる。例えば視力、遠目は良いが手元の細かい文字の判読に彼女の目玉があれば有難い。お互い些細なことで口論が絶えない道中でも、加齢とともに唇歯輔車の領域が増えてくる。気遣いの多い伴侶でも旅は道づれ面従腹背で我慢しよう。かくして老老介護の夫婦旅、いつまで続くか分からないがお互い元気なうちは頑張りたいと思う。(完)

 

<日程>

1/26(Sun) QR807 NRT22:20→04:50DOH機中泊

1/27(Mon) QR131 DOH08:45→12:55ROM(FCO) FCO空港→ローマ・テルミニ駅(シャトルバス約1時間)、ホテルチェックイン後ローマ市内散策(駅近スーパーストア等)ローマ泊(Madison Hotel)

1/28(Tue) Roma Termini08:05→12:04Bari Centrale (Frecciargento2号車15・16A)、バーリで私鉄Sud-est系バスに乗換えアルベロベッロ(Alberobello)へ(約1.5時間)、ホテルチェックイン後市内散策(旧市街、サンタントニオ教会、サンティ・メディチ・コズマ・エ・ダミアーノ聖所記念堂、レストラン:アラトロで夕食)アルベロベッロ泊(Trulli Holiday Albergo Diffuso)

1/29(Wed) am.Alberobello(アルベロベッロ)からバスで一旦バーリに戻り、私鉄アップロ・ルカーネ(FAL)でマテーラへ(約1.5時間)、BariCentrale11:30→13:00Matera、ホテルチェックイン後旧市街散策(ドゥーモ、洞窟都市サッシCaveoso地区見学、夕食etc.)マテーラ泊(Sextantio Le Grotte Della Civita)

1/30(Thu) am.洞窟都市サッシBarisano地区見学後タクシーでバス停(via Dou Luigi Sturzo)へ、

マテーラ11:40→16:30ナポリ中央駅(MARINOバス)、地下鉄Toledo駅へ、ホテルチェックイン後ナポリ市内散策(スカッパ・ナポリ、晩飯は老舗ダミケーレのピザ)ナポリ泊(Grand Hotel Oriente)

1/31(Fri) 終日ナポリ市内・近郊探索(ケーブルカーでヴォメロの丘、サンテルモ城・国立サンマルティーノ美術館周辺散策、ナポリ中央駅からポンペイ・ミステリ駅往復(ポンペイ遺跡巡り)、ナポリに戻り夕食ピザ)ナポリ泊(Grand Hotel Oriente)

2/01(Sat) am.(fs)italoでNapoli Centrale09:35→10:45Roma Termini、 ホテルチェックイン後ローマ市内散策(コロッセオ、パラティーノの丘、フォロロマーノetc.)ローマ泊(Hotel Artemide)

2/02(Sun) am.ローマ市内散策(カンピドーリオ広場、ヴィットリオ・エマヌエル2世記念堂etc.)、pm.エアポートエキスプレスで空港へRoma Termini12:05→12:35FCO(出発までラウンジで寛ぐ)、QR132 ROM (FCO)16:00→23:10DOH機中泊

2/03(Mon) QR806 DOH01:55→NRT17:45、北総線で帰宅

<費用>

総額:304,829円(二人分、以下単位\)、(内訳:航空賃143,100、ホテル代93,545、交通費38,760、飲食費15,032、入場料・土産品等14,920)、換算率:\124/€、\31/QAR(カタールリアル)


2021.2.1会報No.96

南イタリア俳柳紀行(2) 

元JICAシニアボランティア

北垣 勝之

イタリアに一見(いちげん)なれど鳥の友

名にし負うコマドリ可愛い我と来て

海いずこ人慣れカモメ観光地

 

 イタリアにも見慣れた鳥たちがいた。野山を飛翔する猛禽類、市街地を渉猟するスズメやハト等々、されどポンペイの遺跡で見かけた鳥も日本でよく見る鳥だ。胸は鮮やかな橙色、背面は暗褐色でスズメ大の小鳥、なんだっけ?思い出せないまま帰国後調べたらコマドリだった。これぞ歴とした‘European robin’、欧州ではごく一般的な鳥である。遺跡ガイドのように私たちを案内してくれる。また大勢の観光客でごった返すフォロロマーノの展望台では、カモメが近くにすり寄り愛嬌を振り撒く。恐らく何がしか食べ物のおねだりに来たのであろう。当初カモメかウミネコか見分けがつかなかったが、直近で眺めているうちに嘴の先の色や尻尾の模様などカモメと分かる。海浜からかなり離れていても餌を貰えるローマの遺跡は、彼等にとって快適な棲み処のようだ。

 

港町人種もゴミもダイバシティ

回収遅々分別ゴミも儘ならず

 

 イタリア市街のゴミは何とかならないものだろうか。特に今回訪れたバーリやナポリの街は汚い。その主たる要因は分別ごみの処理にある。回収箱に収納できなかった大きなゴミ、ビンカンと段ボール、不燃物と可燃物がごっちゃになっている所が多い。それに回収は夜間の交通量の少ない時間帯に行うのか、日中はゴミが溢れている所が圧倒的に多い。そんな状態だから食べ物のカスや、飲料等の液体物、プラスチック容器やビニール袋などが混然となり周囲に放置される。折角のお洒落なタイル路も汚れがひどい。水圧掃除機で入念に清掃しないと染みが残る。このような様はごみ処理と廃棄物についての情報管理が不徹底だから生じる。住民・市民は勿論、移民・観光客に対しても悉皆周知することが必要である。そして違反者への罰則も含めてまずは行政当局の意識喚起を促したい。

 

ポンペイや栄華を偲ぶ遺跡かな

ポンペイに学ぶ災害畏怖の念

 

 ポンペイ遺跡を訪れるのは2014年に次いで2回目、大方の見所は既知の場所だが、ただ広大な遺跡の最北西部の秘儀荘(Villa dei Misteri)だけは見残したところ。初訪問の家内を連れてポンペイ全域を見て回り復習する。そもそもポンペイは紀元前8世紀頃からヴェスヴィオ火山の溶岩の丘に築かれた町である、その頃小アジア方面からやって来た民族のエトルリア人が定着するが、紀元前3世紀頃ローマ軍に破れてその配下に置かれる。だが、その後市民権を回復、ワインやオリーブの栽培、円形闘技場やローマ劇場の落成など帝政期ローマの支配下で繁栄する。そして紀元62年に大地震が起こり、さらに続いて同79年に起こったヴェスヴィオ火山大噴火によってポンペイは壊滅する。当時高度に発達した生活実態と文化的施設の大半が火山灰と溶岩のもとに埋没、その一部が遺跡群として陽の目を浴びる。2000年も前の出来事とは言え今日人類が自然との共生において、常に頭のどこかに留めおくべき歴史的事件である。ポンペイはいつも「自然を侮るな」と発信している。

 

旅冥利郷土料理に如くはなし

 

 郷に入れば郷に従え、食べ物も同様である。地産地消の安くて旨いものを見つけ食すに限る。ナポリに来たら必ず行くピザ屋がある。とは言っても今回が3回目、創業100年以上の老舗「ダ・ミケーレ」である。此処のピッツァは4種類のみ、小生はいつも特大のマルガリータを注文する。目の前の炉に入れて出来上がるまで10分足らず、その間ビールを飲みながら待つ。櫂のような長尺の柄でピッツァを移動させながら焼き上げるわけだが、これを扱う給仕人と時折会話を交わす。まず「何処から来たの」、「日本人か」で当たり。それほどまでに日本人もよく来るようだ。勿論、中国人や韓国人の客も多いが、給仕人はいずれも年季の入った熟年者、国籍を見分けるのはお手の物である。今回は二日続けて出向きすっかり顔なじみなってしまった。地元の客層も学生など若い人が多いが年寄りも大型ピッツァにかぶりつく、それだけ庶民的で気さくな店、彼等は皆々デカピッツァの一人前が普通、以前私もそれに挑戦したが一寸腹に応える。今回は「家内とシェアーだよ」と宣誓、二皿に切り分けてくれた。飲み物も入れて全部で11€であった。客の切れ目がなくいつも混んでいる大衆食堂である。

 

欧州路クソも放便銭(ぜに)次第

 

 ヨーロッパの観光立国と言われる国々はどこのトイレ事情もせこい。無料の公衆便所はほとんどなく、駅・公園など公共施設にはあっても有料の所が多い。無料トイレだと汚く、機器の破損や備品の欠如、維持するにもお金が要る。管理は杜撰になり世話する人もいなくなる。こういう状況を改善するべく全ての公衆便所は有料化して、本来の機能を維持、清潔で心地よい癒しの場所にする施策が進行中である。ナポリ中央駅のトイレの利用料は1€、広々としていて明るく快適だ。さて利便さと金額の釣り合いをどう見るか。美術館や博物館などの公共施設、かつ飲食店等の私設トイレは勿論無料だが、これ等と比較考証するにしても、そもそも人間の生理現象をカネで差別化する考え方はいかがなものか。

 

華人微々春節歓迎空々(そらぞら)し

商魂の春節むなしコロナ菌

 

 ローマ・フェミチーノ空港に降り立つや、場内には至る所に烈々歓迎の赤提灯がぶら下がっている。春節を間近に中国人観光客へのメッセージなのである。いくらお調子者のイタ公でもここまで媚びるか唖然とした。人口世界一、モノづくりとIoTの最先端基地である中国は、今やアメリカ相手に世界の覇権を争うに足る最強国にのし上がろうとしている。中国のヒト・モノ・カネ・コトを度外視しては経済が立ち行かない実勢を築き上げてきた。中国の触手は欧米・アジア・中東・アフリカへと全世界に広がる。一方EU内で孤立,退潮著しいイタリアが中国に靡くのも至極当然のこと、それが世界の現状かと思われた。だが今回の私の旅行中にも事件は着々逆方向に進みつつあった。家内のスマホには日本からのニュースが日々送られてくる。日本を旅立つ時に比べたらコロナウイルス新型肺炎の影響は手の付けられないほど深刻な事態に突入している。他国への伝染も時間の問題であろう。最早一時も早く日本に戻らねばならぬと案じた。最後に立寄ったローマには、それまで南イタリアではあまり見かけなかった中国人らしき人種が大勢物見遊山しているではないか。人種差別ではなくコロナ菌を避けたい一心で、なるべく彼等の傍に近寄らないようにする。

 

中国と聞いて距離置くスナップショット

空港にマスクいろいろ新ファッション

 

 マテーラのサッシを散策していたら、小学生くらいの娘を連れたアジア系の家族から自分たちの写真を撮ってくれと言われ、気安くOKしてカメラを受け取る。ハイチーズで2、3枚シャッターを押し「どこから来られたのですか」と尋ねたら「上海から」、それを聞いて一瞬腰が退けた。お互いマスク無しでの接触、相手は浙江省にも近い場所柄だけに心穏やかではない。マスクと言えば、空港では見たことのないいろんなデザインのマスク人に出会った。白マスクの真ん中に赤い通気口が付いた日の丸みたいなマスクも、多国籍の人が行き交う場所だがヨーロッパ系の人である。他にもいろんな図柄や模様入りのマスクが往来する。今や一種のファッションになっているが、色も白のほか青、黒、ピンクなど好みはいろいろ、これでコロナ菌を防げたら言うことなし。


2020.12.1会報No.95

南イタリア俳柳紀行(1)

(2020126日~23)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

中東に緊張もたらす米イかな

ヴィールス()けマスクを掛けて旅立つや

 

 この度の南イタリア旅行は決死の覚悟で臨む。年初の米国・イラン激突は戦争勃発の一歩手前、ペルシャ湾経由の飛行プラン危険度は急上昇した。10日後事態の鎮静化が見込まれたところで急遽フライト予約、後は成り行き次第と決める。そう思っていたら次に中国発のコロナヴィールス流行の兆し、しかも春節を控え保菌者の大量移動が見込まれる時期でもある。しかし最早出発直前とあって撤退はできない。よっしゃ毒食わば皿まで、五尺の体躯は天命に託し悲壮感を抱いての旅立ちとなる。寒中入りで旅行は閑散期と思いきやメインの観光地は大勢の人波、誰がヴィールスマンか見分けができない。とりあえずマスクだけは持参して行こう。

 

日常の殻を破りてメタボリック

長旅やジャズ聞き流し暇潰し

 

 旅の目的は云わばと知れた非日常の異文化探検、生温きわが家を脱出して禊ぎの世界に浸り、無垢の心境から心身の新陳代謝を活性化させることにある。けだしこの異次元突入へのフライトは長く冗長である。日頃あまり体験しない音楽に耳傾けたり、漫画や娯楽映画など世俗の若者文化に触れて機上の無聊を慰めるも良し。旅のイントロは沈思黙考、ひたすら休養と気力充電に費やす。

 

テヘランに商機絶やすな商社マン

 

 ドーハではトランジットに多少時間がかかるためラウンジでゆっくり休息と思っていたら、隣りのソファーに日本人らしき熟年男性、聞けば某中堅商社のテヘラン所長だった。お互い暇潰しに話が弾む。アメリカとの衝突でイラン国内はかなり混乱しているのではと訝しがる私に彼は、イラン革命隊に中国の影(中国軍属数百人が編入)あるも、宗教的にはホメイニ師を中心に統一組織体制が強化され、むしろ治安は安定、親日国としても揺らぐことはないと言う。また女性の開放が進み、今やイラン社会は自由と民主化が風靡しているとも。10数年前私がヨルダンにいた頃の状況とは雲泥の差があるようだ。厳格なイスラム戒律のもと硬直的な内政を想定していたが、現地に2年余り住んできた彼の言は、日本の識者が自慢げに開陳するアメリカンバイアスのイラン観とは相当違う。米軍がイラクでイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害したことに端を発した年初の事件だが、その時は営業案件が途絶えた現地事務所を一時閉鎖、邦人は本人も含め全員帰国した。現地職員は多数解雇するも、将来の営業再開に一縷の望みを託し優秀な現地人6名は首を切らず雇用継続のまま事務所を後にしたと言う。そして今次アメリカ・イラン間の緊張が弛緩した状態を見計らって一人テヘランへ戻るところだった。戦争が起きようが起きまいが商社マンたる者、常に機を見るに敏でなければなるまい。事務所に残してきた猫のことが気がかりだと吐露して席を立ち、テヘラン行きフライトの搭乗口に急ぐ彼をエールの目線で送る。

 

VIP乗りて一等車両の座席替え

 

 南イタリアの二つの世界遺産アルベロベッロとマテーラを訪れるため、ローマから高速列車フレッチェジェント「銀の矢」に乗ってバーリに向かう。車両は最先頭の1号車のはず、そう思いながらホームの端まで行くと、車掌から座席番号は同じだが2号車に変更になったと言われる。すると先客が指定の席に座っている。あらためて車掌に照会すると私たちに優先権があり、先様を別の座席に誘導した。何でこんなことが急に起こったのか。実は、政界有名人が1号車をまるまる占有したからである。近々行われる総選挙対策のため、当人がカンパニア州のベネヴェントまでお出かけとのこと。噂ではベルルスコーニと言われていたが実に物々しい警備体制であった。車両への通路には二重三重の警備員、食堂車からは特別食の搬入、到着駅でも厳重な出迎え態勢が敷かれていた。隣の車両のVIPに我々は小心翼翼、トイレも後方車のそれを利用することになるが、その都度係官がトイレ室内を検査する始末である。マフィア社会の縮図を見る思いであった。

 たまたまアルベロベッロのバス停で出会った現地の中年女性と近づく選挙の話をする。現政権のコンテ首相に代わる人物は誰になりそうか問うてみる。彼女曰く「まずは予備選挙が始まらないと何とも言えない。各州党派の優劣によって代表者は決まってくるそうだが、結果はどうなろうと私は中道左派に投じます。絶対右翼には負けません」と断じる。週二回バーリまで仕事に行くそうだが、彼女のはっきりした意見にバス待ち時間が短く感じられた。それにしても一旦政界を引退したはずの先の大物、再びイタリアを牛耳ろうという魂胆を抱くに至るや。

       

誕生日発奮ディナーで歳忘れ

アルベロに飛騨を重ねて人恋し

宿(やど)トゥルッリ快適住居人智かな

My age steps forwards, in Italy year by year, that seems fated on me.

 

 アルベロベッロは、アドリア海に面した港町バーリから南東約50㎞の内陸にある。段丘地帯にトゥルッリ(平石積み円錐形の屋根をした住居)が楚々と佇む街である。1996年にユネスコ世界遺産に登録され、今では世界中から多くの観光客を集める。でも旅のローシーズンとあって日本人ツアー客を除けば観光客は少なくほっとする。旧市街の趣はどこか飛騨高山の雰囲気に似ていて親近感を覚える。トゥルッリのホテルに一泊したが、内部は暖かく設備も充実、居心地が好い。当日はちょうど私の誕生日、旧市街の有名レストランで少々羽目を外して豪遊する。81歳の齢をアルベロベッロに刻む。

 余談だが一年前の誕生日はリグリア海に面するラ・スペツィアで祝った。どうもイタリアで歳をとる癖がついたようだ。第4句は英語発音準拠の英語俳柳。

 

目が合うて人生開拓新天地

三十年アルベロベッロの人となり

 

 アルベロベッロの旧市街を散策していたら、立派な日本語で「どうぞお入りください」と墨書の店がある。傍にいた青年に聞いたら「うちの母が書きました。屋上からのトゥルッリの眺めが好いですよ。見るだけでもどうぞ」と誘われ、店内を素通りして屋上に出ると、彼の言った通り素晴らしい街並みが一望できた。横浜から来たと言う母娘連れの先客と眺望を褒め讃え合う。この家の熟年夫婦は当地出身の亭主とそこに嫁いだ日本人女性、先の青年は二人の息子だった。彼女は千葉県市川市の出身、約30年前現地に来て土地柄とご主人に一目ぼれ、以来住みついてしまったのだ。「すっかりアルベロベッロ人になったのですね」と言ったら、「でも私の郷里は市川です」とのこと。人は生まれた場所に束縛されるようだ。息子さんは堪能な日本語を駆使して邦人観光客相手になかなかの商売上手、如才なき親父と奥ゆかしい母親、三人の持ち味が活きたイタリア隋一の幸せ家族とお見受けした。

 

洞窟に原人偲ぶ一夜かな

テレビ無き洞穴暮らし平穏なり

 

 バーリから私鉄アップロ・ルカーネ鉄道で1時間半、マテーラの街はサッシ(Sassi:石の意)と言われる洞窟住居で有名だ。1993年世界遺産に登録されてから脚光を浴びるようになる。この旧市街は渓谷沿いの岩山に掘られた無数の洞窟住居から成り立つ。中世の頃から住みついた住民は零細農民ばかり、作地に恵まれない農家は家畜を飼い細々と自立していく。近世になってブドウやオリーブの協同栽培を行うなど増産に努め、やがて新市街を構築、洞窟から転居して行く。かくして近年、廃墟の洞窟をリフォームして住む人も出始め、ホテル化して観光資産に転ずるようになる。その洞窟ホテルに一泊滞在する。岩肌むき出しの洞穴にはテレビもなければ気の利いた電化製品もない。灯りは三日間保つ蝋燭が主で、あとは非常灯があるだけ。伽藍洞のリビングにはダブルベッドとむき出しの大きな浴槽、机とイスがあるくらい。トイレだけは頑丈な扉で仕切られた小部屋になっている。全体として原始生活をイメージしたホテルである。入口は一つ、重厚な木造の大まかな門扉ではあるが、寒風の侵入はなく室内は暖かい。殺風景な洞窟住居だが、忙しない俗世から解放され、些事末端の雑念も払拭してくれた静かな一夜を過ごす。

 

(なん)タリア松にイトスギ原風景

青年の頭刈り上げ松の木も

松杉に加え林立風車群

 

 南イタリアをアドリア海側のバーリからティレニア海側のナポリへとバスで移動する。マテーラを出発した紅い車体のマリノ・バスは、長距離移動のためトイレ付、二階建ての上階前方席に陣取り移り行く風景を愛でる。所々高速道路を離れ立寄る海浜の街、松並木や糸杉の旧街道を快適に走る。内陸に入るとオリーブ畑が一面に広がり、またブドウ畑も多い。オリーブやブドウはむしろ農作には向かない荒地で栽培されているところが多いようだが、イタリア南部もご多分に漏れず農業開拓に不断の努力を積み上げてきた土地柄なのである。段丘の多い地帯では風力発電装置が陸続と現れてくる。ヨーロッパ諸国では一般的になっているエコ・エネルギー源の風車もまた日常的原風景の一翼を担う。なお余談になるがイタリアの松は下枝を剪定、ひょろひょろっと伸びた樹の天辺に常緑の葉が繁茂する。最近の若い男性の髪型に似ていて面白い。側面を刈り上げたヘアーカットで冠鶴の頭を思い出す。

 

ここかしこ花が春呼ぶ南伊かな

 

 イタリア南部の春は早い、というか初夏を思わせるような花も咲き出している。春夏の境界がないのかな。これは暖冬異変の影響だけではなさそうだ。野には菜の花に似た黄色い草花、またエニシダやミモザ等の木花も散見する。そういえば38日の世界女性の日も近い。シチリア辺りではミモザの黄花が花屋の店頭に並ぶことだろう。まずは黄色系の花々が春の到来を告げる。そこにカラフルなハイビスカスやブーゲンビリアなどの夏花が住宅街の庭先に顔を出す。一足早く百花繚乱の春を先取りする。


2020.10.1会報No.94

コートダジュール・リヴィエラ俳柳紀行(最終回)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

わが傘寿パスタで祝うラ・スペチア

ピサのピザ窯出しふっくら色づきて

 

 イタリアの食と言えば何てったってピザかパスタ、今回の旅行中も一年分の食溜めをする。人が列をなすような店で熱々のピザを頬張るのは、現地食道楽の権化ともいうべきこと。トリノやジェノバも美味かったが、ピサで食べたピザが一番。やはり南下するほど焼き方が上手くなり、究極は本場のナポリに行き着くようだ。ただしミラノは例外、極上の店がいくつかある。いつも定番のマルガリータで品定めをする。一方、パスタについても同様だが、添えられる具によって評価はいろいろ、山菜キノコや海鮮魚貝入りと味わいが変わる。以前食したヴェニスでのカラスミ入りや、アマルフィ海岸で挑んだ自作スパゲッティはグッド。今回はわが誕生日祝いを兼ね、ラ・スペチアの中級レストランで奮発、高級そうなナポリタンパスタを食す。あっさりした味付けで上品な味、食べながら「これなら家でもできそうだわ」と宣う家内への投資と思って納得する。

 

貸し切りの斜塔に遊ぶ雨も好し

懐かしき斜塔に響く日語かな

ピサ詣で一度芽出たし二度目アホ

股旅爺(またたびじい)見て食べ上る三度笠 

 

 ピサ詣では私が3回目、家内は2回目である、うち私は斜塔へ1度登楼したことはあるが、家内は未登楼なので今回敢えて立寄ることにした。以前、私が一人で来たときは夕方で大変な混雑、現地予約の順番待ちで塔に上った。1グループ40人、上るも降りるも数珠繋ぎ、押し合い圧し合いの一仕事であった。今回は事前に日本から早朝入塔の予約、しかも雨降りで人出はほとんどない。お陰で楽々登楼、ピサ斜塔を独占、塔屋にはオーストラリアから来た女性が1人いただけ、天下のピサ斜塔から橙色の市街とトスカーナの山並みを満喫する。高さ55.86m、傾斜角3.99度、296段の石段を往復した。下段の折、塔内に日本語の響きを聞く。「ドッコイショ、あゝ、疲れた」、男の子の後に一人の老婆が上ってくる。彼女の発する言葉を聞いて「どこからお出でですか」と問えば、ブラジルのサンパウロから来た二世の人、息子家族に連れられて一家でやって来たのだ。それでも孫の先導で元気よく上る姿に安堵の気持ちがこみ上げる。入植地で多々苦労したことと思うが、人生終わりよければすべてよし、お互い余生を頑張ろうと心の中で呟きながら別れる。一度上れば良し、それを二度も上る阿呆がいる。どうせ阿保でも良い経験になったと自認する次第である。

 

高級地成金繁茂格差生む

 

フランス社会の階層化は極端な所得格差の賜物である。例えばルイヴィトン(Loiviton)のトップは従業員平均報酬の150倍を得る。他にその格差が170倍の大企業もあると言われている。これを容認するお国柄、正当な競争社会を通り越して極端なエゴ差別化を産み出す。まさにカルロス・ゴーンを日産に押し付けてきた体質である。歴史的にはブルボン王朝の栄耀栄華がその根底にあり、自由・平等・博愛は革命時の一時的なキャッチフレーズに過ぎない。これが今日フランス全土に蔓延、特にプロヴァンスからコートダジュールにかけても顕著な現象となり表出している。再びテロや革命が起きないとも限らない。リゾート地のちぐはぐ感からフランス格差社会について再考しておく。

 

庶民的市場に燃える旅心

品揃えスーパーに客満つ大繁盛

 

 海外旅行で最もエキサイティングな場所は市場である。今回も各地のマルシェ(marché)やメルカート(mercato)には極力足を運んだ。ニースの目抜き通りに面したスーパーマーケットは奥行きが広く、生鮮食品から生活用品の小物まで何でもある。旅の初日、空港に着いたとき一緒になった日本人女性二人とお互いコートダジュールの行動予定を話し合った。彼女等は東京・中野からやって来た熟年二人連れ、なかなか旅慣れた様子でニースを中心に5日間滞在するという。私達は3日目食料調達のため件のマーケットに立寄る。すると店内でこのお二人にばったり出会う。買い物かごには土産品と思しき品々がすでに満載、井戸端会話が始まる。挙句の果てにあれも買えこれも買えと勧める。銀座では倍額の品だとか、日本にはない重宝な品など買物情報の機関銃掃射を受ける。そのうちの幾つかを調達する羽目になった。彼女等はすでに何回も当地に来ているそうで、航空運賃の最も安いこの時期を狙い、ホテルも予約せず行き当たりばったりの交渉で決め、食事はスーパーマーケットで調達して自炊するという。天晴れな旅の達人である。

 ジェノヴァのフェラーリ広場からコロンブスの家に寄り約1km歩くと、メルカート・オリエンターレという大きな市場に着く。外見は昔からの構えだが中は現代風にアレンジ、小売店ブースが並ぶ。地元客が多く各所で売り買いの会話が和気藹々と弾む。若夫婦が肉屋の前で買ったばかりの肉片を連れの大型犬に与えたり、お年寄りが花屋でブーケ(bouquet)や花卉を話しながら物色する。明らかに単なるスーパーストアとは違う。人間同士のコミュニケーションの場になっている。私達もその仲間に入りバナナを一房買うことにした。店主親父の講釈と値段をイタリア語で聞いたがよくわからない。財布のカネを掌に載せ彼に取ってもらう。立派なバナナが一本5円相当、安い! 日本では絶対にあり得ない価格だ。

 

ホテル部屋珍客乱入ダブルブック

土産なる献呈ワインせしめるか

 

 私がバスタブに浸かっていたとき、何者かが急に部屋に入ってきたようだ。家内が「ここは○○番ですよ」と喚くのが聞こえる。若い男の声もする。実はアジア系の若い男性が二人、自分の部屋だと言って入って来たそうだ。受付で確認してくれと追い返したが、私は出られず彼女は言葉の通じない彼等の闖入に一時はパニックに陥ったようだ。その後フロントから電話で私の名前と部屋番を尋ねてきたが、あとは胸糞が悪く一切関わらず寝ることにした。翌朝目が覚めると、入口のドアーの下からカードが一枚覗いている。取り上げてみると、そこには'Dear Mr and Mrs Kitagaki, on behalf of the staff and myself, we would like to apologize for the inconvenience.  We wish to continue a pleasant experience with NH Hotel Group!  Best regards, General Manager'と書かれたホテルからの詫び状である。そしてドアーの外には床上に赤ワインが1本置かれていた。本状は宛名の部分だけ手書きで他は印刷済みのもの、よくある事なのかもしれない。ワインはイタリアを離れる日のこと、朝っぱらから1本空けるわけにもいかず、そのまま日本への土産にする。

 

古傘(ふるかさ)やピサ空港のゴミとなれ

名残り惜し傘を捧げて旅の締め

 

 近年の海外旅行には20年以上も昔の香港時代に買ったブランド傘を持参して出かけてきた。しかし好天に恵まれ中々出番がなかったが、今回、マントンとピサで使う機会が訪れた。さしもの傘も年季には勝てず、とうとう一部の骨が腐り滑落した。最早これまで、外遊の証にピサ空港で今生の別れをすることにした。少々未練はあるが、日本まで持ち帰ることもあるまい。土産品の身代わりとなってイタリアの地で「骨」を埋めて貰おう。

 

異文化や五感くすぐる旅冥利

旅行けば天知る地知る人を知る

母思うマルコの旅に凌ぐ無し

 

 旅には異文化との出会いがある。また不測のリスクに遭遇することもある。そういう未知なるものを学び楽しむ余裕がなければ旅はできない。常に目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(臭覚)、口(味覚)、手(触覚)の五感を研ぎ澄まして行動、未知なるものを察知する。その結果、行く先々の国において「天地人」を理解することになる。ともあれ建前は横に置き、まずは実践修行に勤(イソ)しむことが肝要である。旅の成果を紀行文にしたためるのも、未知を既知に変える重要な作業の一環である。

 世間にはいろんな旅があり、「旅行記」も記録報道、日記、物語風など種々雑多である。そんな中でイタリア人のマルコ・ポーロ(12541324)「東方見聞録」とエドモンド・デ・アミーチス(18461908)「母を尋ねて三千里」に注目したい。前者はヴェニスの出、宝石商の親父と共に127195年中央アジアから元の大都(北京)に赴いた際、各地で見聞した様子を後年ジェノヴァとの海戦に敗れ、囚われて獄中で口述筆記した記録である。一方、後者はジェノヴァの貧しき医者の息子マルコが、苦しい家計を補うためアルゼンチンへ出稼ぎに行った母親の消息を尋ねて会いに出かけるという筋書きで、10歳そこそこの少年がただ一人僅かな所持金でジェノヴァ港から船に乗り、南米アンデスの雪嶺が見える片田舎まで1kmを超える壮絶な旅の創作である。両者とも海港都市ジェノヴァに縁ある傑作、口述記録と小説童話の違いこそあれ未知なる旅への憧憬をそそられる。

 

旅の首尾天気好ければ不可は無し

旅カラス終始見定め巣に戻れ 

 

 今回の旅では2回驟雨に見舞われたが難儀に至らず、概して穏やかな晴天の日が続いた。お陰でほぼ予定通りの円滑な旅行ができたと思う。旅の成果はともかく、旅行者の身体の方に問題が生じることを懼れる。わざわざ身体を酷使して無茶修行を続ける必要があるのだろうか。育ちざかりの少年マルコなら苦難はすべて肥やしになる。あの大草原(La Pampa)を熱情だけで彷徨する冒険も可能であろう。八十路を跨いだ老爺には、いつ他人様にご迷惑が及ぶような災いが発生するかもしれぬ。自己都合主義の無責任で旅するわけにもいかない。そろそろ人生の着地点を想定し身のほどの旅に収めることにしよう。カラスも日暮になれば己が巣に戻るように。()

 

<日程>

1/21(Mon) NRT(QR807)22:2005:00DOH

1/22(Tue) DOH(QR053)07:5513:10NCE 空港バスでマセナ広場ヘ、ホテルチェックイン後ニース市内散策(旧市街、サレヤ広場、城跡展望台、ジャン・メドサン大通り等) ニース泊(Hotel Aston La Scala)

1/23(Wed) バスでモナコ & マントンへ(ニースLe Portバス停100番バス、行き先:モンテカルロ(モナコ)orマントン)、モナコ散策(カジノのモンテカルロ地区からアルム広場と大公宮殿のあるモナコヴィル地区間は徒歩移動)、マントン散策()、帰途はマントンから100番バスでニースに戻る。 ニース泊(Hotel Aston La Scala)

1/24(Thu) am.列車でアンティーブ(古城のピカソ美術館)へ立寄りカンヌへ、パレ・デ・フェスティバル・デ・カンヌ等街中散策、pm.バスでグラース(香水の都)を経てニースに戻る。 ニース泊(Hotel Aston La Scala)

1/25(Fri) 列車でヴェンティミリア経由ジェノヴァへ、NiceVille09:3810:34Vintimglia11:0313:08Genova Piazza Principe、地下鉄でDe Ferrari駅、ホテルチェックイン後市内散策(赤・白の宮殿、トゥルシ宮(市庁舎)、王宮、大学宮殿、etc.) ジェノヴァ泊(Hotel NH Genova Centro)

1/26(Sat) am.ジェノヴァ市内散策(フェラーリ広場、コロンブスの家、市場、キオッソーネ東洋美術館etc.)、列車(フレッチャ・ビアンカ8606)でトリノへ、Genova Piazza Principe11:5913:40Torino Porta Nuova ホテルチェックイン後トリノ市内散策(自動車博物館、近隣スーパー・イータリー、 etc.) トリノ泊(Concord Hotel)

1/27(Sun) 終日トリノ市内散策(エジプト博物館、サン・カルロエ広場のカフェ・トリノで休憩(ビチェリンに挑戦)、王宮、ポルタ・パラッツォ市場、etc.) トリノ泊(Concord Hotel)

1/28(Mon) am.TorinoからGenova経由La Speziaへ、Torino porta Nuova(インターシティ511)10:4013:50 La Spezia Centrale、ホテルチェックイン後ラ・スペツィア市内散策、バスでポルト・ヴェネーレ往復(夕食はOsteria della Corte) ラ・スペツィア泊 (Hotel Firenze & Continental)

1/29(Tue) am.チンクエテッレ踏査は止め、サン・ジョルジュ城近辺散策10:00頃の普通列車でヴィアレッジョ経由ピサへ、 ホテルチェックイン後電車でルッカ往復(サン・ミケーレ・イン・フォロ教会etc.中世の町を散策)、ピサに戻ってピサ旧市街散策、ピサ泊(Hotel NH Pisa)

1/30(Wed) am.斜塔(入塔9:45)、ドゥオーモ聖堂見学、その後歩いてホテルへ戻り、荷物を受取り、ピサ中央駅南側からMonover(索道牽引車)でピサ空港へ、PSA(QR134)15:4023:45DOH

1/31(Thu) DOH(QR806)01:5517:55NRT

<費用>総額:327,487円(2人分)

内訳:航空賃179,780、ホテル代91,970、交通費13,780、飲食費24,417、入場料10,140その他(資料代、土産等) 7,400(以上円、換算率130/€)


2020.8.1会報No.93

コートダジュール・リヴィエラ俳柳紀行(2)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

ミュージアムや知る人ぞ知る宝物(ほうもつ)殿(でん)

イタリアの諸候財()すコレクション

パガニーニの名器燦然ジェノバの地

 

 パガニーニ(Niccolo Paganini17821840)は、イタリア稀代のヴァイオリン奏者兼作曲家、彼が愛用した名器がジェノバのトゥルシ宮に保管されている。今日では値の付かない宝物である。ジェノバには王宮とか宮殿と称する豪荘な館を多数見かける。それらのうち美術館にもなっている赤の宮殿、白の宮殿、そしてトゥルシ宮を見学する。受付にて一人9€をシニア料金の7€に負けさせて入場、けだし絢爛たる絵画や美術品のオンパレードにうんざり、せめて来場の印にせんとパガニーニの名器を心眼に焼き付けた次第である。ナポレオンのリグーリア占領を挟んで1819世紀地中海の王者として君臨したジェノバの栄華を偲ぶ。

 

馬鹿にすな僅かに残るコロンの()

災害もどこ吹く風か高速道

 

 ジェノバの街は港と高台の間に広がる。高低差があるため行き先によってはアプローチが大変、それでも地下鉄以外は乗り物を使わず歩き回る。ジェノバはリグーリア州の州都、中世の海運で稼いだ港町であると同時に、その後は商工都市として発展してきた。航海王者コロンブス(Christopher Columbus,14461506)の生地とあって、彼が少年時代を過ごした家を見に行く。草に覆われた正面だけが残るあっけない遺跡である。豪華絢爛たる絵画や遺品とは雲泥の差、やはりカネにならないものは疎んじられる。西北に向けての新市街、そこには複雑に交差する道路が建設中であった。丁度1年前、高架自動車道のバイパスが崩落、大惨事を引き起こしたが、その修復も終え再び開通するばかりになっていた。

 

新旧のトリノせこいぞ観光都市

観光地文化資本で国興し

 

 列車は途中、雪原の中を走りトリノ中央駅に着く。街中にも一部残雪が見られる。ピエモンテ州の州都トリノは人口100万都市、アルプスの雪嶺を近くに眺め、穀倉地帯の広がる一方、丘陵地はワインの産地、そして新市街にはイタリアを代表する自動車産業が君臨する。トリノの繁栄は17Cサヴォイア家の都市国家から始まり、スペイン継承戦争でサルデーニャ島を得、イタリア統一への一歩を築く(1861)。やがて政権はフィレンツェ、ローマへと遷都していく。しかしながらサヴォイア家時代の絢爛たる遺産や、イタリア経済を牽引してきた産業資産などは、今日再び遺構や宮殿、美術館や博物館等の観光資源として脚光を浴び、世界中から観光客を呼び込んでいる。その一つエジプト博物館を訪れる。

 古代エジプトを知る三大博物館は、①エジプト考古学博物館(カイロ)、②大英博物館(ロンドン)、そして③トリノのエジプト博物館を挙げねばなるまい。その他、ルーヴル美術館にもエジプト・コーナーがあり参考にはなるが、以上①~③の比ではない。③の特徴は19Cサヴォイア家のコレクションをベースに、その後収集された石棺・ミイラ、装飾品等のこまごました生活に関した発掘品が豊富である。勿論、①は展示品の数では圧倒的な物量を誇るが聊か雑然としており、カイロ近辺やアレクサンドリア、ルクソール、アスワンに散在する遺跡と相俟って厖大な情報量を有す。②は大型の彫像や遺構展示に加え象形文字の解明に関する遺品研究に秀でる。①~③で入場無料は大英博物館のみ、今回訪問したトリノの博物館は、以前にはあったシニア割引が撤廃され、なべて一般入場の高め料金(13/)を徴収する。イタリアも観光客相手に随分せこい商売をするようになったものだ。

 

新市街自動車王国博物館

自動車のお(さと)知るべしフィアット(こん)

職人の技が断たれて回顧かな

 

 トリノ中央駅から地下鉄で6つ目、リンゴットで下車、ポー川沿いの自動車博物館を訪れる。駅手前にはフィアット本社ビルが鎮座し、イタリアが誇る自動車王国のお膝元だけに手前味噌な感じの博物館、入場料一人当たり12€のところシニア価格10€に負けさせて入館、3階建ての広い屋内を上層階から順次見学しながら降りてくる構造である。新旧の自動車が解説付きで所狭しに並んでいる。ほとんどがイタリアを中心とした欧米車ばかりで日本車の陳列はない。展示を見ていると、今日生き残り名を留める自動車メーカーは、草創期において小型車から起業した社に限られるようだ。BMWやホルクスワーゲン然り、フィアットやルノーやミニも例外ではない。そして景気浮沈の間では軍需と関係を持たざるを得なかった歴史がある。特にイタリアでは、高度な職人技で名車を作り出してきた伝統があり、それがスポーツカーとなって今の世に垂涎の高級車を齎している。1階ロビーにはアルファロメオやランボルギーニなど3種類のハネムーン用オープンカーが並び、レンタルの申し込みを待っていた。高いか安いか分からないが費用は半日20万円ほど。

今日の自動車産業は職人の勘とセンスに頼るだけでは追いつけない。型・デザイン、材料部品・軽量化、内装、自動化、性能、燃費、メンティナンスなどあらゆる視点からコスト・パフォーマンスが追究される。それに開発研究費もばかにならない。この競争から脱落した車種が一部博物館に拾われ好事家の晒し者になるようだ。第1句は全漢字俳柳。

 

カーニバルや春を呼び込む街おこし

ヴィアレッジョの祭りは近し春模様

 

 イタリア東リヴィエラの南、ピサへ行く途中にヴィアレッジョという町がある。毎年春の幕開けに巨大人形の山車で練り歩く祭りがある。いわばイタリアの「ねぶた祭」である。今回は立寄らなかったが、同じような春祭り(carnival)23月にかけてコートダジュールやイタリアン・リヴィエラの各所で盛んに行われる。その準備の様子をニースやマントンに見ることができた。目抜き通りにはパレード観覧用の特設階段状桟敷席が設けられ、夜ともなれば大観覧車や街路のイルミネーションが眩い。昼間よりむしろ夜間の方が見栄えがする。大勢の観客が沿道を埋め尽くし賑やかな催事を楽しむ様子が目に浮かぶ。マントン同様、サンレモ(イタリア)ではレモン祭りが行われる。さらに5月には有名な音楽祭、そしてミラノをスタートする300㎞自転車ロードレースのゴール地点でもある。いずこもお祭り大好きなイベント大賑わいの街である。

 

中世(ちゅうせい)都市高さを競う塔の街

頭上(とうじょう)に緑樹(かざ)すやルッカの塔

 

 ピサから北東へ電車で約30分のルッカを訪れる。ルッカは4㎞の城壁で囲われた古都で、いたる所に中世の面影を残す。サン・マルティーノ大聖堂(ドゥオーモ)にはティントレットの「最後の晩餐」画がある。ほかにも沢山の教会があって、ファサードや建築様式、所蔵品にそれぞれ独特な造作が見られ面白い。旧市街のあちこちに教会の塔屋がそそり立ち、「塔の街」とも言えよう。登楼可能な塔がいくつかあり、その中で塔頂に樫の樹が茂るグイニージ塔(Torre Guinigi:高さ44.25m)に上る。受付の女性に「昨日傘寿になったばかりの爺様はコンセッションで行けるね」と値切れば、愛想よく「勿論一人5€が3€になります」。そして彼女の‘Happy Birthday to you’の掛け声に送られて320段の階段を上り始める。一寸しんどかったが天辺に辿り着けば、民家の赤茶色の甍を下地に教会の塔や青銅色の伽藍を一望に睥睨することができた。しばし樫の葉陰に腰を下ろし、トスカーナの微風に頬撫でられながらルッカの街を堪能する。緑色の鬘(カツラ)を被った素晴らしい直立塔であった。

 

景勝地チンクエテッレは()()(とう)() 

波砕け東リヴィエラ思案の地

 

 世界遺産に指定(1997)されているイタリア東リヴィエラのチンクエテッレ(Cinque Terre)は、海陸の織り成す険しい地形に存する五つの漁村という意味で、急斜面に寄り添うようにカラフルな家々が林立し、それらを青い海と白浜や岩礁が20kmに亘って結ぶ地域である。風光明媚な景観から当地を訪れる観光客は多い。しかしこの間、急行列車は岩山をくりぬいたトンネルを通過するだけで外の絶景を見ることはできない。普通列車は5駅に止まっても本数は少なく、それぞれトンネル内の無人駅である。そこでチンクエテッレへの立寄りは諦め、同じ世界遺産区域の南外れにあるリゾート地ポルト・ヴェネーレを訪れて雰囲気だけでも味わうことにした。海岸線に点在するお伽の国の家並みは海上から見るに限る。遊覧船が運航されるのは暑い夏場のみ、時折寒風の吹き荒ぶ冬場は、むしろ上り下りの小径をトレッキングするのに向いている。

 

イタリアに人生(きざ)中華人

 

 ポルト・ヴェネーレに行くためラ・スペチアのバス停で待機していたら、中国人らしき家族連れがやって来た。同じバスに乗り込む。終点で降りた数えるほどの訪問客は、皆それぞれに閑散とした海岸通りを岬のサンピエトロ教会(13C建立)目指して歩き出す。ここで件の家族連れと初めて会話を交わす。中学生()と小学生(息子)の二人の子どもと一緒に台北新竹からやって来た台湾人の中年夫婦であった。本人は独身時代一度当地に来て惚れ込み、新婚旅行で二度目、そして今回子ども連れで三度目の来訪と言う。ファミリーの歴史が刻まれた旅行である。「明日はチンクエテッレのトレッキングに出掛ける」という方向のクリフを背景に家族写真を撮ってあげる。翌朝ホテルの食堂で彼等と再会、同宿していたのだ。彼は私たちのテーブルにわざわざやって来て、「今度台湾に来られる時は、台北の歴史博物館と東海岸の花蓮に是非行ってください。台湾の事がよくわかりますよ」と言い、私たちの事を「郷里の両親に重ねる思いでした」と今度の邂逅に礼を言う。最初に見た時、派手で独善的な中国人や韓国人とは違うなと思っていたが、日本人以上の実に謙虚で堅実な人たちであった。

 

異国の地一期一会の犬友に

愛犬に深紅のドレス似合うかな

 

 私たちには日本にペットの犬がいる。世界いずこに旅しようと彼女(雌犬)の事が気になる。訪問地のあちこちで散歩中の犬飼族に出会うと声を掛ける。犬種は見ればわかるが名前や年齢を尋ね、いろいろ話をする。彼等と一気に距離が縮まり、飼い主の出自や生き方まで聞き出しては情報交換する。言葉は何語であれ意思疎通に支障はない。皆々、友達になってしまう。

わが家の愛犬はイタリアン・グレイハウンド、イタリアには多い犬種かと思っていたら意外と少ない。飼いにくい犬だからであろうか。たまたまトリノの広場で品の好い若夫婦が連れていたイタグレを見つける。お洒落な飼い主とも似合いの犬ドレスを着ていた。ひょっとしたら愛犬のための防寒衣装が当地にはあるかもしれない。そう思っていたらラ・スペチアのバス停を降りた所に大きなペットショップがあった。店員に尋ね寸法の合いそうな真赤な犬ドレスを見つけ愛犬への土産とした。ところが帰国後、試着するとしっくりしない。それから1週間、家内は裁縫ハサミとミシンを取り出し格闘、何とかリフォームに成功する。かくしてイタリアン・ニューファッション・モードのセレブ犬が出来上がった。


2020.6.1会報No.92

コートダジュール・リヴィエラ俳柳紀行(1)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

寒中(かんちゅう)(たび)語る機材やカタールエアー

人気(ひとけ)なき観光名所訪れて

野暮爺もちっとはセレブになれるかな

 

 この10年近く続けてきた欧州紀行、その大半はカタール航空に依存してきた。世界情勢や気象条件によって飛行ルートは都度変わる。今回の往路は北京→ウルムチ→アルマティ→シラス→ドーハ(トランジット)、そして再びイラン沿いに北上、トルコ黒海寄りに出て、イタリア北部を縦断してニースを目指す。帰路はピサから同コースをザグレブ→ソフィア→イスタンブールと逆に辿り一旦ドーハへ、その後はイラン、インドを横断、上海に出て成田に向かう。行きはゴビ砂漠の南部を、帰りは中央アジア南回りで、中東はサウジアラビアを避けた飛行ルートである。結構時間はかかるが燃油サーチャージ込みの恩恵に浴す安料金なので止むを得ない。

 1月下旬、観光客の少ない頃合いを狙って欧州隋一の避寒エリアを巡る。特にコートダジュールやリヴィエラと言った高級リゾート地を訪れることによって、日頃品性劣る蛮行爺も少しはお行儀がよくなるのではなかろうかと、淡い期待を抱きつつ折からの満月冴える成田を飛び立つ。第1句は五七五頭韻句。

 

南仏に(つわもの)どもが()れの果て

コートダジュールニースに蔓延(はびこ)る不動産屋

モナコの(しゅ)セレブ面した成金や

悪銭を集めて早し人の(せい

It's the place for scrooges, Côte d’Azur or Riviera, to show themselves.

 

 一攫千金、傲慢金満家の集まるリゾート地、どこか張り子のバーチャル・ワールドに迷い込んだ気がする。豪華な館を構え、一流品のガゼットに囲まれ、ひねもす大金を振りかざし優雅に過ごす輩の巣窟、その右代表がコートダジュールのモナコであろう。ニースからマントンにかけて一帯は平地が少なく、海沿いの急斜面にへばり付く様に瀟洒な邸宅が建つ。海の眺望もよく気候も温暖だ。きっと理想の棲み処に違いなかろう。だが待てよ、日常の生活はどうか、一歩家から出れば上り下り、狭い街路に車の駐車も儘ならない。年老いたら買物にも行けまい。よしんばお手伝いさんを雇って身の回りの世話をして貰うにしても、一日中崖っ淵の家中に引き籠っていては精神的にも肉体的にも退化するだけだ。健全な庶民には住みにくい場所である。モナコの富豪ならいざ知らず、一般人は旧市街のゲットーに慎ましく暮らす。そんなコートダジュールのリゾート地を求めて、セレブ欲の金持ちが大勢やって来るのか、ニースの不動産屋は繁盛し現地建設ラッシュは続くようだ。フランスはおろか米露をはじめ世界中の金持ちが別荘を構える。近代以降ここに住みついた実業家・政治家・芸術家は枚挙にいとまなし。けだし彼等係累の幾ばくかはコートダジュールやリヴィエラから次第に消えて行く。人間没すれば財も館もみな廃る。辛うじて芸術家の一部が後裔によって本人の名を冠した美術館や博物館を残す。悪銭身に付かず栄耀短し。第5句は英語俳柳、‘scrooge’は守銭奴の意。

 

(きら)びやかカジノブランドグランプリ

金持ちの余禄に寄生モナコ人

旧市街フードコート集う庶民かな

 

 モナコはヴァチカンに次ぐ世界最小の独立国、面積約2㎢、大公宮殿のあるモナコヴィル地区とカジノのあるモンテカルロ地区など6地区から成る。この代表2地区を歩き踏査するもフランスの都市と何ら変わらない。前者は高級リゾート地域らしく周囲には有名ブランド店がひしめく。贅を尽くしたカジノの本丸カジノ・ド・モナコを横目に、警備員にF1グランプリの模様を尋ねる。市街公道を猛烈なスピードで駆け抜けるカーレースのスリルを直感したければ5月にまた来いという。でも彼は「オレはその間サーキットよりカジノで大金稼ぎをするよ」と冗談を飛ばす。モンテカルロと言えばモナコではなく、コンピュータ・シミュレーション・モデルの事しか思い浮かばない。その確率統計が当地の賭博と結び付く。大金に当たるは千三つ(0.3%)の世界である。私がカジノに挑戦するとしたらラスベガス、何となれば50年前トントンの引き分けまで遊ばせてもらったから。それにホテル代が安い。ここモナコは敷居が高すぎて遊ぶには不適な場所である。

 一方、モナコ大公宮殿は旧市街の静かな丘の上にある。ここから港を見下ろす眺望がすばらしい。城塞スタイルの宮殿は門前に衛兵の姿を留めるも辺りは閑散としている。旧市街の市場を散策、その隣りのフードコートに立寄る。ここは観光客や地元庶民の熱気に包まれ活気に溢れている。ちょうど昼飯時、豆のピザ風お焼きを頬張りながらビールを飲んでいると、隣の席に陣取った孫娘二人連れのモナコ人爺婆が日本料理店に寿司を注文する。忙しそうな店主は日本人というだけの縁で私達には頼んでもいない枝豆の小皿をサービスしてくれた。隣席の爺婆は数年前日本に行ったことがある由、定番の東京・富士山・京都の話を切り出す。そんな話のついでに、カジノの上がりでモナコは裕福ですねと言うと、彼等モナコ人はカジノに興ずることが禁じられていて、むしろモナコの外に出て遊ぶことになるそうだ。地元庶民はフードコートで各国の美味を喫食するのが楽しみの一つだという。実に堅実な生活をしている。

 

映画祭くだらんぷりのカンヌかな

イベントで浮名を磨く有名地

 

 20185月のカンヌ映画祭で是枝監督・()樹木希林主演の「万引き家族」がグランプリを得た。その表彰式が行われたパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレを訪れる。正面玄関の赤絨毯はそのままだ。早速、お上り爺婆は階段状の中ほどに立って記念写真、大賞にあやかる。でも映画の題名は気に入らない。せめて「ドン引き家族」程度にしておけばよかったのに。往々にして最近の映画は内容の良し悪しより、意表を突くタイトルで興味をそそる傾向がある。「万引き」による日本社会観の悪影響を危惧する。周囲の路傍には、往時の映画人たちの手形入りタイルがはめ込まれている。4050もあろうか、でも私の記憶に残る手形は1枚もない。面白くも可笑しくもない、ただ映画祭のためだけにある街である。いずれにせよ、どこも彼処もイベント流行り、お祭りを作り上げて街勃興の起爆剤にせんと企む。気分を変えてカンヌの旧市街、市庁舎から西へなだらかな坂道を丘の上に出れば、港と湾全体を見下ろす絶景が待っていた。カモメたちが近寄る城址の縁に腰を下ろし、華やぐ街を一望しながらしばし小休止を楽しむ。

 

香水を産して招く山間地

香水で臭い汚い拭うかな

 

 フランス社交界にとって香水は切っても切れない関係にある。その香水の原産地グラースに赴く。この町はカンヌ駅前からバスで小一時間、内陸の丘陵地にある。プロバンスからコートダジュールの一帯にかけて、丘の上には小さな中世風城塞都市が無数存在する。俗に「鷲の巣村」と呼ばれ、外敵から守るための城壁で囲まれた中心には、教会はじめ生活のための施設が密集、狭い路地で結ばれている。グラースもそんな中世都市を彷彿とさせるような町である。ここは「香水の都」と称されるだけあって周囲の農園にはバラやラベンダーの植栽、街中には国際香水博物館や香水歴史工場がある。世界中の調香師の大半は当地の出身者と言うから驚きだ。でもこの町の歴史はむしろ市庁舎に隣接するノートルダム・デュ・ピュイ教会に見ることができる。当地出身の画家フラゴナールやルーベンスの面影を宿している。

 そもそも香水の必要性は臭く汚いものから身を守るために生じたこと、華のパリも一昔前は汚水とゴミの山に埋もれていた。煌びやかに着飾った紳士淑女の社交界を演出するには必須不可欠の品だったに違いない。私も高温多湿のカンボジア時代には泥と汗にまみれ、しばしば香水のご厄介になったものである。夏は摂氏50度を超す中東ヨルダンでも汗臭消しの安い香水を時々購入したが、現地の気障な男どもにとっても必需品だったのだ。

 

ピカソ売りサービス何処(いずこ)に美術館

採算にあの手この手のミュウジアム

学芸員絵画市場の仕掛け人

マントンに驟雨が流すジャンコクトー

 

 カンヌの手前、一寸したリゾート地アンティーブにピカソの名を冠した美術館がある。かつて海辺の城だった建物に1946年から彼が住みつき創作活動をした場所で、例の幾何学的画法の作品が多数展示されている。駅からかなりの道のり、朝早かったので未だ開いていない観光案内所にねじり込み、地図をせしめて、地元人に尋ねながらようやく到達する。受付は無愛想でクローク使用の説明もない。入場料をふんだくり後は勝手に観て回れと言わんばかり。以前はあったはずのシニア割引も撤廃されている。幾つかピカソらしい絵の追認だけして早々に退出する。フランスのみならずイタリアにおいても美術館や博物館、名所旧跡への入場料は軒並み改悪され値上げしている。昨今、これら文化事業の運営が何処も厳しくなってきたのであろう。それだけにシニア優遇の施設に巡り合えると、旅の僥倖に思わず感激する次第である。本来、当たり外れはあっても狙った美術館や博物館は是が非でも訪れたいところである、マントンにあるジャン・コクトー美術館もそのつもりでいたが、現地に来たら突然の俄雨、やむなくレモン祭りの準備に活気づく街中を通り抜け、寄らずに撤退する。

 

南仏にバス乗り放題1ユーロ半

中長(ちゅうちょう)距離シニア価格で列車移動

 

 フランス域内の交通手段はバス移動が最適である。とにかく安い。マントンからニースまでの100番バスで約1時間20分、またカンヌ・グラース間の600番バスで片道約1時間の乗車も、普通バスは一律1.5/人である。これは有難い重宝な乗り物である。一方、フランス国鉄SNCFも利用したが、ニース・カンヌ間往復で途中下車OKのシニア運賃は一人11€。バスの場合のほぼ倍額になるが、それは時間の正確性と乗り心地による差と割り切る。

仏・伊の交通運賃を比較してみると、他にトラムや地下鉄といった乗り物の違いはあるが、概してフランスの方が安い。やはり社会政策として公共交通の利便性を国民に広く浸透させてきた歴史の違いからくるものであろう。逆に言えば、国が安易に運賃値上げをすることは難しいと言えよう。やろうとすればストの憂目に会うはずだ。

 

バイオ女史車内講義や一時間

イタリアに学術立身なでしこ(ばあ)

 

 フランスからイタリアへ列車移動のとき、サンレモから乗り込んできた一人の日本人女性がいた。彼女は座席探しをしながら私たちを見つけ、「私は此処に座るわ」と言って連れのイタリア人男性と別れ家内の隣に腰を下ろす。対面式にテーブルを挟んで我々3人だけの会話が始まる。飛び入りの彼女は60歳前後か、寝屋川の出身で関西弁のイントネーションが残る。彼女曰く「私は今イタリアで微生物の研究をしています。数年前に亡くした夫について昔来伊、それが縁でイタリア人にバイオと医療の関係、薬に寄らない自然医学、酵素と免疫力、自然食品と栄養素など、人間と微生物の関係を追究しながら正しい生活習慣の唱道に努めているところです」。さらに日本のバイオ研究は今では世界の最先端にあると力説する。ご立派!そして彼女が下車するサヴォーナまで約一時間、私たちは彼女が繰り出すバイオの蘊蓄放射を浴びっぱなしになる。

その間、森下敬博士(血液生理学者でお茶の水クリニック院長&国際自然医学会会長で、病気はライフスタイル(食生活・環境・心)の乱れで発症すると主張、腸造血理論でも有名)、その他「細胞・酵素・遺伝子」の村上・小林両氏(筑波大)の学説や、千島(喜久雄)学説(赤血球が体細胞の母体であると説く生物学者)、安保徹氏(新潟大学教授(免疫学)、「見えない巨人」、「薬を止めたら病気は治る」で有名)等々、斯界の高名な学者先生や諸説の熱烈講釈を受ける。現在我々を取り巻く環境は危うく、健康体を維持するにはどうしたら良いか、大いに覚醒すべき時代に来ているという。その他、彼女は学校教育の日伊比較からイタリアの児童生徒の遅れも指摘する。話の途中で電話がかかってくる。それに対しても堪能なイタリア語でてきぱき対応、寸時たりとも休まない。大阪の家族と離れしばしば単身来伊、能動的に研究活動をしているようだ。本名は伏せるが元は経済学の専攻、その後バイオ関係の伊語翻訳を通じて専門分野を開拓する。近い将来、彼女の研究成果が実ることを祈るのみ。


2020.2.1会報No.91

ノルウェー俳柳紀行(5)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

アナ雪の先に描くや孫娘

NN(えぬえぬ)を結ぶ夢路の新貫(しんかん)(せん)

 

 フィヨルドの奥深い水辺に集落がある。よくこんな所に人が住んでいるものだ。陸路は険しく岩山と森林地帯、水路しか交通の便はないはず。そこがヴァイキングの昔から続くサーメ人等の生活の場なのだ。自然の中に埋没、孤独の世界から森の精(wood nymph)が現れてくる。西海岸一帯は妖精(トロール:Troll)たちの逸話の故郷なのである。「アナと雪の女王」、2014年公開の大ヒット映画であるが、私は全く知らなかった。遊びに来た孫娘に尋ねると、「何で爺は知らないの」とバカにされる。よくよく話を聞けばノルウェーの自然が醸し出すメルヘンの世界へと展開する。トナカイなど実在の動物、鼻や耳の大きい妖精、文化が滲み出す民族衣装など興味津々、夢のような次元へ誘われる。USJのハリポタ効果に対抗して、TDLではアナ雪で興行ブレークを狙った。

 それでは孫娘の向うを張り爺はどんな夢を描くか。N(Norway)とN(Nippon)を結ぶ新航路の開設である。ともに世界に冠たる海運国を自認する両国、ヨーロッパ・アジア間の最短海上輸送を原子力潜水船によって北極海(the Arctic Ocean)経由で行う。北極(North Pole)通過時は潜水、ノルウェー海ないしアリューシャンから太平洋航行時は海上に浮上する。オイル輸送の場合は潜水タンカー、その他の鉱物資源や海産物、農産品、輸送機器、機械類などの積み荷は多目的貨物船になる。北極海を貫く「新貫船」構想、日本政府の北極政策とも相俟って正夢になるであろうか。

 

オスロ市価おいど()抜かる恐ろしか 

免税でウィスキー選ばん上戸(じょうご)かな

カード万能キャッシュ主義捨てて利便追い

 

 第1句は五七五頭韻句、上五と下五は対句。「おいど」は御居処(オイド)、つまり尻のこと。調子よく飲み食い観光やっているとケツの穴毛まで抜かれかねない。そんな箆棒(ベラボウ)に物価の高いノルウェーともお別れのときが来た。

 今まで海外旅行は当該国の通貨を用い、ほとんど現金で決済することにしてきた。しかし、今回のノルウェーでは現金よりキャッシュカードによる支払いが普及していて、ホテル代はもとより交通機関の切符代、ファーストフードの飲食代など、金額の大小を問わず何でも掌大のフィーダーにカードを差し込み、暗証番号と最後にOKボタンを押すだけで支払いは完了する。便利になったものだ。一昨年のストックホルムでも、地下鉄の乗車券はカードで購入した。北欧諸国はなべてキャッシュレス決済が進んでいるようだ。この方が外貨購入時の手数料を省き、直接時価レートにて円に兌換され日本の口座で引き落とされる。スーパーでの少額の買物も、フェリー内でのアイスキャンデー1本でさえもカードで買える。これに気をよくしてガーデモエン国際空港の免税店では、酒らしい酒のないノルウェーのこと、アイルランド産のウィスキーを、残った現金と不足分をカードで支払って補い購入する。これでNok(ノルウェークローネ)の端数まで清算、すっきりする。またドーハの免税店では商品券(クーポン)とカードでチョコレートを買い求める。以前カタール通貨(ディルケム)の釣銭を貰ってうんざりしたことがあるが、今回はスマートに対応することができた。でも便利なカード決済主義も、うっかりすると買物が膨らみ浪費につながることになる。要注意!

 

奇を(てら)う気力筋力気まぐれに

My fancy travels, show of being different, with a lot of fruits.

 

 ノルウェー旅行の実行前は、最早通説の物価高に身構え、雄大な自然美に触れる期待に心ときめかし、短期間の四大都市巡りに耐えられる体力強化を図ってきた。現地に入ってみると、天候は良かったが予期せぬ暑さに辟易することもあった。日本とは真逆の国勢状況に戸惑いながらも幾多の示唆に富む教訓を得ることができた。これも単なる物見遊山の旅ではなく、温故知新、人知探求のための修行なればこそ。新奇と伝統の結合と調和、我また頑迷固陋から脱し自由斬新の身となり、着の身着のまま気の向くままに臨機応変の旅をする。これからもこの信条に沿って終活の余生を送りたいと願う。第1句は五七五頭韻句、第2句は英語発音準拠英語俳柳、‘Truth is stranger than fiction(事実は小説よりも奇なり)に通ず。さあ生きてる限り人生修行の旅に出よう。()

 

<日程>

5/29() QR807 NRT22:2004:10DOH(翌日)機中泊

5/30() QR175 DOH07:2513:10OSL、エアーポート・エクスプレス(シニア割引)で中央駅へ。ホテルチェックイン後、オスロ市内散策(中央駅インフォメーション、市庁舎、大聖堂、ヴィーゲラン公園等) オスロ泊(Scandic Byporten)

5/31() 列車でオスロ中央08:349:50ハマル(乗換)10:1113:37レーロス「銅鉱山の町」散策(2時間、レーロス教会、廃坑跡、Trygstad Bakery & Café)、レーロス15:3718:02トロンハイム、ホテルチェックイン後、市内散策(ニーダロス大聖堂、クリスチャン城塞、旧市街等) トロンハイム泊(Best Western PlusHotel Bakeriet)

6/01() トロンハイム市内散策(Bondens Marked)、バスで飛行場へ(45)SAS(SK4159)トロンハイム12:0513:05ベルゲン、バスで市内へ、ホテルチェックイン後、市内散策(魚市場、ブリッゲン、フロイエン山など)、ベルゲン泊(Zander K Hotel)

6/02() ソグネフィヨルド周遊、ベルゲン(列車)08:4310:51ミュルダール(乗換、フロム鉄道)10:5811:55フロム(昼食後フェリー・クラシック)13:3015:30グドヴァンゲン(バス、キップ車内購入)15:4016:55ヴォス(休憩、列車)17:4118:55ベルゲン、市内散策(夕食)  ベルゲン泊(Zander K Hotel)

6/03() am.ベルゲン市内散策、バスでベルゲン11:3015:50スタヴァンゲル(4.5時間)、ホテルチェックイン後市内散策(旧市街等)  スタヴァンゲル泊(Best Western Plus Victoria Hotel)

6/04() リーセフィヨルドへ、スタヴァンゲル8:40(フェリー)9:20タウ9:30(バス)9:55プレーケストール・ヒュッテ、10:0016:00(登り2時間で岩場頂上、プレーケストーレン・ハイキング)、プレーケスト・ヒュッテ16:30(バス)16:55タウ17:20(フェリー)18:00スタヴァンゲル、夕食後夜行列車でスタヴァンゲル22:3707:25オスロ(食堂車で部屋鍵受取り) 車中泊

6/05() ホテルに荷物を預けオスロカードで地下鉄・バス・トラム・遊覧船を駆使し終日オスロ市内散策(ムンク美術館、マートハーレン屋内食品市場、ノーベル平和センター、ノルウェー民俗博物館、ヴァイキング博物館など)  オスロ泊(Smarthotel)

6/06() am.オスロ市内散策(王宮、オスロ国立美術館など)pm.エアーポートエクスプレスでガーデモエン空港へ、QR176 OSL16:3500:05DOH(翌日)、機中泊

6/07() ドーハ空港免税店にてJCBギフト券(6000円分)利用、QR806 DOH02:2018:40NRT


2020.2.1会報No.90

ノルウェー俳柳紀行(4)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

海賊の名前先行ヴァイキング

 

ヴァイキングと言えば海賊集団を思い描く人が多いと思うが、それは彼等の時期的挙動によるもので、もとはスカンディナヴィア半島やバルト海沿岸に住むゲルマン系の人々で、平時はそれぞれの故地において狩猟や漁業を営み、舟艇造りや操船を得意としていた。入り組んだ峡湾、山岳森林地帯で元々農耕には向かない寒冷地域、それが彼等をして海賊行為に転進せざるを得なくさせた。また、そういう機会が増えるに従い侵略だけでなく、進出地において傭兵や商人として活躍するようになる。中には政治的支配者になる者も現れ、土着化が進む。斯くして中世ヨーロッパに少なからず影響を及ぼす。但しヴァイキングとして顕著な実績を留める国は、ノルウェー・スウェーデン・デンマーク・アイスランドの四カ国になろう。

 

本場にてムンクに触れる至福者

(めい)不名(ふめい)ムンクの名画()が叫ぶ

 

ノルウェーを代表する画家エドワルド・ムンク(18631944)の作品を蔵するムンク美術館を訪れる。オスロ中央駅から地下鉄で2つ目のトゥーエンで下車、駅出口に向けてウロウロ歩いていると、熟年の女性が「美術館はこちらから出て大通りを渡り、あとはまっすぐ行くだけですよ」と声を掛けてきた。さらに「今日は天気も好いし、その先にある植物園を散歩されるのもよいでしょう」とガイドしてくれる。ムンク美術館には彼の作品ばかり収納され、しかも観覧できるのはその一部だけであった。人気作品「叫び」は此処にはない。それは王宮に近い国立美術館第19小間で翌日じっくり観賞することになる。一寸拍子抜けのムンク展覧だったが、親切な小母さんに言われた通り緑と花に覆われた植物園を通り抜け、ついでにムンクが住んでいたアパートや少年時代の家を探しながら下町風情の住宅兼商店街を散策する。住人らしき人を捕まえてこれらの面影を尋ねても正解は跳ね返ってこなかった。彼等にとってムンクは日常の必需品ではないらしい。巨匠ではあるが生活には何の関係もない過去の絵描きに過ぎないようだ。

 一方の国立美術館にはオスロ滞在最終日の午前10時開館に合わせて出向く。すでに数十人が列をなし開館を待っている。目指すはムンクの「叫び」、そこに到達するまでに幾多のサラ(salle)を通り名も知らぬ名作にも見入る。ムンクの間だけは大勢の人だかり、日本人のツアー客も多い。北欧ツアーの一環でノルウェーに23泊立寄り、ムンクにお目にかかるようだ。正しく時間に急かされた旅人たちである。見覚えのある彼の作品がずらりと並ぶ。その一つ一つを写真に収める。作品約100点を集めたムンク展が東京都美術館で開催される。入場料は前売りでも1400/人、それを見に行く気にはなれない。本場でじっくり観賞しておこう。ここなら無料(オスロカード利用)で心行くまで楽しむことができる。日本での混雑が今から目に浮かぶ。

 ムンクの「叫び」は、彼の鬱積した魂の叫びを表現したものであろう。印象派のような繊細な写実主義ではない。人間の心奥を表出するにはどうしたら良いか、それをデフォルメして描いたのが「叫び」作品とお見受けする。ノルウェー旅行の締めをムンクでまとめホテルをチェックアウトする。なお、ムンクの作品は他にも随所で見られる。例えばノーベル平和賞授賞式が行われるシティホールにも、ムンク絵画で彩られた空間がある。彼は正しくノルウェーが生んだ偉大な画家である。

 

ノルウェー(こく)何処も彼処(かしこ)も別荘地や

自動車で占う民の裕福度

 

 オスロ・トロンハイム・ベルゲン・スタヴァンゲルとノルウェー4大都市を巡り、外見上、優雅な国だという印象を受ける。高物価に耐え得る人々の生活水準は高そうだ。この国では商品のほとんどに15%ないし25%の付加価値税が掛けられている。その分、国民は税金に見合うインフラ、社会福利や教育を享受する。「働き盛りに税金を納めていれば、高福祉の老後を送ることができる」と政府の財政政策を信じる。国王ハーラル5(1991即位)も憲法遵守の姿勢を強く打ち出し国民から広く信頼されている。国政と王政、この立憲君主制への信頼関係は長い歴史の中から紡ぎ出されてきたもので、これが国家の成長と繁栄を確固なものにしている。

 国土面積は日本とほぼ同じ位、人口は極端に少なく約530万人と東京都のそれにも及ばない。だが資源には恵まれていた。まず鉱物資源、石炭・鉄・銅・ニッケル、それに1970年頃からの北海油田とガス田の開発、ノルウェーは原油の輸出国である。豊富な水による水力発電(総電力の95%)、鉱業の外に漁業(サーモン・サバ・ニシン・タラ等)が盛ん、また捕鯨は日本やアイスランドとともに過去の一時代を築いた。国土の25%は森林地帯とあって林業(モミ・マツ等)として、木材、紙・パルプの輸出も行う。農業は耕地面積が国土の3%と少なく、牧畜とともに小規模にとどまる。なおハンザ同盟に到る中世から船舶による物流は盛んで、近年までタンカーを主体とする海運王国を堅持していた。併せて石油掘削などに関連した特殊船舶製造でも名を成した。私が40年前にオスロを訪れたのもタンカーやオイルリグ市場の調査のためであった。その他、今日では観光業、文化・イベント関係での隆盛が著しい。このような経済・産業がノルウェーの豊かさを築いてきた一因であろう。

 此処もとに2017年度の経済指標を二つ提示する。一人当たり国民総生産と国民総所得である。これによってノルウェーが世界上位にあることが分かる。しかし国民の所得格差を見るにはジニ係数によって所得分配(収入不平等)度合いにも触れる必要がある。ノルウェーの指数は27%(以下2015年度ベース)で安定している。これに対し日本は33%、この数値が40%を超えると格差は顕著になり社会不安が増すと言われる。因みにフィンランドとデンマークは26%、スウェーデン28%で北欧諸国民のより所得平等性が窺われる。

 なお統計数値では国民の裕福度を実感しづらい。やはり市井にあって庶民の生活実態をつぶさに観察する方がより分かりやすい。今回、行く先々で住居や趣味やペット犬種などを視るに、より明確な指標としてマイカーを取り上げたい。高額車テスラが殊の外多く見受けられた。ノルウェーではベンツやフェラーリも比較的多いが、それ以上に浸透している感じである。中にはぞんざいに扱われ傷付きのテスラもある。それだけ庶民階層に浸透している証左であろう。

 

一人当たりGDP(単位:US$) 世界銀行

          ルクセンブルグ   105,803.13         オーストラリア      55,707.78

          スイス                 80,590.91         スウェーデン      53,217.63

          マカオ                 77,451.29         オランダ          48,345.77

          ノルウェー             74,940.12                 ・・・・・

          アイルランド         70,638.26                  (中略)

          アイスランド         70,332.19                 ・・・・・

          カタール               60,844.26         フランス           39,869.08

          アメリカ               59,501.11         イギリス         39,734.59

          シンガポール       57,713.39         日本           38,734.52

          デンマーク           56,444.10                 (以下略)

 

一人当たり国民総所得(名目GNI:購買力平価ベース、単位:US$)  国際統計格付センター

          カタール           123,860                オーストリア        43,840

          シンガポール     76,850                オランダ          43,210

          ノルウェー           66,520                カナダ            42,610

          スイス               56,580                オーストラリア      42,540

          香港             54,260                ベルギー        40,280

          アメリカ             53,960                アイスランド      38,870

          サウジアラビア   53,780                フィンランド      38,480

          スウェーデン       44,760                日本            37,630

          ドイツ             44,540                フランス            37,580

          デンマーク         44,460                イギリス          35,760

                                                                      (以下略)

ウジが湧くオスロ(うごめ)く観光客

(いにしえ)の記憶活き活きミュウジアム

 

 人口約70万人のオスロはノルウェー最大の都市で、生い立ちは11世紀に遡る。ヴァイキング王としては最後のハラルド3(治世10461066)が築く。彼は1066年イギリス遠征の折、スタンフォード橋頭の戦いで戦死、爾後ヴァイキングは衰退に向かう。替わってデンマーク王政の支配下に入り1299年ノルウェーの首都になる。その後ノルウェーはデンマークとスウェーデンそれぞれの王政の影響下で発展する。19056月スウェーデンより独立、第2次大戦ではナチスドイツの侵略を受け、政府と国王は一時ロンドンへ亡命する。冷戦時代は中立主義を掲げ、NATO(北大西洋条約機構,1949)EFTA(ヨーロッパ自由貿易連合,1959)に参加し、それぞれ自立的な北欧諸国と歩調を合わせる。

 40年前のオスロの記憶は大分失せたが、市庁舎の南東に広がるアーケシェフース城を散策した覚えがある。公園内で酒瓶をラッパ飲みしながら絡み合う男女にびっくり、確か入場無料の公園だったはずだ。今回はビィグドイ地区の五つの博物館も訪れた。1200年頃の木造教会(スターヴヒルケ)のあるノルウェー民族博物館、19121月南極点に到達したアムンゼンのフラム号が展示されているフラム博物館、1000年以上前のヴァイキング船を展示するヴァイキング博物館、パピルス船ラー2世号や、ペルーからイースター島まで漂流した「いかだ船」コンチキ号を展示するコンチキ号博物館、そしてノルウェー海洋博物館の5カ所である。このうちヴァイキング船は昔の記憶と一致、再会に興味ますます募る。前回訪問時の私のノルウェー土産は、コンチキ号ワッペンと北海原油の標本の二つ、今でも自宅を飾る記念品になっている。しかしオスロ市内のことは殆ど覚えていない。当時の企業駐在員任せで夜のキャバレー位しか思い浮かばない。ましてや観光客が右往左往する煩雑な街となった今、これ以上探索する気にはなれない。

 

少人口(しょうじんこう)一人ひとりが主人公

人活かす女性はつらつ過疎の国

国賊は酒に博打(ばくち)に養老院

 

 国土面積の割には人口が少ないノルウェー、移民受け入れにも極めて慎重である。有効労働力は日本よりはるかに少ないはずだ。にも拘らず世界上位の国富を有す。これまさに国政の問題である。少ない人的資源を最大限有効に活用すること。日本の場合、国会議員の人数は衆参両院を入れて世界で7番目に多い707人、因みにスウェーデン349(38)、フィンランド200(74)、デンマーク179(82)、そしてノルウェー169(86)である。下僕労働者の際たる国会議員、日本は即刻半減してもよい。英1455(2)、伊950(3)、仏925(4)、ドイツ778(6)並みに考えているとしたら、EU等のように凋落するだけである。まずは隗より始めよ、政治の生産性向上と質的改善を図って働き方改革を行うべきであろう。なお国会議員に占める女性の割合はデンマーク37.40%(20)を除き、スウェーデン43.60%(5)、フィンランド42.00%(6)、ノルウェー41.40%(8)と軒並み高い。それに引き換え日本17.30%(140)は、よくマスコミに叩かれるだけあって極度に低い。40年前のオスロで乗ったタクシーの運転手は若い女性だった。今回もトラムの運転手、駅の案内係、商店や役所等の働き手と、至るところで女性に巡り合う。人が足らなければ既存の固定観念を排し国民総動員で対応しなければなるまい。ノルウェーの女性参政権は1913年から、女性の徴兵義務(1844)2015年から施行されている。全てにおいて男女平等、女性の社会参加は進む。

 「健全な国家に、健全な国民宿る」、また逆に健全な国民がいるからこそ健全な国家ができることになる。「酒は百薬の長」を超える呑兵衛天国は、百害あって一利なし。酒や甘味料に高税を課すも良し。またギャンブルや投機は国家破滅への媚薬でもある。清朝崩壊の因は阿片、中華民国のそれは賭けマージャン、いずれも国民を堕落に誘導した国政の過ちである。今日の日本はゴルフ会議に情報だけの虚業、いずれ国民は煮え湯を飲まされることになろう。ノルウェー国民のように死の瀬戸際までピンシャン、老人はコンセッション(concession)の乗り物で自足行動、いつまでも元気を保つ。日本のように無理に老人ホームに送り込むようなことはしない。老若男女に関係なく国民の自助努力を導き人間の価値をとことん使い切る。それが国家財政の冗費を省き、国民が末永く輝く社会を創出することになろう。


2019.12.13会報No.89

ノルウェー俳柳紀行(3)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

フィヨルドに集う観光グローバル化

()ぐ分かるブランド傘の落し主

 

 観光列車を乗り継いで乗船地のフロムへ、車内は世界各国のお客さんで大変賑やか。欧州か南米か分からないがスペイン語が陽気にはしゃぐ、するとシンガポール人がそれに合わせて英語で応じる。狭い車内は何語でもよい、大いにおしゃべりして国際交流が進む。私達の前に座った年配のご夫婦はもの静かな二人、それぞれカメラで写真を撮りまくる。マダムの方が幾らか積極的か、傑作を亭主に見せて得意気である。わが方も同じように婆が爺に写真の成果を誇る。前席の二人の会話はドイツ語、お互い人生一期一会のフィヨルド観光、野暮な言葉かけは自粛して、彼等とはただ笑顔の交歓で話をする。

 思っていたより大型のフェリーに乗って2時間のフィヨルド・クルーズに出る。トップデッキの最後尾に陣取り、移り行く峡谷を眺めながら日向ぼっこの船旅を楽しむ。すぐ隣には高校生位の孫娘と二人で来たという祖母が、同じように自然美に興奮しながら写真を撮りまくり、おしゃべりをして楽しいひと時を過ごす。この二人はセルビア人、若祖母は英語も達者でよくしゃべる。若さと元気の秘訣は誰彼かまわず話を交わすことにあるらしい。

 ソグネフィヨルドにはミーハー観光客が多い。当然ながら日本人ツアー客も混じっている。私のすぐ後ろで屯んでいた中高年オバン、後ろに目がないので分からないが話している内容から横浜辺りから来たらしい。そのうち話し声が聞こえなくなって、空いたスペースを見るとバーバリーの折りたたみ傘が落ちている。他にもいろんな国籍の人がいたが、ブランド物を持ち歩くなんて日本人以外にはおるまい。義侠心が湧いてきて船上のツアー客数人に心当たりを尋ねてみる。ツアーは旅行エージェント1社だけではない。幾社かの混成群のようだ。ある年配男性は「我々のグループは25人位、それも出会ってから未だ三日目、仲間がどこの誰かも定かでない」という。でも私とて持ち主の知れぬ傘をいつまでも持っているわけにはいかない。結局、責任感もありそうな彼に、「だめなら貴方が頂けばよいから、添乗員はじめ皆さんに当たってみてください」と半ば強制的にお願いする。これでババ抜きのババが無くなった。元の優雅な船旅に戻れる。かなり時間が経ってから一人の女性が現れ「有難うございました」、「よかったですね」。これで当方もすっきりした。下船のとき再び礼を云われて別れる。

 

絶壁上教誨(きょうかい)(だい)に身震いす

たまたまのめり込む絶景一生一会(いっしょういちえ

リーセ絶壁大阪ハルカス2倍超え

 

 大阪の地上300m「あべのハルカス」、ビル頂上外縁を実際に歩いてスリルを味わう余興がある。近鉄不動産が企む「エッジ・ザ・ハルカス」、それより高いリーセフィヨルドのプレーケストーレンは「教会の説教壇」とも言われ、水面からそそり立つ600mの断崖絶壁上にある。まさに3T(ThrillTerribleTremble)の極みかな。怖いけど覗いて見たいゾクゾク感、女はいざ知らず男は玉がめり込むようなスリルがある。それがリーセフィヨルドの魅力である。今回のノルウェー旅行最大の目玉、ために今までとは違って初めてトレッキングシューズを履いての旅となった。家内は道中暑いのでサンダル履きだったのを、満を持してキャラバンシューズに履き替えて臨む。実際、その雄大な自然の造形美は、人智を超える最高の達成感を与えてくれた。もはや二度とは来ない一期一会の天からの贈り物である。

 

教誨へアプローチ険し試練かな

愛用(ぼう)プレーケストーレン厄落とし

 

 プレーケストーレンへのベースキャンプはノルウェー第4の都市スタヴァンゲルである。まずフェリーでリーセフィヨルドの玄関口ともいえるタウに渡り、さらにバスでプレーケストール・ヒュッテへ、ここからは人力で山道へ入る。片道3.8㎞のアップダウン、登山道は整備されているとは云え、急こう配の岩場が多くきつい。でも所々に沼沢や木道もあり、エニシダ、山桜などの野草や木々の花々を愛でつつ、汗を掻きながらひたすら目的地を目指す。約2時間のトレッキングの末ようやく教誨台へ辿り着く。大勢の人が凡そ25m四方からなる一枚岩の上で思い思いに稀有な体験を楽しんでいる。我に返ってふと気がつけば、登り始めたとき被っていた帽子が無い。途中でバッグに仕舞った記憶はあるがハッキリしない。どうも途中の休憩で落としてきたようだ。皮肉にも教誨台で「注意怠りなく、物失くす勿れ」と諭される。帰路、あらためて休憩場所に寄るも見当たらず、旅の厄落としと諦めることにした。ソグネフィヨルドでは他人の落とし物の雨傘を届けて上げたのに、神様は何と無慈悲なお方かしら。それとも爺臭さを脱した新帽子に買い替えなさいとのお告げかも。

 

飛び滑り冬のノルウェーに日本人

海山にスポーツ天国二毛作

一年を優雅に生きるセレブ人

 

 ノルウェーはスキー王国、今冬の複合競技では渡部暁斗選手が奮戦大活躍した。しかし他の種目、とりわけクロスカントリーやジャンプでノルウェー選手に勝つことは難しい。40年前オスロを訪れた時、郊外のホルメンコーレン・ジャンプ場に足を運んだ。立派なジャンプ台があった。1972年札幌オリンピックで日の丸飛行隊と揶揄された笠谷幸生、金野昭次、青池清二の3選手が、男子ノーマルヒルで13位を独占した。その時代彼等がノルウェーでも飛んだ本場のジャンプ場を一目見ようと訪れた次第。それから40年以上が過ぎて今やホルメンコーレン一帯はノルディックスキー施設のメッカになっている。その後も名誉あるホルメンコーレン・メダル受賞者に荻原健司(1995)、舟木和喜(1999)、葛西紀明(2016)、高梨沙羅(2017)の日本人が名を連ねる。

一年の3分の2はスキーができ、そして残る3分の1はヨットや自転車ロードレースなど海山にアスリートが跋扈する。老若男女が夏冬(春秋はない)の大自然の中で縦横無尽に躍動する。さすがヴァイキングの末裔である。この限りにおいてノルウェーは豪気で冒険心を満たすに足る最高の環境を持する国である。


2019.10.1会報No.88

ノルウェー俳柳紀行(2)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

北の街トロンハイムに夏来る

邸宅街(はる)(なつ)一緒に百花乱る

野に海に裸天国日向ぼっこ

 

 北緯63度のトロンハイムも暑い。アラスカのアンカレッジより北に位置するので、私の到達最北地点になる。フィヨルドの海辺、草原広場には裸の老若男女が日光浴を楽しんでいる。オレも裸になりたいよ、うらやましい限りだ。トロンハイムはノルウェー第3の都市で、歴史は古く中世には首都だったことも。その面影を宿す旧市街の跳ね橋、そこからクリスチャン要塞に上り四囲を眺望すれば、トロンハイムの象徴ともいえるバロック様式の大聖堂が目と鼻の先に聳える。北欧でも2番目に大きい中世建築である。要塞への上り坂はかなり急だが斜面は住宅街になっていて、広い庭にプールや子供の遊具を備えた邸宅が立ち並び、車庫には世界中の名車が鎮座する。そして各庭に咲くカラフルな花々を一つ一つ吟味観賞しながら散策する。この季節ここでは北海道と同じように春夏の花が一斉に咲き出す。

トロンハイムには、ノルウェーに5校ある大学のうちの一つがあり、学園都市でもある。その所為か街中や公園に若者の姿を多数見かけ、なかなか活気のある街である。パリに住む知人の話では、友人が数年前パリの家を引き払ってトロンハイムに移り住んだという。ここで大学の先生をしているそうだが、その気持ちが分かるような街だ。

 

地方都市スーパー巡り買うビール美味し

酒求め街をうろうろ難儀かな

 

 オスロの夜、一杯飲みたくなってビール缶を買おうと街に出る。しかしアルコール類を売る店は見当たらない。中央駅に隣接したショッピング街に酒類販売店を見つけたがシャッターは下りたまま。その並びのコンビニで、ようやくビールのクールボックスを見つける。だが販売は夜9時以降ですぐには間に合わない。バーやカフェでは店内で飲むことはできても値段は高い。その一つカフェテリアの商品ケースを覗くと、小瓶ではあるが‘GINGER BEER’とか‘ROOT BEER’といった冷えたビールがあるではないか。ショウガにしろ、何かの根っこにしろ、昨今流行りのクラフトビールの類に違いない。1本約700円と少々高いが、とにかく飲んでみよう。それぞれ1本ずつ買ってホテルに持ち込み酒盛りを始める。口に入れてみると風味はあるが、どうもビール味とは違う。瓶のラベルにはアルコール度の記載が見当たらない。結局、正体は‘Energy Drink’であった。飲み干しても全然酔わないはずだ。でも元気が出る飲み物なら良としよう。

 ノルウェーの酒類販売は国家の厳しい統制下にある。健全な国民をアルコールによって毒してはならじと、販売店を限定、販売時間も午前9時から午後4時まで、一部の店で夜間に販売を許されるほどの厳しさである。酒飲みにとっては決して居心地のよい国とは言えないが、建前を遵守しつつ上手く利用すれば難関もブレークスルーできるようだ。北部の学園都市トロンハイムではスーパーマーケットで酒類を売っている。朝9時前にビールを買いに行くと、あと10分待てとのご宣託あり。他の商品の品定めをして時間を潰していたら、レジのお兄ちゃんが「もういいぞ」と呼んでくれた。91分前、前夜味見をして惚れ込んだ地ビールの‘DAHLS500ml2(500/)を購入する。安くて美味いビールである。これを搭乗機の預け荷物にしのばせてベルゲンへと飛ぶ。このビール、結局、トロンハイム以外の街では販売していなかった。

 

 

 

ベルゲンの盛り場香ばし(うお)市場

 

 ノルウェー第2の都市ベルゲン、街中をそぞろ歩く観光客が後を絶たない。歴史の街でもあり、近年はフィヨルド観光の基地として名を売る。古くは11世紀頃から漁業で栄え、中世には一時ノルウェーの首都にもなる。その後、海洋港湾の利を活かして交易が盛んになり商都として発展する。1316世紀バルト海から北海沿岸の交易によってドイツ商人が跋扈、ハンザ同盟の一拠点にもなる。ブリッゲン地区の木造長屋(世界遺産)にその栄光の跡を見る。港一帯に広がる魚市場とレストラン街もベルゲン名物、歴史の一端を担ってきたに違いない。最近はデンマークなどヨーロッパ諸国との空路便が増え、ベルゲン空港の拡充整備、それとともに市中心部との交通アクセスも便利になった。名実ともにフィヨルド観光の玄関口として活気を帯びてきた。

 

息上がるフロイエン山足慣らし

爺婆やケーブル尻目のど根性

 

 深い海洋峡谷、リアス式海岸の一つに築かれたベルゲンは、周囲の小高い丘陵に向かってカラフルな家々が建つ。海抜300m強のフロイエン山に上れば市街の全貌を収めることができる。ケーブルカーで行けば楽々絶景を目にすることはできるが、シニア運賃の設定がない。片道95NOK/人も然ることながら3日後のリーセフィヨルド・トレッキングに備え、此処は自力で山登りに励むことにした。一部つづら折りの急所もあるが、登坂道は整備され、全体が緩やかな散歩道といった感じだ。実際、山腹に住む人たちが生活で使う道でもある。別に途中までは車で往来できる道路もある。従って、ゆっくり登れば老人でも容易に行けるはずだ。夕刻にかけ未だ日が高く暑い最中、急斜面に生い茂った常緑樹の日陰に助けられ上る。松・杉・菩提樹・プラタナス等々の木陰を、自然の植生や花々を愛でながら歩む。途中いろんな人と出会う。上半身裸の年配男性がいるかと思えば、ブラジャーと短パンだけの女性は駆け足で降りてくる。若者はジョギング・スタイルが多い。近所の住人にとっては犬の散歩コースになっているようだ。いろんな犬種に出会う。上り約2時間、下りは道を間違え遠回りして1.5時間のトレーニングであった。安易な登山道ではあるが、普段やってない山登りに聊か疲労感が残る。

 

残雪に白滝瀑布初夏騒ぐ

フィヨルドに陶酔クルーズ峡谷美

 

 フィヨルド巡りの定番コース、ソグネフィヨルド征服に出掛ける。列車と船とバスに乗っているだけで大自然観光ができるのだから、こんな怠惰な行楽はない。残雪の山脈から雪解け水の放出ラッシュ、フロム鉄道の観瀑では全身水しぶきを浴びながら皆々カメラを構える。バスも特別停車して滝見物タイムを取ってくれる。この季節、フィヨルドを囲む断崖と山々が最も荒々しく躍動する。大小幾条もの滝が飛沫を上げ流れ落ちる様は壮観である。カモメの群れが我々のクルーズ船を追ってけたたましくウェルカム・コールする。


2019.8.1会報No.87

ノルウェー俳柳(俳句川柳)紀行(1)

JICAシニアボランティア

北垣 勝之

爺婆の旅の原点忘れまじ

成田へのアクセス変えて遠回り

旅立ちはラウンジカレーで腹いっぱい

 

 わが家から成田空港第2ターミナルまでは、北総線でまっすぐ行けば1時間以内で着く。今回は例外的に船橋経由JRで向う。時間は倍近くかかったが理由は海外傷害保険の付保のため。恒例となった空港サクラ・ラウンジでのカレーライスとワインで腹いっぱい、これで「さぁー行くぞ」と外遊気分が高揚する。それでも「旅は修行」の気概を確認、何があっても自己責任、気を引き締めての搭乗となる。

 

最後尾ケツ振りダンス寝苦しき

カタール機も一帯一路を跨ぐかな

長旅や異次元突入衝撃波

 

 機内座席は例によって最後尾、知る人ぞ知る横になろうと空席探しに他の乗客がやって来る。でも乱気流で振れを大きく感じる。最近のフライトは中国北部を横断するコースに定着してきた。北京上空からゴビ砂漠へと中国を跨ぎ、キルギス→ウズベキスタン(サマルカンド)→トルクメニスタン(アシガバット)と飛び南下、イラン(シラズ)辺りを経てドーハを目指す。まさにシルクロード「一帯一路」の空路である。むしろノスタルジア(nostalgia)を求めて陸路を流離ってみたい気がする。約12時間に及ぶ夜間飛行はハードだが、これも異界探索へのイニシエーション(initiation)と今では達観している。帰路も本コースを逆飛びする。サウジアラビアとの断交以降、カタールはイランと親密になり飛行ルートが変わる。

 

ラマダンやリカー無く悲しラウンジに

トランジット異人に出会うドーハの縁

 

 ドーハ空港のラウンジでワインでも飲んでオスロ行きフライトに備えようと思ったら、ラマダン中はアルコール類のサービスは一切無し。仕方なく軽食をつまんでいると隣りのテーブルにいた男から声が掛かった。私に向かって「日本人の方ですか」、「ええ、そうです」。彼は40代の日本人独身男性、長野で耐震建築のコンサルタントをしていると言う。モナコグランプリを観てきた帰りで、フランス国内の交通ストのためやっとの思いでドーハまで来た由。私達の出発の1時間位前の便で逆に日本へ帰るところだった。「自動車レースにはよく行かれるのですか」と問えば、年に一度モナコだけ、それもレース場の作業手伝いに行くそうだ。何て奇特な趣味を持つ奴だろうと思っていたら、モナコでは趣味同類の「デューク更家」とはよく観に行っていたと言う。益々変な奴、サライエという男のことは初めて聞く。そしたら傍らの家内は「健康法の先生とかでテレビに出ている人でしょう」と話をつなぐ。雑学ペース(trivia pace)の話のお陰でトランジットタイムがあっという間に過ぎた。私の衒学ペース(pedantic pace)の話よりそっちの方が面白そうだ。

 

オスロ物価老いの稼ぎじゃ追い付けぬ

甘味料肥満抑止の高値かな

列をなす庶民市場の鳥サンド

 

 第1句は五七五頭韻句。ノルウェーは物価高の国として世界のトップクラスにある。特にオスロやベルゲンなど大都市のホテルは驚愕の宿泊代が提示され、安くても日本の2倍、さらにイベント等と重なると軒並み高騰する。ホテルだけではない、レストランや飲食店、街の商店も同様である。一般食料品も高く、清涼飲料(スプライトやコーラの最小ボトル)500円位、暑いのでアイスクリーム類を求めると350450円、コーヒー1杯が500円強、ビール類は販売所によって価格差有り、1400(330ml)500(500ml)位で日本と大差ない(日本の酒税が高すぎる)。でもホテルやバーで飲むと1200((中瓶)1500(大瓶)となる。果物類は輸入ものが多くオレンジ1kg(6)550円と高めだが、バナナは大型3200円でまあまあか。オランダから輸入のイチゴ・パック(600)が美味そうに並ぶ。野菜・果物類は殆どが量り売りで自分の欲しいだけ袋に入れてレジへ。パンやケーキ類もなべて日本より35割増しになる。飲料水は水道から直接飲んでも問題なし、されどボトル(2L入り)をスーパーで買うと300円位する。但し‘Natural’と書いてあっても全てガス入り水である。ファーストフードのビッグマックはいろいろな具をトッピングして約850円、小型ピザ一人前で330円だが温めて貰える。

昼飯どきにオスロのマートハーレン食品市場を訪れると列をなしている店がある。前の客に「オスロは物価が高いね」とついつい愚痴をこぼすと、「いや、この店は安くて美味いですよ」と言われる。彼は大学4年生、「来年は卒業だね」と言うと「マスターへ進むつもり。我々のような学生でも常連の店、ここのチキン・サンドイッチは最高だよ」。順番が来て彼と同じものを注文、目の前で手さばきよく作ってくれる。鶏肉を微細にほぐし、ニンニクとタマネギの千切りとまぶして炒めた具をたっぷり、生キャベツとマヨネーズを大きな丸いパンに挟んだサンドイッチだった。確かに絶妙な味、11400円だが高いとは思えない美味さだ。 

ついでに公衆便所は有料で大小にかかわらず一回Nok10、また駅や港のロッカールームはNok50要る。ノルウェー鉄道(NSB)はしっかり利用料を徴収する。勿論、車内トイレは無料だがローカル線の車両によっては今でも線路に直接落としている。ともあれ諸物価高めのノルウェー、現役ならともかく年金族のオレには、ちょっと暮らし難い国である。第1句「老い」は「オイ()」に掛ける。なぜ物価高になるのか。消費課税の問題なのだが、それも特に甘味料を多用する清涼飲料だとか甘菓子類に過度に集中する。街にはスポーティな人々が躍動している一方、肥満な人も大勢いる。肥満は万病のもと、多額の医療費に繋がる。国民の医療費負担ゼロを目指す国家財政としては、福利厚生の観点から甘味料への課税に比重をかけ歳費削減を図ろうとしているのではないのか。

 

30℃汗かき巡るオスロ街

眠り無き白夜のオスロ活気横溢(おういつ)

 

北緯60度のノルウェー・オスロにきて、まだ5月末だというのに暑い夏が待ち受けていようとは。到着初日、一旦中央駅直近のホテルにチェックインして街歩きに出掛ける。大聖堂からシティホールへ、目抜き通りは大勢の人々で賑やかだ。市庁舎西隣の広場、木陰のベンチで一休みしようと先客の若者に同席の許しを請う。松葉づえの彼は愛想よく迎えてくれた。聞けば5月中頃オスロ北方のスキー場で転倒して膝を痛めたという。続けて彼曰くには、このところ雨が降らず晴天続き、しかも気温が高い。全く異常な状態で悪影響が出なければと嘆く。この若者、実は結婚していてリハビリがてら一人で街中へ散歩に来たそうだ。5月には日本の渡部暁斗がトロンハイムとリレハンメルで2回スキー複合競技に出場している。そのことを尋ねたら渡部の名前すら知らない。5位と2位の戦果では地元でもあまり注目されていなかったのであろう。それでも彼は日本のことは覚えていて一度冬の北海道に行って滑ってみたいという。 

トラムに乗って郊外のヴィーゲラン公園(別名フログネル公園)に行く。此処にはいろんな人体の彫刻があり、その数650体以上になるという。最奥にシンボルのモノリッテン(高さ17mの花崗岩の塔)には121体の人間が刻まれている。人造湖に掛かる橋上には有名な「怒りん坊」の像がある。怒った男児の彫像だがユーモアがあって面白い。しばしば心ない者の仕業によって災難に遭い、現時も右手の指の一部を捥がれ金属材で補強された痛ましい姿をしていた。広大な公園内では、裸で草原に寝転がり日光浴を楽しむ男女が三々五々、あるいは暑さにもめげずランニングする若者たちなど、ノルウェー国民の活気で満ち溢れていた。昼下がりの太陽はまだ高い。季節外れの暑気に見舞われ日本から来たばかりの爺婆は疲労の極、早々にホテルに引き上げ白夜の眠りに着く。

 

(きょう)に乗りレーロス犬友ハイタッチ

 

 ノルウェーの世界遺産(文化遺産)は全部で7件、そのうち今回は2ヵ所に立寄る。一つはベルゲンのブリッゲン(ハンザ同盟時代ドイツ人街だった地区で、カラフルで奥行きの深い木造倉庫が並ぶ)、もう一つはレーロスの鉱山街とその周辺。後者はオスロから北方へ列車で約5時間の山間にある。滞在2時間、大きなバッグをロッカーに預けて市街を散策する。16441977年に銅鉱山の町として栄えた。冬季は氷点下52℃にもなるという。古い歴史を刻む教会、その周囲には草の生えた屋根を持つ木造家屋、今なお住居として現役である。ボタ山と廃墟の鉱山跡に往時の産業史を偲びながら遺跡の町を散策していると、イヌ連れの人によく出会う。その一人、黒い大型犬2匹を連れた熟年男性と会話を交わす。2匹とも何々の品評会で入賞したとか自慢話が弾む。それだけでは収まらず親父も親族もホンダの車に乗っているとか親日家ファミリーの話に発展する。というのも私もホンダ車だと火に油を注いだからか。また家内のスマホの愛犬写真を見せるや、お互い犬飼族のよしみ、一層ハイテンションになる。時間を気にしながら最後はハイタッチで別れる。まだ観光地としては未開発、交通の不便さもあって観光客は少なく静かな田舎町に癒される。


スペイン・モロッコ俳句紀行(6)

JICAシニアボランティア

現千葉県JICAニアボランティアの会

北垣 勝之

アガディールや地震が招く新天地

災害に人心強固復興力

 

 大西洋岸のリゾート都市アガディールを訪れる。きっかけは海外「こんなところに日本人」のTV番組で、セイジなる男が海浜で焼き魚を美味そうに食べているのを観たのが縁。以前、北に170㎞の港町エッサウィラをマラケシュから日帰りしたことはあるが、今度はじっくり海辺で1泊して大西洋のサンセットを眺め、海水に触れてこようと企む。晴天の続く中、前者は彼方の雲に遮られ実現できなかったが、後者は翌朝の海浜散策のおり水際で手を洗うことができた。湘南海岸より遥かに広い砂浜では裸足の子供たちがサッカーに興じていた。とにかく土地勘が全然ないところ、新旧の情報が交錯して街がどう変化しているのかも掴めない。たまたま拾ったタクシー、まずは街が一望できるカスバに行こうと料金を尋ねると、ホテルと往復で80DHだと言う。ホテルでは丘の下まで40DH位と聞いていたので即座にOKし出発、旧市街を走りながら運転手の説明を聞いていると、盛んに「あの建物はオリジナルで、その隣のビルは新しい」と言う。何を基準に新旧の建築物を指しているのだろう。私には同じように見える。話を聞くうちに「ジェンザイ」という言葉が出た。「あっ、地震のことか」。ヨルダン時代、現地人とアラビア語混じりで地震国日本の話をしたことがある。その時の単語である。運転手の英語発音では分からなかったが、これで一気にアガディールの歴史が蘇る。当地は近年大きな地震に3回見舞われたが、最後の1960年の地震で、16世紀以降ポルトガル人が築いてきた町の建物が大半崩壊してしまったのだ。これから行く丘の上のカスバ(要塞)も城壁と砲台と城門の一部を残して瓦礫と化す。灰燼に帰した旧街区のほとんどは残った建物と入り混じった状態で再建された。かつ最近のアガディールは郊外へと建設の波がうねる。かくしてモロッコの他都市とは異なり、道路整備、リゾート開発、公園など斬新的都市改革が行われてきた。ゴルフ場も4か所あるそうだ。これはマラケシュと同数である。ヨーロッパ中からリゾート目当ての客がやってくる。

 この町の復興に加担したもう一つの理由は殖産興業である。カナリア諸島(スペイン領)にも近く豊かな漁業資源に恵まれ、魚貝類の水揚げはモロッコでも1、2を争う漁港を有し、海産物と缶詰生産の盛んな漁業の町である。一方、内陸に目を転じればアルガンの樹林が延々と広がる。最近は本家のエッサウィラを凌ぐほどアルガンオイルの産出が旺盛である。モロッコでもこの地方でしか抽出できない特産品、用途はコスメから食用油、入浴剤へと種類が増えている。100%純正のアルガンオイルを求めて販売店を覗くと、製作の実演や使用法の説明に販売員が熱弁を振るう。「これを一味どうですか」とスプーンに乗せた精力剤まで試食させられる。本当に効くかどうか、一匙くらいじゃピンとこない。値段はかなりの幅があり純正品は高い。それもその筈1㎏の実から1mlのオイルしか抽出されない。製法の機械化が難しく人の手で作成される。それが今やモロッコを代表する産品となり観光客は土産にこぞって買い求める。観光開発とこれらの産業を梃子としてアガディールは見事震災から復興したのである。日本も同じこと、禍を転じて福となそう。

 

乗り継いで出たとこ勝負モロッコ旅

果報者ミカンの季節マンダリン

 

 ツアーを除きモロッコの交通手段はすべて現地で手配する。スペインでもバスやフェリーは現地決済、本邦出発前に予約しておかなくても問題なし。いわゆる旅行シーズンではないからである。でもモロッコではバスしかない地域移動のところが多い。多少の不安もあったので極力前日までの切符購入を心掛けた。バス交通網は数年前と比べ格段に良くなった感じだ。スープラトゥール(ONCF)とCTM(国営)の主要2社の外、民営バス便がある。ダイヤもきっちり守られ、新しい車両が増え事故や故障が少なくなったようだ。移動がスムースに行かないと全予約のホテルに支障が出るので心配したが、2区間乗車の鉄道も予定通りの運行で、なべてスケジュール通りの行動がとれた。僥倖である。モロッコで一番うれしかったのは、ミカンの季節と合致したこと。特にマンダリン・オレンジの美味しさは最高で行く先々で買い食いする。値段は1㎏あたり212DH(25150)と幅があったがそれでも安い。小さいので数は2030個位か、皮が薄いので食べやすい。スペインではバレンシア・オレンジのシーズン、これも賞味したが美味い。柑橘類は日本のお家芸と思っていたが、昨今の国産ミカンの味は落ちる。見栄えはしても味にこくがない。マンダリン・オレンジの食い溜めをしてモロッコを後にする。

 

ISの地雷を跨ぐ渡航かな

地中海飛んで安心カタール機

 

 いつも飛行機がどのルートを飛ぶか興味津々、往路は成田→朝鮮半島横断→北京→天山南路(タリム盆地北側)→ペシャワール→イラン南→ドバイ→ドーハ(トランジット後)→イラク東→トルコ黒海側→サルデーニャ島→バルセロナ→マドリッドと飛ぶ。帰路はマラケシュ→アルジェ→チュニス→マルタ→地中海→アレクサンドリア→シャルルイッシェイク→ドーハ(トランジット後)→ドバイ→コルカタ→チッタゴン→上海→東シナ海→九州から日本縦断→羽田である。中東地域は恰も地雷原みたいなもの、IS等の紛争地点を巧みに避けて飛行する。チュニジア、エジプトなど地中海アフリカ側も要注意圏だが、中東系航空会社機は飛び慣れているようだ。

 

機内バニョ小便(じい)に糞(ばばあ)

 

 今回のフライトでは、いずれも機体中段の後部席を占める。早めの降機とトイレが近くて都合よかろうと考えてのこと。だが食事後のトイレラッシュ時になると、順番待ちの人列ができて煩わしい。特に同類の年寄り連中がぞろぞろやってくる。どうせなら機体最後尾の座席の方が人も少なく気楽であると再認識する。バニョ(baño)は西語、ここではトイレの意。

 

トランジットドーハのワインで飲み納め

 

 ドーハのラウンジは飲み過ぎの元凶、機内サービスより上等のワインが置いてある。それをチビリチビリやりながら5時間のトランジット待ち時間を潰す。ヨーロッパへの長旅もそろそろ卒業しなければと反省する。ラウンジ利用もこれが最後か、身体に疲労がくるようになったら終わりだ。しかし飲んでいると仮眠どころか疲れが取れてくる。さあもう一仕事やろう。お休みは機内ですればよい。日本まで約10時間のフライトが待っている。

 

旅の果て東京夜景5万ドル

日付線越えてオアシス我が家かな

ふと目覚めここはカスバか我が寝床

 

 久しぶりの東京の夜景、少々しょぼくれて見える。香港を100万ドルとしたら、東京は5万ドルくらいか。全体に明るいことは認めるが、光にメリハリがない。羽田には愛犬も出迎えに来てくれた。半月ぶりの再開に尻尾の振りが止まらない。モロッコは猫だらけだったがスペインは犬の国、それでも愛犬と同じ犬種には出会わなかった。「うちの可愛いルルちゃんは、色は白くて小さくて、粒らな瞳のイタグレっ子、ほんとにヤンチャなワンこだよ」。明日からまた犬散歩に励まなければ、日付の変わったところで寝床にもぐる。夜中にふと目が覚める。ここは地の果てアルジェリアかな、いや違う。カスバかもしれない。「カスバの女」の歌詞三番にモロッコが出てくる。「貴男も妾も買われた命 恋してみたとて一夜の火花 明日はチュニスかモロッコか 泣いて手を振るうしろ影 外人部隊の白い服」、退廃的ムード漂う歌である。何人かの骨太声の女性歌手が歌っているが、カサブランカにはそんな雰囲気が少しはあったかな。でも何処のカスバも艶っぽい感じはしない。今は赤茶けた廃墟の要塞跡である。ましてやイスラム圏とあっては酒や女は似合わない。作詞家「大高ひさを」の思い込みであろう。自己満足の創造アーティストは、歴史の事実とはかけ離れて勝手に歌詞を作る。我もまた虚実の間で旅の夢を見る。

 

アッラーの加護MM計画無事終了

あな楽し旅はお伽の飛遊かな

 

 家内から冒険旅行と酷評された旅も、なんとか無事に終わった。天候にも恵まれ、たくさんの収穫とともに帰国できたことは、神様(キリストとアッラー)並びに仏様のお陰である。今回のゲートインはマドリッド(Madrid)、ゲートアウトはマラケシュ(Marrakech)、称してMM作戦、2カ国に亘る旅である。結果として、身心のヘルスチェック、忘れかけた語学の喚起、今まで見残してきた名所旧跡の踏査、人々との出会い、新しい疑問と課題の発見など、まずまずの成果である。旅は無茶修行、その目的は達成された。非日常の世界を彷徨し、未知なる領域に思考を重ねることは楽しい。仮想現実(Virtual Reality)という言葉はあるが、私流に言うならば「飛遊」である。帰国後も旅の反芻と追究は続く。(完)


スペイン・モロッコ俳句紀行(5)

JICAシニアボランティア

現千葉県JICAニアボランティアの会

北垣 勝之

荒涼のサハラ涸れ沢土漠かな

砂漠より勤農励む現地人

 

 今回初めてオート・アトラスを越え、サハラ砂漠入口の町ワルザザートまで行く。マラケシュから13時間半の日帰りツアー、小型ワゴン車に中国人6人と私達2人の総勢8人が乗り、途中の見所を巡る旅である。圧巻は山脈越え、曲がりくねった片側1車線の道路をくねくね上る。ベルベル人が今なお住んでいる山間の部落や、雪を被った最高峰トゥブカル山(4165m)を眺めながら、時には急峻な岩肌にスリルを味わう。アイト・ベン・ハッドウは一度訪れてみたい場所であった。赤茶けた土漠にポッコリ盛り上がった要塞村といった感じ。マレ川の水があって村ができたのであろう。日干し煉瓦で造られた家の大半は崩れ気味、というのも今此処に住んでいるのは3人だけで、大方の住人はすでに近くの新部落に移っている。土産物屋の並ぶ隘路を往復するも執拗な勧誘がない。どうしたことか、以前は強引なガイドやチップを求める子どもがいたのに。やはり世界遺産になってお行儀がよくなったのかもしれない。このアイト・ベン・ハッドウにこだわったのは、いくつかの映画ロケの舞台になった所で「アラビアのロレンス」もその一つ。ヨルダン・アカバ在住時代から何回も見た映画の名場面を確認したいと思ったからである。本ツアーはカスバ街道を往来し、他に2カ所ほどカスバを訪れる。途中、昼食を兼ねて立ち寄った映画村は、形骸化したロケの跡が残るだけで、ガイドにチップを渡すための蛇足イベントであった。

 マラケシュ近郊にはオリーブやミカンの農場が点在する。大きなファームもある。長年かけて作付けを増やしてきたのであろう。ゴルフ場、酪農と牧草地など色とりどりの土地利用がある中で、オリーブとミカンの栽培は地道な農業として着実に伸びているようだ。収益を上げるにしても、サハラ砂漠地域の外国人相手の観光依存型ではなく、あまねく国民に裨益する地産地消の農業経営の方が望ましいように思う。私としては砂漠(佐幕)より勤農(勤王)を勧めたい。

 

ベルベルや水より高い小便代

耽々(たんたん)とチップに導くガイドかな

潤滑油サービス対価インシャアラ

 

 日本や東アジア以外の外国ではチップを当然視する国は多い。特に発展途上国では当たり前のことかもしれない。だが、その中でもモロッコは立派な「チップ大国」である。サハラ・ツアーに行こうものなら小銭を多々用意しておかねばなるまい。長い行程の所々でトイレ休憩を取る。主にレストランとかカフェのような所、トイレの前では使用料を貰おうと管理人が待ち構えている。すでに受け皿には5DH10DHのコインが置かれていて、それ以下では入場できない暗黙の決まりができている。別に定価があるわけじゃないが連中の狡猾な罠である。マラケシュのバス・ターミナルのトイレに入ろうとしたら入口の小母さんがチップを要求する。「いくら要るの」と尋ねると、「いくらでもよい」と言う。「今これしかないから」と1DH置くと「いつも私がきれいに掃除しているんだよ」と不満そう。トイレだけではない、道案内にもカネ、ガイドがつくとカネ、チップに追いまくられる社会である。定価が明示されないだけに始末が悪い。一つ一つは少額だが厄介な習慣である。

 ツアー・ドライバーのムスターファさん、アルジェリア国境に近いウジダの出身で40年近い運転歴を有す。14歳の可愛い娘さんと生まれて三か月の子持ち、遠い先祖はベルベル族だと出自を語る。ツアー同行の中国人グループが寄る先々でチップの金払いが悪いのを見て聊か面白くなさそう。というのも彼等は、チップを要求されても「ノーマネー」を連発して無視する。賄賂は払ってもチップ習慣のないお国柄、ノーマネー宣言は見事な対抗策である。彼等はケニアや南ア、エジプトなどアフリカ旅行をしている強者、今回もドバイに3泊してからモロッコに来たという。本当の金持ちはチップを払わないようだ。運転手のムスターファさん、チャイナは見限って残る標的は私達だけと見てか「上等の来客は1にアメリカ人、2に日本人、3にイギリス人」だと言う。「以前ご案内した日本人は800DHもチップを払ってくれた」と感慨深げに語る。帰り道、マラケシュが近くなるにつれて意味深な述懐が出てくる。最後ホテルに着いて別れ際、彼の手に100DH札を握らせた。13時間半の長時間ドライブは客も疲れたが運転手はもっと大変だったろう。これは義理チップではない、私達を無事に送り届けてくれた感謝の気持ちである。

 モロッコのチップ習慣は、完全に神のみぞ知るインシャッラーの世界、授受はお互い神様への感謝の念がベースに無ければなるまい。それが無知な観光客から暴利を貪り取る行為になっては常軌を逸する。しかしサハラ砂漠のベルベル人末裔たちは、逆説的だが金儲けの達人である。自己資産はなくてもチップ取りのシステムを考案し日銭を稼ぐ。積み上げれば相当な額になるはずだ。通りすがりの若者でさえ道案内で小遣い稼ぎをする。あらゆる手段で商機を見つけ出す。逞しきビジネス感覚である。日本の企業や役所も、おもてなし精神でいい格好するばかりでなく少しは見習ってはどうかな。

 

ジャメールフナ(みち)に迷いてクトウビア

マラケシュに汗かき歩く陽春(

人絶えぬ人種の坩堝(るつぼ)フナ広場

 

 マラケシュはフェズと並びモロッコを代表する古都である。旧市街メディナのスーク(市場)はまさに迷路、人混みの商店街を異文化散策しているうちに、いつしか方向音痴に陥る。そんな時、ランドマークのクトウビアを頼りに道を尋ねる。このミナレットは1199年に建てられたモスクの一部で、高さ77mの美しい塔である。日夜を問わず観光客でごった返すフナ広場の西方に位置する。歩き疲れたらカフェで一服、リフレッシュして再び歩き出す。2月に入って早くも陽春を通り越し初夏の様相、庭園の植え込みに咲くカラフルな花々を愛でながら汗を搔き掻きホテルに戻る。マラケシュを離れる前の最後の一仕事である。

 

モロッコ食よくてタジンかミントティーか

朝飯はフルーツハムナッツ盛り合わせ

スペインじゃ何はさておきタパス・バル

 

 旅行での楽しみの一つは食にあり。各地各様のグルメや果物など賞味しては至福に浸る。ホテルでの朝食はビュッフェ方式が一般的、ご当地料理もあるが総じて何処も似たり寄ったりの献立である。旨そうな高価な食材を如何にたくさん腹に掻き込むかに掛かっている。したがって食い過ぎ傾向に陥り、食事どきは胃腸薬が欠かせなくなる。ホテル側もコストを考慮しながら多種類の料理をもって豪華さを演出する。主に生ハムやソーセージ、新鮮野菜とフルーツ、ナッツ類の選択と組み合わせで満腹感を与える。モロッコの夕食はタジンがお勧め、肉はトリかビーフかヒツジか、あとは野菜出汁と調味料で多彩なメニュウができる。スープ類もいろいろあってお味佳し。サラダはミジン切りのトマトとキュウリに青菜、そこに蒸した米が添えられる。なるほどコメは穀類ではなく野菜なのだ。そして飲み物は砂糖たっぷりのミントティーで決める。フェズのイタリアン・レストランで国産ビール「フラッグ」を飲んだが水っぽくて感心しない。ここはイスラム国モロッコ、原則禁酒で行くとしよう。その点、スペインには何てったってタパス・バルがある。カウンター奥の気に入ったタパスをいくつか取り寄せ、併せてワインないしビールを発注して座高の高い丸椅子にどっかと座る。後は気ままに飲みかつ食べる。美味い、ジョッキも追加、すっかりバルの虜になる。マドリッドのサンミゲル市場のようなタパス・バルがスペイン中にあり、夕食は必ず飲みながらの食事に落ち着く。郷に入れば郷に従い、アルコールの有無にかかわらず郷土料理を楽しめばよい。


スペイン・モロッコ俳句紀行(4)

JICAシニアボランティア

現千葉県JICAニアボランティアの会

北垣 勝之

ミナレットに巣作り(たか)しコウノトリ

ひつじ丘緑野(りょくや)スイセン春日和

草原にメイメイ羊可愛いね

長旅の疲れ癒さる小動物

風そよぐユーカリ林の鉄路往く

 

 車窓に映る自然の景色を眺めながら旅するのは楽しい。遠くの雪山、近くの沼沢、そして原野に草食む牛馬や羊の群れ。モロッコでは羊が多くなるが、アルガンの樹木に背伸びして葉を貪るヤギもいる。またスペインではウサギを見かけることもある。モスクの尖塔の上に、おやっ鶴がいるぞと思ったらコウノトリ。脚と嘴が赤くヨーロッパには多い種類だ。小枝や枯草で立派な巣を築いている。子どもを運んでくる鳥として大事にされている。なだらかな丘に羊が移動している。今春生まれたばかりの子羊もいる。顔立ち、しぐさから愛犬を思い出す。できたら一匹連れて帰りたくなる。早春の野を水仙の花があちこちに咲き、モロッコを南下するほど原色の花々を見る機会が多くなる。鉄道線路沿いに何故かユーカリの林が広がる。育ちが早く木材として利用価値が高いからであろう。植林の手入れも行き届いている。猛禽もいれば日本でも見かける小鳥もいる。動く動植物園に旅の疲れが癒される。

 

12等モロッコ鉄道差別有無(うむ)

 

 今回初めてモロッコ国鉄(ONCF)1等車に乗る。フェズ・カサブランカ間と、その翌日のカサブランカ・マラケシュ間の移動を列車にした。フェズ中央駅の窓口で私が2等切符を買おうとすると、若い女性駅員が一等を勧める。外国から来た観光客なら1等が当然と言わんばかりである。前者の区間なら混み合うこともなかろうと渋っていると、「じゃあ、貴方は2等でマダムは1等にしたら」と笑いながら提案する。「それはグッドアイディア、だけど私が1等でマダムは2等だ。日本では私がキングで家内はサーバントなんだから」と付け加える。こんなやり取りをして乗り込んだ1等車は6人のコンパートメントで仕切られている。カサブランカまでは我々二人だけで1室を占有することができ、確かに優雅な1等車の旅であった。金曜日の移動でやや空いていたきらいがある。

 その翌日、土曜日のマラケシュ行きは乗客が多く、コンパートメントは全て満席。家内との会話さえ差し控え気味に過ごす。おまけにトイレの水は出ず、紙の備え付けもない。トイレは車両の端っこ、デッキに直通で風通しが好過ぎる。トイレのドアーは鍵が壊れているらしく、列車が揺れるたびに開く。一度、小用に出掛けドアーを開けると、ケツ丸出しの女性が内側から慌てて閉めようと把手にしがみ付いてきた。吹き曝しのデッキでは車両の轟音でノックも聞こえない。いやはや失礼仕り候。便器は垂れ流し式で、線路にそのままストンと落ちる。終戦前後の懐かしき日本の鉄道を彷彿とさせるものがあった。

 1等と2等車の違いとは何か。勿論、値段が違う。運賃は距離制で1等は凡そ2等の5割増しである。日本のグリーン車と普通車の差ほどもない。また座席の質もそれほど差がない。決定的な違いは、1等車は指定席になっているので混雑していても必ず座れる。だが2等車は全て自由席であり、時と場合によっては大きな荷物を持った乗客が車内に充満しごった返す。3年前メクネス・カサブランカ間の移動で、たまたまイスラム行事と重なり大混雑に遭遇したことがある。私は何とか座れたが、3時間以上も立ずくめの乗客が沢山いた。

 カサブランカ駅のホームで列車待ちしている間、一人の爺様と会話することになった。年齢は私より少し若い程度、向いの線路に止まっている回送列車の機関車を指さし、モロッコ国鉄は日本の技術に負っていると宣う。そこには‘Hitachi’の刻印が付いていた。いつ輸入されたものか分からないが動力車は日本製であった。彼は2年前にONCFを定年退職した機関保守のエンジニアだった。誇らしそうに当時の身分証明書を取り出して私に見せてくれた。時々駅に来ては現役の後輩と言葉を交わすのが日課になっているそうだ。それにしても客車のメンテナンスまでは手が回らないのがモロッコの実情らしい。

 

カサボヤジャー雨に(たた)らる傘ブラ

金曜日商都忙しく人往来

 

 カサブランカでは唯一雨に見舞われ、カサボヤジャー駅からトラムに乗り、港に近いホテルまで傘を差して歩く。スコールの一番酷い降りに出くわしたが、金曜礼拝にもかかわらず商都は賑わう。カサブランカのシンボルはハッサン2世モスク、モロッコ最大のモスクで尖塔の高さは200m、規模の大なるは勿論、施設の豪華さはモロッコのみならずイスラム圏で隋一と称される。所蔵する財宝の数々に魅せられ、ムスリムだけでなく世界中から多くの人が訪れる。モロッコ中のモスクの総本山と位置付けられている。その雄姿を写真に収める。それで十分、あくまで信仰の象徴に過ぎない。ベン・ユーセフがフランスから独立(1956)を勝ち取り国王(ムハンマド5)となるが、その後を継いだハッサン2世が建立したモスクである。

 

港町ひばり演歌で街歩き

リックスカフェ名画を偲ぶカサブラン

 

 雨の翌日は快晴、朝方にカサブランカのメディナを散策する。ナイス・スポット2ヵ所を巡る。リックス・カフェは映画「カサブランカ」に因み2004年に建てられたレストラン、いかにも西欧人好みの瀟洒な建物である。もう一つはラ・スカラ、人気のカフェだけあって朝食を目当てに観光客が集まる。スカラとは「見張り台」の意、カフェの入口付近は錆びた砲台が残る要塞の一部になっている。これらの飲食場所はナイトクラブとしてカサブランカの夜をも演出する。でも港沿いのロマンチックなヤシ並木道を散歩していると、ついつい「港町十三番地」を口ずさみたくなる。「長い旅路の航海終えて 船が港に泊まる夜 海の苦労をグラスの酒に みんな忘れるマドロス酒場 あ~港町十三番地」。石本美由起は恐らく横浜辺りを想い浮かべながら作詞したのであろうが、ここカサブランカでも十分通じる。

 

マラケシュへ四季それぞれの山模様

アーモンドの花咲く彼方雪の山

東風(こち)吹かば梅香(うめか)寄こせとアーモンド()

 

 マラケシュに近づくにつれオート・アトラスの冠雪した山々が見える。枯れ野の丘に青々とした草原も、黄や白の小花に混じり所々に淡いピンクのアーモンドまで春を奏でる。アーモンドの花は匂いこそないが梅花を連想させる。中東から地中海沿岸にかけて春の到来を告げる花である。なんとなく自然が華やぎ始める。そしてアンズやリンゴの花が咲き、それらは夏から秋にかけて成熟し、果実やナッツ類となってモロッコ国民に益をもたらす。紀元前からの先住民たるベルベル人は、このような自然の恵みを得てサバイバルしてきたのであろう。

 

ジャメールフナ話が弾む旧知かな

懐かしき観光客が来ない路地

 

 マラケシュに来たら、何をさて置いてもジャマ・エル・フナ広場に足を運ぼう。思い描いていた通り3年前と同じ活気が待っていた。だが私の行き先は、広場の東側の狭い路地を少し入った現地人の住区である。電気屋、タジンやクスクスの食い物屋、その他雑貨屋が続く。その一つ一つが変わらぬ表情をしている。その中で情報機器修理屋の店先で足を止める。店内には端末と向き合っている男が一人、「サラーマリコム、私を覚えているか」と口上を切り出す。相手も顔を上げ私を見つめる。すると一気に話が迸り出る。「あの時、オマエは日本の皇族の話をしていたな」と私が言えば、「アナタは向いのホテルに泊まっていたね」と応える。傍らにいる家内を紹介し、「オマエ歳いくつだったっけ」、「今、46歳」、「それじゃわが家の息子と同じだ。オマエはモロッコにいるオレの息子だな」と笑い合う。私も彼もお互い元気で再会できたことを祝福しながら、「仕事の邪魔をしてごめんよ、また逢おうな」とハグして別れる。10分位の挨拶だったが、1万kmも離れた所の隣人と会えたことが信じられないほど不思議な瞬間であった。 


スペイン・モロッコ俳句紀行(3)

                                                                                             JICAシニアボランティア

                                              現千葉県JICAニアボランティアの会

北垣 勝之

観光の有無で分かれる地方都市

シャウエンや色の演出町おこし

 

 モロッコ北西部、やや内陸に入ったティトゥアンに宿をとる。セウタから6人乗りグランタクシーで40分、旧市街の王宮近くまで乗り入れてチップ込みの二人で6とは安いものだ。以前は1時間位かかった距離、だが今は丘を縫うように立派な道路ができて運ちゃんはぶっ飛ばす。車の通行量も少ない。ティトゥアンの宿探しが大変だ。王宮の近くとは聞いていたが、門前の衛士に尋ねても分からない。辺りは人混みの雑踏、路上商人の出店で足の踏み場もないくらい。その中で靴を並べて売っている若手の商人に尋ねる。「ああ、伝統的なリヤドのホテルだね」と言い、店は別の仲間に委ねて自ら先導、道案内してくれる。王宮の前の狭い路地に入る。人が二人並んだらすれ違うのも儘ならないほどだ。23分歩いたところで「その先の角を左に曲がったら入口だよ」と言うや、そそくさと来た道を戻って行く。私も辛うじて一言礼を言う。チップも全く必要のない爽やかな人物だった。此処は現地人の生活が主体で、観光客に依存する町ではないようだ。スペインの影響が強く、白壁の家がびっしり詰まる街区である。

 一方、その翌日の宿は山間部のシャウエン。ここは「青い街」のキャッチフレーズに誘われて観光客が大勢訪れる。バスターミナルからプチタクシーで坂道をカスバの先まで行く。タクシーで乗り入れできるのもここまで、あとは迷路のような隘路を自力で上がって行かなければならない。道案内人がどこからともなく現れる。胡散臭い若い男だが、土地勘のない悲しさ、彼の案内に付いて行くしかない。やっとの思いでリヤドのホテルに着くが、そこで当然のようにチップを要求される。5DH渡そうとすると少ないと言う。10DH出すと、さっき見せた5DHコインも寄こせと来た。「この野郎」と怒鳴りたくなるのを抑えて後は知らん振り。これが観光の町の実態である。

 

レンガ積む粗家(そや)もハイカラ青化粧

シャウエンにプチタクシーまで色合わせ

山間地火力は弱しガスボンベ

 

 お伽噺にも出て来そうな山間の町シャウエン、本来白壁の家々だったはずだが、いつ頃から青い家々に変わったのであろうか。近くに聳える2,000m級の山には冠雪が見られる。最近の寒波襲来で降った雪だと言う。雪山を背景に見晴らし台から眺める青い街並みが美しい。でも特別な都市計画もなかった村落が、世界中から観光客を呼ぶまでに豹変するとは、それもそう遠い昔の話ではない。家屋や塀だけではなくタクシーまで青い。見事な演出である。ところが交通不便な山間地、エネルギー源はトラックで運ばれてくる小さなガスボンベだけ。安ホテルのシャワーは熱くならず当地での入浴はパスする。モロッコでは電力と道路、上下水道などのインフラはかなり改善されてきたが、ガス燃料は今一つ。そもそも資源はリン鉱石くらいで原油は産出されないお国柄、カサブランカ、サフィ等の大西洋岸工業地域に比べると北部山間地の都市開発は遅れていると思われる。一方、アルジェリアに隣接し亜鉛の産地でもある工業都市ウジダや、セウタと同じスペイン領港湾都市メリリャにも近く鉄と石炭の集積地ナドールなど東部諸都市とも遠く離れている。地勢による因果である。

 

メディナ内迷路訪ねて宿遠し

古都フェズや懐古に頑固旧街区

 

 古都フェズの宿は正しく旧市街フェズ・エル・バリの最奥部に位置している。無事たどり着けるか日本出発前から懸念していた。メディナの入口ブー・ジュルード門には新市街からタクシーで乗り付けたが、さて此処からが大変。33か月前に訪れた時は、迷路内の幹線とも言うべき2本の小路を歩いただけ。グーグルマップで見る限り幹線北路を辿り、最奥部からやや戻る方がよかろうと勝手に決めてトライする。ホテルまでは最短でも500600mはあるはずだ。そろそろ近くなったと思しき辺りで何人か地元民に尋ねながら進む。だがホテルの名すら通じない。一軒の店の親父に訊くと、「ちょっとややこしい場所なので、息子を道案内に立ててやろう」と言う。彼は最短距離を行くと告げて足早に歩きだす。右を向いても左を見ても薄暗い土塀の家々ばかり、目印になるものはなく皆目見当がつかない。不安の中を5,6分小走りに歩いてようやく「ここですよ」と指で示す。城壁のような壁に鉄と木でできた黒い重厚な扉が一つあるだけ。輪金具の呼び鈴を敲くと扉が開き、中から当主が顔を出した。道案内の青年にチップを渡して礼を言い館の中に入る。彼の手引きがなければ、探すのに1時間以上も彷徨することになりそうな場所である。ここに2泊、何回か出入りしたが、その都度道に迷い試行錯誤しながら館に戻る。うまく行ったのは最後8回目、宿をチェックアウトした時、ようやくスムーズに幹線南路に出る。世評に違わず世界一の迷路の街である。

当主の説明によると、400年の歴史あるモロッコ人法律家の邸宅が廃館になり、放置されていたのを8年前に改装したリヤド(宿泊施設)だという。イスラム建築の重厚な造りは当時の権勢を偲ぶに余りある。噴水のある中庭、それを取り巻く三階建ての館内に18室、パティオに面した部屋は天井が高く、黒い梁に白い漆喰、壁にはタイルが敷き詰められ、天井からはタペストリーとカーテンの装飾、大理石の床、手の込んだ照明器具や家具、広いバスルーム等々。更にこの館にはプールもあり、暖炉のあるダイニングルームの脇から狭い階段を上って屋上に出れば、モスク風の塔屋がそそり立つ。ここからフェズ旧市街のびっしり詰まった甍の波と、北にマリーン朝の丘陵墓地を眺めることができる。内部は私好みのシンプル仕様、テレビもない部屋に大きな空調装置が一つ、暖を取るため夜通し点けっぱなしにしておいた。何となれば部屋の大きな扉は隙間だらけ。それでも数百あるフェズのミナレットのアザーンが一斉にしゃべり出しても、堅牢な館の中に埋もれた私の部屋まで音声は届かない。例外は夜半の驟雨が数滴漏れてきたくらいである。

 

丘の上墓地に貧富の諸相あり

 

 宿の屋上から眺めたマリーン朝の墓地に上ってみたくなり、迷路を北に進みキッザ門から旧市街を抜け出る。13世紀にフェズを拠点に繁栄を築いたベルベル人のマリーン朝、彼等の子孫が営々と繋ぐ墓地を横切り頂上を目指す。墓標の大小に世代の浮沈を読み取ることができる。気の利いた文言を石碑に刻み先祖を称える墓もあれば、無縁仏の如く荒廃した場所もある。ときの所業を映すは洋の東西を問わず墓地とて皆同じ。丘の頂上からはフェズの街が一望できる。迷路の中をうごめく人間は見えないが、その数800ともいわれるモスクの尖塔が至る所に直立、イスラム王国の古都鳥瞰はまさに壮観、はるばる来ぬる旅に満足感を覚える。

 

万華鏡遺産に覗くイスラム美

 

 フェズ・エル・バリの入口にあるブー・ジュルード門をはじめ、ネジャーリン広場の泉、フェズ創設者の墓サヴィア・ムーレイ・イドリス廟、カラウィン・モスクなど、迷路内にあるマリーン朝名残の建築物や遺構には、構造様式、彫刻やタイル等にイスラム文化の精華を見る思いがする。きめ細かい模様、デザイン、配色は他の異文化にはない独自の美しさを持つ。まるで万華鏡を覗くようなワクワク感が起こる。ベルベル族のその昔から育まれてきたマグレブ文化(チュニジア・アルジェリア・モロッコなどアフリカ北西部地域)の成果である。

 

街路樹の蜜柑下から刈り取られ

 

 地中海沿岸の都市には街路にミカンの樹を植えているところが多い。今回訪れたマラガや、シャウエン、フェズ、マラケシュ、アガディール等のモロッコの諸都市では、街の至る所でたわわに実るミカンの樹を見かけた。スペインではバレンシア・オレンジ、モロッコではやや小粒のマンダリン種が多い。それらの実は人の手が届かない高さに生る。やはり美味い実は早々に摘み取られてしまうようだ。食べてよし見てよし、大らかな風情である。


スペイン・モロッコ俳句紀行(2)

                       JICAシニアボランティア

                       現千葉県JICAニアボランティアの会

北垣 勝之

骨埋めるマラガ居よいか住みよいか

 

 厳寒のマドリッドからアヴェ特急で3時間弱、地中海の港町マラガに着けば、そこは常夏の地、ブーゲンビリアやハイビスカスが出迎えてくれる。私にとっては7年ぶりのマラガであるが、駅舎はモダンなショッピングモールに包まれすっかり様変わり。そして街中は所々工事中で以前と変わらぬ活気が伝わってくる。心地よい潮風を受けてヤシ並木の海岸通りから、カテドラルやアルカサバ要塞を眺めつつ、まずはヒブラルファロ城へと登っていく。マラガを一望するビュウスポットがあるからだ。岸壁にガントリークレーン、大型フェリーも、眼下の円形闘牛場は昔のままだ。行き交う若者たちは半袖短パン、崖斜面のサボテンには熟れたノパールの実、南国ムードを満喫したところで、ピカソゆかりの旧市街に向かう。

 

 繁華街の人混みから突然「日本人ですか」と呼び止められる。通りすがりの私たちの会話を耳にして、マラガ在住15年のT氏夫妻が声を掛けてきたのだ。栃木県出身、温度計営業の縁で当地に来て住みついてしまったという。間口3m余りの住居に奥さんと二人暮らし、納豆・豆腐・味噌まで自作する生活を営み、とことん現地の人々との交流を楽しんでいる由。私とほぼ同年代だが、一時大病を患うも克服して今は元気な様子。健康面での不安はあるが、このまま住み続け当地で人生を全うしたいという。温暖な気候風土、人情深き土地っ子に囲まれ彼の夢は叶えられることだろう。夢と現実の相克についついのめり込み、人混みの街路で30分以上も立ち話をしてしまった。人生は一度だけ、Tさんお互い頑張ろう。

 

荒涼のイベリア原野冬景色

ドン・キホーテ敵は発電風車かな

 

 ベンツ・バスが高速道を快適に走る。風力発電やリゾート開発への過剰投資で、スペイン財政危うしと言われた7年前と四囲の情景は変わらない。金融危機も一時の風説に終わるのか、未だ冬景色の残る車窓を眺めつつ地中海沿いにコスタ・デル・ソルを一路アルヘシラスへと向かう。確かに経済は一見立ち直ってきたかに思えるが、政局混乱、高い失業率、財政赤字は続く。頼りは観光産業と農産物だけか。陽光の温もりとは裏腹に本格的春の到来は未だ先のことらしい。山嶺に並ぶ風力発電機が穏やかに回る。オリーブ畑が間断なく続く。スペインの原風景にいつしかハルシオン・ブリーズ(halcyon breeze)の訪れることを信じよう。その昔、ドン・キホーテは粉挽き小屋の風車に向かって槍を突いた。今、彼がいたら過剰投資に空回りする風力発電機に立ち向かうことだろう。

 

海峡を越えて民度差民族差

難民と(まが)うモロカン国境越え

 

 ジブラルタル海峡をフェリーで渡り、スペイン領セウタに辿り着く。モロッコ国境へ向かうため市バスに乗り込む。意外と混雑している。途中のバス・ストップで乗り降りはあったが、ほとんどの乗客は国境を目指した。その近く丘の上で皆々下車する。見通す先に国境事務所はあるが、おびただしい群衆がそこに向かって歩いていく。各々大きな荷物をもって移動する様は、まるで難民の国境越えみたいだ。彼等に混じって私たちも歩き始める。道路は通関待ちの車両で大渋滞である。バスがはるか手前で乗客を降ろした理由も判った。これはえらいことになったものだと半信半疑で人の動きに付いて行くしかない。係官の規制の下、押し合い圧し合いながら狭い通路を歩く。モロッコ側出口に差し掛かると、当然のことではあるが係官からパスポートの提示を求められた。入国スタンプが押されていないと突き返される。どこそこに行って入国手続きをして来いと言われるが、その場所が分からない。何人か別の係官に尋ねるも人によって言うことが違う。スペイン側とモロッコ側の事務所間を何度か行ったり来たりするうち、難民の群れが幾分少なくなってようやく入国審査小屋を見つけ出す。窓口でパスポートと事前に記入しておいた入国カードを差し出す。係官は端末に記録を打ち込むだけ、終わったら押印したパスポートを返してくる。ついでに隣の外貨両替所で必要最小限US$をモロッコ・ディルハム(MDH)に交換する。かくしてやっとの思いでモロッコ入りを果たす。

 

 本来このような大混雑はないはずだった。ブログの調べでは皆簡単に入国している。月曜日、モロッコ人の買い出し部隊が帰国する潮どきにかち合ってしまったようだ。スペインとモロッコ間の経済格差は大きく、非課税の物資が前者から後者へと移動する。たとえ一人一人の免税額内物資でも人数が膨れれば多額の物流となる。税関は脱税をチェックする。したがって車両の出入りは特に厳しいが、個人の持ち物には検査が緩い。観光客は査証さえ整えばフリーパス同然である。だがモロッコからスペインへの逆コースはそう簡単にはいかない。当然ながらX線検査のチェックもある。しかし往きは手ぶらで帰りは大荷物の買い出し商売は、民度差による商品価値と貨幣価値のバランスから利益を得る闇市が存在する以上、この国境越え買い出し部隊を根絶させることにはならないであろう。事実、これ等の安価な密輸入品が最寄りのティトゥアンの街には溢れている。ここを拠点にモロッコ中に流通していると思われる。ともあれ、事情は異なるがヨーロッパを目指すシリアやアフリカからの難民移動をも偲ばれる貴重な体験をすることができた。


スペイン・モロッコ俳句紀行(1)

北垣 勝之

 

マドリッドからコスタ・デル・ソル経由でモロッコ周遊した。

1/19(Thu)成田から夜行便で出発

1/20(Fri)ホテルチェックイン後市内散策

1/21(Sat)マドリッド泊

1/22(Sun)特急でマラガへ、泊

1/23(Mon)バスティトアンへ、泊

1/24(Tue)シャウエンへ、泊

1/25(Wed)バスでフェズへ、泊

1/26(Thu)フェズ新旧市街散策(フェズ・エル・バリのネシ、アッタリーン・スーク等)、泊

1/27(Fri)列車でフェズ発カサブランカへ、泊

1/28(Sat)列車でカサボヤジャー経由マラケシュへ、泊

1/29(Sun)日帰りVELTRAツアー(アイト・ベン・ハッドゥ、ワルザザートのカスバ等見学)、マラケシュ泊

1/30(Mon)バスでアガディールへ、泊

1/31(Tue)朝の海浜散策、大西洋に触れてからマラケシュへ、泊(ル・メリディアン・エンフィス)

2/01(Wed)am.マラケシュ・メディア内スークなど散策、pm.タクシーでマラケシュ・メナラ空港へ、 QR1395、翌02:00DOH

2/02(Thu)ドーハ乗換え5時間、ラウンジで休息、QR812 DOH07:1022:30HND(マイカーにて深夜帰宅)

費用:総額:296,894(二人分)

(内訳)航空賃:92,480、交通費:66,248、宿泊代:101,032、飲食費:23,442、その他:13,692

 

自堕落の自国離れて自律旅

厳しさに敢えて身を置く修行かな

 

 最近少々血圧が高く150/90ベースが続く。23年前は減塩など食事に気を付けて養生、かつ両手の交互タオルしぼり運動もして平常値内に収まるも、毎秋の健診ではいつも高めの数値に逆戻りする。血圧以外は正常域なのに。こんな馬鹿げた小心翼々生活に決別して、厳しくも自由奔放な海外旅行に出よう。そして人間本来の生命力を喚起しよう。つまり人間の持つ自浄力、復元力の覚醒である。国内で規則正しい運動と散歩、栄養バランスの取れた食事をしていては自堕落な人間ができるだけだ。夜討ち朝駆け、睡眠不足、暴飲暴食大いに結構、極限状態の中で本当の自分が判る。事実、無茶苦茶海外修行から帰ると血圧値は正常に近づく。胃腸も快調。要は鈍った身体に喝を入れ、自然の自分を取り戻すことだ。第1句は五七五頭韻句。

 

成田にてサクララウンジ出来上がり

 

 出発前、空港の日航サクララウンジで一息入れる。人気落ち目の夜のエアーポートはエキゾチックな雰囲気がある。スパークリングワインで酔い、独特のカレーライスで腹を満たす。他の摘み食いは付け足しに過ぎない。食事と情緒を満喫、最早長途の苦難旅にわざわざ出かける必要もあるまい。出来上がったところで家に帰って寝れば最高だ。ドーハまでの12時間近い過酷なフライトを思えば、そんな怠惰な誘惑が頭をよぎる。

 

トランプに相場占う両替屋

 

 マドリッドのバラハス空港第4ターミナル、三次元の複雑な通路を経て入国手続きを済ませ、荷物引き取り後バスでアトーチャ駅に向かう。ホテルは駅から徒歩15分のところ、チェックインして早速街歩きに出掛ける。辺りは再開発地域、広大な土地が未着手のまま、気温23度の寒風が容赦なく吹き付けて来る。手袋を取り出し15分ほど歩いたところに南部バスターミナルがある。急に人の往来が激しくなる。翌日のバス切符を手配、発着場所も確認、近くの電車駅からマドリッドの中心ソルに乗り込む。以前換金した辺りの両替屋で手持ちのUS$を€に換える。トランプ効果でドル高の内に次回旅行資金を調達する。目論見は外れるかもしれないが外国為替はもともと賭けみたいなもの。¥・US$・€は、その時々の有利な通貨で融通すればよい。

 

スープメニューや出てきてびっくりモツナベに

 

 まずは腹ごしらえと思いソル近辺を逍遥すれども、なかなか気に入ったレストランやバルが見つからない。と言うより午後47時という時間帯はどこの飲食店も休憩中、ランチは午後3時頃まで、ディナーは午後8時頃から始まるところが多い。寒い季節、たまたま温かそうなスープの看板が出ているレストランを見つけ、店員に尋ねれば営業中という。数人の年配男性もワインを飲んでいる。スープの辛くないことを確かめパエリャと併せて注文する。ほどなくして出てきた熱々の肉入りスープは美味そう。でも何回かスプーンを口に運び食してみると、いわゆる肉は内臓物ばかり。脂ぎった赤い汁に黒い血の塊みたいなものも混じる。トライできるのもそこまで。不味いパエリャだけ食べて羊頭狗肉の店を後にする。十分メニューを吟味しなかった当方に落度がある。もともと闘牛の盛んなお国柄、無造作な牛の臓物食いなどお手の物であろう。

 

スペインにピカソ復習美術館

 

 7年前にバルセロナのピカソ美術館を訪れ、パブロ・ピカソ(18811973)の斬新・進化の事績をじっくり見てきたが、今またそれを追認したくなりソフィア王妃芸術センター(Madrid)とピカソ美術館(Malaga)に足を運ぶ。前者のポイントは大作「ゲルニカ」、あらためて白黒のモザイク的表出に感銘を受ける。後者はピカソ生誕地の展示だけに、彼の生涯を通した創作変転の跡を辿ることができる。いずれにせよ新時代を画した異才の苦悩と生き様に触れ、一人の人間価値を見出す思いである。一方、彼の中期以降バルセロナからパリへと活動拠点を移すに伴い、精神分裂的作品が多くなり前衛化傾向に突き進む。これも芸術の蘊奥を究めんと足掻き、呻吟する一連の道程だったのであろう。

 

懸崖に不朽の建屋宙づり(

クエンカにゃベラーノに来いと暇爺言い

 

 今までスペインに3度通ったが見残しているところが多々ある。その一つクエンカに是非立ち寄りたく企図した。ここは懸崖の岩肌にへばり付くように建てられた「宙づり の家」で有名、「百聞は一見にしかず」とにかく訪れることにした。寒さのきつい季節だが天気は好い。バスターミナルから道を尋ねながらぶらぶら歩く。渓谷沿いの登坂に差し掛かる辺りからシンボルマークが見え始めた。道路整備ができていて観光客が三々五々続く。皆もの珍しそうに写真を撮りまくる。古い錆びた鉄製架け橋までが見所の佳境、あとは13世紀建立のカテドラルを中心に旧市街の要塞都市を散策しながら下山する。バスターミナルに戻ったところで一人の現地老爺(私とは一回り若いが年寄り臭い)と出会う。「クエンカを訪れるには自然が緑濃くなる夏場(Verano)が一番いいぞ、また来いよ」と愛想よく勧める。

 

クエンカに冷やかし探す(いぬ)()

街が死ぬ土日閑散店終い

 

 クエンカに着いたのは土曜日の正午を過ぎた頃、街は賑やかに人の動きは多い。街中を歩いていてドッグペットの店を見つける。今までヨーロッパ各地を巡り犬飼族に出逢うこと多けれど、ドッグ用品の商店を見つけることは珍しい。千載一遇、これは何をさて置いても中を覗いて見なければ、早速、愛犬のドレスの物色を始める。イタグレという独特な体型なのでピッタリ装着する服が中々見つからない。今まで家内が採寸、オリジナルのホームメードにトライしてきた。もしレディメードがあれば立派なお土産ができる。店主もあれこれ物色してくれたが、適切な物はやっぱり見つからず断念する。冷やかしに終わったことを謝し店を出る。やがてクエンカの商店街は営業時間終了と週末が重なりどこも閉店、事務所は勿論のことすっかりシャッター通りになってしまった。ショッピングにもタイミングがある。

 

意気盛ん熟年女一人旅

 

 クエンカの街を歩き始めると、私たちに添いつ離れず歩調をとる一人のアジア系女性がいた。どうも行き先が同じ方向らしく片言の英語で話しかけて来た。やっぱり目的地は同じだ。こちらも道路標識頼りに地元人に道を尋ねながらの歩みである。その動きを確認しながら彼女はついてくる。鬱陶しいので「道中ウィンドウショッピングしますので、どうぞ先に行ってください」とやり過ごす。目的を果たし、街歩きを終わってバスターミナルに戻る。すると程なくしてこの女性もマドリッドに帰るためバス乗り場にやって来た。もう既知の友人でもあるかのように声を掛けてくる。聞けばヨーロッパ旅行中の台湾人で台中に住み、ご主人は歯医者、息子も歯科医を目指して頑張っている由。これで彼女一人だけの旅の謎が解けた。明日はマドリッドからリスボンに飛び5泊、ついでポルトに移動、大いにワインを飲むのだと意気込む。ご立派!よくぞたどたどしい英語で単身世界旅をやるものだと感心する。好奇心いっぱい、未知の外国街歩きに乙女の目が輝く。齢のほどは5060位の熟女である。


ミクロネシア便り(5)

新東京医科大学ポンペイ校医学部医用工学教室 教授

御殿場基礎科学研究会 オセアニア支部長

太平洋地域医学会 会長

岡田 一秀 Ph.D

 

ICTの皆さま、こんにちは。新東京医科大学ポンペイ校の岡田です。現在、ホノルルにおります。ここで私達が運営している医学会の会合をしたり、医療協力を確認したりします。日本・世界に散らばっておられる日本人の方に向けて、ここから医療ツイキャス(インターネット放送)を日本時間6月2日(金)午後6時頃(ホノルル時間1日(土)午後12時頃)に実施しようと考えております。    https://ssl.twitcasting.tv/kehua_and_kazu/broadcaster 

太平洋地域は北西側からミクロネシア地域・ポリネシア地域・メラネシア地域に分かれるのですが、ハワイは良いにつけ悪いにつけ、文化・経済・インフラ等、どの地域にもreferしていかないといけないところです。

ワイキキの市街からやや離れた山の裾野にハワイ大学があり、各種医学の研究・教育も盛んに実施されており、今回はそちらの教授も既に訪ね、これからは東洋医学のマスターかたがた、こちらのハワイ・シニアライフ協会が主催されておられる医学教室にも日本から来たメンバー共々参画させていただきます。また、ホノルルと言えば、四国を本拠とする丸亀うどんが有名で、麺に各種素材をトッピングする薄味を既に食して来た処です。

私の場合、工学部で通信工学・情報工学を教えた後、医学部に移り、医用工学を教え出して早2年、また地域全体で漁夫の利を得ると言うことで、20カ国+10州/郡包括の学会を立ち上げてから早9カ月です。何とか8本の月末締めの学会誌を発刊し、世界100ポイントに配布してきました。学生が人の命を預かる医師を志すと言うことで、教える方も重責でプレッシャーを感じることもありましたが、また医学会の運営も任期が3年で、各位から論文・投稿を集め毎月5080ページの成果物を出して行くのは大変でしたが、地元の方々の校正・宣伝活動への多大な協力と、当初、私の出身母体である大阪大学及びトヨタ自動車(株)の賛助が得られたこともあり、ヨチヨチ歩きですが、何とかここまで来ることができました。

研究・サービス補助と言うことで、WHOから学会に若干の補助金も下るようで、現在申請中であり、地域全体の医学発展を議論の上、補助実験・緊急援助(特に災害発生に伴うもの)に使い、そのアウトプットは公開の形でフィードバックして行こうと思っています。

我々がこういう広域の活動を行うことで、日本・米国・中国・豪州等大陸側への刺激・活性化も念頭にあることは勿論ですが、各地域がフェアに医療研究の活性化及び医療情報交換・議論に浴せるように、ミクロネシア地域ポリネシア地域(ここも含みます)メラネシア地域ミクロネシア地域・・・と、時計回りに会長国を回して行く仕組みにしましたので、つつがなく学会のスキルとサービスを上げ、ポンペイでの国際会議を経て2年3カ月後にはポリネシア地域にバトンタッチして行きたいと思っています。あと1週間したら成田に入り東京で1週間滞在し、我々と提携している都内病院でコラボ確認をしたり、トヨタの元上司と技術的なDiscussionをしたり、また学部側で学んだ千葉大学も訪ね、同時に現行学会誌はミクロネシア連邦政府だけでなく、日本の新旧厚労大臣にも月々流していますので、厚労を担当する議員とも会って来るつもりです(時間があれば、在日ミクロネシア連邦大使館にも)。6月15日以降は地元関西に帰りまして、1カ月強ゆっくり郷里の河原でも歩き、大衆温泉にでも浸かり、ゆっくりとした時を持ちたいと言いたい処ですが、日本での検体交換・実験・学会参加・特許議論・自身の論文Fix等が待ち受けております。時々、JICAJOCVSV・専門家の募集もメールで眼にしますが、合格した場合、日本国民の血税を背景に国外に出る以上はいい仕事をしたい。また、4年以上前、日本にいた時通っていたボクシングジムでの大好きな標語でもあるのですが、日々、昨日の自分を超えて行こうとして効率よく充実し、自分のためにも日本にいる時よりも遥かにスキルアップされる活動をしたい。新しい環境に文句を言わないで、今はどこの国でもネットが発達しているし、苦労しつつも今まで培って来た実力を見せれば、私達の世界で言うと、試料などを貰えたり機械を貸与してもらえたりするのでそれが可能となります。私は日本の音響学会にも属していますが、元学会長から「『今の世の中で、どこの国だから、何が出来ない』などと言うのは、言い訳でしかない」と言われたものです。実際、適当にお茶を濁しておこうとする隊員と、毎日勉強・努力して何かをがむしゃらに身につけようとしていた隊員では、客観的に見て帰国時の仕上がりが違っていて、頑張れば本邦の尊厳も上げられ、本人の将来も広がって行くと言う点から期待します。あとは、活動する配属部署に肩書きを与えて貰うと正々堂々と交渉先と名刺交換も出来、責任ある仕事が出来ると思います。プレッシャーになる人もいますが、所属部署にとってもいい加減なモラルの低い仕事をされると困るので、どこでも肩書を与えてくれます。

私のやっている医学で言うと、世界で年間5000万余の方々が各種病気で亡くなっておられるので、我々医学関係者は、気を引き締めて問題と面と向かい、スキルを上げ発明もし、老若男女の犠牲の数を老衰側に少しでも転嫁して行く責務があるのですが、情報交換でも多くの方々が救えるのです(上記で言うと1000万人は可能)。自分はの世界に入って解りましたが、どこの国でもオールマイティで何でも来いという医師は何処にもいないのですね。我々の学会にも日本から多くの方が投稿していただいていますが投稿歓迎です。本来ならば、工学の分野であっても恣意的に健康・医療に絡めた工学・通信が望ましいのですが、「この学問がこんな分野に役に立つとは思っていなかった」と言う局面にいつ何時遭遇するかわからないものです。純工学・純通信でも歓迎です。校正は私どもでかけるので、このメルアド rainbow_vc@yahoo.co.jp に送っていただければ、フォーマットも問いません。地域の性質上、英文の学会誌ですが、日本語で書いていただいても、我々で翻訳はできるでしょう。死や生と言うのは誰でも客観的に見られるし、他人事ではないので、医学をウォッチし自分も参画して行けば、経験則上、ご家族とご自分に将来必ず至福が待っています。と言うことで、今日も忙しくなりそうですが、ワイキキベイには陽が上がり薄日が差して来たようです。ここはアジアで言うと台湾くらいの緯度になるのでしょうか。海は既にギラついております。皆さま、今日もお元気でお過ごしください。


ミクロネシア便り(4)

新東京医科大学ポンペイ校医学部医用工学教室 教授

御殿場基礎科学研究会 オセアニア支部長

太平洋地域医学会 会長

岡田 一秀 Ph.D

  ICTの皆さま、お元気でしょうか?

日本から、南東側に3000kmほど離れたミクロネシア連邦におります岡田です。

5月に入り、ミクロネシア連邦は朝方涼しく湿度が抜けている日もあるのですが、日中は毎日だいぶ暑くなりました。赤・ピンク・黄のハイビスカスの花が美しく咲いていますが、余りに当り前すぎて、女性が髪飾りにする以外は見向きもしません。

また、こちらはトカゲやヤモリが多いですが、身の防御のために、再生可能な足や尾を自切したり、そうかと思えば、自室で60°の傾斜があるファンの箱の上に止まったかと思うと、そこが外敵もおらずパラダイスと見たのか、そのまま動かず天寿を全うしてしまう、爬虫類の不思議にも出くわします。

12~2月は最高気温で25、また最低気温で20であったが、最近では暑くなったためにコート姿の人や地元の厚手のポンペイスカートなどの着用者は消えました。日本人の平均汗腺数が230万個に対し、北極圏に住む人は180万個、ここミクロネシア連邦含め熱帯に住む人は280万個もあるので、個々人の放熱性はよく、予想以上に寒く感じるようです。

医師(8割)や看護師(2割)を目指す学生のために、自分自身は金曜日集中的に7時間、医用工学を教え、また郡部の高校併設の社会人大学である別校には、月曜日3時間ほど工業数学と物理学を教えに行っています。

こちらの国の人たちは独立してまだ30年くらいしか経っていないせいか、休日がいつなのか直前ないし職場に来てから思い出すことが多く、殆どの人は1週間前には認識していない。前週、「See you next week!」と言う多くの教員の言葉を信じて1時間海越え山越え自車で別校に行ったら学生含め誰もいなかったこともありました。5月10日(水)も憲法記念日でありながら、私ほか秘書や多くの教職・学生が出て来てしまっていました。

各教職から供出された大学博物館用ポスター資料を制癌・糖尿病の本質・医療統計学等の分野に関してデモ試料/機械付きで、自分の場合、4編(各6ページをA3に拡大して貼り付ける)ほど出来上がりました。

http://www.geocities.jp/hrasdhsrdh/Theme_1_Body_Temp.docx

http://www.geocities.jp/hrasdhsrdh/Theme_2_PEM_for_Breast_Cancer.docx

http://www.geocities.jp/hrasdhsrdh/Theme_3_Diabetes.docx

http://www.geocities.jp/hrasdhsrdh/Theme_4_Correlation_Analysis.docx

また、我々のやっております、太平洋地域(20カ国+10郡/州)包括の医学会の直近の学会誌も出し、さらに今月末に向け自らも紙面を埋めつつ次号の論文投稿を募集している処です。

http://www.geocities.jp/rainbow_8092/PALM_s_Outline.pptx

http://www.geocities.jp/hrasdhsrdh/Pub_No6_Mar2017_PALMS.pdf

太平洋全体の医療を見ざるを得ない立場の人間としては、主人公であるローカルの人達にもっとも投稿してもらいたく、実際、構成としてはそうなってはいるのですが、大陸側の医療も歴史が長いだけに何処に対しても関心と敬意を持っています。ミクロネシア連邦のポンペイ州では、大陸と言う意味では豪州・中国・米国と3つ大使館があり、中国との学生交換や医学のエンハンスメントのコラボを先日、大使と4名の書記官の方が来られ、中国と確認したばかりです。また、研修医派遣と言う意味では、従来のフィリピンに加えジャマイカも加わり、また日本の大学・病院等の組織とも追加の共同研究や学生交換等を模索中です。自分の研究の半分ほどは学生への授業に内容や結果のフィードバックをかけるのですが、今月中旬~下旬の火~木曜(つまり授業のない日)には新たなアイデア出しや実験に費やしたいと思っています。

日本からも健康・医療に関わる技術テーマ、あまり知られていないロジカルな健康法等の論文は歓迎です。実験してデータを集め、方法論・結果と考察を特許やペーパーにしたためた若い頃を思い出して書けば、私も含め若返ります。よろしくお願いします。

また、日本の医療統計が入って来ますが、最近増えている病があります。私の周囲でも乳がん・心筋梗塞になったり、ラクーナ梗塞(比較的細い血管が詰まる原発得性の脳梗塞の一部です。血栓が小さいのが1~2なら日常生活の何の差し障りもないのですが、それが増えて来ると記憶の維持等の問題発生)になったり。また、予防・治療や早期発見等はこちらからも追って提起して行きますが、皆さま、健康には十分ご留意ください。


ミクロネシア便り(3)

新東京医科大学ポンペイ校医用工学教室 教授

太平洋地域医学会 会長

御殿場基礎科学研究会 オセアニア支部長

岡田 一秀 Ph.D.

 

西太平洋のミクロネシア連邦にある、新東京医科大学ポンペイ校で医用工学の教授をやっております、岡田と申します。我々のいる島は、ガーデンアイランドと呼ばれる、降雨後(にわか雨も多く、世界最多雨を記録した事も)、時々虹の出る、景色のいい所でもあります。

日本からだと、各地からの飛行時間3時間半ほどのグアムで乗り換えて、そこから1泊する形で翌朝のホノルル行きの各島着陸便に乗ると2番目の島に当りますが、計3時間半ほどで着きます。待ち合せが悪く1日以上かかります。

そこの市街部で、医師になりたい(一部、看護師になりたい)学生に、生体医工学や、医療統計・医療現場で必要になる物理学等を自作の資料配布は欠かす事なく教えています。

大部分は、ミクロネシア連邦で開業したい、あるいは大きな病院に勤める医師、あるいは医学の研究者になりたい人達で、希望の科目で言うと、眼科・皮膚科・内科等いろいろです。自身も、シミュレーションプログラムを作ってのMRIの検査時間短縮化や、検体を持ち込んでの抗癌等、研究項目を持っておりますが、毎日が学生とのお付き合いで忙しい日々です。

また、それとも併せて2つの医療活動もやっております。

1つは、毎週末、日本時間では金曜の午後6時±3時間か土曜の午前9時±3時間頃、世界に向けて、病種や医療機械種を変えながら、既存の治療法や予防法・技術のレビュー・早期発見や機械の精度や使い勝手等の面でチャレンジの芽は無いのか、を発信すべく、コロニア第2スタジオと言う場所や、海外出張や一時帰国時にはホテルか実家から、毎月第1週と第3週は日本語で、第2週と第4週は英語で、医療ツイキャス(パワーポイントのように資料の画像も順次見られるラジオ放送)をやっております。ツイキャスは発信の通信料がまったく無料でコミュニケーションやディスカッションのコラボ・遠隔授業なども出来てしまう、Windows →Internet explorer下で使える便利なコンテンツです。http://twitcasting.tv/kehua_and_kazu

また、その中で見られなかった方々のために後でも聴けるよう毎週、録画もしておりましてhttp://twitcasting.tv/kehua_and_kazu/show/私自身が工学部の通信工学科から医学部に移って来たのが1年半ほど前ですが、この医療ツイキャスはやり始めて1年3か月くらいになります。

もう1つの活動は、太平洋地域はミクロネシア地域・ポリネシア地域・メラネシア地域の計20か国+10州・郡から成りますが、それらを包括する太平洋地域医学会(Pacific Area Longevity Medical Society) http://www.geocities.jp/rainbow_8092/PALM_s_Outline.pptxを、昨年9月に立ち上げ、日本も含め、各地域の参謀(病院の医師・大学の医学部教授・医療系の省の役人・工学部の名誉教授会長・健康に関心のある市民など)に就いて戴き、ここミクロネシア連邦も含め、各国から医学論文を集め、校正係りにもお願いし、毎月50~80ページほどの医学雑誌を、日本・ミクロネシア連邦の厚労省も含め世界100拠点に発行しております。

議論の対象は、臓器・漢方やハリ等伝統的なものから手術用のロボティックス・再生医療等最先端のものまであらゆる医療分野とし、各研究者・医師が本学会でフォーカスを当てる部位は予防・早期発見・治療・病後のQO改善まで何でもよしとしました。また、医学部も含め、医療機関付きの人間で$30/年、市民であれば$25、学生員で$15/年とし、6~8ページものの論文が出た時点で、以降1年間の学会費は無料になり、その各位に対して自動的に毎月、学会費が、当面はサイト運用ですが、送られて来る構成にしました。

会長国は、今はたまたまミクロネシア地域のミクロネシア連邦がヘッドクォーターになっておりますが、全太平洋地域で学会存立のメリットを享受できるよう、3年おきにミクロネシアポリネシアメラネシアミクロネシア・・・と廻るようにしております。我々の次はどこの国が取るのか、何れにせよポリネシア地域ですので、ハワイにはここ3年程は協議のため3週間前後、6月に訪れるようにしています。

1年程先にはここポンペイ島で、各国の医療関係者が集まっての国際会議も開く予定です。本当はこれ以外にも、土曜の午前中にでもミクロネシア連邦にある病院・結核等の医療研究所の人たちと集まって細胞学実験や各病気の治癒率改善の勉強会などもしたいのですが、それはまだ半年ほど先になると思われます。やはり、今は医学者として色々と動かないといけないと思ったのは、既にこの太平洋地域でも500~1000人の患者が自分の双肩にかかる中、その利便性や情報の来方の少なさと言う面で諦観を呈している医者がいたり、国から発せられWHOに上る医療統計も今1つリライアビリティが低いことを自分では何も出来ず当然のように言う医療関係者もいたこともあれば(上記2点は病死を増やす方向に貢献します)、やはり医学は工学よりも未だ未発展な分野であり、老若男女誰もがあらゆる病気で死ぬことを希望しないのにも拘らず、また医者も一生懸命やっているように見えながら、世界で年間5000万人(日本では130万人)の各種病気における病死者を減らすには並大抵な努力ではないと思ったからです。

どこの国でも、「医療?それは自分とは別モノ」と言ったり、「医学は・・・」と牽制する方もおられるのですが、そう言う方に限って、他者の医療へのimproveeffortを自分のものをして捉え、これらは自分達への寿命として返って来ると言う見方をしていないので、家族や自分が病気になれば慌てるの繰り返しです。我々が普段の診療や学生に誠心誠意教えることを怠れば、年間5000万人の犠牲は6000万人になりますが、出来るだけ医学部も含め、医療機関医療機関間、市民医療機関協調しながら、タイトな情報交換をしていけば、4000万人位には減らせ、減った分は社会貢献時間を長くしていただいての穏やかな老衰死に転化出来るのではないかと見ていますと言うことで、ラフな土台となるテンプレートはhttp://www.geocities.jp/rainbow_8092/PALMS_Thesis_Template.docxですが、工学部出身の方からも、医療・健康絡みのことであれば、論文を歓迎です。

生活面では、常夏ではありますが、シンガポールやグアムよりは湿度は低く、日陰に入っておけば、まだそう体力を消耗しないので(最高気温は7月の日中でも33くらいでしょうか。日が沈むと、土よりも水の面積が多い分、必ず涼しくなり、朝まで扇風機だけでも十分な時も多いです)、慣れれば過ごしやすいです。地元では、私のいる島に関してはポンペイ語という言葉が好んで話され(他の500km~2000km離れた遠い島だとヤップ語・コシュラエ語・チューク語等、ポンペイ語同様、アルファベットは使いますが、別な言葉が話され、同じミクロネシア連邦でも島が違えば会話は英語になります)、私もある程度は話せますが、英語も通じるし、地元民は訳もなしで映画を見るくらいに上手いので英語で教えています。物価はタクシー代(どこへ行っても$1)や野菜やバナナ・マンゴー等のくだものやマグロや色の派手な熱帯魚は日本よりも安い気がします。しかし、一様に、輸入のベーコンや電子部品や家電製品・家具は高いような気がしますので、場合によってはAmazonで注文する方が安く手に入ったり、私も一時帰国の時は梅田の紀伊國屋で専門書を洗うのと併せて大阪の日本橋に足を延ばすことは欠かせません。韓国やグアム、そして日本島に出る時はそちらの学会にも参加して議論に加わらせていただいております。

日本から来た人は誰でもそう言いますが、市民の方は概して親切で、困っていれば、無視するような事をせず、「どうしたんですか?」「お手伝いしましょうか?」と言ってくれます。「ああ、いつでも温暖。伝染病もなく、2~3年寿命が延びた」と言うアジア人もおれば、組織内外のセクショナリズムの概念もないようで、生活をエンジョイする面でも、また今はこの地域も他国同様、何処でも比較的高速のWiFiが飛んでおり、研究効率を高めると言う面でも、慣れれば、またどの産業においてでもその分野の実力と人を動かす説得力さえあれば、寧ろ暮らし易いかもしれません。

尤も、客観的に見て、ちょっとした交通・短時間停電等不便で、最初から不満を言う人・諦めてる人は無理ですが。自分の場合は、まがりなりにも今こうして医療でやれているのは、嘗て電気通信の職種でJICA SVを2年間やらせて戴き、未熟なるが故に、教壇に立っての教え方や学生・他教職とのコミュニケーションで幾多の失敗をもし、研究・作業効率の高め方や目標到達への戦略的な面も含め学習できたことが大きかったと思っております。

実の処を言うと、まだまだで、反省点も日々多いのですが、今後とも宜しくお願いします。


 

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