海外実践マネジメント Practical Overseas Management

 

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2020.10.1会報No.94

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(最終回)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

(9章:普通に怖かった話)

9-2:米国のお話

 

① ホールドアップをされた件:日本からカルフォルニアへの引越しにあたり、妻から「乗り慣れたギヤ付きの車を用意して欲しい」との要望がありました。何故ならオートマではクリープ現象が怖いとの事。ただ、米国でギヤ付きの車はとても稀で、やっと中古のランチャを見つけました。その試運転をしていたら、パトカーの追尾を受け、停止を命じられ、停止すると直ぐにパトカーのドアーの後ろから警官に拳銃を向けられ、ホールドアップしてランチャのトランクに伏せろとの命令でした。数分後「落ち着け、問題ないから」と今度は小生を宥め始めました。プレート番号の関係で盗難車と思ったとの事ですが、無線で確認をとって放任となった訳で、小生も試乗中なのだと説明して双方笑い顔になりました。米国は銃社会で、直ぐに銃が出てきます。米国の家は庭が大きくて敷地の境界もはっきりしない事も多いです。海岸で普通の砂浜と思っていたら私有地であることもあり、森林を散歩していて開けた所に出たと思ったら、いきなりライフルを向けられた事もありました。そういった場合、いきなり撃たれる事は無く、かなり強い調子で『May I help you?』と言葉をかけて来ます。

 

② 米国での銃の問題:銃といえば、娘の学校からお知らせが来て吃驚した事が有りました。曰く『お子さんに銃を持たせて登校させないで下さい。今後は校門に金属探知機を設置し、銃を発見した際にはそのまま帰宅させることとします』。学校のカウンセラーに質問した所、『学校の周りでドラッグを売りつける不審人物が見かけられ、これを恐れた親が、「売りつけられそうになったら銃で身を守れ」と銃を持たせた様です。校内での銃による事故も想定される事から、警察も含め周辺での見回りを充実するので、銃を持たせないでくれ』とのことでした。ランドセルに拳銃を忍ばせた中高生なんて、怖いと思いませんか?

 

③ ホールドアップをしてしまった件:これは、東海岸での警官との逆の立場になってしまった話しです。NTT Americaの後任となる林氏とその知人のコロンビア大学の教授を名乗った方を乗せて、そのアパートへ送る際、彼の指示で5番街から42丁目を右折したところNY警察のバンに停止を命ぜられました。何が原因だか分からないまま、自分の車内で待っていましたが、余りに警官が来ないのでそのバンに行ってドアを空けた所、2人の警官が一斉に両手を挙げました。小生が2人の警官をホールドアップさせてしまったのです。一歩間違えば警官側が発砲したかもしれない状況です。"Calm down.  No problem."と言って警官達をなだめて問題はおきませんでしたが、彼等もホッとして、"Thank God!"といって本当にまいった様子でした。住民の教授も知らなかったのですが、5番街から42丁目への右折は基本可能なのですが、その時間帯2時間だけ禁止になっていました。

 

④ 複数議員からの呼出:稀に有ることでしたが、米国企業からの売込みに関し、地元の下院議員からワシントンへ呼出され、購入に関し長時間にわたってセールスというよりも『何故直ぐに購入しないか』と詰問される事がありました。立場としてNTTの国際調達の内容について説明に努め、その製品が手続きに乗るか否か、さらに手続きの説明を繰り返すに他はありませんでした。議員が企業に都合の良い話をしたのかもしれませんが、その後しばらくしてその企業が下院議員から『NTTが既に購入を約した』と日本で迫ったそうです。それで本社から、小生が勝手に購入すると回答したのではないかとして、懲罰委員会に諮る可能性を告げられる事態となりました。が、その件では、たまたま日本大使館から担当公使に同席頂いていたので、議事も残っており、事無きを得る事が出来ました。東京での情勢を教えてくれた同期の方に感謝しています。

 

⑤ NYの社宅購入批判:米国での資産取得については真藤総裁の意向、上原国際部長の指示に基づくものでした。しかしながら、贅沢であるとか、勝手に金を使ったとか言われているとの耳打ちを戴きました。手続きとして当時の本社小原経理部長と相談の上、経理部の担当に訪米戴き、実物を検証の上、立案戴く事として居ました。耳打ちを戴いた方々にはその経緯を説明して、鎮める事が出来ました。

 

⑥ PANAMビルからの事務所移転批判:電電公社の米国での歴史はPANAMビルから始まったと言われており、これを懐かしむ方々は多く居られます。しかしながらPANAM航空は今は無く、またビルもMetLifeと名前を変えています。移転の経緯は事務所の天井から多量のアスベストスが落ちて来て、入室どころか近づく事さえ出来なくなってしまった事によります。確かに本店登記を変更するには取締役会の議決を経る必要が有りますが、緊急避難という事で、後付けでお許しをお願いしました。

 

⑦ Teknekron社への通信網設計ソフト発注:今でも有効なシミュレーションシステムと思いますが、この種ソフトは使い込みで性能が向上するはずです。また、半年間完全無料メンテナンス契約をつけていたのですが、割当てられた担当者が赴任間もなくで手が回らなかったのか、店晒し状態にしてしまったのは残念な事でした。

 

⑧ 国内線ファースト利用批判:米国への国際便のビジネスクラスからは自動的に米国内便はファーストクラスとなります。当時担当者もビジネスを利用できましたが、NTT Americaでは国内便は役職に関わらずエコノミーとしていました。ただ、航空会社によって、10枚綴りの回数券(数百ドル)で席が空いている状態でエコノミーからアップグレード出来るアレンジがありました。殆どの状態でこの回数券が有効でしたが、その購入は勿論私費で、妻の旅行にも利用していました。ただ、某幹部との雑談の際、不正にファーストを利用しているとの訴えがあったので気をつけろとの話がありました。世の中なかなか難しいものです。そんな状況でしたので、米国からの帰国の際には、溜まったマイレージでファーストクラスを利用し、赴任旅費等を請求する事も無く戻りました。()


2020.8.1会報No.93

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(17)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

9章:普通に怖かった話

9-1:フィリピンのお話

 

① マニラに赴任して直ぐに大使館やADB(アジア開発銀行)等への挨拶回りに参りました。マニラはアジアの中心的位置付けにあってADBの他にも国連機関があります。古い話で恐縮ですが、小生の小学校時代の教科書に、美しい夕焼けに染まったマニラ湾を背景にビルが並んだ写真が、まるで憧れの地の紹介のように有ったように覚えています。

Smartプロジェクトの次長相当の勝俣氏は、マルコス時代に3年程ADBに出向していました。彼はその頃の出来事として、オーストラリアからのADBオフィサーが門衛に射殺された事件について話してくれました。そのオフィサーはとても礼儀正しい人で、毎朝ADBの門衛にも挨拶をしていたそうです。さて、話は門衛が何等かの原因で金が必要となり、思い余って毎朝機嫌よく挨拶を交わしていたオフィサーに金の無心をしたところ、オフィサーは無碍も無く断ったそうです。その途端、門衛は裏切られた気持ちになったのかもしれません、持っていた銃でオフィサーを射殺してしまったとの事でした。

フィリピン人は家族をとても大切にします。また上司は部下の面倒を見るし、部下は命を懸けて忠実を尽くす等、麗しい昔の日本を思わせる文化があります。ただ、人間関係の思い込み、即ちこの門衛はオフィサーを上司と勘違い、そして思わぬ展開となってしまったという事です。この話は、フィリピンでの人間関係で、常にある一定以上の距離を置くべきとの教訓となりました。

 

② 次の③の話をあげるまでも無く、世間では余りにもフィリピンの危険性が指摘され、外出の際には数人のグループで行く、さらにボディガードが付くという状況に、息が詰まる感じがしました。が、徐々に様子が判って来ました。即ち、全く理不尽に襲われる事は案外少ないということです。

これは同国における宗教と、教育程度が高く事の善悪を良く心得ていると言う事から来ていると思っています。三井物産マニラ支店長誘拐事件の折も、彼がある非常に個人的な件で、現地の家族に金を払う約束をしたのにこれを守らなかった事で家族があちらこちらに相談し、その情報を得た日本赤軍が現地の共産軍に関与させたとの話がありました。

多くの日本人の被害の裏には日本人による関与、或いは指示があるとの話が有りました。拳銃が流通している現状で、一説によれば一人の命、即ち殺人の依頼に必要な費用は$1000位だそうです。当地へ旅行する日本人がその家族や知り合い、また仕事の関係者から保険を掛けられて、或いはその持ち金が狙われて旅行中に殺される等は典型的なやり方のようでした。

日本での逮捕を逃れるためにフィリピンに来た人が、その生活の糧を得るために誘拐や強盗を立案、現地人に執行を指示するケースも多かったように記憶します。結局、一番怖いのは日本人と心得て、商工会議所以外の日本人の集まりからはある程度距離を置いて生活するようにしていました。

 

③ エドサ(EDSA)革命とはマルコス政権の腐敗した独裁政権に対し、1986222日の国軍改革派将校の決起から、25日のコラソン・アキノ(暗殺されたアキノ上院議員の夫人)政権樹立に至るまでの100万人に及ぶ民衆・軍・宗教家による活動で、その際マルコス夫妻は米軍のヘリで宮殿から米軍基地経由でハワイに逃れたそうです。小生が居住したMakati市のツインタワーのデッキには防護壁があり、そこにはその時の弾丸の跡が有りました。

そもそもフィリピンには1896年に代表されるスペインからの独立運動、さらにスペインから米国へ植民地として売却された事から、その後は米国からの独立の戦いの長い歴史があり、結局、第二次世界大戦後まで独立が果せず多くの血を流してきました。

2003727日、300名以上の国軍兵士がアロヨ政権の腐敗に抗議するとしてPLDT近くのアヤラ・センターのコンドー兼ホテルに立てこもり、これはオークウッドの反乱(Oakwood Mutiny)と呼ばれています。首謀者はGerardo Gambala陸軍大尉とAntonio Trillanes海軍大尉で、事件と裁判を通じてアロヨ政権と軍の不敗を告発したTrillanes大尉はアイドル的な人気を得て、その後2007年の上院選挙に出馬・当選したそうです。

フィリピンは貧富の差が極端に大きく、政治の権益が大きい事から、ある条件が揃うと革命が支持される基盤がある様です。NTTからの出向者の戸川隆氏がそのコンドーに居住しており、騒乱の最中でも意外と静かでバスがアレンジされて無事出る事が出来たと言っていました。彼はPLDTでのインターネット等のIT新規事業を推進すべく設立したePLDTのアドバイザーの為に赴任して貰って間も無い出来事でしたから驚いた事でしょう。

 

④ 車のドライバーには散々悩まされました。何人かのドライバーは麻薬がらみで逮捕、あるいは行方知れずになりました。ドゥテルテ大統領による昨今の麻薬撲滅戦争に関する人権問題は、余りにも深刻な麻薬禍状況から、警察だけでなく、バランガイ(部落・町内会)単位の自警団と称する武装組織も動員され、さらに軍隊まで動員しての対処と聞いています。軍隊は、共産軍との戦いやミンダナオでのイスラム過激派との戦闘を続けている事から危機感があり、士気が高いと言えます。

ただ、これ等の公務員の給与は非常に低いのには驚かされます。アロヨ大統領の時に大統領の給与が$1200/月で、在日フィリピン大使が$1000/月と聞かされました。その収入であのような豪邸が手に入れられるのかが不思議ですが、公務員給与が余りにも低いとどうしても別の収入を得なければならないというのも現実でしょう。ただ、公務員の不正を正す為にその給与の10%引き上げ法案を提示した途端にアロヨの支持率が下がりました。民主主義・政治は難しいものです。従って、色々な局面で賄賂の要求に遭遇します。個人の問題なら何とかなるのでしょうが、NTTから出向の身で、公的な場面での状況で悩む事があります。その際には、現地のパートナーに伝えて、直面するのを避ける必要がありました。

 

⑤ 会社経由で雇用したドライバーでも、結局個人同士の付き合いになりますから苦労があります。パンギリナン氏と海外出張をしていた際、田嶋氏から小生の携帯に電話を貰い『どちらに居ますか?お怪我の具合は?』と立て続けの質問を受けました。聞いた所、小生の社用車が郊外の準高速道路(EDSA)で中央分離帯に激突、転覆、大破しているのを見たとの事で電話をしてくれたのだそうです。Smartへ連絡して調査してもらった結果、ドライバーとメードがいつの間にか親しい関係となっており、小生の留守にドライバーが勝手に社用車を運転して事故を起こしたとの事でした。メードもドライバーも交代せざるを得ませんでした。このドライバーもその後麻薬がらみの抗争で死亡したと聞きました。

 

⑥ これは別のドライバーでしたが、自分で店を開くとの事で自分から辞めて行ったのですが、その後その店に投資をしてくれとの要請があり、これを断ってしばらくすると今度は、『闇の世界の情報で貴方が誘拐のターゲットになっている。ターゲットを外すには100万ペソ必要』と連絡して来ました。誘拐がらみの脅迫です。

誘拐への対処策として、ネゴシエーションを含めて身代金等費用を負担する保険がロンドンにあるそうですが、この時は相手が分かっていたので、エージェントに追跡を依頼して終わりとしました。このエージェントによれば、このドライバーの店は繁盛する事なく、結果的に店をたたみ、その後麻薬関係の取引に関わったとして逮捕されたとの事でした。念のためですが、もし誘拐保険に加入した際は、絶対にこれを秘密にする必要があるそうです。そうでないと保険金目的で狙われてしまう可能性が高くなるそうです。

これら運転手のいずれもSmartが雇用したドライバーでしたが、いつも居眠りをしていて危険極まりないドライバー、ギアの切り替えが上手く出来ないドライバー等々難問ばかりでした。PLDTで雇用したボディガードを兼ねたドライバーが見つかるまで苦労が絶えませんでした。この優秀なドライバーは、元々は共産軍のメンバーであったとの事です。共産軍はかってマニラに攻め入る位の勢力を誇り、SmartCEOだったDoyVea氏も学生時代にはマルコスに対抗する為に共産党に入って、挙句刑務所に収容されていたそうです。彼に言わせれば、かつて真面目な人は皆共産党に入っていたとの事で吃驚。

 

⑦ 首都圏は御多聞に洩れず、公害の酷いところでした。最初に住もうとしたのは空気がきれいと思われた緑の美しいビレジでした。しかしビレジの家は極端に大きく、維持管理が大変な様なのと、停電の際に必須と言われた自家発電装置付きの家がなかなか見つけられなかった事から、コンドー(日本のマンション)に切り替えました。日本のある大手ゼネコンの名前を冠した新しい高層マンションへ決め掛かり、そのゼネコンの現地責任者へその旨を告げた所、あそこは止めたほうが良い、名前も使わないで欲しいと散々交渉したが止められなかったとか。

水洗は最初に建築された2つの高層マンションだけとの事でした。フィリピンは勿論地震帯にあり、最初の2つの高層マンションだけは入念に設計され、地下の基盤も鉄筋も入念に工事されたが、その後は分けが判らなくなっているそうです。従って、その一つのツインタワーのペントハウスに住む様にしたのです。

下から見ると、全ての窓はぐるりとコンクリート柵に囲まれ、一部には弾丸の跡がありましたが、安全そうでした。また、その屋根部は1.5階分もあってこれも安全そうでした。しかしながら、住んで判ったことは立派な屋根部は中空で、各戸の共通の洗濯物干し場で、ペントハウスの天井は、晴れの日はマニラの強力な日光によって熱くなっていると言うことでした。また、冬の季節、即ち寒くはなりませんが、多くはどんより曇った日が続いて、ジープニー等のジーゼルからの排気ガスが公害を引き起こしました。ペントハウスは27階でしたが、丁度その高さが公害ガスの逆転層を形成し、上からは霧の中のような、また下から見上げれば薄く黒ポイ雲がかかっているようでした。要するにこの高さは避けるべきと言う事でした。1年程で隣の別の2つの一つであるリッツタワーの18階に移り、此処は居心地が良く感じました。

 

⑧ 台風の事

1995年11月、ラモス大統領による大阪からのSmartの開通記念通話の前日に、超大型台風アンジェラ(現地名ロシング)に襲われました。凄まじい風雨に、27階のフロアは大きな船が嵐に会ったようにゆっくり前後・左右に揺れ、家具が滑って勝手に動きだしていました。自分とメードは大きな食卓テーブルの下に潜り込んで家具から身を守る事が精一杯の状況でした。窓から外を見れば、駐車場の乗用車は勝手に動いており、また車道のクルマは歩道に乗り上げてそのまま横転していました。殆ど人は居ませんでしたが、数人が木につかまって飛ばされないよう頑張っていました。ガラス窓は案外丈夫で割れませんでしたが、隣のマンションの窓は風に吸い取られたように外側に外れ、そこから風が吹き出て、シーツがベッドを引っ張り出す所でした。


2020.6.1会報No.92

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(16)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

8-4:逃避行

 

当時ホノルルから極東方面に出航する航空便は深夜から午前中に限られ、午後はハワイ周辺の島と本土行きに限られていました。

先ず、FBIが何時やってくるかもしれないので、旅行用トランクは捨て、身の回りの手提げだけにして、PTC会場のヒルトンビレジの裏から出て、浜伝いで隣のHale Koa Hotel(赤坂山王ホテルと同様の米軍人用保養施設)へ入り、これを素通りして、その玄関でタクシーを拾いました。マニラからの電話はひっきりなしですが、受話ボタンを押すと通話が始まる前にガチャガチャしたノイズが入るので盗聴されている様でした。

情報が必要なので携帯電話機は必須でしたが、通話の終了の度にタクシーを乗り換えました。それも一段落したところでワイキキから空港の反対方向の地元のスーパーマーケットで軽い食事をとり、携帯の電源を切って涼みながら時間をつぶし、飛行機の時間を見計らって今度は市内バスを利用して22時過ぎに空港へ入りました。空港には同僚が数人居り、彼等も情報を得て逃げ回った末、深夜のシドニー行の切符を購入する所でした。シドニーから、乗り継ぎで香港経由・マニラの計画でした。

小生はとっさの判断で、グループで一緒に行く事を避け、丁度バンクーバー行きのカナダ航空の機乗開始のアナウンスが有ったので、座席に空きがある事をカウンタで確認、これを選択しました。同僚はカナダは米国と近すぎるので危険との意見もありましたが、空港での長居は禁物との考えで、一人だけカナダ行きを選択しました。米国は出国審査の無い国ですから、セキュリティチェックだけで出国できます。後は疑われない様ゆったり進んで機乗し、お休みです。

カナダ入国の際は多少緊張で、入国審査官が「何故の1晩だけの入国か?」の問いに、とっさに「無い筈は無い」との確信から「Vancouver Hospitalに入院中の友人を見舞う」と答えて無事通過しました。後は深夜なので直ぐに空港ホテルを電話予約。レストランも閉じていたので空港売店で食料を調達しました。その際、サンドイッチしか残っていないが「Full or half?」と聞かれ、寝ぼけていたせいか、これだけは忘れもしない失敗のフルを1本(Submarine Sandwich=長さがなんと1m近かった)買って、結局3食分になりました。なお、シドニーへ向かった人達は目的がハッキリしないとの事で入国が拒否され、空港ゲートの搭乗口で丸一日を過ごしたそうで、少なくともシャワーとベットでゆっくり出来たのはかなり恵まれていました。

 

8-5:事の真相

 

マニラに戻って真相が分かりました。これは比国内では通信業者に義務付けられている国際通信に関する料金・制度の内容が、米国からは『通信業者間で不法に料金を談合して決めたとされて、反トラスト法(独占禁止法)違反、即ちカルテルによる不公正取引』と解釈されたという事です。フィリピンから逃走してAT&Tに戻った米国人が訴えたのではないかとの推測もありました。NYSEに上場しているPLDTの株価も敏感に反応していました。国際通信は基本的に発信者が全ての料金を支払いますが、この料金には発信側通信事業者の通信料金と着信側事業者の通信料金(米国等一部の国では移動通信での着信料金は着信者負担)が含まれます。比国のような開発途上国は先進国からの電話が多いので、比国の国際通信事業者は国内発信の料金収入よりも着信(海外)からの料金収入の方が多くなります。比国の通信規制では、国際通信事業者はこの着信料金を海外の通信業者から受け取る前提で、さらに着信側の市内通信業者や移動通信会社へこの収入の応分の配分をします。比国でも市内料金の値上げを含むリバランシングの要請はあったものの、特にエストラーダ大統領の『貧乏な人の為の政策』により政治的に市内料金は無料とされ、また市内通信会社も数多く、市立、州立、会社や個人所有の通信会社があり、これらの会社にとってこの配分が経営にとって重要な収入でした。しかしながら、この制度は法律的には確立できても、技術的にはバイパスが可能です。

これに先立つ2年前、PLDTへの国際呼が異様に少なくなり、経営上の危惧として報告された事がありました。我々の競争相手のグローブ社がその株主であるシンガポールテレコムからの呼を国際関門局をバイパスして、直接その国内市外局へ直接接続する事で、本来国内市内通信会社へ支払うべき義務を果さずに、割引で通信していたのが疑われましたが、証拠が掴めないとの事でPangilinan氏をはじめとするPLDTの執行役員会で悩んで居ました。これの状況はシンガポールとの間だけでなく、いずれの国からの通信もシンガポール経由で安価に通信されている事が想定されました。そこで、その場で担当をシンガポールへ出張させ、PLDTの番号へ数回発信させ、そのタイミングでのPLDTの国内通信関門局(グローブとのインターフェース)の課金情報を収集、照合する事を指示しました。課金情報は発信情報を持ちますからグローブがバイパスに加担していた証拠となりました。本件はグローブに対しての貸しとして不問にしましたが、これを機にPLDT/Smartとグローブ社はお互いだけでなく、他の国際通信会社についても不正な国際呼の扱いをしていないかチェックするようになっていました。

今回は、グローブ側から「PLDTやグローブの国際関門局を経ずに、PLDTの子会社経由で直接グローブの交換機に国内呼として入ってくるものがある」との情報が寄せられたのです。調査の結果、以前米国の軍事基地で治外法権であり、現在は保税特区となっている米国空軍基地クラークと米国海軍基地スービックの跡地に、AT&TPLDTの持ち分半々で同基地区域内だけに国際から市内までを扱う免許を持った電話会社が不正を行っていることが判明しました。

この会社が米国など幾つかの国の通信会社にフィリピンへの着信料金をディスカウトするとして呼を集め、これを国内扱いのコールとして国際関門局をバイパスして直接地元通信会社に配信していたのです。ディスカウントといっても国際着信料金を受け取りながら、国際着信に関する支払いを地元通信会社にしないのですから儲かります。親会社である我々にはその事実を報告せず、収益の一部をAT&Tから派遣されていた米国人と現地の数人で山分けしていたのです。

 

8-6:フィリピンの通信料金の制度

 

比国にとっては地方行政にも絡む通信の体系を壊す免許違反であり、関わった米国人と数人の比国人はここから横領した犯罪人です。この発見により基地区域外にコールを流していたマイクロウエーブや光ケーブルを急遽撤去させ、同時に関係者の処分を開始しようとしました。しかしながら、調査の開始と共に米国人とその息のかかった職員数名は既に米国に逃走していた事が判明しました。

他への波及を避ける必要から穏便に済ませる必要があり、しかしながら収入の低減傾向に歯止めをかける必要があります。既にこれら基地は返還されており、米国利権が無くなっていたので、まずAT&Tの持分株をその国際通信着信料金の未払い分と相殺して買収、100%子会社として要員交代を実施し、また地方の通信会社への支払いも済ませました。経営を正常に戻すためディスカウント料金を廃止、PLDTの正規着信料へ戻す(値上げ)検討を開始しました。

時の運輸通信大臣、NTC(国家通信委員会)長官ともこの方針の確認をし、比国の通信政策(競争導入)とこの方針は矛盾しないとの認識を得、またその実施のサポートも約してくれていました。2002年から国際主要キャリアへの個別説明を開始、2004年のPTC(環太平洋電気通信会議)の場を借りて正式に各国のキャリアへの了解を取付けるスケジュールで作業を開始しました。世界的な料金低減傾向の中での逆の動きですから、抵抗が大きかったのですが、説明内容は以下の様な国内問題でした。                              

フィリピンにおける市内料金は月間完全固定料金で所謂電話料金は無料、しかも月額はP250からP350程度の低廉に留まり、法的に国際、長距離、移動通信がこれをサブシディする事となっている。

①比国においても国際、長距離、市内の各料金間のリバランシングは計画されたものの、2002年に大統領(エストラーダ=貧乏人の為の大統領を自称)判断として、特に市内通信は貧乏人に必要なサービスとして料金見直しは政治的に実施されない事となる。

②地方の電話会社は私的なもの、市立のものも含め、小さな電話会社で、その経営は厳しさを増しており、これを失くさない為には市内網へのサブシディ(費用補助)を続ける必要がある。

結果、世界中の事業者は個別割引(相対)の可能性を探りつつも、基本的にはPLDTの決定に従わざるを得ないと言う立場を取ってくれました。が、特にAT&Tは初めから反対、特別な個別の割引を求めて少しも譲らず、交渉には1年半を要しましたが、MCI等競争者の同意の動きを見て遂に2004PTCで合意書に署名と言う段取りになりました。これは噂ですが、不法国際通信事業を行っていた職員が米国へ逃げ帰り、AT&Tへ復職する為にフィリピンでしていた終端料金のディスカウント提供は正しい事であったと弁明して、その結果AT&Tの弁護士が司法省に入れ知恵したのではないかとの事です。

 

8-7:米国司法省の影響

 

Subpoenaを執行されたのは連絡が取れなかったPLDT/Smartの担当者数名と他の通信会社で合計10名程度でした。殆どはホノルル市内のホテルに内に留め置かれる代わりにホテル代無料、1日あたり$40の手当付で、その後、人によっては帰国も許され、出頭の際は交通費も負担してくれるという扱いでした。しかしながら、FBIの担当官が高飛車で、犯罪者扱いをされているとかの不平がフィリピンの新聞記事に出てナショナリズムを煽っていました。

PLDTにとってNYCに上場し、多額の社債を発行している関係で米国の領土、施設(大使館等)に入れない事は業務上非常に不便な事となりました。皆様御存じの様に日本の企業の幾つかもこの独占禁止法で高額の罰金やら和解金を支払っただけでなく、担当者や責任者が数年の懲役刑となってケースも種々あり、PLDTの株価にまで影響しました。

小生は20045月に、『もう十分だろう』の声をNTTComの鈴木社長から得て、9年を越えた比国勤務を終えて日本へ帰任しました。米国司法省から召還されている事も有ったのでしょう、役職は与えられず、謂わば待機のようなポジションで、フィリピンで実施したMVNONTTComの事業として実施する提案、ビジネスプランを作ったりしていました。ところが、当時のNTTグループ内のポリティクイスだったのでしょう、 『NTTComの最大顧客となっているNTTdocomoから顧客を奪うような事業はやるべきではない』との意見が出て、その時点での実施は見送られてしまいました。

小生が日本へ戻った事を知った米国司法省は複数回にわたり、今度は在日米国大使館からNTTへ弁護士を送り、小生の米国大使館への出頭を促して来ました。PLDTが契約してくれたワシントンの弁護士と相談の結果、『現在大使館に出頭してしまうと、米国に送られ、何ヵ月後に帰国できるか分からない状態。その状況では司法省にとって都合の良い情報だけを取られてしまう恐れが多い』という事でしたので、NTTに対して『業務として出頭しろと言うのであればそうするが、個人として休みを取って行くつもりは無い。』と告げ、『本人は協力したいが、会社のルールで不可能』との曖昧なスタンスを取りました。いわば時間稼ぎでした。結果、約1年後に結論がでました。すなわち、あっけなく、最高裁の判決は「米国には本件には司法権が無い」とされ、司法省の担当官はクビ、小生等は無罪放免となりました。

PLDTから日本に戻っての約1年間は謂わばNTTComでの待機ポジションでした。無罪放免となって、前沢人事部長から申し訳ないが定期異動が固まった後なので、良いポジションが見つけられなかったとの言と共にNTTPCの監査役を勧められました。社長はNTTData時代の戦友の様な石田守さんで、喜んでお受けすると伝えました。

 

8-8:政治的憶測・裏の話し、噂

 

911同時多発テロの後、ブッシュ大統領はアルカイダの殲滅に躍起となっていました。聞くところでは、当時比国ミンダナオの南西部の島にビン・ラデンの弟家族が住み始めて武装集団を作っていたとかで、ブッシュ大統領がその退治に米軍を入れようとしていたそうです。フィリピンの近代の歴史で、英雄アギナルド等が400年にわたったスペインからの独立をなす為、米国の協力を約束されて米軍の上陸を助け、独立を果しかけたタイミングで米西戦争の結果、米国がスペインからフィリピンを得たとして米国が再度植民地としてしまいました。そのため米国からの独立をしようとした際に20万人も殺害され、結果100年にわたって植民地化されてきたというフィリピン人なら誰でも知っている歴史があります。その後太平洋戦争の終盤で日本軍壊滅のために米軍は全土に無差別爆撃を行って100万人規模の民間人を殺害したとされ、その事から米国に対して良い感情を持って居る訳ではありません。そのような中でブッシュ政権はアロヨ大統領と密な連絡を持って、隠密裏に目的を果そうとした中、多分駐米大使の働きかけもあったのかも知れません、本件は一時的にもせよ米軍を入れるための幾つかの条件、即ち両国の懸案事項の中の一つとされて解決に至った、とかの話しを聞きました。真偽の程は判りません。

翌年、Pangilinan氏が渡米して、「全く問題なかった」との連絡をもらい、小生もその後所用で何度か米国に参りましたが、最初に入国した際、カルフォルニアの入国審査官が画面を見つめた後、やけに威勢よく『Welcome Back!』といわれたのを忘れられません。


2020.2.22会報No.91

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(15)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

 

8章:危険な体験と対処(FBIから逃亡成功、裁判でも勝利!)

8-1:米国独占禁止法

 

米国の独占禁止法(反トラスト法)の中身は複雑で、此処では述べません。ただ、米国ではレーガン時代から製薬会社や自動車部品等多くの日本企業が同法に基づき、司法省によるホワイトカラークライム捜査の対象となり、1件当たり100億円程の課徴金、また幹部にも12年の実刑が課されています。

IT関係で日本人が実刑となったものは、これは独占禁止法によったものではありませんが、先に触れた1982年のIBM-日立事件が有名です。これは産業スパイ事件とされており、米国内にいた日本人6名が逮捕、またDIPS関係で知己を得ていた日立の小田原工場長を含めて12名に逮捕状が出されました。日立、富士通、NEC、三菱電機等多くの日本企業がこれによってコンピュータ関連事業の経営方針を変更しました。米国での訴追の怖さ、影響の甚大さがお解かりと思います。

企業に忠実の余りに犯してしまう、ホワイトカラークライムの大部分はカルテル(反トラスト法違反)の構成です。日本電線会社、ガラス等数え切れない程の事案がありますが、著名なものは20102月頃からアメリカ司法省が捜査を開始した日本の自動車部品の価格カルテルのケースです。20149月末までに29社が有罪判決を受け、43 名の個人が起訴され、そのうち26名が有罪判決を受けています。有罪判決により科された罰金額の合計はその期間だけでもすでに24億米ドルを超え、日系企業に科された最高額は47,000万米ドルとなっています。 

小生を巡る事案はフィリピン側通信会社が課した米国との国際通信料金(フィリピン側終端料金)の設定に関するフィリピン通信会社間のカルテルの疑いです。

 

8-2PTCPacific Telecommunications Council)での状況

 

PTCは世界の通信業界のイベントの一つで、展示やセミナーも有りますが、実態はテレコム分野のTPP交渉の様なものでした。インターネットの発展で、現在はその様相は大幅に変わったでしょうが、当時の国際電話の料金は通信会社が個別に各国の通信会社間での通信料金按分交渉、またその清算(支払)を取決めており、PTCはその交渉をする場でした。発信側の電話会社は国際料金を国毎の料金表によって顧客に課金します。そして発信側電話会社はその中から着信側電話会社との取決めによって着信電話会社へ着信料金を支払うと言うことでした。フィリピンの着信側電話会社はさらにローカルの電話会社にアクセスチャージを支払ってその運営を支援する仕組みです。個別の料金交渉はPLDTの担当者の業務であり、PLDTの代表としては大口通信会社、例えば巨大に未払いをため込んだり、勝手に料金設定をしようとするAT&T等に対して、その修正、支払いを迫るのが役割です。

今回は闇の国際通信のせいで値崩れした国際着信料金を、その解決によって回復する事が大きな課題でした。海外からの投資を促進する事を目的に、フィリピンの米軍基地跡の保税特区内に限って、安価な国際電話提供をする事として居り、このためその経緯からAT&TPLDTJV会社がこれを運営していました。このJV会社は保税区内でのサービスに限られており、その他の地域へのサービスは無免許でした。所が、そのサービスを無免許で“フィリピン全土への安価な国際電話着信”として世界中の発信電話会社に提供して、多量の電話着信を集めて利益をあげ、さらにその一部を着服していたという事案でした。発見のきっかけはGlobeCEOのAblaza氏と小生の内密な面談をしていた際に指摘を受けたからですが、PLDTに調査させたところ、既にフィリピン全体の国際着信トラフィックに影響を与える情況にあったのです。急遽そのJVを停止させ、結果的にAT&Tとの関係も解消する事としました。PLDTではこの事案が発覚した時点で、AT&Tの持株分を同社への債権を利用して購入し、100%子会社としたのです。ただ、その動きを察知したAT&Tからの出向者と現地側の数人が横領した金を持って米国へ出国してしまい、彼等がその金で超高級スポーツカーを疾走する様までが報告され、地元では何故犯罪者が優雅に暮せるのかと小生にクレームが有ったくらいです。

フィリピンでのこの事案の整理が完了し、これを背景に直後のホノルルでのPTC(太平洋通信委員会)で世界中の通信会社と着信料金の見直し交渉を開始しました。国際通信の料金収入はフィリピンの様な開発途上国では着信料金が大半を占めるので重要です。各国との値上げの合意には時間を要しましたが、最後まで残ったAT&Tとの調印がとれた翌日、シャワーを浴びている時に比国大使館(大使)からの情報が入りました。内容はPTCにPLDT代表者として小生の部屋番号まで登録されており、『貴方宛に米司法省から反トラスト法に基づく召喚状が発行され、FBIが貴方に向っている』との連絡でした。SmartCEONazareno氏から該当の弁護士を紹介してもらって話を聞くと、『召喚状は逮捕権がついており、場合によっては長期に拘束の恐れもある、但し、米国領土の外では発効されないので、直ぐに米国領土から脱出することが最善』との事でした。結果、トランクを置いたまま、裏口から脱出、タクシーを乗り継ぐ事でFBIから逃回り、深夜にバンクーバーに脱出し、拘束は避けられました。ただ、本件解決には最高裁の『本件は米国には司法権が無い』との判決を待つ必要があり、無罪放免には小生の帰国後の1年を含む約2年を要しました。

 

83Subpoenaとは

 

Summons, Warrantくらいなら高校で習う単語ですが、Subpoenaなんて英語らしくない、聞きなれない言葉でしょう。直ぐに同行の弁護士に問い合わせた所、サフィーナは逮捕権付き召喚状で、米国領土内でしか執行(見せる事)されないが、執行されるとその指定する施設、良くて市内の特定エリアから出る事を禁止され、随時捜査・裁判への出廷に応ずる事が義務とされる。これに違反したり、出頭要請に応じないとそれ自体が直ちに刑事犯となる。解放される期日は事案によるとの事 (下図参照)。小生はコンピュータが背景ですから、1982年の日立IBM産業スパイ事件による情報産業全体にわたる影響や罰金・逮捕・収監を始め、自動車部品を中心とする反トラスト法違反による厳しい取り扱いから、PLDTに対する膨大な罰金、また経営への影響を思い浮かべました。

何が何だかわからない中、今度はマニラからの連絡で終端料金の正常化(値上げ)の為にフィリピンの通信会社間でカルテルを構成したとして、独占禁止法違反の疑いで連邦司法省(DOJ)Subpoenaを発行した事。PTCの出席者リストに小生がPLDTの代表者として表示されており、また小生以外にも比国からの出席者にも発行されたと言う事でした。とにかく米国の領土から避難する事が最善との弁護士の判断であると知らされました。


2020.2.1会報No.90

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(14)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

7章:海外事業で思うこと

 

当時のフィリピンの法律では、フィリピン人の出来る業種、販売業やサービス業は原則外資が規制され、通信事業の様なインフラサービスでは50%以下は認められるものの外国人の直接の命令権を認めていませんでした。我々の立場は明治の昔の『お雇い外国人』の様なもので、当初は何を誰に教えるかのプログラムを予め提出し、またその進捗状況を報告する義務がありました。私のレベルのNTTへの支払い年間費用が1億円を超えると聞いて驚き、まさにお雇い外人と認識しました。その後は少し緩んで、経営上のアドバイザーの役割となり、進捗報告等は不要になりました。しかしながら、実際には『アドバイザー』に止まる必要は無く、それ程不便無く執行役として行動できました。即ち日本での会社役員のやり方と大差は有りません。ただ、幾つかの処世術は必要です。

SmartPLDTの最大株主であるFirst Pacificからも香港から数人の英国人の『アドバイザー』が我々のカウンターパートとして派遣されており、経理・財務面で多くの事を学びました。反面、経理・財務でも通信関係の技術者でもない英国人が移動通信の総責任者を自認し、『NTT側は固定網のみに関与すべき、電波も使用させない』等と縦割りの仕切りを求めたり、Smartの社名が英語では『Smart=ずる賢い』の意味がある事から改称するとか突如言い出したりして、社内でかなりの対立になりました。またSmartの拡大に伴って基地局や交換機類、伝送機器の購入が必要となりますが、この外に加入者管理(CRM)、代理店管理、課金システムの見直しや導入が必要となります。そのシステムの選定や契約等行為はSmartのコミッティ(検討委員会)の決定を経て行う事としていましたが、彼はこれを無視して独断で内示してしまった等から、ファウンダーのFernando氏と殴り合いになる程の激しい対立となりました。種々問題も生じて居た事から、結果的にお引取りを願う事になりました。実は法人営業本部時代に新生テレストラを訪問させてもらい、その際に多様なビジネスを可能とする顧客管理システムを驚きをもって見学させてもらい、その新バージョンを導入しようと考えるに至っていたのです。現在普及しているSalesForceと同様の考え方をその数年前に検討していたことになります。その後は、コミッティだけでなく、大きな課題に取組む場合には第三者のコンサル会社にも参加してもらい、缶詰合宿で答を導く等の方法で、円満な人間関係の中で経営を進めることが出来る様になりました。

現地で注意すべきは、一部の人を除いては、比国人の間で親分・子分の関係が余りにも強く、与えられた目標を達成する事で地位を確保、俸給も決まる事から、一度方針を示すとフィードバックが掛かり難く、即ちストップが効き難いことでした。これはSmartに限った訳では無く、オーナーが一度命令したらフィードバック無しに走ってしまい、この事から競争相手の通信事業者の幾つかは、固定網の目標や義務を達成した途端に倒産、あるいは身売りした例が幾つもありました。この点、Smartはコミッティを活用する事で、早くフィードバックをかける事が出来、固定網への投資も最小限に留める事が出来たのが幸と言えるでしょう。

親分は子分の面倒を一生見るのが原則ですから、数年で退任する我々外人が一時的に責任者となっても忠誠心を期待する訳には行きません。したがって、論理と展望が説得力という事になります。逆に忠誠心を持たれると一生面倒を見る義務のような関係が生じますから、ある意味危険といえます。

処世の秘策としては、現地の心有る人物と事前に意識を合わせ、この人物からの意見を十分に聞き、その結果を反映して、あるいは反映できない時でも、これを選択肢に挙げ、会議の結論として方向を決めれば良いと言う事です。現地の中堅幹部も立派な学歴と経験を持っており、経営的にも技術的にも高い技量を持つ方々でした。

PLDTの収入の伸びはSmartが支えていると言っても良い状況ですが、国内の競争状況が安定している事がその背景です。シンガポールのSingTelとフィリピン最大財閥のAyalaを親とするGlobe社はその面で良い競争相手です。

一時期PLDTの買収に失敗したゴ・コンウエイがSUN Cellularを立ち上げてSmartGlobeに挑んだ事が有りましたが、いわゆるプラチナバンドを確保できなかった事からサービス品質の良くないディスカウントサービスに甘んじ、結果PLDTグループに下る事で、再び安定的な競争に戻りました。

経営が安定するにつれ、パートナーのFirst Pacificのパンギリナン氏は色々な機会を捉えて通信以外の事業に乗り出しました。その内容は前にも述べたインフラ事業である電力会社のMeralcoの他に、首都圏水道民営化に伴ったMaynilad、マニラ北部高速道路などがあり、さらにメディア、鉱山、レストランチェーンの他、オーストラリアやニュージーランドでは食料・食品ビジネスへの投資等多岐に亘るようになり、First PacificMarket Value総額では$21B=2兆4千億円程となっています。多くのケースは財閥の次世代経営能力に関する株主金融機関からの疑念や、交代期に起りがちのお家騒動等で安く買える事が契機のようでした。通信に関するフィリピンから外への進出については小生の在籍した頃に、一時タイのTT&Tの買収検討の他、華僑系財閥Lippoからのオファーでインドネシアでの携帯通信事業等の検討を行いました。インドネシアについてはNOKIAの協力を得て本格的に検討しましたが、規制上政治的に利益を吸い上げられる構造であったり、周波数割り当てから技術的にリスクが高過ぎるとの結論で検討を停止しました。フィリピン自体が十分な人口増もあり、GDP成長率が6.8%前後と高成長で、リスクの上からわざわざ出て行く必然性が低かったと思われましたし、NTTも必ずしもフィリピンを中心に展開する事を望まなかった事が背景に有りました。

 NTTの持ち分は持株会社から当初はNTT Communicationsへ移されましたが、その後docomoと共有し、さらにドコモが増出資し、First Pacific (25.6%), ドコモ(14.5%), NTT Com. (5.85%) となりました。NTTの双方からはiモードの実施等時々サービス展開上の要求があったりしますが、日本の環境とかけ離れた状況から、そのまま移植して成功した事はありませんでした。逆に現地で成功した送金サービス等GSM上のサービスについても何度も説明しても日本側がこれを受ける事もありませんでした。要は、配当や株式価値による資産については興味があっても、海外企業の経営は現地の状況を把握している側に任せるほかは無いという事でしょう。ファーストパシフィックからはフィリピン内外の種々のプロジェクトへの参画の誘いがありましたが、NTTのノウハウが生かせるか、また参画の意義や必然性、さらにPLDTが他の国へ進出するような事になるとNTTの立場が混乱する事になりかねないという懸念からか、実現には至りませんでした。ゴコンウエイグループは通信事業をPLDTグループへ売却、併合の形をとって、結果的にPLDTにとっては最も望ましい、PLDTとグローブの2大通信会社という安定した市場を形成しましたが、これには競争が生かされていないと言う批判が出てきました。


2019.12.13会報No.89

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(13)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

6.5 国際展開

 

Smartの成功はビジネススクールでの教材になったりして、かなり評判でした。その評判からか、パンギリナン氏へフィリピンの外の幾つかの携帯事業への経営参加、買収の話が来ていました。その中から、成長が期待されるインドンネシアとタイを選んでスタディをしました。

インドネシアのターゲットはリッポテレコムでした。リッポは不動産事業を中心とした華僑財閥で、政治的にも中国と米国の間を繋ぐほどの政治力を持っていました。華僑の間は一種のコミュニティがあるようで、全てがトップダウンです。元を正せば携帯事業にそれ程携った訳でも無い小生ですので、通信事業には出資しない原則を持っていたNOKIAを口説いて共同出資の為の共同スタディを行うと言うこととしました。リッポは先ずジャカルタ市内の高級住宅街に案内し、その中の病院の設備等赴任の際に問題が無い事を示そうとしました。確かに立派な設備でしたが、我々の興味は規制と電波、識字率に有りました。このデータを得るのに若干の時間を要しましたが、問題は規制と電波に有りました。即ちリッポはPHSと同様の2.4GHzの電波しか割当てられていない市単位毎の携帯会社を買いあさり、全体を纏めてリッポと称していたのです。当時の実質的な規制ではその間の通信は全てインドネシアテレコムを経由する義務があり、その大部分は軍関係が握っている事が浮かび上がりました。即ち、日本の当初のPHSと同様の固定回線の足回りとしての無線サービスで、この様な背景では、長期的な展望を持てば別の観点もありそうでしたが、広い国土を安価にカバーして利益をあげる事は不可能に考えられ、またNOKIAのティームも首を縦に振る事無く、パンギリナン氏に残念な報告をする事となりました。NTTには当時少しでも実行に動きがあれば報告をするつもりでしたが、必要なしとしてしまいました。

インドネシアの話しとは別にパンギリナン氏がタイでの通信事業をやろうと言い出しました。タイの成長力に魅力を感じたのでしょう。当時はタクシン首相がオリジナル事業に携帯通信をあわせて勢力を誇っていた時期にあたります。タクシンの勢力と争わない様に事業を展開すれば良いのではないか、との見解に対し、先ずはNTTが長く実施しているTT&Tに親しい友人が居るのでNTTはこの先タイでどうするかも含めてヒヤリングをしてみる事としました。

 

6.6 PLDTの内部不正とは

 

基本的にはオーナーが絶対の権力を握り、会社を私物化していた事が問題の根源でしょう。本社ビル内に専用のスポーツジムを作って、愛人と利用していたとの話しもありました。

現場でも電話架設の際に不正な手間賃を要求する事や、賄賂のように金を払うと早く電話を付ける事等が日常的に行われていたようです。修理に際しても同様で、これらは、いわゆるOBグループが背景に居たとの事で、そのグループと関りの無い責任者に事例を突き止めてもらう事で、案外早く対応が出来たと思っています。

これは内部不正に近いものですが、組織的な不正として、料金滞納者からの料金回収会社の存在が有りました。この回収手数料が40%にも上り、また其の取扱高が余りにも大きい事から調査した所、そのオーナーが買収前のPLDTのオーナーであることが判り、その契約破棄で対応する事が出来ました。

別のタイプの不正行為: PLDTはベトナム戦争当時、米軍最大のクラーク空軍基地とスービック海軍基地にAT&Tとの50%/50%の合弁会社を運用していました。その後、米軍はピナツボ火山の噴火により使用不能として撤退し、基地は返還されました。当初、基地が経済効果をもたらしていたことから返還には経済的懸念がありましたが、捨て置かれた車両を利用してジープニーを発明して民営交通機関にしたり、広大な米軍基地跡を保税特区として産業誘致を図り、米軍が撤退しても経済が崩壊しないよう図っていました。通信についてもPLDTAT&Tとの合弁を継続し、海外からの資本が入り易いよう特区内限りの割安国際通信を提供していました。

ある日、競争会社Globe社のAblaza CEOと偶然に行き合った際、『特区の通信会社が正式の国際関門局を経由せずに、割安で国際通信を行っているようだ』と告げられました。調査の結果、それが事実と判明したので、これを中止させようと行動開始した所、直ちにAT&Tの社員と現地の部下が米国へ出国してしまいました。彼等は不正に稼いだ金の一部を抜いて横領して持ち去った様です。この問題の解決の為、AT&Tからの着信料金による債権を用いてその持分を買い取って合弁を解消する事としました。ただ、これがFBIに追われる身となる原因となるとは其のときは想像しませんでした。この詳細は『怖かった話』として後述します。

 

6.7 PLDTプロジェクトの意味とNTTとのシナジー

 

国際通信事業には海底ケーブルが必須です。NTTは国際通信事業の当初は第2種事業者としてケーブルを持たずに、レンタルした形で通信サービスを開始しました。当然、レンタル費用が高価で採算の取れる状況にはなりませんでした。自前でケーブルを持つ必要がありましたが、その建設には長い時間を要します。別の手段としてケーブル容量を持った会社、具体的にはIDCを買収する方法が検討、交渉されていました。しかしながら、IDCのネットワークの広がりが不十分であることや、C&Wによるオファーが当初計画していた額よりも高額であった事からNTTは断念せざるを得なかったと理解しています。そこで長い歴史とプレゼンスを持つPLDTに出資する案が代替として浮上しました。多くの海底ケーブルプロジェクトでは、出資者間の合意として14%以上の株を持つ会社はアライアンスとして認め、その所有する容量を出資時の原価で転売できるという合意があります。従って、NTTPLDTの株を14%以上持つ事によりアライアンスの関係と認められ、PLDTを通じて国際通信事業に必要な海底線容量を原価で取得する事が出来ます。したがって、Smartに持っていた株をPLDTに売却し、14%以上になるようにこれに上乗せ出資したのです。

また、その後の意義、シナジーですが、PLDT側も法人営業事業を立ち上げた事から、アジア進出を図る多くの企業にNTTComArcStarサービスの差別化の上で有利に働きました。アジアの多くの国では回線品質上の問題があり、フィリピンも島国で台風や火山、地震がある事から同様であるものの、顧客からすれば現地の統制が効くことが大きなメリットであり、またPLDTの職員も最優先で取り組む事から、現地工場の責任者から種々感謝を頂く様になっています。

通信事情の改善、時差の少なく近い立地、また英語が通じる等の事から、企業の規模に拘わらず、フィリピンに進出を決めた企業が多いのです。

携帯通信事業もNTTComからDocomoが半分購入後に増資を得た後、一時i-Modeを導入してみたものの、使用できる端末機がNEC1社のものに限られたり、またスマートフォンの普及により、結果的にローミングアライアンスによるシナジーに限られているようですが、増資も経て、NYに上場する同国唯一の優良企業として毎年高額(百億円内外)の配当をNTTグループにもたらしています。

尚、2016年のPLDTMarket Cap. $10B.程でNTT10%程度となっています。


2019.10.1会報No.88

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(12)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

6.2 エストラーダ大統領の失脚

 

ラモス大統領が6年の任期を終え、予想と異なり、副大統領のエストラーダ大統領が選出されました。フィリピンでは大統領と副大統領は別個に選挙で選ばれ、政党より個人が優先されるため、大統領と副大統領は対立する関係です。フィリピンでは政党の存在感は無く、どの政党に所属するかはあまり意味が無いのです。エストラーダは俳優出身で、民衆の味方をスローガンとしていました。宮津社長が大統領就任に伴う表敬の際に、誰が入れ知恵したのかエストラーダは貧しい庶民出身で、英語が話せないとの前提で、日本語-英語、英語-タガログ語の二人の通訳が同行されて来た事がありました。実際には、中退していますが名門のアテネオ大学に行っていた程の家柄の出です。しかしながら、強引な所もあり、ラモス大統領がせっかくミンダナオのイスラム勢力MILFと結んだ和解協定が、これは不公正であったとして2000年に破棄、軍事攻撃を開始しました。此れに対しイスラム勢力はジハードを掲げて徹底抗戦の様相となりました。このあたり米国のトランプと似た印象が持たれます。個人的にお話しをする機会に得た彼の主義、主張は、『国の金、特に税金を私用に使う様な事は絶対にしない、ただ自分が個人的にコンサルして、その礼として贈られるものはこまばない』と言う事でした。大統領になって忙しくなり、愛人達の数家族を大統領府から便利の良い地区にある、華僑から提供された邸宅(複数)に集めて住まわせた等その典型でした。新聞記者の問いに対して、『これで、もっと国家に捧げる時間が出来、また家族も幸せになった』と答えていたのは、さすがに驚きでした。その他、行政府の高官も含め種々の贈収賄が暴かれて、20011月、我々がPTC (Pacific Telecommunications Council)に出席している間に収賄の疑いで弾劾され、失脚退陣してしまいました。この出来事は第二のエドサ革命と呼ばれ、副大統領のアロヨが大統領を継承しました。この出来事の中で、フィリピン通貨が一挙に31%も落ち、丁度HonoluluにいたPLDTのメンバーが出張旅費が足りないので何とかしてくれと迫られ、その危機を実感させられました。債務の多くを$USで持ち、収入をペソに頼るPLDTグループも危機に陥るとみられ株価も勿論下がりました。実際、第一回のエドサ革命の際には共産主義化を恐れたり、逮捕を恐れたりして、多くの資産家が資産を安値で売却してマルコス一家を追う形で渡米したそうで、我々もそのような事態に備える必要が有ったのかもしれません。しかしながら、クリントンの同級生を名乗ったアロヨ副大統領が存外しぶとく大統領を務めてくれたので、助かりました。エドサ革命で投売りされた不動産等を安値で買い取って大金持ちになったという人とも何人かお会いして居ますが、この様なリスク対応を為替変動保険で対応する時、どれだけヘッジにかけるかの判断は難しいものです。

アロヨ大統領になって、公務員給与が大統領で$1200/月、大国への大使で$1000/月だったそうで、アロヨ大統領が『役人の給与が安過ぎるから賄賂を取ったりする、その改善が必要』と10%程の賃上げを提案したそうです。彼女の夫の素行と収賄が酷かった事と、公務員給与の御手盛り提案をした頃から急に人気が衰え、その後、彼女も投獄され、フィリピンの大統領も大変です。ただ、アロヨ氏はドュテルテ政権では下院議長となっています。

 

6.3 エンロンショック国際会計基準の導入

 

米電力会社のエンロン社は全く突如破綻しました。電力の空売りを売上にたてた乱脈決算で、その負債総額は少なくとも310億ドル、簿外債務を含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われています。続いて、MCIの買収等を経て大手通信会社となったワールドコムもSprintの買収に失敗し、粉飾決済を重ねて、20027月に経営破綻しました。いずれもアメリカ史上最大の企業破綻と言えます。突如の破綻の原因は会社経営にある事は否めませんが、決算上でそのような危機の状況が見えないのが問題とされ、その見直しが始まりました。

このことからNYSEに上場しているPLDTとしても新たな監査方式に従わなくてはならなくなり、急遽、経理・監査方式の見直しとなりました。と言っても、新たな監査方式が既に決定して居る訳ではなく、現地の監査法人の指導のまま決算を行おうとすると、ワシントンの本社から、その方式では不満足だ、承認できない、見直せと言ってきました。しかしながら、正式な方法は未だ決定していないのでもう少し待てとの指示が出たり、何度も取締役会を開いて修正しなければならない等混乱を極めました。世界中の大企業が大騒ぎでした。此れを契機に多少の時間を置いて、日本でも多くの企業が国際会計基準に従って決算をするようになりました。

 

6.4 ゴ・コンウエイによる乗っ取り

 

サリムは当時インドネシアの最大華僑グループで、Smartプロジェクトとの関係はすでに紹介しました。スドノサリムは福建省からジャワに渡りスハルトに協力して財を成したそうで、FPCのパンギリナンはその息子である現総帥のアンソニーサリムの言わば学友として目を掛けられ、その後グループの番頭格として香港のFPCを率いていました。構造は複雑ですが簡単に言えば、Smart/PLDTはそのフィリピン現地法人Metro Pacificの子会社の格好となっていました。

PLDTの債務のリストラの目処がついた丁度其の頃、First Pacificの親会社のサリム財閥がインドネシア政府によって不当蓄財として罰金を課されました。罰金額は約$2Bと記憶していますが、サリムとしては資産の差し押さえを受けるよりも、自主的に清算したほうにメリットがあるとして資産を自主的に売却して納める立場をとりました。その結果、サリムの持つPLDT株を、強引な経営で有名なゴコンウエイ財閥へ売却するとの約束を取り交わしたとパンギリナン氏に連絡がありました。オーナーが売却すると決断したので、これに従わざるを得ないという立場で在りながら、折角ここまで努力をして育てたプロジェクトであり、これを阻止したいが、何とか成らないかとNTTに相談する状況でした。ゴコンウエイ側からはデイールを進めるため、早期にデューデリジェンスを行い、傘下の通信会社Digitel等との統合も果したいと言って来ていました。NTTの一部ではゴコンウエイの強引なやり方で合理化が早く進んで利益が増えるかもしれない、この際乗換えを図るべきと言う意見を唱える人もあり、種々議論は有りながらも結局、NTTは中立の立場をとる事としていました。ただし、実質的なオーナーの変更は、折角整ったJBICからの融資契約にとってはディールブレイクにあたる契約上の重要な変更事項であり、また日本商社を初めとする債務のリストラ計画も御破算となる可能性もありました。小生にすれば今までの全ての努力が御破算、最悪の結末、デフォルトになってしまう可能性もあって、兎に角穏便に済ませたい所でした。この状況で、JBICに状況の説明に上がり『仮にゴコンウエイに移ったとしてもNTTのポジションは変わらない、またDigitelとの統合があれば合理化が加速する可能性もある』と説明を行って、急場を凌ぎました。銀行出身の川島氏が同行してくれて、『あの説明が最善でした』と後で言ってくれたのでホッとしました。マニラに戻ってみればマスコミに取り囲まれる大騒ぎで、日経新聞の記者も尋ねてきました。記者からの質問に対して、『PLDTの役員として、役員会で合意した行動をするだけだ』と答えた所、『弁護士でもあるまいし、面白くも無い!』といわれたので、『有難う、それが私にとって一番の褒め言葉です』と応じました。

コンウエイ側からデューデリジェンスを行いたいとの再三の申し入れがあり、余りに性急であった事からゴコンウエイの側で十分な事前調査の実施と早期の経営権の獲得の目算が条件となっていた事が判明し、法務部門の努力で、PLDTの昔の取締役会の合意事項に、『競争関係にある相手からの内部調査には如何なる場合も応じてはならない』とした条項があった事が判明し、PLDTにとって競争相手と見做されるDigitel社がゴコンウエイ傘下にあった事から、これを拒否する正当な理由が見つかりました。 ゴコンウエイ側もデューデリジェンスが出来ない現状では進められないと判断し、パンギリナン氏とサリム氏の関係も壊す事無く、穏便に乗っ取りを回避することが出来ました。サリム財閥は広範なビジネス展開をしていましたが、その中核とも言えるインドフード等の資産の売却を進め、インドネシア最大財閥の地位を降りました。なお、インドフードは結局PLDTの親会社となっているFirstPacificが買収しています。デジテルはその後携帯通信サービスのSun Cellularを開始しましたが、900M帯を持たず、また基地局も不足して加入者が増えず、2011年にはPLDTがデジテルも含めて買収してしまいました。


2019.8.1会報No.87

今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(11)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

6.1 債務のリストラクチャリング

 

PLDTはフィリピンで唯一、NYSE(NY証券取引所)に上場している会社です。買収の直後から大株主、社債を保持している金融機関や年金基金等に対してIR (Investors Relation)を行って株価の維持向上を行う必要がありました。IRではSmartを買収した事で、PLDTグループの経営の改善、即ち如何に合理化を進めるか、利益を向上していくかを具体的に説明する必要がありました。質疑は厳しいもので、職員数の合理化計画や利益率等時期と数字で答える必要があります。IRでは香港・アムステルダム・ロンドン・NY等を中心にアレンジにより金融機関を回りますが、12カ国、世界一周5日のペースで年1~2回、なかなかハードなものでした。

いずれにせよ、PLDTには種々のリストラが必要でした。Piltelの切離しをPLDT買収の条件としていたNTTの意図に反して、現地側の政財界との了解事項で有った事からこれをPLDTグループに抱えざるを得なかった訳ですが、NTTからの信頼を維持する上で、先ずはPiltel等の不良資産、またこれを構成した債務の整理が最初の課題でした。

Piltelと当初の固定網の敷設義務は無いとも思われていたようですが、政権との摩擦もあったそうで、公正を期すると敷設義務が課され、またこれに関する査察が特に厳しく、設備展開を急ぐ必要があった様です。日本商社(複数)によるターンキー契約でしたが、現場を見れば既に引取りが終了したにも関わらず、殆ど稼動して居らず、支払いもしていない状況となっていました。最大の貸し手になってしまった日本商社も、バブル崩壊直後で整理すべき不良資産が山積み状態でした。NTT法人営業本部で流通サービス営業部長をしていた関係や、米国の商工会議所で商社幹部のキーパソンとも顔見知りであった関係もあり、その経営上不良資産をそのままにしてはおけないとの認識を共有した上で、同社の債権をPiltelの株に切替え、さらにPLDTも含めて別途のオプションを加える案による膝詰めの交渉を行う事が出来ました。いずれも必死でしたから、率直に議論を進めることが出来、合意に至ることが出来ました。

PLDT自体の債務としては多くの通信設備を独シーメンス社から調達していた関係でKFW(ドイツ輸銀)に最大の債務が有りました。当初、この借り換えは順調に進むものと思っていましたが、日本資本が入った事で、ドイツからの今後の調達が見込めなくなるとの考え方も有ったのかもしれません、KFWが借り換えに難色を示しました。

財務担当アドバイザーのCris. Young氏のKFWとの交渉の末、借り換えの条件として日本政府ないしNTTの債務保証があればこれを認めると言う所まで妥協を得られました。しかしながら、持株傘下で発足したNTT Comと幾度か交渉を重ねましたが、債務保証はした事もないし今後もする事も無いとして、頑としてこれに応じてくれませんでした。NTTファイナンスにも相談したところ、NTTが債務保証に応じた事実は有ると教えてもらいましたが、其処からの融資は規模が大き過ぎるとのことで頂けませんでした。この様子を見ていたNTT Com藤田副社長からJBICを紹介頂きました。NTTの一部、特に銀行出身の方はNTTJBICに資金面で依頼するなんて情けない、そんな事は有り得ないとの意見もありましたが、我々にとっては最後の望みとなっていました。JBICは既に運用実績が有り、利益もあげているSmart/PLDTに好意的でしたが、当然、JBICは出資元の何等かの保証を求めます。しかしながら、NTTKFWから求められた時と同じく、頑として保証を拒否しました。何度かのJBICとの打合せの後、『NTTPLDTを戦略的パートナーとして長期的に出資、経営参加している』の趣旨で保証の代わりと認めると言う所まで妥協してもらい、NTTにも『事実に基づいた記述だけだ』と安心してもらって、文書を差し入れて資金提供(100億円)を得る事が出来ました。KFWに対しては同じ権能を有するJBIC(輸銀)は日本政府であり、ここからのコミットを得たとのKFWの認識を得て、借り換えに応じて貰う事が出来ました。この状況でデフォルトの危機から脱し、IRを実施すれば、どん底の株価からの回復と、更なる債券の買い替えを促せる、これで財務の問題は解決すると思っていました。

マニラから東京泊でNYへ向かうIRスケジュールで、たまたま東京の自宅に居たとき(2001911)、アメリカ同時多発テロ事件をテレビで見ることになりました。すぐマニラから連絡があり、NYでのIRは延期と知らされました。面談すべき多くの方々が事件に巻き込まれていること、また市場も当分閉鎖状態で中断せざるを得ない状況で、直ぐにマニラに戻れとの事でした。あとから教えられたのですが、金融界の雑誌には『NYSEに上場している会社の中で、911で最も影響を受けた会社はPLDTだ』との記事も出たそうで、2重の焦燥を味わいました。しかしながら、再度、財務担当Cris. Young氏の才覚でオランダのABMアムロ銀行との交渉で、短期融資でデフォルトの危機を乗り切ることが出来ました。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(10)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

6PLDTの経営

 

PLDT買収の話が本決まりになって、初めてその本社ビルを訪ねてみました。幹部の部屋は大きく立派で、幾つかの部屋は庭付きテラスを持っており、家具・調度も立派な物でした。ところが、講堂に案内されると天井からアスベストスが垂下っているのを見て驚きました。アスベストスは幹部の夫々の部屋では見られず、多くの社員が集まる講堂が見逃されていたのです。この多量のアスベストスはPLDTの幹部が腐っていた事の象徴の様に感じました。直ぐにフロアーを閉鎖して、アスベストスの除去、さらにはそれ程使われては居なかったとの事でしたので、この機会を利用して、講堂のフロアーを事務フロアーに変更してもらいました。

 

PLDT内部の不正は、経理面、幅広い社員との面談、噂話の検証で次々に明らかになりました。吃驚したものに、通信料金の延滞者が異様に多かった中、その延滞料金の取立て回収会社をオーナーである当主が設立・運営していて、高額の手数料をPLDTから支払わせていたのです。すぐ向かいのシャングルラホテルにプール付きのジムがあるにもかかわらず、その当主は本社ビル内に専用の立派なスポーツジムを作っていたのですから、トップからおかしくなっていたと言っても良いでしょう。現場サイドでも、申し込んでも電話を引くのに数年も待たなければならなかった状況から、PLDTの元幹部達を中心に組織的に別料金を徴収して、支払った顧客だけ早めに開通する、といった有様で、その不正は上から下まで蔓延していました。いちいち捜査・検証していては日常の業務が停止しかねない状況でした。この状況を一気に修復するために『社内犯罪、不正を犯していても、摘発される前に自主退社すれば罪を問わない恩赦(amnesty)制度』を公表し、結果的に多くの幹部を外部からの若手エリートへ入れ替えることが出来ました。

 

前向きなチャレンジも始めました。Mr. Al. Panlilio等若手の幹部候補との買収完了直前からの話し合いの中で、既にSmartで試みていた法人営業体制をPLDTでも創設し、事業の拡大と充実を図る事としました。従って、Smart-NTT Multimedia社はその母体として吸収する事としました。また、買収直後にマニラ近郊の幾つかの電話局の見学、ヒヤリングを行った際に、市外と国際の電話交換業務オペレーター達が職を失うのではないかと恐れていたことからの思いつきでしたが、フィリピンは長い米国の植民地で英語教育が充実していたことから、コールセンター事業を創業する事をパンギリナン氏に進言しました。田嶋氏とフィリピンで既に同事業を開始していたKen Bone氏から種々ノウハウを学び、その結果、大きな将来性が見込まれたことから、Citibankの現地のCRMの責任者Ms. Rose Montenegroをヘッドハンティングし、専用の建物も構築して事業を開始しました。当時コールセンター事業はインドが中心でしたが、英語の発音の癖の無さから米国、イギリス、オーストラリアから、保険、レセプト等種々の幅広いニーズがあり、必要なハード設備は同じで、顧客のアプリケーションを夫々の時間に合わせて設定し、オペレーターは3シフトで24時間365日、殆ど休み無く稼動出来る非常に効率良いものとなりました。マカティ市やマニラ市では既に高層アパートが林立する状況で住宅コストが高いことから、此処に勤める多くの勤め人は1時間以上の郊外からの遠距離通勤が多かったのです。しかしながらPLDTのコールセンター事業がブームとなって、従業員数も1万人を越えるものとなり、若手夫婦が共稼ぎで市内に住んで、職場近接にして、互いに違うシフトで子供を育てるという新たな生活スタイルも出来てきました。その後、この事業については都市の分散化、また軌道に乗れば独立させて売却する方向となって、PLDTはこの国家的事業のインキュベーターの様になって行きました。

 

コールセンターを初めとして、当時急激に伸びつつあったインターネット事業、またNTTデータの様なインテグレーションも含めて、PLDTを単なる通信事業から多様な事業への転換を図るために ePLDTを設立し、弁護士のエスピノザ氏をCEOに、またその後NTT Comでアジアでのインターネットの普及を担当していた戸川さんにも赴任してもらい、これ等の新規事業の充実・拡大を図る事としました。ただし、発足してみれば、コールセンター事業は大成功、余剰局舎を用いたIDCはとも角として、漫画やゲームの作成、またアイデアだけのベンチャーの買収等に投資を重ねて、集中すべき経営の方向が分からなくなるような傾向があり、一時パンギリナン氏に見直しを迫った事もありました。

 

インターネットは日本では移動通信でもi-modeインターネット接続が提供されましたが、やはりPC利用を中心に固定網を中心にモデモ接続からADSLFTTHと発展したと言ってよいでしょう。フィリピンではPCが高価であった事からその普及が日本ほどには進まなかった関係で普及の道筋は大きく異なりました。電話の普及が固定網よりも携帯電話がリードしたのと同様に、インターネットも携帯端末から始まったといっても良い状況でした。即ち、第三世代の提供と安価なスマホの出現で一挙に普及となったのです。勿論、移動通信ではデータ通信料金が利用上の問題でしたが、SmartGlobeが争ってショッピングモールに安価なメンバー制、もしくは無料のWiFiを設けて利用を促進しました。その意味で固定網のインターネット普及の役割は限られたものでした。ショッピングモールは暑いマニラでの避暑の役割とインターネット接続の拠点となっています。フィリピンではFTTHはまだまだこれからの普及が期待されている段階です。その様な状況で、PLDTは比較的若いパンギリナン氏の大学の後輩を固定公衆網事業に、またこれもCitibankからのヘッドハンティングで法人事業の夫々責任者に迎えました。

 

固定公衆網事業に関しては既にその限界を感じていたものですから、若い新たな責任者が張り切って地方電話会社の買収や、カード発行事業、固定インターネット事業等種々投資・出資項目を役員会への事前説明として提案してきましたが、殆ど拒否せざるを得ないと見做され、実施後の撤退策を一緒に提案すべきと何度か対立せざるを得ない状況がありました。

 

フィリピンは日本と同じ島国ですから、島と島を繋ぐ事と、これをグローバルなネットワークに繋ぐ海底線が必須です。グローバルな海底線は関係する通信会社のコンソーシアムを形成して資金を調達して、請負会社に発注します。請負会社はNECの様な通信機メーカの場合もありますし、商社やさらに通信会社だったりする事もあります。すなわち、かなり政治的な要素がある様に思われます。NTT Comへの配慮や米国の安全保障政策等への配慮も欠かせません。

 

海底線には事故が付き物でした。地震による破壊や、陸揚げ点付近の浅瀬には埋設しているのですが、漁船の網や碇に引っ掛けられて断線するのです。従って陸揚げ点にはその様な事故に会い難く、また陸上のハブに出来れば近いところが望まれます。問題はその様な地点には限りがあり、競合通信会社と其処でも競業する事です。方路が多様化し、容量に余裕が出るにつれて心配しなくても良い様になりました。ただ、その容量から東アジアの主要海底線となっているAPCN2についてみれば、23年に一度くらいの割合で地震やケーブル自体の故障でフィリピンを含む数カ国のインターネットサービスに影響を及ぼしています。

 

データ通信のトラヒックがインターネットの普及で音声を大幅に超えて行く状況で、Smart網を一括して構築していたNOKIAから、次期システムとして全IP化交換機の導入計画のプレゼンを受けました。NTTを初め世界の通信業者がATMの導入を急いでいると理解していた中でしたので驚きました。1980年初頭にNTTデータでSTDMの導入を図り、米国へ赴任した直後の1984年にPalo AltoSan Franciscoの間で、これを用いて音声通信を試みる現場に立ち会った事があったので、大変興味を覚えました。キャリアは音声通信を中心に考慮し、遅延の少ないATMを選択・普及に努めたと言う事ですが、移動通信では既に音声よりもデータに重きを置き、音声もデータの一部として内包する考え方になっていたのです。確かにキャリアはISDNの普及以来、音声は64KBの品質を守ることが前提であったと考えられますが、移動通信の世界では音声は極度に圧縮され、8KBや極端にはその半分くらいで利用されるようになって、会話の意味は判別出来ても誰が話しているかの音質の判別は難しいレベルになっています。オレオレ詐欺等はこの特質を悪用したものと考えられます。GSMの導入の際に経験したことですが、当初のGSMはあらゆるプロセッサの処理能力は限られて居り、コーデックもその一部ですから通話品質の上で決して喜ばれたものではありませんでした。しかしながら、現在に至るまでプロセッサの性能向上は止まる事無く、また海底線を含む伝送容量の拡大も止まる事は無い様です。このことからATMではなく、全面IP化という流れが自然と発生したものと思われます。実はIIJを起こし、現在もその経営を担当するインターネット創生期からお付き合いが有った鈴木幸一氏と会う度に『NTTATMを選択したため、日本はインターネットから遅れてしまった』と小言を言われるのですが、『世界中のキャリアの選択だったので、しかたが無かった』と言い訳をしています。実際、IP化が古典的キャリアのビジネスをすっかり変えたといっても良い状況と思われます。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(9)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

5PLDTの買収

 

5.1 背景

 

Smartが順調にマーケットシェアを拡大する中、同国の企業で唯一NYSE(ニューヨーク証券取引所)に上場している最大の通信会社PLDTの放漫経営と、その子会社Piltelの経営不振(SMS機能が無い旧型CDMAを展開して顧客を失った)が、同国の金融界だけでなく政界からも懸念があげられていました。即ち、もしPiltelが倒産するような事があったら、金融機関が影響を受け、結果、フィリピン経済全体に悪影響を及ぼすと危機感が持たれて居たのです。その安定化には資本注入と経営陣の交代が必要とされ、その状況でパンギリナン氏率いるサリム財閥の香港子会社FPCNTTの連合がその役割を担う様になったのは、19986月にラモス大統領の後に驚きをもって登場した、エストラーダ大統領との良い関係を築いて居たパンギリナン氏の政治的手腕によるものでしょう。

 

Smartにとってはその経営拡大の上で、PLDTが保有する全国に及ぶ6リンクのファイバー網等設備資産と全国の通信網へのアクセスが必要であり、またPLDT網からSmartへの着信料金から生じた売掛金(ターミネーション料金)を回収・清算する上からもPLDT社の買収に意義が有りました。

 

プロジェクトの推進にはNTTに増資を願わなくてはなりません。その為のストーリーは、NTTの国際通信事業に必須な海底線容量に関し、PLDT14%以上の株主となる事でNTTPLDTのアフィリエイトと見做され、PLDTが海底線の取得原価でNTTへ売却できる事でした。PLDTは歴史のある国際通信事業者であり、世界中の多くの海底線プロジェクトに参加していました。

 

田嶋氏と共にFPCと一体でその企画を開始しました。実際の買収の方法としてはSmartPLDTを買収するのとは逆で、簡単に言えば、上場していないSmartの価値を公正評価し、そのSmartNYCに上場しているPLDTが買収する事(その為の議決権は買収)とし、その為に必要な資金をFPCNTTが資金を提供してPLDTが増資、その最大の株主となってコントロールを獲得し、結果的にマネジメントを入れ替えるプロセスとしました。

 

このディールの推進にあたり、パンギリナン氏がエストラーダ大統領を訪ねて最終確認をし、これを待って東京側でも正式にディールを開始する段取りに漕ぎつけました。ところが『パンギリナン氏のヘリが大統領の保養地Tagaytayで墜落した』との、とんでもないニュースがもたらされました。数十分後には命に別状が無いとの連絡も入り、ディールを続行することとなりましたが、なんでも着陸に際してパイロットが自動操縦から手動に切り替えた際、突然、各パネルがクリスマスツリーの様に輝き始めて落下し、崖を滑り落ち、幸運にも小さな木に引っかかって止まって助かったとの事でした。それ以来、PLDTの所有する飛行機、ヘリはなるべく避けて商用飛行機を利用する事とし、またパンギリナン氏と小生は同じ飛行機には乗らない、またIRで世界を回る際にも異なったルートを利用する様に心掛ける事としました。

 

5.2 Piltelの件

 

ラモス大統領の通信政策は、海外からのあらゆる投資を呼込む為には固定電話のインフラを拡充する必要が有り、その為に携帯通信等新規の免許の発行を行って海外通信会社からの投資を呼び込み、これに固定電話の設置義務を課すとされていました。従って、当初は既にサービスを行っていたPLDTグループには新規の設置義務は課されないと考えられていましたが、その後に公正競争の上から同様の義務がそのグループ携帯会社Piltelにも課されました。PLDT買収直前の調査(Due diligence)の一環として、某商社がターンキーベースで請け負ったという、Piltelに割当てられた地域(ミンダナオ南部)に展開された固定電話の施設の見学に行きました。現地は日本へのマグロの集散地として有名なジェネラル・サントスの20キロ程北側で、比国の最高峰アポ山と並ぶ高度2300mに及ぶマチュ-タム山の裾野に広がるドールのパイナップル畑の中に有りました。周囲に建物も人影も無く、数本の電柱と交換局が地平線をバックにポツネンと建っており、そんな所に需要が有る筈は有りません。携帯無線の施設についても基地局と思しき建物がジャングルにあり、そこに数局分の無線設備が倉庫の様に並べられ、アンテナも林立して技術的にセルラが構成出来る筈も無く、惨憺たるものでした。商社の責任者に経緯の説明を求めると、『設置にあたっての具体的な指示が無く、また契約上の工事期限がせまっていたので止むを得ず実施した。ただ、工事完了の確認は得ている』ということで、日本企業とは思えない責任を回避するだけの回答でした。Piltelはデジタル化を急いで、モトローラ社のCDMAの導入を図っていましたが、それが旧型CDMAであり、GSMで既に一般化しつつあったSMSが使えないとの事から、急激に加入者を失いつつありました。結果、良いところが全く見られずにNTTへ報告した所、NTT側からPLDT買収案件の最大の懸念とされ、Piltelを切り離してから買収を進めるよう言われました。しかしながら、現地政府や金融界からの買収条件が、『Piltelの株主と債権者の権益を守って、フィリピン金融界の混乱を避ける事』となっており、板挟みの状態に陥りました。

 

この板挟み状態の解消はなかなかの難題でした。PLDTの買収に伴って新たにSmartCEOとなったNapoleon Nazareno氏がコンサル会社を招き、ここからの斬新な知恵を頂く事となりました。

 

① Piltel社員は技術者を中心に、拡大しているSmartへ吸収し、更なる拡大を図り、またPiltelの運営経費を削る。

② Piltelのブランドと法人、営業体制を存続させて、株主・債権者を守りながら、これをSmart配下のMVNOとして事業継続する。

③ 結果として、世界でも最大規模のMVNOがいきなり誕生した事になります。

 

PLDTの買収にあたり、Smartの創立者のVea氏とFernando氏はSmartの株を売却して夫々独立のファンドを立ち上げました。

 

パンギリナン氏はPLDTのCEOに就任し、バスケットボールのプロチーム“Piltel”を創設、これをPiltelのプロモーション手段として活用、結構派手に活動して趣味と実益を兼ねました。米国から招聘したプロ選手の雇用には結構な経費がかかり、内部で若干の議論もありましたが、結構人気も出て、NTTもいつの間にかPiltelについて神経質に拘らなくなってきました。

 

5.3 夢の衛星通信 イリジウムの件

 

傘下のPiltelはモトローラに旧型CDMAを押し付けられて、どうにもならなくなっていましたが、これだけでなく、モトローラにはイリジウムでもとんでも無い目に逢わされていました。イリジウムは一時期、夢の衛星携帯電話として有名になり、PLDTは出資だけでなく、出資比率に応じた債務保証も引き受けて居ました。高度780km66個の衛星を投入する計画で50億ドルの設備投資となり、日本でも京セラ等が日本での事業を開始していましたが、衛星等インフラ投資の重荷と、大型で高額なハンドセットがネックとなりました。米国全体でも5万台程度の契約数に留まったことで、開始後1年弱の19998月に連邦倒産法第11条を申請して倒産しました。

 

この対応はカナダ人のDon Rae氏がコンサルタントとして担当し、当然、PLDTにも債務保証分の負担が求められました。結果は、殆どの顧客が米軍であり、またこれが必須であったためにプロジェクト全体が米国政府向けのサービスに特化したイリジウム・サテライト社に引き継がれる事となり、思ったよりも小さな損害で済みました。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(8)

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PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

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現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

顧客の囲い込み策 長距離料金の廃止

 

次なるSmartの課題は顧客の囲い込みでした。多くの国と同様に、移動通信網と固定網、移動通信網間にはキャリア間の跨ぎ料金が課されていました。同一地域に複数の固定通信事業者が混在する例は余り無いかもしれませんが、月額が固定料金で規制されている(あるいは市内通信は無料、即ち電話を借りて通話しても市内通話であれば無料)固定網の同一料金域内(市内通信)では、キャリアが違っても当然の事に跨ぎ料金がありません。しかしながら、跨ぎ料金が無いので、既存通信会社からすればトラヒックがあっても収入にならない事から、網間チャネルをなかなか設けてくれないという問題が有りました。網間チャネルを設けない事が既存の通信業者にとっては新規業者の参入排除の手段となりました。日本大使館や日系企業等が折角、率先してSmartの固定網に加入してくれたのですが、ユーザ(PLDT等の既存通信会社の顧客)から電話が掛かり難くなったとのクレームが発生しました。規制当局に駆込んで対策をお願いしたものの、この問題の根本的解決には顧客ベースの拡大、即ち携帯事業の拡大が必要で、長い時間と戦術を要しました。

 

以下、携帯の話に戻ります。フィリピンは島国で、地方と都市は物的・経済的な交易だけではなく、出稼ぎでも結ばれており、長距離料金は魅力的な収入源でした。しかしながら、地方へ大ゾーンで展開していたSmartの課金上の問題として、基地局のゾーンの間を移動する移動通信電話の発信地と着信地で長距離料金課金を精緻に行うことは難しかったのです。長距離料金廃止の背景にはこの問題がありました。夏の首都として避暑地で著名なバギオ市を一挙にカバーしようと山頂に設置した基地局の電波が200Kmも離れたマニラで受信してしまったこともあり、この場合、基地局(バギオ)が端末の所在地(マニラ)となって、そのままではバギオの基地局を掴んだマニラの端末がバギオからの長距離料金を課金されるという不公正となってしまうのです。といっても、国際ローミングの様に、登録地をベースにすることも人の動きが激しい事から現実的ではありません。種々ブレーンストーミングの結果、全く別の観点の結論となりました。即ち、携帯のエアータイム、即ち通話料金は課金するものの、Smart網内であれば長距離料金を廃止する事としたのです。これによる効果は、地方への展開を積極的に行って、既に加入者を得て居た事と合わせ、このような地方との通信をする都会の加入者にとっても大変に魅力的なものとなりました。即ち、長距離料金無しは同一通信会社である必要から、Smartに鞍替えするようになって、相乗効果となって加入者を増やすのに絶大な効果をあげました。

 

GSM導入と送金サービス

 

しかしながら世界的に流行した、アナログの単純で弱い認証機能を利用したクローニングによる収益悪化(利用していない国際通信料金を請求された等のクレームに対する返金、さらに信頼性の崩壊によるチャーン)と、競争会社のGSMの自社網内無料SMSの開始により加入者を失うダブルパンチの状況がSmartを襲い始めました。クローニング対策は種々ありましたが、アナログのままでは世界的に抜本的解決策が無く、GSMへの移行が選択肢となりました。

 

GSMの導入の為に検討を進めましたが、既に900MHz帯には空きは無く、1.8GHzにせざるを得ませんでした。しかしながら、種々実験を重ねた結果、1.8GHzでは建物の影や中に電波が届かず、カバレイジを得るには膨大な数の基地局を設置する必要が判明しました。

 

したがって、NOKIAが先行開発していた900MHz/1.8GHzのデュアルバンド端末にかける事としました。デュアルバンド端末の提供に合わせて、同社によるGSMネットワークの展開を実施し、一部端末の無料提供も行って現行加入者の900MHz帯アナログから一時的なGSM 1.8G帯への地域毎の引越し、この完了を待って900MHz帯アナログのGSMへの切替え、仕上がりはデュアルバンドGSMの提供という綱渡りを実施しました。 市内の立体地図を作り、緻密なカバレイジのシミュレーションを行う等NOKIAの全面的な協力で成し遂げられたのです。フィンランド人の緻密で謙虚な進め方に大いに感謝した次第です。

 

GSMで可能となったSIMカードのセキュリティを利用し、プリペイド通信料金(エアータイム)を送受する機能を設けました。この事で、従来印刷したカードを委託販売していた流通コストの削減が出来ただけでなく、自然発生的に換金性が生じ、実質的に網経由で金銭を送受する事が可能となりました。安価で手軽な国内・国際送金サービスが実現された事になります。

 

これは、例えば香港に出稼ぎに行っている人が、予めフィリピンで、或いは香港の売店、あるいは知人からもエアータイムを相対で購入出来る様になったということです。そのプロセスは携帯の画面で確認でき、今度は必要の都度、その家族等にエアータイム額を送る指示(画面)をすると、ネットワーク上でフィリピン側の夫々のSIMのアカウント、即ち電話番号にエアータイムが付されるのです。プリペイドカードを店舗で購入し、端末でプリペイドカードの番号を登録して、そのカードの料金額を登録するのと基本的に同じですが、ある意味流通革命でした。

 

この先は当面Smartの関与する事ではありませんが、受け取った額をフィリピンのコンビニの様な売店で若干の手数料でこれを売る、即ち自然発生的に現金化が出来る様になったのです。更にそのコンビニ店がSmartからの卸売りの他に、こうして購入したエアータイムを正価で販売するという非常に安価な流通機構になりました。

 

次のステップは銀行口座との連動です。先ず、Smartの番号を銀行口座に登録する事で、これからエアータイムをチャージし、更に転送する事ができるようになりました。

 

その次として、これには当初は銀行側の抵抗が強かったのですが、中銀総裁のBuenaventura氏のサポートを得て、最初はSmartが大手銀行のサービスの媒体として開始、その後、銀行間の競争から幾つかの銀行の態度が緩んでSmartのサービスとして契約が出来、Smartの端末があたかもATMの様に銀行口座を操作出来る様になりました。

 

このサービスはdocomoにも紹介させて頂きましたが、金融界との問題か当時は検討して頂けませんでした。しかしながら、First Pacificの子会社が網アプリのベンダーと協力してアジアの一部やアフリカへ紹介し、普及が図られました。いずれにしても開発途上国では高価な端末は個人が所有せずに共用して、殆ど無料で入手出来る個人のSIMカードを持つ使い方が流行りました。伝統的な競争他社がポストペイドやARPUにこだわる中、Smart社はプリペイドとSIMカードの容量拡大やアプリの導入で加入者を増やし、同一網での囲い込み戦略も成功して、同国最大の移動通信会社となって順調な経営状況となりました。

 

docomo3GFOMASIMカードを導入しましたが、顧客の移動(チャーン)を恐れたためか、故障の原因になるとかで封印したりしてその利用を図りませんでした。実際にはSIMカードは電源と無線部は端末を利用しますが機能的には独立したPCのようなもので、大きいものでは2GB程度のメモリ容量を持ち、プログラム機能と電話帳に加えて地図、ゲーム等種々のデータを格納できます。SIMカードに情報を格納しておけば、SIMカードを挿すだけで自分の端末として使えるのです。Smartはこの活用に励み、次々と新しい機能とサービスの提供に努めました。

 

当初自網内のみに限られ、相互接続が拒否されていたSMSSmartの加入者が増えるにつれ網間接続が実現、結果として当時データ通信利用をプロモートしていたGSM Congress(現在のMWC)で、『世界で始めてデータ収入が音声収入を上回ったキャリア』として表彰される等の栄誉を受けました。当時フィリピンはNOKIA王国と言われ、日本以外では世界的にNOKIA端末が普及し、今の日本のiPhoneのようにブランド化していました。

 

この頃、docomoから何度かi-Modeの展開を打診されました。しかしながら、i-Modei-Mode専用の端末を必要とし、フィリピン(海外)で対応できる機種が1機種だけというので、マーケティングが難しいと考えていました。

 

GSMの当初は回線交換でたったの9.6kbpsでしたが、その後パケットデータ通信GPRSに移行して最大171.2kbps、更に8PSKEDGEを導入して最大スループット473.6kbpsへと改善し、当初は日本のお家芸であったカメラ機能と共に、表示画面も大型化していきました。NOKIA2000年には既にSymbian OSによるシャープのZAURS同様(PDA)のプログラム機能にインターネットアクセスと音声通信機能を持ったスマート端末Nokia 9210 Communicatorを出していました。ただAndroidのようにプログラム機能を開放したものでなく、またNOKIA自体がその顧客であるキャリアに気を使い過ぎた為かも知れませんが、NOKIAがアプリ市場を形成しませんでした。結果的にそのアプリが事務処理に限られ、ゲームや面白ソフトのような分野に多様化する事が無く、これ等が可能なAppleiPhoneに淘汰されてしまったと考えられます。他にも色々な要素が有るのでしょうが、これ等のホンのちょっとした経営判断が大きく世界を変えたものと実感します。ただ、NOKIAは現在でも世界で冠たるネットワーク機器のベンダーとして5Gをリードしています。

 

3Gでは最大14.4MbpsLTE(4G)では最大140Mbpsと無線が固定回線によるADSLを凌駕するようになって、現在の4GスマホはすっかりPCと競争するようになって来ました。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(7)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

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PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

 

4:Smartの移動通信サービス

 

Smart Communicationsは当初フェルナンド氏とベア氏の二人がTV局を作るとして資金を募って立ち上げたベンチャで、急遽免許が手に入るとの事で通信に鞍替えしたものです。携帯通信事業を開始するにあたり、当初基地局等の通信設備が安く手に入る事を理由に、ヨーロッパ方式の旧式アナログE-TACSを中古品も含めて導入していました。したがって、その将来性は各方面から疑われていました。通信は設備産業ですから、直ぐに資金が不足し、結果、サリムグループ傘下の香港FPC、またここを経由してNTTに資金を求めたのです。

 

ただ、当初のGSMCDMACODEC等技術が未熟であったせいか音質が悪く、また基地局の展開も不十分であったため瞬断が多くて、あまり好評ではありませんでした。特に地方では数十kmという長距離をカバー出来たアナログ(大ゾーン=基地局を高い位置に立てる事でカバー範囲を広げる)が案外好評で、これに後程述べる理由から先行的に長距離料金の廃止をした事や、当時は常識外であったプリペイド(カード)を積極的に展開した事で、マーケットシェアを得て行きました。

 

移動・固定を問わず、いずれの通信会社も経済的に豊かなマニラとセブにサービス設備を集中し、顧客の争奪戦を演じていました。膨大な資金を要する固定網の設置義務をWLLの導入と義務の解釈から、その頚木から逃れる事が出来、投資を携帯通信事業に集中する事が出来、Smartの経営が着任2年目の中半頃にやっと軌道に乗った感じがして来ました。取締役会メンバーの父親の葬儀の為にルソン島の南100 km程の地方都市バタンガスに参りました。教会から出て埋葬の場に集合した際、やはり参列していた同市の市長から『Smartの携帯電話を買ったのに使えない』と嘆かれました。たまたまSmartの取締役会メンバーが揃っていた事から、急遽その場で取締役会を持ち、基地局を設置する事としました。即決断行、セブ島との中継マイクロ網が近くを通っていたことから、これを利用して基地局をたった1週間で開通しました。

 

これはSmartにとって重要な経営上の転機をもたらしました。それはその基地局に期待していなかった非常に高いトラフィックがあったことです。直ちに基地局を更に2つ増設する事にしました。其の経験から地方の中小都市に高い通信ニーズがあり、さらに高収入となる国際通信が多い事を知り、アナログ携帯が長距離をカバーできることを合わせ、Smartは競争者の居ない地方に積極的に展開する事としました。

 

地方都市への展開では多くの場合、大歓迎を受け、基地局の設置やマイクロの設置もスムースに出来ました。ただ、マイクロの中継設備の設置には苦労がありました。島と島をマイクロで繋ぐのですが、その設置には島で一番高い山(幾つかは火山)の稜線に設置する事になります。けっこう大きな島でも人の住む部分は港の回りに限られており、ルソン島のすぐ南西側、小野田少尉が隠れていたルパング島をはじめ、未開の部分が多く、驚く問題があります。その様な問題の一つは、若王子三井物産マニラ支店長誘拐事件を起こした共産系ゲリラ(NPA)でした。彼等は自分たちが正当な政府と名乗っており、『事業をするなら自分たちの政府に税金を払え』との論理で、これに合意しないと破壊されることとなりました。正規には軍や警察の力を借りて対応するのですが、いつも上手く行くとは限りませんでした。

 

ミンダナオの西部はインドネシアやマレーシアに海峡で接しており、海を通しての人の行き来には明確な国境が無い状況と言ってよいでしょう。ただ、通信は地理に関係なく明確な国境がありますから国際通信となります。したがって、この地域には国際通信のトラフィックが高い事が魅力で、一番端のスルー列島までもネットワークの拡大を図りました。この地区には米国での同時多発テロ『911』を起こしたとされるオサマ・ビンラディンの弟家族が潜入して活動しているとの情報も有り、さすがに自分自身で訪れる事はしませんでした。尚、この2001年の『911』事件は、NYで予定をしていたPLDTの社債のリファイナンス(借換え)の機会を流してしまい、一時期財務的に非常な困難をもたらしました。

 

最終章の『怖かった話』で紹介させていただきますが、このオサマ・ビンラディングループへの米国の殲滅作戦が、私も含めたPLDT等代表団にたいする米国FBIの追跡からの解放に結びつくとは、この時点では誰も考え付かなかった事は言うまでもありません。

 

遠隔地では衛星中継のVSATも利用して基地局を設置しましたが、コストやサービス品質の上からもマイクロウエーブを伸ばすにしくはありません。熱帯の海上をマイクロで繋ぐ為、ほぼ10 km毎に島伝いに中継所を設ける必要が有りました。水蒸気や反射の影響を避け、また距離を稼ぐため、島の山頂、あるいは稜線に設置ことになります。この様な島伝いの中継設備の構築には電力どころかアクセスも無い所が多く、その場合ヘリコプターで機材を運びました。運転に必要な発電に用いる燃料等は地元の人にボッカの様に肩に担いで運んでもらうほかは無く、数日に1回注油するよう委託しました。ただし、ヘリポートが無い、パイロットの判断で着陸するヘリコプターによる実査や工事にはかなりのスリルと危険が伴いました。ある島の山頂近くに無事着陸し、ローターを停止したら、上空からは気付かなかった長い草がローターに届く程に立ち上がり、その場で半日草刈に追われた事も有りました。フィリピンは台風の発生源であり、また通り道でもありますから中継所の維持は大変です。台風でマイクロのアンテナが曲げられたり、タワーが倒されたりした事も有りましたが、ヘリで駆けつけた際、現地のエンジニアがへし曲がった鉄塔によじ登って先端にロープを掛け、ウインチで引っ張って次の島との間を鏡で修正する等、現地のエンジニアは実にタフでした。

 

地方への展開で、特にコタバト州のイベントと合わせた開通式では州知事をはじめ、盛大な歓迎を受け、一緒にパレードした事や美人コンテストの審査員として参加した事は素晴らしい思い出となりました。パレードはバランガイ(部落)毎に特徴のある衣装で踊りを踊りながら競技場を練り歩くもので、夫々の文化や生立ちを示すようなものも有りました。また、美人コンテストは予選で十数人に絞り、その後は個人毎に演説、歌、ダンスの他に特技を紹介して総合得点で選ぶ本格的なものでした。競技場も美人コンテストの大ホールも、実際には未完成の様子で、観客席が無くて観客が箱を持ち寄って席を作っていたり、大ホールの屋根が半分しかなかったり、途中、発電機の燃料を補給する為停電したりと、Smartの最初の電話交換局を作った時の事を思い出させる微笑ましいものでした。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(6)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

WLL導入

 

携帯と国際通信の免許を得る為に義務として提供する 固定回線サービスですが、1995年頃の経済状態では顧客が料金負担に耐えられない、また当然発生する解約時に高価な加入者設備の撤去・転用も出来ない等、結果的に無駄な投資と成ってしまう問題が有りました。収入に見合った投資とするたには、加入者毎に$2000であった加入者系設備を十分の一くらいにする他はありません。ただし、開通式で用いたSmartが持つ5MHz900MHz帯は既には携帯通信で一杯です。そこで、料金滞納等での解約時等に撤去・転用が可能なPHS端末(WLL$200程度)を利用する事としました。同国では利用されていなかった1.9GHz帯をWLL用として規制当局(NTC)に申請し、無線を主体に構築する事としたのです。また、其の展開には、既に展開されていた移動通信網に融合させたものとして経済化を図りました。

 

同国で新たに免許を得た通信各社が一斉に建設を始め、これを見た既存の通信会社までが増設に転じ、まるで通信建設バブルの状況となってしまいました。Ericsson社がSmartとエリア的にも競合するDigitel社の契約も取った事から、同社のSmart側の担当は現場での工事稼動や局外設備の確保に苦しむ事となり、種々遅れが生じ始めました。『最善を尽くす。夜も稼動している』等の報告の中、報告と違ってSmart担当の社員達がのんびりビーチで遊んでいるのがSmart社員によって見つかったというスキャンダルがあり、計画の進捗を促すスエーデンの本社との交渉の末に、遅れの為に生じていた未設置機器の契約枠を、固定設備から同社のDECTも一部導入する条件でPHS/WLLに替える事に合意できました。WLLの方式検討の中、ある商社の紹介で“セルラの父”と言われるDr. Martin Cooperが設立したArrayCom社の製品の導入を図る事としました。彼はMotorola社でセルラの概念を発明した人で、新製品では4G/5Gで導入されるMIMO(空間多重、ビームフォーミング)技術を実用化して居り、これでPHSの問題で有ったカバー範囲の拡大と収容容量の拡大を目指したのです。当初CPU速度等心配もありましたが、加入者側のアンテナを電波の届き易い屋外に、また無線部分を軒下に設置し、これから固定電話機にアナログ結線、また電源は通常の携帯電話の充電器で済ませる等、非常に簡易に設置できました。また、電話機として公衆電話機も付け、これは村や部落の集会所等に設置して好評を得ました。WLLの基地局も移動基地局と共用して設置する事で、地方部への展開にも効果的でした。

 

WLLは製品寿命が短く、瞬断もあって、固定網には向かない等の意見もありましたが、初めて通信のメリットを受ける人々には好評でした。既設や計画中の移動網をベースとする事で基地局の展開を含めた安価な網コスト、絶対的な加入者設備の安価なコストと再利用の可能性、さらに移動通信電話を本業とするSmartにとっては、いずれ移動通信電話に移行するとの確信から社内外の賛同も得て実施を急ぎました。クレームといえば、電源の破損と瞬断でした。瞬断は大雨の時は止むを得ない場合がありましたが、椰子の葉が伸びた事が原因であった事が多く、これを切りに行かせたり、顧客が自分で切ってくれたとかの笑い話もありました。某日本メーカは電源の破損は同国での商用電源の安定性の問題から来ており、同社の責任ではないと渋りましたが、他社のものは問題が出なかった事から、かなりの抵抗は有ったのですが、より柔軟な充電器に替えてもらいました。

 

需要のある所には迅速な開通が出来、また支払いが滞った際には設備の撤去が出来た事から、Smartに対する固定網展開の督促や脅迫じみた新聞報道は影を潜めるようになりました。勿論、このWLLは低トラヒックの電話に特化したもので、インターネットには適合出来ませんが、同国での高速インターネットのニーズが出るには尚15年以上を要し、またデータ通信もGSMSMSが大流行、速度もGPRSが先行した事から問題とはなりませんでした。なお、昨今は移動通信の重要の伸びが止まり、今はショッピングモール等のWiFiが真っ盛り、次には固定網による高速インターネットの需要が収入増に期待されているようです。

 

 

法人営業の開始

 

携帯電話を中心にしたSmart事業が安定化できたと判断されたので、次に法人用の通信網事業を開始しようと、NTTに別途の出資を願いSmart Multimedia Corp.を立ち上げました。今まで日本との通信に高価な衛星通信に頼っていた遠隔地で工事をする発電プラント会社やセブ島の反対側の造船会社が最初の顧客となってくれ、またマイクロの鉄塔をその敷地に無料で設置させて頂き、それに基地局も併設して喜ばれました。

 

1996年の年明けに、線路土木担当から法人営業に転じた島根氏の案内で、マニラの南のゴルフ場の隣の工業団地に年始の御挨拶と、日本との専用回線開通のお祝いに訪問しました。所が、到着したホールで、背広を作業着に着替えるよう言われ、そのままマシンルームへ案内されました。何と、業務再開を明日に控えて回線開通できていないとの事でした。TDMを見ると同期が取れない旨のメッセージが出ていましたので、アナログ部を見るとATT不適で、早速これを調整するためのROMライタの急送をマニラに依頼して到着まで半日待ち、調整しました。所が、それでも同期不良が続くので顧客U社本社の構成を聞いて、STDMを導入してもらったベンダーがTDMを提供しているのを知り、NTTが国際回線を提供する以前でしたので、そちらにキー局をお願いしました。KDD/Sprint/PLDT/Smartと切り分けしましたが解決にならず、結局、何と、信じられない事にTDMメーカから提供されたコネクタ内の配線誤りと判明しました。どうやら業務に支障を生じないで済ませる事が出来ましたが、日系企業の進出が著しい事とこの様な通信インテグレーションに関するサービスニーズを実感し、法人事業の立上げに自信を持つ事が出来、PLDTの買収に積極的となる契機でした。

 

手掛けたものに失敗例も幾つかあります。マニラはアジアから日本、米州への航路にあたる地理的特性から太平洋のハブとしての発展が期待されます。しかしながら、実態はシンガポールから韓国へ行ってしまうとの話を商工会議所やロータリの方々から聞いて居ました。即ち、マニラに入港すると、その際の手続きに時間が掛かり過ぎる、不用と思われる関税が課される等ルールがハッキリしない問題があると言われていました。そこへこの分野で先進的なGE社からECを導入して簡易化、迅速化を行って国際競争力を増せばシンガポール並みの成長が期待されると想定し、GESmartの合弁会社を作りました。ところが、何事にも積極的なラモス大統領が任期を終え、エストラーダが大統領となり、運輸通信大臣(故人)が新たに指名されました。新大臣にマニラ港の恵まれた位置付けや問題点、展望等説明したのですが、全く興味が得られず、テーブルから拳銃を引っ張り出して磨き始めたのです。政府の許可・後押しが無ければ進められないプロジェクトですから断念の他はありませんでした。結果、Smart/GEからの出資は合弁会社の従業員の持ち株とする事で従業員の合意をとって撤退する事となりました。誠に勿体無い事をしたものです。

 

通信建設ブームに乗って建設を急いだ通信会社の幾つかは、建設の義務を果した途端に倒産してしまいました。Smartは敷設の義務を果たしながら、経済性を保つモデルとする事が出来、資金を移動通信に傾注する事が出来る様になりました。 


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(5)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

現 株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

3:固定通信網

 

需要は???

 

固定網敷設義務地域のルソン島北部と首都圏南部は豊かで高い通信需要が有るとされていました。しかしながら、赴任直後に現地スタッフに見込み顧客、即ちアンケートや申込書を出してくれた家庭を回ってインタビューをしてもらうと、『申込みまでは無料だから権利の為に申込むが、払う金は無い』といったケースが多い事が判明しました。当時(1996)の同国の一人あたりの所得は$1020で、政府データから通信と放送への総支出はその5%程度とされている事から5人家族としても月$20程度となり、これを固定・携帯・放送(CATV)へ配分しなければならない状況で、創設費だけで$2000を要す固定電話を全家庭に普及するという政治的スローガンは経済的に無理という事が判ります。

 

とは言え、現地の新聞は先行各社の工事進捗状況をまるでレースの様に報告、更に『敷設義務を果たせなければ免許が剥奪される』ので、結果的に固定通信は無料で提供されると言わんばかりの大騒ぎをしていました。

 

開通式

 

Smart社への投資契約締結の大統領表敬の中で、大統領から『半年後に大阪APECへ出席するので、その機会を利用して日本からSmart固定通信網へ初電話、開通式をやりたい』と言われたので了承した。準備するように」と児島社長からオーダがありました。機器の調達契約交渉を始めたばかりの状況で、このままではオーダに応えることは出来ません。

 

このことを聞いたNTT Internationalが、米軍が中東で使用したという可搬型交換機を見つけて、機材として輸送してくれました。ただ、機材として発送したものは税関手続きで滞って届かず、なんと社員の携行荷物および書類として送った2セットが到着し、マニラ側の会場は何とかなる算段はつきました。しかし、大統領が何処へ電話を掛けるかは大統領次第ですから、全国カバーが必要です。そこで現地エンジニア達と相談の上、既に運用している移動通信交換機に固定用番号も相乗りさせて、仮想的に全国固定網を作ることとしました。この案についてNTTの常務会に呼ばれて説明した後、某幹部から『これはペテンにならないか』と心配され、技術部隊を派遣して検証もして頂きました。

 

SmartプロジェクトはNTTの出資説明で国際通信には触れて居なかった事も有り、KDD-PLDTの夫々国際ゲートウエイにSmartに割当てられた固定番号の設定をしてもらいました。端末機にはSmartの移動通信端末仕様(900 MHz)を固定電話機にしてインターフェイスをとった古典的WLLを多数準備して、大統領が電話をかけると思われる政府機関、州市政府、実家、主たる後援団体等に設置しました。

 

所が、大統領からの最初の電話の予定時間に合わせる様に会場が突然に停電し、リチャウコ運輸通信省次官が真っ青になる場面がありました。さすがに両会場を結んだTVは停電で使えませんでしたが、直前に約1千人の死者を出した台風アンジェラの来襲に備えて再確認していたバックアップ電源が働いて、最初の記念通話が無事完了し、その後の各地への大統領の通話も完了する事が出来ました。確認は出来ませんでしたが、電力会社のMeralco社が、その子会社のBayanTel社がSmartと競合関係にあるので意図的に給電を止めたのではとの情報がありました。Meralco社は電柱への共架を認めなかったり、認めても工事完了後に切断されたとの報告が何度もあり、関係に苦労しましたが、その息子の代での家族内の争議に乗じて、その後、パンギリナン氏のグループが買収してしまいました。

 

敷設工事

 

小生は固定回線については、現場訓練の時代以来関わったことがありませんでした。当初は丸山氏等の設計に従い、マンホール等の地下設備も含め通常の工法で開始しました。しかしながら、フィリピンの上向き経済で土地価格が暴騰して局舎用地の入手が遅れ、契約通りのEricssonの機器搬入に、肝心の建物が間に合わない状況となりました。基礎工事と骨組みはどうやら完了していたので、止むを得ずですが、各階の床仕上げを先行、ビル全体をビニールシートで覆って、可搬型発電機を駐車施設に搬入し、電力と空調を稼動させて交換機や伝送装置の搬入を行いました。Ericssonは当然保証出来ないと反対しましたが、建設現場でコンピュータを使う場合にはよくやる様式です。XBではないので、機械部分はMTUに限られましたから空調がダストを排除するまで数日運転し、シートで2重に機器を覆えば可能と判断した結果です。

 

マニラは地図を御覧頂ければお判りの様に、マニラ湾と大きなラグーナ湖の間に挟まれた砂州の様な地形で、海抜も海水面すれすれと言って良いでしょう。マンホールも掘ってみれば直ぐに泥水が沸いて溢れ、またちょっと雨が降れば町中が洪水になります。また火山灰の影響かアスファルト舗装が何層もあって、工事会社が削岩機を使ったせいで、その下の下水管を壊して道路際の商店に損害を与える様な事も起きました。結果、当初は理想とした地下化は諦め、殆ど架空へと切り替える事となりました。

 

マニラ北部では、ラモス大統領による開通式の直前に襲った巨大台風アンジェラによって、20世紀最大といわれる1991年のピナツボ噴火の火山灰が流れ出し、数mから所によっては20 m程の深さで町を覆ってしまっていました。競争会社の既設電話局も灰に埋もれ、あるいは灰に押されて川に半分落ちて傾く等、惨憺たる有様でした。とは言え、だからこそ需要があるとして、地方中心都市、アンヘレスやダグーパンへの展開にあたり、これは地元の土木技師の提案でしたが、コンクリート柱を四方に打ち込み、灰の上にコンクリート製のフロート状の人工地盤を作り、その上にプレハブ局舎を乗せて、まるで船の様な交換局を作った事もありました。この火山灰のラハールと呼ばれる泥流はマニラ湾と東シナ海に至る川を埋め、少なくとも小生の在任中に何度も記憶に残るような洪水を引き起こしました。現地の人々はこのラハールを建材に用いるとか、壷に焼いて売るとかの種々の工夫をして生きる努力をしていました。

 

競争下での固定網敷設の基本的難しさは局舎用の敷地の買収と局外設備敷設の為の権利(Right of way)の確保にありました。これに加え工事の実施には市や町、部落(バランガイ)等各層の種々の許可も必要です。各社入り乱れての競争ですから、一箇所に電柱が何本も立ったり、これを嫌った市長がその撤去を命じたり、挙句には美観を損なう様な工事だ、として工事要員が警察に逮捕され拘置されてしまい、自らその引取りに行ったりした事もありました。Smart設備の中心となるマニラの南のパラニャーケビルの建設工事に際し、許可申請の手続きに遺漏があったとして、工事が差し止められました。工事を再開するために、俳優出身の同市長と賠償金や寄付といった差しの交渉をせざるを得ない危険な状況もありました。この件はラモス大統領の意向として政治的に解決が付きました。

 

この様な中で、規制当局(NTC)Kintanar長官が統計学に詳しかった事で理解が得られたのだと思いますが、フィリピンの国民所得、此れに対して固定回線設置に関わる費用と、これから生じる海外債務等に関する議論の末、『設備の容量(トラフィック見合い)として十分なものを設置し、支払いを受けてから2週間程度で開通するのは義務とするが、それ以上の義務は問わない』との言を得ました。即ち、架設については『Payable Demand』についてのみ対応する事で良いとの内諾を、この内容を公開しない事が約束でしたが、得る事が出来ました。その後、NTCからはSmartの固定網の進捗は常に良好というレポートを頂く様になりました。Kintanar氏はその後3期も下院議員をしたそうです。

 

なお、国内の安価な製品を調達できないかとの議論もありました。国内企業からも購入して欲しいという要求がありましたが、国内で生産しているケーブル等は全て保税特区で生産しており、これを購入しようとすると一度輸出してから輸入しなければならないという矛盾があり、かえって高くなったのです。従って、通信会社は調達先の国の輸出入銀行から借入れて設備を購入、設置する事になります。更に、公共サービスとしての免許を受けたSmart社は、その通信インフラ設備の型式認定権限と共に無関税で輸入する特権を持ちましたので、輸入に頼る他はありませんでした。

 

と言っても、金をかけて工事を進めたのですから、現実問題として加入者の確保が必要です。当初申込みに長い行列が出来ていたので、やっぱりニーズは高いのかと思われ、『待ちの営業』を考えていたのですが、金を払う段階になるとこれが急に萎みました。やむなく、急遽敷設が完了した地域での戸別訪問を含めた営業を始めました。日本大使館や日本商工会議所で見知った会社等は真っ先に応じてくれましたが、インカンベントのPLDTからの着信呼が通じ難いとのクレームが発生し、お詫びに務める毎日となってしまいました。既存の通信会社との相互接続が問題で、相互接続担当をせっついた所、『PLDTはトラフィック見合いでチャネルを用意して居り、現状のチャネル数は十分である。チャネル増設には予算の関係もあり、いずれトラフィックが増えたら容量を増やす』と対応を拒否したとの事で、またまた規制当局のNTCに駆け込んで指導をお願いする状況でした。NTCによる緊急指導で助けてもらった事も大きかったのですが、相互接続については携帯電話とも共通する問題であり、携帯電話の顧客数、トラフィックの増加で複数ポイントで相互接続する等徐々に解決していきました。ただ、先進国と後進国の関係と同じで、相互接続ではPLDT発・Smart着の呼が多かったせいで、レシーバブルが拡大し、徐々に経営問題となって行きました。

 

固定通信網は事業として思ったような成果が得難い状況でしたが、公衆電話については既存通信会社が設置していなかったせいも有り、かなりの成功を収めました。収益が高かったせいで、固定網ばかりでなく、開通式で使用したと同じ900MHz帯によるWLLで全国的に展開して行きました。特にWLLで島嶼間のフェリー等の船舶に設置した公衆電話は好評で、プリペイドカードの導入も果しました。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(4)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

 

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

株式会社ハイホーCEO

鈴木 武人

フィリピンSmart社へ

 

今回、ICT海外ボランティア会(ICTOV)から頂いた命題が『Smart/PLDTプロジェクトの経営・運営の経験を、他の海外プロジェクトの成功に役立てる』という事と理解いたしました。

 

一般的に、企業買収や資金のやりくり、規制当局との交渉等は基本的に公開すべきで無いものと存じております。しかしながら既に10年以上を経て全て時効と思われますから、今更とも思いますが御紹介させて頂く事にしました。

 

要約すれば、経営とは、真藤さんのお言葉に電々公社の電話サービスについて、『100年も同じサービスが続く筈が無い』とあったと覚えていますが、世界の動き、即ち技術や経済、政治にも柔軟に『世の中のシーズと世の中のニーズに合わせて経営する』であったと言う事と思っています。

 

Smartの当初は別にして、一般的に通信会社は大きな組織で、夫々の分野毎の専門家が居ますから、彼等の見識を頂いて、その中から柔軟に方向を見据え、可能な事業施策を見出す事が肝要と思っておりました。これは当初の、方向の定まらなかったデータ通信事業で得た経験かもしれません。反対に、NTTの中で、当初はソフトウエアの設計を担当する技術屋であったのですが、途中からは組織担当であったり、人事、労務や営業、そして財務、最終的には法務にも関係したりしたと言う事でもあり、多面的に物事を見る事が出来るように育てて頂いたのが財産となったと思っています。海外での企業経営経験もその蓄積の一環と思っています。

 

1:日本の背景

 

真藤総裁は1988年末までの在任中、小生の在米中にも何度も「電電は早く海外に進出しなくてはならない」と言われ、そのためにはまず金が豊かな今の内に海外資産を充実すべきと言われていました。NTT Americaとしては、NJでのコンピュータセンタ(IDC)の開発等の不動産投資、ボストンでのベンチャキャピタル投資、鉄道を利用した回線アグリゲータ等も試みました。しかしながら、NTTの規模からすれば微々たるものです。要するに、海外協力やNTTインターナショナルでの経験は積みつつあったものの、NTT本体での事業はNTT法によって国内に限られていましたので自ずと限度が有りました。

 

1990年代初め、自民党の故橋本龍太郎氏が幹事長当時、外遊中に世界で進む通信の自由化と通信会社の買収劇を見て、『NTTの一支店規模のKDDでは国際競争上無理がある。NTTも国際通信市場へ進出すべき』と声が掛かったそうです。

 

国内に縛っているNTT法の改正には国会の議決が必要で、これに道筋をつけてくれる橋本氏からのお声掛かりは渡りに船だったと言えます。しかしながら、国会での論議には実績が必要とされ、タイのTT&T (BOT=タイ通信公社の基で通信設備建設を請負って、一定期間その運営をする事で費用を購い、その後は公社の資産とする) に続き、インドネシアでサリムグループと組んで同様のBOTを勝俣氏等が企画・担当していました。

 

ところが、スハルト時代に政府機関とのビジネスで最大の財閥となったサリムグループの更なる巨大化を恐れたインドネシア政府が難色を示して断念。当主たるアンソニー・サリムからその代替のプロジェクトとして、別途、香港で田嶋氏らが検討していたフィリピンで移動通信等の事業免許を得たばかりのSmart社を勧められ、これに出資、経営参加することとなりました。このSmart社はインドネシアのサリムグループの香港子会社としてのFirst Pacific、更にそのフィリピン現地法人のMetro Pacificの子会社の位置付けになります。従って、BOTの様な政府のバックアップや、プロジェクト終了に至るストリーが無い、NTTとして初めての民間企業ベンチャへの投資・経営参加といえます。

 

企通本が法営本へ改組して暫くしたタイミングで、故浅田氏や鈴木(正誠)氏等先輩からフィリピンへ行ってくれないかとお話しがありました。

 

米国時代に特に親しく御指導頂いた山口会長にも相談しましたが、『本来NTTが出資するようなプロジェクトではないと思うが、NTT法の国際事業の縛りを外すための実績作りが必要だ。最短半年でその縛りが取れるので、それまでは会社をもたせて欲しい。』と背景を詳しく御説明頂き、説得されました。実際に国際事業禁止の縛りが取れるのに2年を要したのですが、事業を開始すると終わりが無く、フィリピンに1995年から9年間も関わる事となりました。同プロジェクトはSmart/PLDTプロジェクトに発展し、ドコモとコムから継続的に役員を派遣、フィリピンでは独占化を危ぶまれる状況にも発展しています。経営パートナーは、既にフィリピン内外で通信、電力、高速道路、病院、鉱山等インフラ事業を中心に事業を拡大しています。

 

2:現地の情勢

 

1994年、フィリピンではラモス大統領の治世で政情が安定し、長いトンネルからようよう脱出して経済成長が期待される状況となっていました。成長の基となる海外投資を招く上で通信基盤の不備が障害になっているとされ、ラモス大統領は海外の通信会社からの資本・技術導入を条件に、利益の得易いサービスとして国際通信と移動通信の事業免許を新規に発行する事とし、その際普及の進まなかった固定通信の敷設義務を負わせるという仕組みをオーソライズしていました。

 

Smart社もこの仕組みに則り、完全商用ベースでありながら免許条件としての70万回線の固定網構築(1.5千億円規模)の義務を負っており、我々はその義務を果す役割で、勝俣氏をはじめとして同国での経験のあるものを中心に13人で87億円の資本と共に19954月に赴任する事となりました。

 

当時、米国ではクリントン政権下で、貿易赤字を是正するためとして強力なドル安政策をとっており、1ドル70円という日本にとっては未曾有の円高でした。

 

Smart社は、中近東でのコンサルで金を貯めたエンジニアのフェルナンド氏と、銀行員からスピンオフしたベア氏が立ち上げ、友人から資金を集めた民間資本のベンチャであり、また時代遅れのアナログ網を展開しようとしていた背景から無謀なプロジェクトと見做されていた様でした。赴任前に日本の通信機メーカの幾つかに御挨拶に上がった後で、某社へ行った先輩の訪問を受け、『フィリピンでは既に現地キャリアであるDigitel社と独占契約で事業を行っていて、Smartの仕事は出来ない。Smartの経営でNTTに助けを求められると当社として救援せざるを得ないが、独占契約との矛盾を生じて多大の損害を生じるので、決して助けを求めないでくれ』と、先に引導を渡された感じでした。他の各社も同様で、支援の約束は得られませんでした。なお、赴任にあたって当時顧問をされていた真藤氏に御挨拶に行った際、米国での思い出話の後、また事業をやるなら最低3年は行って来いとのお言葉を頂きました。

 

入札は円高の中、実質的に日本メーカの参加は得られず、欧米の数社の中からEricsson社とAlcatel社に絞ることとなり、追加購入の際の単価に落とし穴が見つかった事から前者にターンキー契約を落札しました。日本では丁度、榊原氏が財務官となって、その超円高を修正してやっと落ち着きを見せる様になりましたが、その2年後の1997年にはアジア経済危機を迎え、アジアは荒波の時代でした。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(3)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

鈴木 武人

米国における国際調達等の活動

 

正直なところ国際調達関係のルールは、国際調達室等皆様の努力にもかかわらず、当時は未だNTT全体として十分な理解を得ていたわけではなく、手続きが煩さになっただけのようなマイナス面ばかりが目立った様です。ある学園がPCを購入する際、国際調達の掲載をした内容に某日本メーカの商品番号が載ってUSTRからお叱りを受けた事もありました。幾つかの事案では本社の部門長位の方から、『君が仕事をすると其の何倍も苦労する、迷惑だ!通信分野でなく、有名なカルフォルニアワインでも調達したらどうか?』等との電話を頂く始末でした。次長の赤羽根さんが本当にワイン会社と交渉して、サンプルを送るところまでやってくれましたが、各保養所や共済会は既に仕入先が決まっており、これを替える事は会社取引上難しいと時の職員局の責任者から言われてしまい、断念した事もあります。国際調達室の方々の大変なご苦労が偲ばれました。

 

西海岸事務所として、国際調達や情報収集の他に、独自のビジネスも発掘しようと、当時日本で大流行していたテレフォンカードの国際展開を検討しました。当時米国ではプリペイドではなく、カードに印刷されたアカウント番号と暗証番号を電話機から入力して認証してPost Pay(後課金)する方式が、公衆電話でも通常の電話機でも使える事から便利で一般化していました。しかしながら、これ等の認証が背後から覗いて盗まれるとか、電話のキーパッドに仕組みをして盗んで、これを販売する等の不正利用が売上の30%を超える状況であり、また各種の施設でも偽入場券が多発する状況が有りました。そこでNTTのテレフォンカード方式の導入についてマーケティングを行った所、ベル系電話会社は30%位の損失でも十分に利益が上がっており、これを替える事は考えないとの返事でした。しかしながら、日本人観光客の多いGTE系のHawaii TelephoneGuam TelephoneSaipan Telephone等が利益のあがる国際通話の売上が期待できるとして導入を約してくれました。また、『偽入場券でも顧客に悪意が無い限り入場は認めざるを得ない』とアナウンスしたDisney本社も、パリでのオープンを睨んで大いなる関心を持ってくれました。しかしながら、日本で電話機を不正改造する事でセキュリティを破られた事から、急遽、海外プロジェクト中止の指示があり、仕方なく展開を止めました。導入を約してくれた電話会社にはNTT方式で無く、田村電機方式を紹介、導入してもらいましたが、知名度等の面で差があり、ブームとは行かなかった様です。

 

NTT America

 

西海岸側ではその他にサンフランシスコ・テレポートでのデータセンタの開発やバークレイ大学をバックにしたTeknekron Corporationとのネットワーク設計シミュレーションソフトウエア開発等種々の試みを行いました。

テレポートについてはその後サンフランシスコ大地震もあり中止とし、ニュージャージー側のデータセンタ開発に専心しました。ただこのテレポートの位置したオークランドは場所によっては高速道路が落下したような事もありましたが、テレポート自体の地盤は意外と損害が出なかった様です。実際にはサンフランシスコの眺望、フェリーによる通勤の便利さから不動産業として活況を帯び、高級住宅地とハイテク企業の本社が置かれるようになっています。シリコンバレーの発達と共に、この地区のデータセンタの需要は高く、その後もっと地価の安い山側に多く構築されています。

Teknekron Corporation社のソフト開発については、契約は納品後6ヶ月以内に見出された問題は全て同社が無料で修正する内容でしたが、利用側にその専担家が居らず、試験的にせよ使い始めるのに月日を要し、期限後になって使い始めると使い難いとか、納得のいく答が出ないとかのクレームが出ました。Teknekron Corporationはその後バークレイ大学やカルテック大学をバックに、ソフト産業分野のインキュベータとして著名となり、91年には年間売り上げ224百万ドルに達しました。またTeknekron Communication SystemsAT&TSiemensも顧客として事業を拡大、同社の担当者だったShrikant Garde氏は社名変更したTCSISr.VPを経て、現在はOracle技術担当副社長として活躍しています。

 

ワシントンでドイツテレコムと一緒に、夫々の調達手続きをプレゼンする機会がありました。その際、商務省の方から、「ドイツテレコムに較べればNTTは実際良くやってくれている。Northern TelecomAT&Tからの調達も大切だが、中小企業には手続きが難し過ぎるかもしれない。議会の議員にとって最も大切な事は地元の選挙民の支持であり、中小企業を育てる様な方策が取れれば政治的にNTTにとって有効であろう」とのコメントを頂きました。これは、今で言うベンチャーの育成と理解されました。AT&Tやベル研をお手本として来たNTTですが、AT&Tの分割によってベル研の研究開発部門は通信機器製造販売を主体としたAT&Tに移管され、製造部門を持たないNTTが、米国との公正競争の立場で、如何に研究所を摩擦無く維持するかを論理固めする必要が有りました。ベンチャーの育成、即ちNTT研究所によるサポート付きベンチャーキャピタルというアイデアだったのです。当時の技企本部長の松尾氏との間で、技企本の立ち位置をNTT研究所と米国を中心とした技術動向の間に置き、米国で既に開発が進んでいればこれに資金を投入して研究所が支援する事とし、またNTT研究所が独自に進めていると確認できれば自主研究とし、実用化の際にはパートナーを広く求め、場合によってはこのベンチャーキャピタルのデータベースからしかるべき企業を紹介する等、いわば舵取り役とする案を議論しました。結果、既にテレコム関連で幅広く活動していると思われる先進的な米国のベンチャーキャピタルに参加、優秀な人材を送ることとしました。当面の資金として種々の経緯はありますが10億円を出資し、松尾氏からの指名で赴任してもらった海野氏からの情報では投資パッケージ終了時には50億円程のリターンとなったそうです。種々の経緯とは、常務会で御決議頂いたとの連絡を得て、契約を交わし、当面の処置として同時に10億円をNYの東京銀行から借入して振り込んだのですが、東京からの送金が無かったのです。当時の高い利子の短期借り入れですから、このままでは会社経営に齟齬の可能性が出ます。止むを得ず、山口社長に常務会決議の再確認をお願いして、経理部からの振込みを得る事が出来ました。当時の経理部長は大蔵省からお出で頂いた方で、NTTがベンチャーに出資することは考えられなかった様です。

 

データセンタ等

 

NYではAT&T分割で多くの長距離会社が誕生して、キャリア相互の接続点がマンハッタンのビルとなり、インテリジェントビルやテレポートが流行っていました。これらは不動産価値の高い地域のビジネスです。これに対し、三上さんは当時治安上の問題があって、地価が安価なNew Jerseyで、あまり人が立ち入る必要が無いデータセンタの開設を検討していました。データセンタは頑丈なビルに十分なバックアップを持った電源、空調、通信回線を設備して金融システム等を収容する不動産ビジネスです。が、顧客が無ければ単なる空きビルです。NTTデータに売却等して顧客の確保と運用をお願いする事を考えていましたが、NTTデータは『顧客がいなければ参加できない。DKB等一流銀行を顧客に持って来られれば、考える』との返事をもらったのです。

たまたまカルフォルニア時代に知己を得ていたDKBの某国際事業本部長にアンカーテナントとしてお願いする事が出来、NTTデータの初めての米国進出となりました。このプロジェクトはその後の同時多発テロから非常に活況を帯び、増設を重ねたと聞いておりましたが、その後2006年にQuality Technology Servicesに売却したと聞いております。この頃は、インターネット事業は未だ立ち上がっておらず、Prodigy (IBM)等が提供されていた時代でした。

其の外にNTT Americaとしては鉄道路線を利用した通信回線のアグリゲーター事業を試み、またOA支援サービスや海外事業投資の支援等もしていました。NTT本社とNTT Americaとの間で国際企業ネットワークを構築して将来に備えようと提案させて頂いた際、快く了解を頂いた時には感激でした。

 

ワシントン

 

国際調達手続きをしていながら、その仕様の中に日本メーカの製品名が記述されていたり、明らかに某日本製品と判る内容の公告がされ、その都度USTRDOCに謝りに伺う事がありました。逆に、調達手続きにそぐわない物品の個別の案件(通信機器でなく、インテリア用品の類)で議員達に議会へ呼びつけられて、強く購入を迫られた事がありました。その製品が国際調達手続きには入っておらず、またNTTが直接購入する事は出来ない事を延々と説明し、その場を凌いだ事がありました。ただ、この会社はその後に日本でもNTTを訪問し、議員が既に購入の約束を取り付けた様な事を言って迫ったようです。実は議会に呼ばれた際、調達担当の小野喜世彦担当部長が日本大使館に連絡し、公使に同席をして頂いていましたので、しっかり議事録を執って頂いており、結果的に日本大使館の助力を得た形で救われました。この経緯にあたっては、松本国際調達室長、また藤田考査室長の暖かい御支援がありました。

 

WindowsUNIX等米国製のOSが大勢を占める中、坂村氏がTRONを提唱し、NTTも通信用としてCTRONの開発を始めました。しかしながら、米国側から見ると日本政府のサポートを得て、結果的に米国製品を日本市場から締め出すのではとの懸念がUSTRを通じて出されました。対応が必要との事で、NTT研究所を中心にCTRONがオープンであり、その詳細をNYで説明する事となりました。現地側としては説明会場の設定や関係方面への招待、米国政府への対応を行いましたが、説明団との事前の打合せも済ませほっとした所で、突然湾岸戦争の開始がアナウンスされました。日本外務省からも、米国が戦争当事国と見做され、渡航危険情報が出た事により、小生から説明会の中止をDOCへ伺ったところ、次官から、「大統領に伺ったが『米国内では平常どおりにして欲しい』との指示が出た」と連絡を受けました。所が、説明団がその上司に問い合わせて帰れとの指示を受けたとの事で、「資料は全て置いて行くので後は宜しく」と全員帰国してしまいました。結局、説明員無しの説明会をやる事となり、同じデータ出身のボストンの海野氏と資料の読み合わせを行い、一応のプレゼンを行って形を付けたつもりでしたが、XXマクロのパラメータはどうなっているか等、詳細の質問には答えられる筈も無く、状況の説明を白状せざるを得ませんでした。

 

日米関係の中で、山口社長は本当に気遣いの人でした。頻繁に御連絡させて頂き、その都度お世話になったのですが、社長からの引退にあたって、なんと米国政府から感謝状が贈られる事となりました。ワシントンでのその受領式も終わり、NYへ戻った直後、商務省次官*から拙宅に電話が有り『感謝状は差し上げたが、ブッシュ政権としては、日米貿易問題は未だ解決しては居ないとの立場であるので、この件は内密にして欲しい』と告げられました。この内容も日本へお帰り頂いた山口社長に直ちに電話し、『返せと言う事ではないな?内密ならいいのだな!』と確認されましたので、『その様です』と応えました。その後、日本で、国際調達で苦労された方々と内密の慰労会が模様されたと聞いております。

* 次官はMr. Timothy Hauser、長官はMr. Robert Mosbacher

 

企通本

 

その後、岩崎代表常務から大星本部長の企通本への異動を告げられ、慌しく帰国、経理部長から移動された大橋本部長から流通・サービス営業部長を拝命しました。着任直後、当時の電話料金見直し議論の中、費用に見合わないサービスとして50 bps専用線の利用料金の見直しが郵政省から求められていました。赤字のサービスを特定の企業の為に続けていながら電話料金の値上げは認められないとの論理です。50 bpsの専用線は警備会社が各社数十万件を監視用に用いておりました。警備上、回線が切られた場合、アラームが通知されることが必須であり、電話回線ではこの機能はありません。更なる問題はこのサービスでは回線上のトラフィックが殆ど無く、即ち監視装置が異常を感知しなければデータは送られないので収入が限られているという特性があります。ISDNでは回線断のアラーム機能はありますが、料金が大幅に上がる事から利用会社から拒否されて、NTTは板ばさみ状態にありました。この状況に対し、米国で普及しつつあった電話回線を用いるADSLの概念を用い、高周波を用いたレピータを導入する事で監視機能を付加してしのぐ事を提案させて頂きました。一部NTTの中から電気通信法で回線上に高周波を載せる事は禁止されているので採用できないとの意見が出ましたが、ISDNは高周波ではないのかと問うと沈黙、了解を得られました。ただ、簡単な装置でしたが、なかなか完璧なものが出来ず、普及に時間がかかりました。ISDNの普及を急ぐNTTでは殆どADSLは導入せず、ISDNもインターネットの普及には対応できず、その後は光回線へ直接移行していった事は御承知の通りです。その他、商社、新聞社、流通業の社内外の通信・情報システム構築や専用線の販売のプロモートが業務でしたが、NTTデータとの事業の線引きが難しい所が有りました。某商社と組んでドームの設計に取り組んだり、高価な専用無線設備をドコモの携帯網に取り込んだり、多くの面白いプロジェクトがありました。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(2)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

鈴木 武人

米国への赴任に至る出来事 ②:VAN法とSTDM

 

CI-Ⅱを実施せずにAT&Tの分割に至った米国の動きとは異なり、日本ではCI-Ⅱに沿って許可制の1次、届出だけで事業が出来る2次回線業者を規定したVAN法が採用され、その概念は現在もMVNOに適用されています。

 

郵政省におけるVAN法制定に関する論議や、通産省での公正競争に関する勉強会に参加している時期に、これとは別に、行政管理庁の査察から『公衆データ(Dress)のセンター回線が収支報告での計上値以上に存在する様だが説明が欲しい』との通知がもたらされたと、隠密裏に緊急招集が掛かりました。辻岡副本部長を中心に内部検討の末、回答は『データ通信事業は電電公社事業と一体であり、回線は電電公社の長期計画に基づいて設置されて居り、必ずしも当面の必要に基づいている訳では無い。即ち、報告はDressサービスに必要な分として計上したものである。』となりました。しかしながら、計上していた回線量で十分Dressサービスが提供できる事を早急に実証する必要が有るとの事で、検討を開始しました。その結果、パケット交換を導入する事とし、電話回線上のデータを多ルート化して伝送出来る米国のSTDM製品が此れに機能する事が判り、急遽導入を図る事としました。ところが、これを日本で販売していた会社が電電公社を事業上の競合相手と考え、当初、ノウハウや顧客情報を盗まれるのではと警戒して打合せを始めるのに手間取ったり、また公社側も、通信設備は自主開発が原則で、回線を節減して通信料金を節減するような技術開発は一種タブーで手掛けて居らず、調達する方策がありませんでした。

 

STDMは現在から見ればインターネットの先駆けと見る事が出来る、パケットベースのクローズドネットワークで、ゲートウエイでのプロトコル変換等にソフトウェアで対応するものです。この技術に着目してくれた技術局の沖見伝送部門長から急遽仕様書を起こしてもらう事で目処がつきましたが、公社としては先例が無い事から、根回しを急ぐとの事で、総裁、副総裁まで事前説明に伺いました。その際、総裁から『米国のソフトベースの機器の購入は良い事だ』とそのまま驚きの最初の決裁印を頂いてしまいました。当然、電電公社の意思決定プロセスを壊してしまうとの事で文書課に散々油を絞られたが、その後、副総裁に伺い、今度は『INSISDNで実現するのに、何故このような機器が必要か?』と問われ、『1 MIPS(1秒間に百万命令)を誇るDIPS-1でさえI規格(48 kbps)の専用線1本の速度満杯の電文であれば処理能力が一杯になる。現在の計算機の処理能力はそのようなもの』と答えさせて頂いたのです。が、瞬間、副総裁は絶句され、そのまま承認いただきました。データの世界はメッセージ、即ち数値化された情報を扱うので極度に圧縮された情報を取り扱っていると補足説明させて頂きましたが、その後、北原副総裁はデジタルFAXや画像通信を進められたと聞きました。丁度年末でしたので除夜の鐘にならって稟議先を合計108個とした決裁印を全て頂き、超特急で試験導入を図りました。

 

北原副総裁といえば、御自身にも厳しく、小生の米国赴任後にカルフォルニアに御出張頂いた際、ホテルの部屋に小さなジャクジ(泡風呂)が付いていたのを見て、『こんなものがあると人生を誤る。自分は決して使わない』と使用法の案内を拒否されてしまいました。家人にも厳しかったらしく、御長男は早くから家を出て、結婚後も疎遠になっていたそうです。カルフォルニアの友人から彼が米国富士通でカルフォルニアに勤務して、お子さんが誕生したと聞いていました。そこで北原氏に内緒で簡素な夕食会を設定し、驚きの初孫との初対面を果たして頂きました。好々爺でした。

 

STDMの試験導入では問題が出なかったのですが、商用での全国展開は思ったように簡単ではありませんでした。即ち、既に全国に導入されていた某メーカ製の数万台の端末が、キャレッジリターン(改行)時に動作不良となりました。リターンの完了を確認してから次の印字を始める仕様となっていたのに、某メーカのコスト節減のためか、勝手にタイマーでタイミングをとって次の行の印字を開始するという異なった処理をしていたのです。ネットワークに負荷が掛かったようなタイミングでリターンの完了前、即ち途中で印字するという動作不良になりました。この状況では、仕様に合わせて改造するにしても端末の数が多過ぎて不可能なので、STDM側のベンダーに依頼してそのソフト改造で対処するという曲芸もありました。データ本部ではそれまでは回線サービスには手を付けなかったのですが、此れを契機にデータ通信網、即ちVANの構築もするようになりました。

 

米国への赴任に至る出来事 ③:日米通信機器を巡る貿易摩擦とAT&Tの分割

 

上記の様に米国でAT&TBOCの分割の動きが急でしたが、結果、通信機器を巡る米国市場が一挙に開かれた形になりました。巨大なAT&Tグループ、即ち米国市場の大きな部分に供給を独占していたAT&Tテクノロジーは、分割によって自由を得て、その製品の輸出によって米国の貿易赤字の解消に貢献できると考えていた様ですが、逆に一部にはAT&Tの通信機製造部門、さらには通信機産業の弱体化も心配されていました。

 

いずれにしても、自動車・半導体問題等での日本との貿易不均衡の是正を求められていた中、通信機器に日本の市場開放を求め、結果的に通信機器を巡る日米貿易摩擦が発生したと言うのが小生の見解です。

 

自動車ではトヨタがGMとのJVでシリコンバレーの内陸側にNUMIという合弁会社を設立してカローラの大量生産を開始し、また半導体ではNECがチェリーヒルにメモリー工場を設置するなどの対応を図り始めました。

 

NTTでも国際調達室の設置等対応が進む中、総裁直轄機関として米国西海岸事務所長を命じられ、赤羽根氏を次長に事務所開設から始める事となりました。赴任にあたり総裁から、『NTT流の2年での転勤は早過ぎる、最低3年は覚悟しろ。また、日本の米国に対する基幹産業は自動車だ。通信機器は直接顧客にその差を味わってもらえないので、攻撃されやすい。自動車は顧客が好みで購入するので、良いものを作っていれば、政治的に輸入を止めたくても止められない。即ち、自動車産業がこれからの日本の産業の肝だ。これを踏まえて対応を考えろ。』との言葉を頂いていました。

 

米国への赴任と西海岸事務所の開設

 

戸田所長率いるNY事務所によるアレンジとサポートを頂き、更にO社をリタイヤされた山本氏にお世話を頂いてシリコンバレーの真ん中に開設しました。山本氏は日本への半導体の輸出で財を成した方と聞いています。当時のシリコンバレーは日本のメモリーが席巻していた状況で、巨人インテルが倒産の危機に瀕する状況で、多くの日本人が居住し、また通信機器についてもマイクロウエーブを筆頭に米国への輸出が始まって、自動車を中心に日本バッシングも始まった時期でした。

 

事務所で何をやれと具体的な指示があった訳では無いのですが、NTT民営化後のイメージを新生BOCから得るための調査、あるいはスタンフォード大学からXeroxパークを初めとした種々の先進的企業を紹介されてそのレポートを関連部門に送る事から始めました。 インターネットの前身のARPANETの中継を事務所で行って、NTT研究所と日本の大学間ネットとの接続も行ったのですが、今のインターネットとは程遠く、T1 (1.5 M)回線でメールの交換程度で有ったと記憶しております。

 

真藤総裁には何度も訪問を頂き、種々の教えを受けましたが、詳細は石井氏の『真藤さんの人となり』に集約されています。写真(省略)は半導体の父といわれたノーベル賞受賞のDr. Shockleyと真藤氏です。

 

ただ、意外な面としてLos Angeles近郊のホテルで、品質の向上著しいカルフォルニアワインのChardonnayが大変お気に入りで、夜中まで色んなお話をしながらお楽しみ頂いて吃驚した事がありました。また、帰国途上のSan Francisco空港で、奥様が海外旅行のための新調のスーツを着られたのに、肝心の真藤氏が気付いて居ないようと、小生に不満を漏らされた際、これをお告げすると、しぶしぶ『良く似合っている!』と小声で言われたときの表情はなんとも言えず、お人柄が偲ばれました。残念ながら、其の後リクルート事件に巻き込まれる事になってしまいました。

 

Northern Telecomの件

 

AT&Tテクノロジーの交換機が、AT&T分割という環境に対応するのが遅れたという事で、各BOCが急遽Northern Telecom(以後NT)製の交換機の導入を図ったせいでNT社が急成長していました。そのNT社が一層の拡大を目指したコンフェレンスに、研本の戸田巌氏と共に総裁の代理で出席させて頂きました。その際、同社のプレゼンビデオで旅客機の例を引き、『当社は基本を用意するものの、航空会社の夫々のノウハウを生かして、例えば座席やエンジンもカスタマイズ』、『通信会社の利益を最大にする』というプレゼンテーションに文化的な衝撃を受け、技術局交換部門へレポートしました。交換機は研究所で詳細な仕様を作成してメーカへ発注する、NTTが作るものと理解していたのと大違いだったのです。種々の御苦労があったと聞いておりますが、NT社も米国企業化して、製品紹介が国際調達に結び付けられたのは幸いでした。

 

日立-IBM事件の関係でメインフレームのソフト要員が逼迫し、H社が中小用交換機の開発を断念した事がNT社にチャンスを作ったとの話も有りました。NT社としてはNTTを背景に一挙にアジア市場に打って出るとの意気込みで、Dr. Fitz Geraldo CEOの直接指示で、右腕のDr. Hamiltonを東京に派遣する等の力の入れようでした。残念な事に、アジアでのヨーロッパ勢との激しい競争、さらに技術革新、即ち携帯通信網用製品の提供やインターネット対応製品の開発に遅れを取った事で衰退し、Nortelと改称した末、事業清算手続き中と聞きました。技術進歩の速さと企業経営の難しさを思い知らされます。


今も継続・拡大するフィリピンのSmartPLDTプロジェクト(1)

―『NTTを巡るグローバル環境の変化』日米貿易摩擦、AT&T分割・再編、

そしてNTTのグローバル化へ―

PLDTチーフオペレーティングアドバイザ

NTTアメリカ社長

鈴木 武人

 

(事務局注:本稿は、2017721()に開催された第31回海外情報談話会講演原稿に基づき、講師のご了解の下、講演で話されなかったことを含めて数回に分けて紹介するものです。)

 

前書き

 

数万円のスマホやスマートウオッチが数十億円を要したメインフレームの処理能力を遥かに超え、人工知能やロボットが商用化され、そしてインターネットを介して地域や国境を越えてIoTが結ばれる時代となっています。今やこれがNTTの主要な事業となって、電話交換回線の廃止も予定されています。特に、NTTデータの社員数が国内1万人に対し7.5万人が海外と聞き、かつてのNTTグループからは想像の出来ない状況となっています。

 

人口減少に直面する日本のグローバル化は必須です。NTTグローバル化の歴史の一端として、日本と密接な関係にある米国の通信再編とNTTの関係、またプロジェクト開始後今年で22年、現在もシナジーを生んでいるSmart/ PLDTプロジェクトの経緯と現状を紹介させて頂きます。

 

先ずは自己紹介

 

元来、専門はデータで、担当の頃はDIPS105OSDEMOS-Eの設計全般を担当、横須賀研究所の研究主任としてOSの製造も担当しました。ただ、その後はデータ本部総括部で、収支問題で窮地に立った輿本部長の下で組織・要員・人事すなわち総括業務の一端を担当しました。輿氏は前任が計画局長で国会を担当されていました。国会ではデータ事業の収支が槍玉に上がって苦労の末、料金値上げを通していましたから、急なデータ本部長への転任には特に御苦労が有ったものと思います。輿氏は顧客先へ頻繁に訪問される等努力され、言わば実質的には初代のデータの社長とも、あるいはデータの中興の祖と言われています。小生はその後、東海通信局で引き続き労務や施設予算を担当する総括部門調査役、またデータ本部へ戻って技術担当調査役等としてデータ端末・通信網・仕様書・調達・OA等の他、関係省庁との対応もするようになっていました。

 

データ本部時代には、いわゆるナショプロの社会保険庁や労働省の受注にあたり、当時大蔵省の規制下で増やすことが出来なかった本社要員を工面するために、社内情報部門(事務近代化準備室、中央統計所)の統合に関わったり、名古屋データ局のセンター廃止でデッドロック化した労務問題について、現場の職員との話し合いを契機にハード保守のソフト業務への転換を行い、更なる廃止の円滑化に結びつけたりすることができました。そのデータ局で1978331日金曜日の午後に電力障害が発生して、バックアップも含めて全システムダウンが引き起こされ、顧客先へ担当を差し向けてデータ再投入をするために走り回ったりした事等が、今は懐かしい思い出となっております。

 

逆に、DIPS関連で知己を得ていた日立の幹部職員が19826月のIBM-日立事件でFBIによる逮捕・収監されたのはショックで、その後DIPSの方向を含め、日本のコンピュータ産業の大リストラに至ったのは忘れられない出来事でした。もっとも、その後十数年を経て、自分がFBIから逃げ回る事になるとは夢にも思わなかったのですが・・・。

 

DIPSと言えば、データ本部の技術担当時代に、技術局は信頼性の高さを謳ったデータ宅内装置、即ちDIPSのストーリーを目指した独自端末を開発していました。しかしながら、ハードも高価で対応するソフトも全て独自になるため市場競争力が無く、税理士会サービス等の顧客の脱落を生むという事で、資材局の協力を得て、ごり押しで安価でオープンなMS-DOSベースのDT1223の開発・導入を行いました。この辺から、グローバル化の怖さ、大切さを強く意識するようになったと思います。

 

以下、国際関係でのお話に絞りたいと思います。

 

シンガポールへの技術協力

 

初めての海外出張は1980年シンガポールでした。無償供与プロジェクトで、その背景は、鈴木首相時代に実施した自衛隊増強に対するASEAN各国の抵抗を、『日本の自衛隊は脅威ではない』と言ってくれた、リ・カンユー首相を通じて軽減したいとする政治的対応でした。同国は当時未だ開発途上であり、また将来、中国本土へのゲートウエイとなる可能性が大きいと見て、日本からのIT振興が有用という筋書きは、通産省の岡部氏のアイデアでした。IT人材の育成の為に学校(JSIST: Japan Singapore Institute of Software Technology)を作ることになりましたが、その教科にデータ通信が入っていた為に郵政省も入った訳です。単なるコンピュータスクールでは民営のものが幾らでもあり、それとの差別化が出来ない、先方の希望のIBM互換機でないNECが入る等、種々の課題が有りました。種々の経緯の末、通産省の全面協力で、内容の充実、更にJSISTの卒業生は日本の情報処理技術者試験の合格資格が得られる様になり、差別化が図られました。このJSISTJICAのセンタープロジェクトの最初の成功例として、その後のアジア全体の人づくりセンター構想の基ともなり、沖縄センター設立に至ったと聞きました。そのスタディ・ティームとレビュー・ティームに通算4年近く関係しました。このプロジェクトにはNTTから毎年数人の専門家が派遣され、その後1997年には国立ナンヤン工科大学の一部となったと聞いています。米国赴任に際し、シンガポール経済開発庁(EDB)の幹部が壮行会をやってくれたのは感激でした。

 

米国への赴任に至る出来事①:CI-Ⅱ調査

 

日本での1980年代の電電公社を巡る国会論議の中で、『独占の電話事業からの収益で、データ事業の赤字を補填し、民業を圧迫している』としてデータ通信事業の収支問題が挙げられ、外部からは公正競争のためには分社化が必要とも叫ばれるようになっていました。時を同じくして、米国ではグリーン判事によるAT&Tの付加価値通信部門の分社化を求めたComputer Inquiry Two (CI-)が発表され、その調査を命じられました。

 

初めての米国出張ですが、真藤総裁からは『CI-Ⅱがどの様に実施されているか』を報告せよ、また出張命令権者の北原副総裁からは『データの分離などの事実は無い事』を報告せよと、全く立場を異にするお二人でした。データ本部の幹部の方々にはデータ本部への異動が不本意で、故郷に錦を飾る為に早く電気通信に戻りたい、データに残されると勲章が貰えなくなる等、小生に直接分離に反対を表明された方が何名か居られましたから、北原副総裁の意向が大半で有ったかもしれません。ただ、規制下にあったデータでは小さなシステムを受注する時にも当時の郵政省の認可、労務対応、あるいは予算の関係で大蔵省や場合によっては国会説明も必要とされていましたから、発展を考えればそのままとは行かなかったと考える状況でした。NY駐在事務所の協力を得て、コンサル会社、AT&TGTE、省庁等各方面のヒアリングの後、二つのレポートを作りました。総裁へはCI-Ⅱに対する米国内各方面からの評価、副総裁へはMCI・スプリント等新生長距離(クリームスキミング)会社の伸張状況を報告し、公社としての早急な対応を進言させて頂き、無事『生還』して、その後、関係省庁からの要請に従ってCI-Ⅱの報告も無事すませる事が出来ました。

 

実際にはその後、長距離分野の競争が激しい状況から、AT&Tは基本的に長距離・国際交換サービスに専念となり、世界に冠たるWEとベル研を合わせた製造・端末・研究についてはAT&Tテクノロジーに、さらにローカルはその値上げを恐れた多くの州政府の反対にも関らず7つのBOCへ分割という道を辿りました。従ってCI-Ⅱは実現されなかった事になります。分割されたBOCはインカンベントと見做され、CI-Ⅲ等が検討されましたが、クリントン政権でこれも反故となりました。

 

AT&Tテクノロジーのその後

 

分割により、AT&Tから自由になって、その豊富な技術から米国内外への市場拡大を期待されたAT&Tテクノロジーが、分割後の米国通信規制環境(市内・市外の明確な分離)に適合した交換機を出荷出来なかった事から、米国市場でNorthern Telecomが急成長しました。AT&Tテクノロジーはその後ルーセントへ改称、企業買収も重ねて再起を期しましたが、決算の誤りやルーター開発の遅れ(ジェニパー買収を検討したものの自主開発 に変更)もあり、最盛期165千人居た従業員は3500人となって、2006年にはアルカテルに買収されてフランス企業アルカテル・ルーセントとなっています。さらに、20161月には端末事業から撤退し、これも端末事業から撤退したNOKIAに買収されました。

 

AT&Tのその後

 

AT&T自体も90年代からインターネットの基幹を担えるよう企業買収を進めましたが、1996年のクリントン政権下の通信放送自由化でCATV会社との激しい競争に入りました。同時に自由を得たBOCが互いに買収を進めると共に、CATVとワイヤレス事業を中心に巨大化して競争力を増しました。即ち、1995年にサウスウェスタン・ベルがSBCコミュニケーションズに改名し、1996年にパシフィック・テレシス、1997年にサザン・ニューイングランド・テレフォン、1999年にアメリテックを合併吸収して巨大化、さらに2004年にはベルサウスと合併してシンギュラー・ワイヤレスとなりました。

 

AT&T2001年に、AT&Tワイヤレス、AT&Tブロードバンド(ケーブルTV&ケーブルインターネット)、AT&Tコンシューマー、AT&Tビジネスの4事業体制となり、このうちAT&Tワイヤレスは切り離され独立し、2001年から2004年まではNTTドコモが筆頭株主(16%)となるが、2004年にはシンギュラー・ワイヤレスに買収されることになりました。2005年に残っていたAT&T自体(AT&T Corporation)も買収され、シンギュラーはブランド名として価値の高いAT&Tに社名変更することにし、AT&T Inc.と改称しました。ロゴも殆ど見分けが付かないようなものを採用しています。

 

全米をカバーするメジャーなセルラ会社は、このAT&T Inc.の他にVodafone等、元々セルラ会社間の買収で拡大したベライゾン(CDMA)、更にドイツテレコムの米国法人から始まったT-Mobile(GSM)、日本のソフトバンクが最近買収した独立系電話会社を背景としたSprint/Nextel(CDMA)4社体制となっています。

 

なお、US WEST2000年にQWESTへ改称、2011年にCenturyLinkと合併してこれへ改称しています。このうち、WirelessVerizonとしてオペレーションしています。

 

ベル研がAT&Tテクノロジーの開発部門となった関係で、標準化等の機能はBOCの持ち寄り会社のベルコアーが受け持つこととなりました。競争会社間の持ち寄り会社は運営が困難だったと思われますが、Telcordiaと改称した末、現在はEricssonの米国子会社となっています。


 

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