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 平素よりICT海外ボランティア会(ICTOV)に多大なるご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございます。当会では、当会会報配信先の皆様から、「私の海外とのかかわり、など」につきまして、当会会報にリレー形式(五十音順)でメッセージをお寄せいただくことをお願いしております。順番に別途ご依頼いたしますので、ご多忙のこととは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

お寄せいただきたいメッセージの内容は次のとおりです(全部又は一部選択可、文字数自由、図・写真添付可)。

①今までの海外活動のご経験など

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

④ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

⑥お名前(必須)


2024.2.24会報No.112 NEW!

北垣 勝之

ICT海外ボランティア会との出会い

 2003年4月JICA・SV13名は派遣先のカンボジアへと赴く。この中に村上勝臣氏もいた。プノンペン空港に着いた頃はどこの誰かも分からなかった。ただ通信関係の技術者位の認識だった。彼はプノンペンで任務に就き、私はそこから東北約300㎞の地バッタンバンへと別れる。たまにJICA事務所で同期のSVが顔を合わせることはあっても、任地が違えば直接会う機会はそう多くはない。カンボジアでプレイするゴルフ好きのSV仲間がわざわざミャンマーまで出かけたとか、本業以外で彼の名前を聞く程度であった。でも2年間の任期が終わり帰国する頃にはお互い旧知の間柄となっていた。それは彼の人柄と行動力に惹きつけられたからであろうか、広く世界を知ろうという意識に促されたSV同士の情報交換がきっかけであった。

 2005~2010年にかけて、彼はさらに南太平洋のトンガに2年間、そしてJICAではないがアフリカのコンゴ共和国へと出向く。それら発展途上国での活動状況を写真付きで知らせてくれた。私の方も2006~2009年にかけて中東ヨルダンの職業訓練所運営指導や、アンマン商工会議所傘下のタイルメーカーに人的資源管理のコンサルタントとして従事した。そうこうしているうちに2011年3月運命の東日本大震災を迎える。彼は宮城県栗原市の実家に戻り地元でコツコツ仕事をする傍ら、ICT海外ボランティア会の活動にも積極的に係わり会報発行の編集長を務めていた。巨大地震による被害に殊のほか心を痛めながら。

一方、私はと言えばJICA・SV卒業後、専らあちこち海外旅行に出かけては紀行文に纏め、かつてのSV仲間と情報交換していた。たまたま2013年と2017年に訪れたモロッコ紀行、特に後者ではモロッコ大西洋岸のアガディール訪問時のことが記録されていた。当地は過去に3回地震に見舞われ、最も近い1960年の大地震では甚大な被害を被っていた。街が一望できるカスバ(要塞)に向かうタクシーの運ちゃんが、途中街中のビルを指しては「あれはオリジナルのビル、その隣はニュウなビル」と説明する。なんのことを言っているのか皆目見当がつかなかったが、話の中に「ジェンザイ」というアラビア語が出てきて気が付いた。ヨルダンでSV滞在中、地震大国日本の話をしたとき覚えた言葉である。モロッコには数回入国しているが、アガディールが大西洋プレートによる地震の被災地だったことをこの時初めて知ったのである。運ちゃんの言う新ビルは倒壊ビルの再建、それに伴う街の復興を誇示したかったのであろう。この逸話を紀行文にしたため東日本地震に苦労された村上勝臣氏にも送ったところ、彼からICT海外ボランティア会報に掲載してもよいかと打診を受けた。「勿論、お役に立てば」と快諾したのが本会とのご縁の始まり、爾来コラム「海外便り」を通して皆さんと触れ合うことになった次第です。

 

カンボジアのいろいろ

 ここでは村上編集長(当時)のカンボジア報告にはない私なりのエピソードを付け加えることにする。それは生成AIでも追いつかない体験実話になるだろう。

 私たちがカンボジアにいた頃はクメール・ルージュによる混乱から20数年経ち、ようやく復興軌道に乗り始めた時代だった。国民の平均年齢は若く20歳代であったろう。当時の統計はないが最近の数値では26.5歳(2021年)、長寿傾向にあるが出生率も高く平均したら今昔の平均年齢はあまり変わらないはずだ。とにかく粛清で高齢者は抹殺された国である。従って若さに溢れ自由と希望に満ちた世相であった。若者には苦を苦と思わない前向きな思考がある。これは国勢を見る上で大きな指標となる。

国のど真ん中にトンレサップ湖という広大な沼沢池がありメコン川の水量調整を担っている。これによって米作農業や淡水漁業を営み、亜熱帯特有の豊富な果実もある。高床式住居下に放し飼いの鶏、養豚、山羊や水牛などの放牧もあって自給自足が可能な環境にあった。おまけに宝石・貴金属の産出、かつてポルポトもそれを財源に決起したきらいがあるが、未開発の天然資源も蔵す。

この様な地勢を鑑みるに、この国は国政さえ間違わなければ将来大化けする可能性を秘めているなと予感した。事実、長期にわたるフンセン首相の外交姿勢、特にインフラ整備において大国からの支援を巧妙に誘導、例えばトンレサップ川の架橋、最初は日本橋で1994年に日本の援助で修復完成した。その後2000年代になって韓国橋、さらに中国橋まで三つの大橋を寄贈させてしまった。なお、コンポンチャムのメコン川に架かるスピエン絆橋も、日本の無償援助で2001年に完成したもの。時と場合のTPOで先進国の下心を巧みに利用する術に長けている。共産主義主導のポルポト、ベトナム戦争時代の頃はソ連や北朝鮮に接近、地雷や兵器やダム閘門などを調達したが、ソ連製旅客機の墜落事故もあってソ連とは次第に疎遠になる。北朝鮮については今でもプノンペンで妓生キャバレーの営業が行われているところを見ると友好関係は続いているようだ。

最近は中国資本の進出が著しい。特に南部の港湾都市シアヌークビルは、中国から大量のヒト・モノ・カネが流入して活況を呈す。20年前は小型貨物船が接岸する程度だったが、今では大型船も来航、市街には瀟洒なホテルや店舗が建ち並ぶ。日本の特殊詐欺グループがここを根城にしたのも頷ける。あわせて海浜は一大リゾート地域、世界中の老若男女がビーチに憩い日光浴しながらドーン(椰子の実)で喉を潤す。一帯は自然あふれる国立公園でもある。かくしてカンボジアは、北のシェムリアップ(アンコールワット)と南のシアヌークビル(別名コンポンサム)の二大観光地で栄える。なおカンボジアは2011年以降中国の支援を受けGDP年率7%前後の高成長を謳歌している。

 

バッタンバンの雨神様

 ポルポト最後の拠点となったバッタンバン、ジェノサイドから20年後の様相は若い人々がイキイキと活動する街であった。旧市街のプサー(市場)は庶民生活が直に伝わってくる。肉屋の前に行くと、それまで黒い塊だった肉が急に赤色に変わる。たかっていたハエが飛び去ったからである。大袈裟に言えばそんな雰囲気、でも果物屋にはたくさんの亜熱帯特有のフルーツが並ぶ。それに安い。滞在中一生分のライチーやマンゴスチンなど食べ尽くした。仕立屋を覗けば若い女性が足踏みミシンで縫製中、最後は傍らの炭火アイロンで仕上げる。戦中時の日本を思い出す。市場の周囲には魚屋の排水も混じり、ドブ水のような水溜まりができる。人混みと悪臭、これもまた懐かしい。

 そんな下町の一角に4階建てのビルが1棟、その屋上に大勢の人だかり、彼等は静かに遠くの方を眺めている。双眼鏡をかざす者もいる。真っ昼間に何だろう、ドッグレースかな、それとも特別なイベントかな、一抹の疑念を抱きながらその場を後にする。

 バッタンバンに単身赴任中の私はホテル住まい、従って食事はホテルのレストランで摂ることが多かった。職住接近なので昼食も一旦ホテルに戻り、食堂のボスと会話しながら食す。その際、彼は決まって「今日の天気はどうかしら、雨が降るかな」と言う。お天気の話は挨拶の定番、別に気にせず「そろそろ降るかもね」と言えば、「何時ごろ、どれくらいの雨か」と執拗に聞いてくる。亜熱帯の土地柄、日に一回はスコールがやって来る筈、むしろ降らないと予測する方が面白い。私も興味半分、その都度あてずっぽうの私見を述べてきた。そうしたら私の予想がよく当たると言い出し、すっかり彼のお友達になってしまった。

 そんなある日「家族みんなでコンピンプイの見晴らしのよい所にピクニックに行くので一緒に来ないか」とお誘いを受ける。日曜日のこと、こっちも暇を弄んでいたので二つ返事でOKする。当日は好天に恵まれ10時過ぎに出発、彼の運転で約1時間のドライブ、湖沼の先にタイ国境の山々が見渡せる。料理はお手のもの、レストランの食材とワインで乾杯、マダムと子ども連れのボス一家と静謐な自然の中、木々に吊るしたハンモックで寛ぐ。勿論、食事中の会話はきょうのお天気具合、青天の中に一朶の雲が南から北に向けて動きだしたので、私の見立ては午後早々にバッタンバン市街に雨が降ると占った。

 コンピンプイには、ポルポトが連行した強制労働者によって築かれたダムがある。付近山中には未だ除去されていない地雷があるかもしれない。でもそんな悪夢は遥か彼方に消え、楽しい食事を済ませて雲の動きが多くなってきたところで我々は帰途に就いた。バッタンバンの街が近づくにつれ雲は増えて雨が降り出した。ワイパーの動きが激しくなる。運転手のチャン(ボス)はスピードを上げハイテンションの言葉を発す。「やったぞ!大雨だ」。

 市街ビル屋上の観客は、みな雨降り賭博の同好者たち、チャンもこの賭けの常連者であった。いつも携帯電話で雨降り時刻と雨量を申告、本部ビルに設置された雨水缶で丁半の判定が下される。何度か当たり外れはあったものの私の勘がチャンの賭けに寄与してきた。いつしか私は「雨神様」に祀り上げられ、彼のご相伴に付き合うことになる。後日、雨降り賭博はバッタンバン市の条例によって廃止になった由、これで私もほっとした次第である。

 

私の海外活動

 初めて海外に出かけたのは、今からおよそ50年前、日本造船工業会のミッションとしてパリにあったAWES(欧州造船工業会)との会議のための出張であった。当時、日本の造船業は圧倒的に強く世界市場を席巻していた。AWESはその要因を日本業界のダンピングの所為と非難していた。これに対抗するため我々業界の若手作業グループが、コスト管理や生産性の面から資料を作り欧州側に説明することになった。そのための海外遠征の旅であるが、米ソの緊張が高まるなかソ連空域が飛べず、アラスカ経由北極回りでコペンハーゲン入りする。オスロの造船・石油掘削業界、ハンブルグやロッテルダムの港湾関係施設を視察してからパリの会議に臨む、帰途はロンドンのドォルーリー海事研究所やロイド保険協会に立ち寄り、大西洋を跨いでワシントンへ飛び米国商務省(造船所管部署)を訪問、さらに列車でニューヨークへ向かいニュージャージーの顧客エッソ石油タンカー部門を表敬訪問する。と言うわけで北半球を一回りする旅路であった。日本が30年以上も世界シェアのトップに君臨した業界は光学と造船の二つ、かつ船舶は七つの海に浮かぶ広告塔の役割を果たす。

 その数年後、私は二回目の海外出張に出かける。これは勤務先の労働組合支部執行委員長に任じられていたからである。当時、ブラジルで製鉄所の建設(ヴィトリア)、造船のCNN支援(リオデジャネイロ)、エンジニアリング会社(サンパウロ)などの事業運営をしていたので、これらに派遣された社員および家族に対するオルグや、現地の労働環境調査を行うことが目的であった。帰途ヒューストンに立ち寄り駐在員と懇談する。ここは宇宙開発基地だけでなく米国切っての石油資源開発技術センターになっている。このような芸当を演じられたのも非専従の組合員だったからである。経営者と労働組合幹部で行われる経営審議会では組合側の席に座り質問に立ち、それに答える経営幹部の説明資料造りも一方で準備するという内股膏薬の役割を担っていた。

 その他の海外活動は、外務・文部省共管による国際交流ディレクターとして3年余の香港生活、その後JICA・SVとしてメキシコ、カンボジア、ヨルダンにそれぞれ2年間滞在、いずれも職業訓練校の指導に当たった。なお、ヨルダンではアンマン商工会議所傘下企業の人的資源管理の短期コンサルタントとして従事した。これらの詳細説明は割愛する。

 

外国語との付き合い方

 海外活動で重要なことは言わずと知れた言語の使い分けであろう。基本的には英語が万能であるかのように見えるが実態はそうでもない。通常、英語ではなく自国語の国は多い。イギリス・コッツウォルズの英語研修センターに約1ヶ月通ったことがある。ここには欧州各国から1週間単位で英語のリスキリングにやって来る。フランス化粧品会社の秘書、ドイツ大手化学メーカーの中年男性、イタリア・フェラーリの若手社員、スイスの独身女性、他にポルトガルやスペインなどからも参加者がいて多彩な顔ぶれであった。彼等は仕事上英米人との交渉が必須不可欠で、そのための英語磨きである。私も一緒に英語のブラッシュアップに参加したが、面白いことに文法や作文においては私が断トツ、皆々先生からの出題に苦慮して私のところに聞きに来る。日本受験英語の威力をまざまざと見せつけた次第である。ところが毎朝TVニュースを見た後のヒヤリング問題では私の方はからっきし聞き取れていない。逆に彼等に尋ねる始末である。以上の例からもお分かりのように英語は特定目的のための言語であり、英語圏外の人々の生活や文化などに触れる際には当該国の言葉でコミュニケーションした方がよさそうだ。この私見を公にしたら‘English follows Japanese’とChat-GPTから反応があった。面白い世の中である。

 米国で英語をマスターするべくMBAなど資格取得をかねて留学する人は多い。けだしアメリカでの修業はエッセーの書き方とか簡潔な英語表現を学ぶことに力点が置かれている。オハイオ州の大学に短期遊学した時の体験からも、日本の起承転結方式は冗長になりやすく敬遠された。まずは結論ありき、後はそこに至った説明を要領よく論述するだけである。

 ヨルダンで人事管理のコンサルをしたとき専門用語の説明に苦労した。そんなとき英語スピーチの技を磨くトーストマスター(toast masters)という訓練法を思い出し、とにかく途切れなく英語をしゃべり捲くるようにした。何ら難しい言葉を使わなくても易しい単語で機関銃を撃てばよいだけのことである。但し、言語は「話し言葉」と「書き言葉」の両様あり、国や民族によって表音文字もあれば表意文字もある。時と場合によって使い分けねばなるまい。例えば同じ中国語と言っても北京と台北では同音異語の扱いになろう。

 

海外紀行記の遊び

 海外活動のもう一つ重要なことは記録を残すことだろう。すなわち活動の要点を記述して更なる発展に結びつける。私の場合、この作業は「わが俳柳」による五七五調文言の随筆となる。物事の本質を抉り出し、なるべく遊びを入れて「遊more」とする。ユーモア・エスプリ・ガイエストが無ければワサビのない刺身を食うようなもの。この習慣は四半世紀前のメキシコ時代から始まり今日まで続いている。映画「Shall we ダンス」の舞台にもなった白井木戸公園での日課ジョギングが創作場所、今まで約3万句を詠む。そもそも走句が原点でジョギングの苦走の中、形而上世界のイド状態から発句が生じる。でも「汗だく(駄句)」の所産多く本来他人様にご披露する程の代物ではない。本会会報の「海外便り」では臆面もなく一部開陳しているが冷や汗だくだくの思いである。

 ところでJICA・SVレポートとして先様に提供する成果物はそんな訳にはいかない。スタンフォード大の修士論文を書く位の心魂を打ち込んで上梓する。メキシコ「CONALEP (国立職業訓練教育機構)学生に対する意識調査アンケート集計・分析と提言」(2001年3月)、ヨルダン「アカバ職業訓練校(VTC)の運営指導におけるノウハウシリーズ(全10章)」などあるが、後者の中身を列挙すれば次の通り。①リーダーの要件、②職員会議の勧め、③データベースの開発、④5S運動の勧め、⑤仕事人を生み出そう、⑥キーマンはインストラクター、⑦全職員に目標管理、⑧民間企業との付き合い方、⑨文書による情報伝達、⑩VTC事業将来像、以上の10項目である。海外活動のまとめは対象の如何によって硬軟使い分けた文字情報のアーカイブス(archives)となす。

 

JICAとの関りから

 海外活動で重要なことの三番目は常に好奇心を持ち学ぶ姿勢を持つことだろう。教えると言うより他者と協働しながら新しい価値を創造することになる。その意味ではJICAから多くのことを学んだ。多士済々のSVと現地で接し親交を深める。冒頭の村上勝臣さんだけでなく数多の国際人との交流は、情報交換を通じ時に私が手の届かなかった国々の写真や、海外在住健筆家から寄せられる旅行記など、いずれも励みになると同時に刺激にもなった。

 方や一部のSVには、自分の思い通りにならないという理由でCP(カウンターパート)を交代させる者、また指導分野の能力が要請国のレベルに達しないという恥辱を味わう者もいた。このようなミスマッチは今日のようなパラダイム変換期、就中、価値変化や技術革新の最中にあっては益々増えてくるだろう。いかなる時代であろうとも異文化社会と接遇する際には、ともに学び共栄していく気持ちが尊重されなければなるまい。

 2024年になり齢85となる。今まで気楽に出かけていた海外にも局地戦争や紛争、天変地異や災害、おまけに円安進行、治安弛緩、疫病蔓延など、雑多なバリアーに阻まれて安易に実踏できなくなった。今後は草庵に籠り静かに国際化の底流を見守りたいと思う。(完)

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桐原 征雄

①今までの海外活動のご経験など

(1)NTT研究所時代は、論文発表や新技術視察など。

1975年 ICCCの会合(アラバマ州)で「ディジタルファクシミリ」を発表 その後、サンフランシスコのSPRINT社とカナダ・トロントで新システム視察

1980年~2000年にかけて

・NTCの会合(ミュンヘン)で「INS通信処理システム」を発表 その後、フランス・ビアリッツで新システム視察

・ベル研&ATTの新技術,新システム視察で、アメリカ各地を訪問

・日韓の会合(慶州)で「NWオペレーションシステムプラットフォーム」を発表 韓国人研究者と交流(以前ビアリッツからパリへの飛行機の中で韓国人営業マンと知り合い、韓国語を勉強するようになっていた)

・テレコム(スイス・ジュネーブ)に出張して新技術,新システム視察

最初のICCCの発表では、会合の視察に来られたNY事務所の畔柳功芳様と青木利晴様が、私の論文発表の場に来られ、質疑応答の際に助け舟を出していただきました。初めての外国での発表で不安だった私にとって、大変心強かったことを今でも有り難く覚えています。

 

(2)定年退職後は日本語教師として活動

「退職後はNTTと関係ない所で活動したい」「もともとやりたかった文系の仕事(歴史や語学)をやりたい」と考えました。海外で生活しながら活動するには何が最適か?を考え、最終的に世界中に日本語学習者がいて海外に行ける可能性があるということを知り、日本語教師の道を選びました。退職の2年前から教師養成講座に通い、知識,実技を学び資格を得ました。2004年定年退職の後、2005年から都内の日本語学校で非常勤講師として、中国,台湾,韓国からの大学院志望者を指導しました。その後、やはり”海外で生活しながら教えたい”と思い、いろいろ調べて、W大学の先生の「ベトナムの優秀な学生に日本語を教え、日本の中小企業に紹介する」というインキュベーション活動を知り、面談の結果ハノイで教えることにしました。経済的にはホーチミンの方が発展していますが、ハノイの方が緑や水が豊かで、故郷である熊本によく似た感じで落ち着いて過ごせました。

2006年から最初の半年は先生紹介の学校で中小企業やニッサン系・設計部隊のための学生を教え、その後の一年半は他の学校に転職してトヨタ系企業のためにハノイ工科大学,交通運輸大学の学生を対象として、自動車製造技術を教えたり、企業面接の際に卒業論文を日本語で紹介・議論できるように技術日本語を指導しました。指導した学生のうち10名程度が現在でも日本で家庭を持って社会・企業に貢献しており、交流を続けています。

ベトナム語はアルファベットを使いますが、発音が難しく、特に母音は文字種と声調の組み合わせで多数になり、発音も聞き取りも超難しいです。私はベトナム語を話せますが(話せるつもりでいますが)、私の話を理解できるのは生徒達だけです(文法は正しいけど、発音がムチャクチャなので)。

社長がバイクを貸与してくれたので、ハノイ市内をくまなく走り、遠距離郊外ツーリングも大いに楽しみました。

地域の農業指導に訪れていたJICAの指導員と知り合いになり、一緒に飲み歩きました。

帰国後2009年に胃癌Stage3が判明し手術後の抗癌剤治療で免疫力が落ち外出困難となりましたが、社会的孤立を避けたいと思い「オンライン日本語教師」に登録し、インターネットを介して各国の学生を指導しました。抗癌剤治療終了後は対面授業を始めましたが、都心の恵比寿ガーデンプレイスや六本木ミッドタウン等の先端企業での授業の際に活気ある町や人々の様子を見るのは、プチ田舎住まいの身からすると新しい経験・楽しみでした。

これまでに「好意をもって教え、敬意をもって教わる」の気持ちで約30か国の社会人,学生と向き合い、大学院レベルの日本語能力取得を目指す生徒への指導、就職内定した留学生へのビジネス会話指導,転職に挑戦する生徒たちの履歴書作成や面接指導等を手伝ってきました。中でも、ある生徒はネット動画や本を基に自ら作文し、それを私が添削するのですが、私自身では余り興味を持たない分野、例えば経済・投資,哲学,政治学,心理学なども書いてくるので、日本語を指導しながら様々な事柄を勉強することが出来ました。特にアドラーの「嫌われる勇気」を学んだことは、大いに役立っています。

 

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

(1)これまでの日本語指導では概ね上級,超上級の学生を指導してきましたが、最近、ひらがなやカタカナも十分に読めない超初心者を指導することになりました。元々私自身の聴力が落ちている上に、相手の英語が非常に聞き取り難く、コミュニケーション困難で続けていけるか不安でしたが、生徒の身の周りの個人的な事柄(例えば、近所の地図を見ながら地名の発音とか、スーパーやコンビニでの買い物の話など)を取り上げたところ、乗ってくる感じがあって何とか続けることができ、最近では3番目の趣味として「日本語の勉強」を言ってくれるようになりました。

とは言っても、様々に工夫しながら10回以上レッスンを続けても相変わらず文字が十分読めないので、いろいろ調べて「外国語マスターのより良い方法」を提案したのですが、仕事で多忙を理由に余り積極的でない態度で、最低限の日本語で良いと言ったので「分かった!そっちがそのつもりなら、こちらもそれに応じた教え方をする」と少々キレて言いました。すると心を入れ替えたのか、最後にはレッスン時間の増加(週1回90分→週2回×2時間)と、「最終的には会議の時に日本語で説明・議論できるようになりたい」と言ってくれるようになりました。

生徒が安心して楽しい生活を送れ、仕事の場で力を発揮できるように、一緒に頑張りたいと思っています。

 

(2)地域活動に参加:地域とのつながりを持ちたいと考え、高齢者の困りごとを手助けする「地域サポート隊」に登録しました。実際に参加して、あるお宅の庭の片付けや窓ガラス拭き,家電製品の修理・調整などを行い、喜ばれると共に、役立てたという喜びを感じています。更に労働の対価として僅かですがお金を頂いています。

 

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

これまでに教えてきた生徒達で、成功(試験合格や資格取得など)や幸福(結婚、子供誕生や家の購入など)があった人に、お祝いの言葉や気持ちを伝えると共に、目出度いことが周りの人にも訪れるようにと「肖り(あやかり)パーティ」を何度か開催してきました(元生徒が経営するレストランで実施)。成功した人に動機,苦労,展望などを話してもらい、それを聞いた人が「自分も頑張ってみよう」と思ってくれたら、結果的に”肖る”ことになるかもしれないと思っています。昨年春には試験合格や結婚,子供誕生があり、秋にはMBA卒業を祝いました。

中でも仕事,家庭・育児に取り組みながらMBA卒業した生徒がソーシャルビジネス(=貧困、食糧不足、環境破壊などの社会問題の解決を行うビジネス)に取り組もうとしており、また長年指導してきた生徒が結婚してアメリカに渡り帰国後の起業に向けて勉強・準備をしています。元生徒達はそれぞれIT,保険,財務,医療,化学,機械,通信,報道,ゲーム等の分野のプロであり独立したポイントですが、私と日本語を学んだというつながりがあるので、それをネットワーク化して何かソーシャルビジネスが出来ないか、まずは勉強会の声掛けから始めようと考えています。

 

④ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など:特になし

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

退職後の人生の選択肢の一つとして日本語教師は悪くないと思います。日本語の指導を通して、生徒たちが日本で安全に楽しく生活を送れ、ビジネスがうまく行くように手伝うと共に、自分自身が新しい刺激に触れ、更に大きな声でハッキリ発音するので、認知症防止にも良さそうだと思います。幾らかの収入を得ることもできます。

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串田 薫

① 今までの海外活動の経験など

1985年8月から11月にかけてJICA中期研修を受講、これを機に、JICA専門家としてペルーに長期専門家として赴任し、電気通信の技術指導を行いました。その後も、以下の通り、パラグアイ、パナマで電気通信の指導に当たりました。

1986年11月~1988年10月:JICA専門家(交換)としてペルー共和国運輸通信省で、電気通信技術指導を実施。この間、大学や、研修センタで、電気通信技術の説明会等を実施するとともに、ペルー女性と国際結婚。

1991年11月~1994年3月:JICA専門家(交換)としてパラグアイ電気通信学園でディジタル交換機の技術指導を実施。この間、学園に設置されたNEAX交換機の敷設と授業用教科書の作成・講義を行いました。

1996年10月~1998年10月:JICA専門家(交換)としてパナマ電気通信学園で交換技術指導を実施。この時期、パナマ電気通信公社も英国のCable & Wirelessにより民営化され、それまで日本で研修をしていた技術者たちが、日本に行くことなく、英国で研修を受けることとなり、日本のこれまでの協力も、ここで途絶えることになりました。

この他、短期の調査案件(JICA、NTT等)に参加させて頂き、貴重な経験を積むことが出来ました。

各々の国で、いろいろ貴重な経験をすることが出来たことは、私の人生の宝となりました。

また、1999年NTTの分割後はNTT東日本国際室に異動し、2009年まで、派遣専門家と研修生の支援を実施しました。これにより、バックヤード業務の大切さを思い知った次第です。

2010年、NTT東日本を退職してからは、JTECでアンゴラ案件に携わり、資金回収の大変さを経験させて頂きました。

 

② 最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

2015年に完全に仕事を辞めて以降、現在は、生来の病気の治療に専念しています。昨年9月からは、体調維持のため、介護保健を使って、運動に精を出しています。

 

③ 最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

電気通信に関係ありませんが、やはり長男と長女の結婚と孫が誕生したことです。

また私が、ペルー赴任時にペルーの女性と結婚したことが影響したのか、長男もメキシコ在任時にメキシコの女性と結婚しました。「蛙の子は蛙」ですね。国際結婚が私の一番の国際貢献だと思っています。

 

④ ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

一度だけ会に参加させて頂きました。皆様お元気でご活躍されていらっしゃっていて、頭が下がる思いです。これからも皆様のご経験と知恵を生かして、日本の未来にお役立て頂くことを祈念しております。

 

⑤ その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

いつまでも、お元気で!

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栗山 正雄

① 今までの海外活動のご経験など

駐在など海外勤務の経験はないが、海外出張は50回近く経験した。

海外出張で、長期かつ印象深かったのは、次の3つ、

・JICAのICT専門家としてバングラデシュに6週間(2002年)

・技術局の伝送担当調査員として光ファイバ伝送関連で欧州に4週間、仏・独・英のテレコム関係機関訪問の他、オランダで国際学会、スイスでテレコム’79に参加、技術フォーラムで論文”Fiber Optics Introduction and Role in Public Telecommunication”を発表。

・同年 同様にカナダ・USAに出張(2週間)、ベル研との討議など。

海外との繋がりも活動に含めれば、

・20歳代、技術局伝送担当としてしばしば海外からの研修生に講義。

・30歳代、上記の他、初の技術交流でタイのTOT,CATに出張。

・40歳代、中央電気通信学園ネットワーク部長として、10コース以上のJICA研修を担当。またスウェーデンの電気通信教育国際会議に参加。国際部門と縁が深まり、NTTインターナショナルへ。豪州・NZ・北欧等へ度々出張。

・50歳代、NTT退職後NEC海外事業部門で、主に顧客向けに最新技術のレクチャーを担当。

 

① 最近取り組んでいること

定年退職後は、頼まれて高校同窓会関係の世話役の一員や、その同好会活動に参加し、時間を割いてきたが、これらを収束し、自らの断捨離を加速したいと考えているところです。

 

② 最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したこと

特にご披露する程のことはありません。

 

③ ICTOVへのご意見

この企画は大変良い企画だと思います。各人それぞれ素晴らしい活躍をされていたのに、余程身近にいた人以外記憶から消え去ろうとしています。

回顧録ほど立派でなくても、皆さんの生きた証がしっかり記録として残ります。

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小林 満男

①今までの海外活動のご経験など

 海外勤務経験はありません。NTT時代、仕事では米国等3ケ国を訪問しただけですが、海外には関心があり、旅行や学協会の視察等で19ケ国を訪問しました。

帰国するたびに、日本がいかに恵まれた国であるか、そして先人たちが累々と努力を積み重ねてきたかを実感しています。

 

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

 本会報No.42号に「新潟国際情報大学における国際化、情報化の取組み」を寄稿させて頂いて早や10年。1学部2学科でスタートした本学は、今年、創立30周年を迎え、現在は国際学部と経営情報学部の2学部3学科体制で運営されています。

地方の文系の、小規模・私立大学を取巻く状況は厳しいものがありますが、お陰様で一度も定員割れすることもなく、現在に至っております。2011年に入職し、JABEE委員長・就職指導委員長を5年、学部長を6年。2022年からは設置法人である新潟平成学院の理事として、大学の運営にかかわっております。

当初イメージしていた研究者の姿とはほど遠く、日頃の教育に加えて学内業務や所属する学会の運営、自治体等の委員業務に追われています。2014年には経営情報学会、2018年には日本経営学会、そして2022年には情報システム学会の全国大会を大会委員長として本学で開催させて頂きました。全国の研究者たちの交流の場として、また地元新潟のPRに少しでも寄与できればと考えております。加えて、日本一長い新潟砂丘をPRすべく、地元の人たちと新潟砂丘遊々会を立ち上げ、砂丘ウォーキングを実施したり、砂丘地に自生する大エノキの保存樹登録・保全活動等、地域活動にも積極的に取り組んでいます。約15年間、NTT法人営業担当として多様な人たちと交流できたことが大学教員としての活動に大いに役だっており、感謝しています。

 

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

何と言っても卒研生が無事に内定を頂き、そして卒業する時が一番うれしい時です。

本学では卒業論文は必須で、学生そして教員にとって卒業ゼミナール・卒業研究は大きな学びの場となっています。

 

④ ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

「特別寄稿」、「海外グラフィティ」、「海外便り」は、いつも拝読させて頂いております。中でも昭和60年から7年間、NTT中央ソフトウェアセンタ等でご指導頂いた石井 孝特別顧問の余話は、30年以上も前の考えや出来事であっても現在に通じる内容であり、時間の隔たりを感じさせません。「情報システム」、「情報システム開発」の科目を担当する私にとって心強いメッセージとなっております。

 

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

 昭和51年、高専を卒業し20歳で電電公社に入社。平成23年、55歳の役職定年と同時に本学に入職。定年(70歳)まであと2年あまり。人生100年時代と言われる昨今、50年間現役で働くことが当面の目標です。引続きよろしくお願い致します。

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齋藤 邦夫

①今までの海外活動

 NEC勤務時代の約40年間海外出張は多かったが、居住経験は無かった。

 61才で退職しJICAシニア海外ボランテイアとして、インドネシア、マーシャル諸島共和国、ブータンと3度の海外生活を経験、自己の全ての力での指導・貢献は良い経験でした。

 

②最近取り組んでいること

・80歳代の10年間に「宗教と哲学」を勉強すべく準備中。

・アマチュア無線の海外運用を過去約30ヶ所以上経験したが、太陽黒点活動期にある今もう1~2度何処かへ行きたいと、仲間を探している。

・週2回(毎回2~3Hの)卓球の練習をしていること。運動音痴だった自分には信じられないことです。

 

② 最近感動?したこと

地域社会に暮らしてみて、連れ合いを亡くしても元気なのは圧倒的に女性、女性は強い!と実感。

  高齢で連れ合いを亡くすると急に認知症が進むのは、これは男性に多い!と。

 

④その他、現在の心境

 地域社会に暮らして10数年、地域社会は難しいと痛感。住んで居る人達の意識も価値観も全くバラバラ、かつての会社組織のなかでの管理や手法がほとんど通用しない、 しかしその経験があるからこそやれることもある。

 認知機能が低下して行く方とのつきあいなど、新たな勉強です。

 人生の旅路には色々な学びがある、と自らに言い聞かせている毎日です。(人によって はボヤキと言いますが・・・)

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佐藤 徹

①今までの海外活動のご経験など

1973年 武蔵野電気通信研究所勤務、海外青年経済視察団に応募し、香港。マカオの商業。工業の視察

1975年 ジュネーブ国際発明展示会で情報収集、ロンドンでIBM新型プリンター発表会を視察

1988年 NTTインターナショナルでシンガポールテレコム・アヤラジャ電話局とNTTとのGNW 構築、シンガポールよりジャカルタ、クアラルンプールまでも延長も政治的な問題で断念。

韓国 ソウルと釜山との間に描画通信システムを設置工事

台湾 台北と台中に同じシステムの設置工事

香港、シドニー、ニューデリー、パキスタン、と続く。

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佐藤 仁(同姓同名が日本中にとても多い名前ですが、よろしくお願いします)

① 今までの海外活動のご経験など

私自身はまだ現役なので仕事の詳細な内容はここでは書くことができません。

今回、このような機会を頂いたので、仕事で行った国をあげてみました。

■欧州:オランダ、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガル、ベルギー、ギリシャ、ポーランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイルランド、チェコ、ハンガリー、スイス、イタリア、マルタ、モナコ、エストニア、リトアニア、スロベニア、ロシア、ベラルーシ、フィンランド、ブルガリア、ルーマニア

■北米:アメリカ、カナダ

■中南米:メキシコ、トリニダード・トバゴ、バルバドス、グラナダ

■アジア・中東:韓国、中国、香港、台湾、インド、インドネシア、ネパール、マレーシア、シンガポール、バングラディッシュ、タイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジア、イスラエル、エジプト、モロッコ、チュニジア、トルコ

 

ひょっとしたら抜けているかもしれませんが、印象に残っている国のベスト5(好きな国ではなく印象に残っている国です)は以下です。

1.マルタ:料理がとても美味しくて、太陽が燦々輝く素敵なところでした。

2.バルバドス:東カリブの小さな島国ですが、海に囲まれて素敵な国です。いつか旅行でまた行ってみたいです。

3.フィンランド:春でも吹雪で寒くてとても大変でした。精神的にも凄くきつくて今でも大変だった頃を思い出すと胃が痛みます。

4.イスラエル:歴史がある国でとても印象的です。早く平和が戻ったら今度は旅行で行きたいです。ただ物価が高くて生活がとにかく大変でした。

5.トリニダード・トバゴ:カリブの島国ですが、とある大きな国際会議で日本代表として議長を務めて緊張しましたので、どんな所かも覚えていないので、今度は遊びに行きたいです(笑)。

 

② 最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

私はまだ現役の社員なので、基本的に平日は朝から夕方まで仕事で勤務しています。

コロナ禍も収束したので、最近では会社への通勤も増えました。在宅勤務と併用していますが、個人的には会社の方が落ち着いて集中して仕事に取り組めるので、なるべく出社しています。在宅勤務はコロナ禍の大変だった時期を思い出してしまうので。。

コロナ前までは会社に行くのも辛くて嫌だなと思っていた日も多かったですが、コロナで会社に行けなくなってしまい、突然在宅勤務を強要されてから、在宅勤務にも慣れました。

在宅勤務で利便性が向上したところも多いですが、やはり人と人が対面で直接会って話をしたり、一緒にランチに行ったり、休憩したり、会社の後に飲みに行ったりしながらの無駄話や雑談といった「対面コミュニケーション」の重要性を改めて認識しています。私は昭和生まれの平成育ちなので、令和の今では古い人間なのかもしれません。

また大学で研究もしており、現役の学生と触れる機会も多いです。大学の授業ももうほぼ対面に戻りキャンパスも賑やかさを取り戻しています。コロナ禍では試行錯誤しながらリモート授業をしていました。たしかにリモート授業の良さもあります。例えば私もコロナ禍の頃はアメリカやイスラエルの大学の授業を夜中にオンラインで日本にいながら受講していました。こういうメリットはリモート授業にはあります。しかし、やはり授業も対面の方が教員としては学生の様子や反応をリアルに見ながら進められるので対面の方がやりやすいです。

 

③ 最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

毎日、美味しい食事ができるだけで嬉しくて幸せです!仕事や生活が辛くて大変な時は食欲もなく、食事も喉を通らないので。。

 

④ ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

皆様が培ってきた海外経験や日本の社会、企業への貢献は、日本にとってもとても重要なものだと思います。是非、様々な経験やノウハウ、知恵などを後世の日本人に伝えていってほしいと思っています。

最近では日本でも外国人が増えて、彼らと共生しないといけないシーンも多くなりました。文化や生活習慣の違いから、多くの地域で様々な衝突やいざこざがあると報じられていますし、実際に見たり聞いたりしています。美しく素敵な歴史ある日本に外国人が住むのはとても大変なことだと思いますし、日本人は日本人としてこの国を守っていくという矜持を持たないといけないと思います。真面目でしっかりした外国人だけでなく、美しい我が国の伝統と文化を汚すような行為をする外国人も残念ながらいます。日本での生活に馴染めずに苦労している外国人も多いです。私自身、欧州には頻繁に行きますが、欧州諸国では「ここは中東?アフリカ?」と思うくらいに移民が年々多くなり驚いています。異文化、異教徒の増加による彼らとの共生は容易ではありません。様々な衝突、事件、事故が多くの国で起きています。何年後かの日本をこのようにしてはいけないと欧州に行くたびに危機感を覚えます。

素晴らしい日本人である皆さまの海外での豊富な生活や仕事の経験、そこから得た知恵や知識は現在のように外国人が増えて様々な衝突やトラブルが起きそうな日本において、あらゆる面で役立つと思っています。是非、美しい日本の伝統、文化、生活様式、正しい綺麗な日本語を後世の日本人のためにしっかりと伝えていければと思っています。皆様の経験や知恵は日本の宝です!


2023.11.27会報No.111

加来 億一

① 今までの海外活動のご経験など

昭和51年、ISOの国際会議に東大の斉藤忠夫先生の補佐役(?)で米国のフィラデルフィアへ行ったのが私の最初の海外渡航でした。何しろ初めての外国、英会話にも自信の無い私でしたが、なんとか会議を終えた後、NTT(当時は電電公社)ニューヨーク事務所の田代穰治所長をお訪ねしたとき、「初めてなら余り欲張ったことを考えず、アメリカという国が、いろんな意味で如何に大きな国であるかということを実感して帰りなさい。」と言われ、一気に肩の荷が下りた気がしました。その後ワシントン、サンフランシスコ、ホノルルの企業や研究所を訪問し、“アメリカ”を満喫して帰国したことを覚えています。

 

海外に長期間滞在したのは、タイのバンコクにJICAの技術協力専門家として昭和56~58年の2年余り派遣されたときの滞在のみです。バンコク郊外のノンタブリに10年ほど前からNTT・NHK・東海大学から専門家が派遣された電気通信訓練センターがありましたが、規模的にもレベル的にも大きく発展し、タイ政府は他の同様な施設を統合して大学に昇格させました。それがモンクット工科大学(KMIT)で、JICAの技術協力の成功例として位置づけられていました。

私が派遣された時は、供与機材を見てもコンピュータ・システム、半導体製造装置、発電機と高額で、数次に亘るKMITへの技術援助の中でも規模が最も大きかったのではないかと思います。しかしながら残念なことに、これら設備を搬入設置する建物等の現地側の建築工事が大幅に遅れたり、その間の機材保管状況が悪くて機材の劣化を招いたりしておりました。さらにはKMITから新たな技術協力の追加要望が出されたりして、私の任期が終わるまでにプロジェクト完結とは言いがたい状況になっておりました。私はプロジェクトの延長が必要ではないかと考えておりました。

JICAの技術協力は相手国からの要請がベースになっており、日本側の考えだけでは決定できません。私はカウンターパートであるKMITのゴーソン学長にプロジェクトの延長または新たなプロジェクトを申請すべきではないかといい、彼も同意してタイの外務省(?)にその申請をしました。私も何度か足を運びました。

しかしながら外務省はKMITに関しての新たな要請を日本側には出しませんでしたので、私は任期終了をもって日本へ帰国することになりました。若干中途半端な形でプロジェクトを終了することになり、大変心残りのすることでした。

後でカウンターパートから聞かされた話では、KMITだけが日本の援助でどんどん発展してゆくことを他の大学が羨望の目で見ており(ヤッカミがあり)、タイの外務省としては、KMITばかり優遇するのはいかがなものかということで日本への要請を見送ったということでした。もっとも、KMITへは数年後に別の形で(要望内容を変えて)援助が再開されたと聞いています。

 

通信の自由化が始まった昭和60年に、私は電電公社を退職し、カシオ計算機(以下"カシオ“と略す)に再就職をしました。カシオでは時流に乗るべく、通信機器関連事業を立ち上げてくれということで、あれこれと手を出してみましたが、なかなかうまくは行きません。平成になってまもなくの頃だったかと思いますが、NCC(NTT・KDD以外の新しい通信会社)が始めたページャー事業(NTTのポケベル事業と同じ)が成功し、カシオも端末機器(携帯機器)の開発・製造に成功し、NCCへ供給することで通信機器事業に参入することができました。

ページャーは日本だけでなく、中国や東南アジア等にも普及し、カシオもそれらの国のページャー事業者へ端末(携帯機器)を供給することになり、そのための製造子会社を中国・インド・フィリピンに設立しました。私はこれらの事業責任者ということで、これらの子会社へ度々出張しました。

ご存じの通り、ページャー(ポケベル)は一時的には大変重宝されましたが、携帯電話の普及が始まると、あっという間に姿を消す運命となりました。カシオ本体はページャーに見切りをつけてケイタイ端末の開発に切り替えましたが、海外子会社をどうするかが大きな問題となりました。海外子会社もケイタイに切り替えられればいいのですが、ケイタイ端末の開発製造は人材的にも経費的にもページャーのそれとの比ではありません。国内向けの開発で精一杯のカシオのパワーを海外製造拠点にまで分散することは到底できないと判断せざるを得ませんでした。結局海外子会社を閉鎖するか分離するになり、事業責任者である私が後始末をせざるを得なくなりました。それぞれの子会社の現地側責任者達と厳しい交渉をいたしました。

大変苦労しましたが、一応それぞれ納得させ、カシオとしても大きな損失を出さずに済ませることができたと思っています。彼らを説得させる交渉において、私が考慮したポイントは2点です。

第1点は、あくまでも誠実さを示すことで、変な駆け引きは一切しないと言うことです。まず相手の言い分を良く聞くことにしました。ただ“聞くだけ”ではだめです。”聞くだけ“ならどこかの国の首相でもできます。できるだけ相手の使った言葉を使って、あなた方と同じことを考えているんだということを理解させます。また、条件提示においては最初からギリギリの線を提示します。従ってその後の交渉で、いくら相手から要求されても条件を変える(緩和する)ことはしません。これがあくまでも譲れないギリギリの線であることを強調し、譲歩をしませんでした。

2つ目のポイントは誤解を生じせしめないための努力をすることでした。下手な英語で間違ってはいけないので交渉の場には必ず信頼できる通訳してくれる人を同伴しました。そうして私は彼が間違った翻訳をしないよう、短いセンテンスで、主語、述語、目的語、修飾語のはっきりした明快な日本語で話すよう心がけました。そうして短いセンテンスを1センテンスごとに通訳してもらうことにしました。

このことは重要だと私は考えています。本職の優秀な通訳がいる場合は問題ないのかもしれませんが、そうでない場合、長々としゃべった後に通訳しろと言われると重要な言葉を通訳し損なう恐れが生じるのではないでしょうか。また、文脈が怪しくなったり、修飾語と被修飾語の関係があやふやになることも多々あるのではないでしょうか。誤解の生じる余地のないようにするのは大変大切なことと思います。

中国・インドという名だたるタフ・ネゴシエーターの国で、それなりの成果を挙げられたのはこの2点のお陰だったと思っております。

 

69歳で仕事から完全に退き、“悠々とはいかない自適”の生活者になりました。家族(女房と息子)と国内・海外を時々旅行して参りました。(もう行くことはないだろうと思い、過去形にしました)旅行好きの息子は60カ国以上(南極大陸を除く全大陸)を訪ねたようですが、私はやっと30カ国前後です。南米大陸にはとうとう足を踏み入れることができませんでした。豪州もオーストラリア大陸には上陸できませんでした。


2023.9.21会報No.110

壹岐 政人

①今までの海外活動のご経験など

1983~1986 青年海外協力隊でガーナへ、ガーナP&T勤務

1990 NTTIへ、光ケーブルコネクタを海外へ輸出(技術移転)

海外から離れて国内で

・無線通信 ドコモ系 電験3種

・風力発電 強電の世界も体験 危険物乙種4類

技術士

・技術士として国交省系 電気工事士(1種)

 まだまだ資格を

 電験2種

 電気通信施工管理技術士

 その他、、、、

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

2023.3~7月 日本全国を自転車で縦断

再度海外でのチャレンジ

2023.8月~ grobalstar に就職、美幌にて衛星地球局建設に従事中

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

日本全国を自転車で縦断し、知人友人に会い、昔の思いを再考し、チャレンジ精神がわく

④ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

 海外ボランティア活動は過去のことですが、現在対応してる方々からエネルギーをもらってます。ありがたいです。

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

経験や知恵を駆使して、今後も頑張りましょう。

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宇津 真治

①今までの海外活動のご経験など

 海外勤務はありません。海外出張は1回あります。妻と海外旅行に2回行きました。

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

 NTTコムウェアを定年退職し、地域コミュニティの活性化に取り組んでいます。長い間、NTTグループのような大企業にいると世の中の現実がわからなくなります。

地域独自の①課題(高齢者、障碍者、子育て、防災、グローバル化、孤立化)と②取り組み(町会・自治会、民生委員・児童委員活動など)に向け、まず防災とボランティアに注力し、活動範囲を広げてゆく所存です。

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

 ボランティア活動により、老人ホームの介護の過酷さを体験しました。

④ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

 今までの活動で満足しています。発表内容は知見や教養を得るのに十分です。

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

 特にありません。

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遠藤 和彦

①今までの海外活動の経験

 20歳で入社し、25歳で青年海外協力隊ネパール2年、35歳でフィリピンNTPプロジェクト2年、45歳でハノイBCCプロジェクト2年、と来てさらに55歳で?と期待しましたが成らず、56歳でNTTを退職し64歳で協力会社も退職しました。

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

 協力会社退職後職業訓練校で造園技能を学び、65歳からシルバー人材センターの植木屋として6年目になりました。

 趣味は50年以上もコイ釣りにハマり、My Fishing Styleを確立すべく修行僧の千日回峰行を真似て年間100日釣行により達成しようと奮闘していますが、自由に釣行出来るのも体力的にあと15年、未完に終わるかもしれません。

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなど

 庭の剪定を終えてお客様から「あ~きれいになった」のひと言をいただくと思わずうれしくなります。釣りでは年間数本ですがメーターオーバーの淡水大魚がかかった時は体中のアドレナリンが全開、1週間ほど余韻に浸っています。

④ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

 かつて海外業務を一緒にさせていただいた方々の近況をICT会がこうした場を設けていただくことにより気軽に知ることができ感謝しております。

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

 残された年数を数える方が早くなった今、人生をより楽しくそして少しは世の中のためになるよう生きたいと願っています。

 “遠藤和彦”という名の国際経験者は東北にもう一人同性同名でいらっしゃいます。私は背の高い方の遠藤和彦、線路出身です。もう一人の遠ちゃんはやや小柄、伝送出身ですよ。


2023.7.24会報No.109

秋山 正則

①私の海外経験

 1993年4月から1996年3月まで、タイ国のTT&T社に出向し、現場の作業を支援しました。勤務場所はタイ国東南部(チャチューンサオ県、チョンブリー県、ラヨーン県など8県)で、九州と四国を合わせたほどのエリアを、車でぐるぐる回っていました。このため、1カ月に1回くらいしか同じ職場に来ない仕事をしていました。

 会社をゼロから創るという性格もあったのでしょうが、営業の人たちも、所内の人たちも、所外の人たちも、とても明るく、積極的で、活気のある職場でした。

 このような職場環境の中、現場で働く人たちは、よそ者である私を、気持ちよく迎え入れてくれました。頼んだことには答をくれ、また、現場はどんな状況なのか、話をしてくれました。

聞いた話から私の行動が始まります。とても充実した3年間でした。

②私の今

 今は、週2日のアルバイト(電話番)をしています。

そのほかの日は、自宅にいて、起床し⇒部屋を掃除し⇒ブランチを食べ⇒昼寝をし⇒1万歩目標の散歩をし⇒少し本を読んで⇒晩酌をしながら夕食を食べ⇒就寝、という日課になっています。

散歩は近くの鶴見川の土手を歩き、川の蛇行と緑の木々とが織りなす景色が、とても気にいっています。

海外とは全く関係のない生活です。

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東 孝志

①フランス共和国・INA(フランス国立視聴覚研究所)を訪れて

 技術革新もアナログからデジタルへと確実に変革している、あれは確か1998年頃に、仕事の調査で、フランス共和国のINA(フランス国立視聴覚研究所)にお伺いいたしました。みなさまもご存じのとおり、フランスの全ラジオ・テレビのアーカイブとしての組織ですが、当時、各データをアナログからデジタル化する様子を調査してきました。

 INAは1975年に設立され、2006年より歴史的番組一万時間分の映像を無料でネットワークサービスとして提供しているとも聞いております。

 お伺いした時に、編集作業をやっておられた、若い技術者に、これは何のためにやってらっしゃるのですかとお聞きしたら、「将来の子供たちに文化を伝えるためだと」と言っておられました。

 日本では、今、どうなっているのでしょうか・・・・。

 たまたま、知り合いに文化庁の方がいらして、最近、お会いした時にその話をしたら、彼も若い時に1年ほどフランスに留学していたそうで、INAのことはよく知っておられました。

 残念ながら、フランスを訪れるのは、これが最初で最後でしたが、最近は、イギリス・ロンドンにはよく訪れます。また、フランスとは異なり、王室とビートルズの世界ですかね。

 最近の新技術はAIとかメタバースとか言われますが、日本の文化の発展のことも新技術で貢献してほしいものですね。

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阿南 修平

①早いもので、70歳を超えてしまい、亡くなる友人が増えてきました。少しゴールがみえるような日々を人生を振り返りながら送っています。

日本電信電話公社に1976年に入社、当時は、5次5カ年計画とかで、電話局勤務では、固定電話の架設工事が中心でした。電柱にのぼり「青・黄・緑・赤・紫、白・黒」を唱えて、サービスオーダを行っていたことを思いだします。

いまはスマホの時代、携帯端末がコンピュータになり、何でも可能になりました。音声通話からデータ通信へすごい技術発展で、国内外で無料のネット会議が可能となり、驚きです。

隔世の感があります。

私の専門分野(土木)とは関係なく色々な分野の通信業務に関与でき、海外事業にも参加し、リーダとなって直接事業経営に従事することができました。

今は田舎で農業を行っており、稲の成長をみております。自然の移り変わりを身にしみて感じる今日この頃です。自分の人生を振り返ると、色々挑戦、沢山の事を経験させていただいたかな、とあまり思い残すことはないような気がします。今まで大きな病気もしてないし、もう少し生きれそうなので、スマート農業や小水力発電事業に挑戦してみたいと思います。お互い残り人生、恥かしいと思わず怖がらず大いに楽しみましょう。

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井原 順次

①私の海外活動

28歳の時、知人からJOCV ネパールOB(通信線路)の活動経験を聞き、JOCVネパール隊員に挑戦したのが海外活動の始まりでした。

ネパールでは地方の開局の加入者線路設計と、カトマンズ市内の加入者線路整備工事設計、及び地方の新設局の加入者線路工事の監督に従事しました。日本では経験できない設計~施工まで従事でき、貴重な経験でした。

ネパールは世界最高峰エベレストをはじめヒマラヤ山脈があり、毎年登山家が多く訪れます。そして仏陀(ゴータマシュダールタ)が生誕した国でもあります。生誕の地は世界遺産ルンビ二で南部のタライ平原の小さな村です。ルンビ二の町は丹下健三のマスタープランに従って、大規模な整備が進められております。

ルンビ二は仏陀の母マヤデービーが里帰り中に休息していた時に仏陀が生まれた場所です。私が訪れた時、仏陀誕生の石碑があり、マヤデービーの脇から生まれた言い伝えがあり、その様子が写真の石碑です。 エベレスト(サガルマータ)

ネパールから帰国3年後、NTT国際部で中国の郵電部をはじめアジアの数か国の電気通信運営体との覚書技術交流及び、コロンボ計画に基づく海外技術者の研修業務に従事しました。

次の海外活動はNTTインターナショナルでJICAのタイ王国の電気通信長期計画及びバンコク首都圏電気通信長期計画の調査案件に3年半従事し、また短期間ですが、ギリシャのマスタープランの事前調査にも参加しました。

その後、タイ国のTT&Tにて地方部の電話100万回線の建設・運用に2年半従事しました。

国内での国際業務と海外活動で通算国際業務10年になります。

②近況

2014年5月、全国約1万事業所をもつサービス事業会社の電話系サービス運用支援チームを立ち上げ、現在はメンバーとして業務に従事しております。

全国にまたがる事業所の電話サービスおよびビジネスホンの故障、SO対応を実施しております。

最近感じるのは一年を通して災害が多いことで、故障が以前より多く、驚いております。特にアナログ回線ではCCPケーブルの心線故障、保安器老朽化及び落雷のよるTA故障が多発しております。

2021年5月から在宅で業務を行っておりますが、昨年10月から今年の5月まで都合で都内の葛西まで通勤していましたが、通勤における駅構内の下り階段で不安を感じ、空間認識度が下がっていることに気が付きました。また、通勤でのエネルギー消費も相当のものだと感じております。現在は在宅の為、通勤のエネルギー消費に代わる、代替運動として毎朝1時間の散歩を実施しております。散歩コースは近くの運動公園までの往復で、緑が多く草木及び鳥・虫の鳴き声の季節の変化を楽しんでおります。

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今川 眞治

①今までの海外活動のご経験など

私は1973年に電電公社(NTT)入社しました。以後、在職中に国際関係業務は通算して約30年弱の間、従事する事が出来ました。最初の海外現地業務は1991年にインドネシアPMC5プロジェクトテンダーサービスメンバーとして参加、1年弱の期間赴任でのスタートでした。以後、海外業務は数年間に渡る赴任ベース、または数日間の出張ベースで多々経験させて頂き、国別では合わせて10カ国を経験させて頂きました。最後はベトナム国で経験して終了する事になり、国際関連業務経験は計約30年間に渡りました。

気が付いたら随分色々な国々(アジアの国々が主です)を経験させて頂き、長期赴任中に健康を損なう事も無く業務を遂行する事が出来て、最近になって自分が潰れる事も無く、元気でいた事に感心する次第です。

長期海外活動(赴任)させて頂いた国はインドネア、フィリピン、タイ、ベトナムでした。その他の国々は短期出張ベースで現地業務経験をさせて頂きました。

では、「何をやっていたの」「どんな活動をしていたの」の話になるのですが、大きく分けて、第1部(NTT在職時)の電気通信に関わる海外活動、第2部(NTT退職後)の日本企業様の海外進出に関わる活動になります。何か聞えは良いですが、実際の業務は種々様々でして、またビジネスの上流から下流まで色々と経験する事になりました。

 

第1部では、海外案件の発掘、案件形成、電気通信案件への応札、プロジェクト管理、研修、技術移転、協同研究、実証実験、関係構築等々についての業務でした。1991年に出向したNTTインターナショナル、1999年に復職したNTT東日本、2000年にNTTベトナムへ出向、2004年に再復職したNTT東日本で2010年の退職まで国際関係業務に携わる事が出来ました。国別での個々の対応履歴は長くなるので省略しますが、この期間にNTT投資案件FS、関連他社投資案件FS、デューデリジェンス、ODA案件、JICA案件対応経験も含まれていますので、一介のエンジニアとしては得難い経験をさせて頂いたと感じています。

2010年にNTT東日本を最後に38年間務めたNTTを退職しました。38年間のNTT 在職で約20年間以上にわたって海外関連業務に従事させて頂きました。簡単な履歴ですが、国際関連業務に関わる際、私は電気通信エンジニアという事でアサインされていました。電電公社入社当時はラジオ少年レベルの知識、ハンダコテが人よりは多少上手く使える技術程度でした。当時、海外に行きたい、海外で技術協力の仕事をしたいという単純な思いが有り、近道として青年海外協力隊にまず入りたい、そのためには何らかの技術を身に着ける必要がある。そのためには電電公社に入社した方が早い、そして運良く電電公社に入社出来ました。入社後、交換機の保守運用の仕事からスタートし、交換機、伝送無線、電力、他所内系設備の保守、運用、設備計画、設計、建設、等々を10年あまりで駆け足で経験してきました。既に歳を取り青年海外協力隊の道は殆ど閉ざされており、次に何をやろうかな、の状況でした。この時にタイミング良く、また運良くNTTの国際関連業務に従事出来た次第です。このNTTでの海外経験が退職後の第2部の海外活動の元になり、当初の海外に行きたいという単純な思い以上に海外で新たな各種の業務経験を得る事が出来まして、NTT退職後の波乱万丈に繋がったかと感じています。

 

第2部(NTT退職後)ですが、2010年NTT退職後間も無く、第一部で経験した世界とは違った領域で海外業務をスタートする事が出来、新たな経験と生活がスタートしました。以後は、電気通信とは異なる世界で、海外の仕事に色々と直面する事になり、何とか着地する事が出来ました。そして昨年あたりから、いわゆる体力の限界が感じられる様になり、2023年2月を持って引退帰国をしまして、現在体調回復に努め、引退生活を始めた次第です。

第2部の業務履歴ですが、いずれも活動拠点の多くはベトナム国です。ベトナムは第1部のNTT時代に約10年に渡り赴任、出張で経験を積んでいましたので、何とか新しい仕事でもやっていけると思いました。それから12年のベトナムでの経験を上積みする事になり、ベトナム国は結局合わせて約22年以上関わる事になりまして、同国の発展を目の当たりに見ながら、海外経験を積む事が出来ました。第2部の業務履歴の概要ですが、・通信ソフトウェア会社のオフショア事業の展開、・工業団地開発会社の日本企業様向け営業、日系企業の海外進出コンサルタント、・JETRO新興国進出支援専門家として中小企業様海外進出のアドバイザー、・日本の総合建設会社様の現地合弁会社設立支援、立ち上げ業務、・現地日本語学校での日本語教師、・現地建設会社の事業企画、アドバイザー、等々を経験してきました。

 

上記、私の履歴概要ですが、良く聞かれる事が有ります。今川さんは何屋さんですか?私の海外業務経験で専門性を問われるとどの様に回答すれば良いのか難しいです。

諸先輩のご指摘を受けるかと思いますが、NTT時代(1部)ではいわゆる所内系エンジニアかと思います。また退職後(2部)はおこがましいですが、海外事業アドバイザーかと思います。

自分ではとにかく何でもやりましたし、やるしかないの気持ちで頑張った処はあります。そして、評価の程は分かりませんが、何とかやり遂げて来たかと思っています。但し、正直奥深い処までは触れていなかった部分があるのは確かかと思います。また、やり残した事が有るのは確かかと思います。いい加減な仕事をしたという事ではありませんが、今頃になって、もう少し頑張れた、違う方法が有ったのではと、あれこれと思い出されてきます。

 

海外での色々な経験の中で思い出される事、気が付いた事があります。当たり前の事について、発想の違い、柔軟な考えをする事で、ずいぶん変わった形が見える事があります。例えば、海底ケーブルですが、海底に敷設出来ればOKで済まない事もあります。陸上にも通信ケーブルとして敷設する事があります。田畑のあぜ道の上に管路が敷設され、マンホール内で接続される海底ケーブル。初めて現物を見た時、あれはなんだ?で驚きでした。

また、防災通信(情報)システムの計画で必ず課題になるのが、国の政府機関、行政機関、警察、消防、軍隊等がバラバラに計画、構築、運用しているケースが殆どです。自分が主役で頑張ってしまう事が多いです。これでは十分な役割と機能が発揮できなく、残念な状態が見受けられます。

世の中で提供されているサービス、技術、環境の発展スピードと人々の要求が従来のやり方だけでは全く対応出来なくなる時代に来ているのではないかと思いますので、日本人の持つ吸収力を持って、幅広く柔軟な発想で、海外に出て行く事が必要だと改めて思う次第です。

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

よく有る言い訳ですが、不徳の致す処で海外が長かった、不安定な生活環境だったせいで、これと言った趣味らしい趣味はありません。最近になってボチボチと探し始めた処ですが、今からではシニアボランティアは無理なので、日本で何か(例えば技能実習生の支援等)協力、支援が出来ないか模索しています。

また、歳が歳で、正直健康にやや自身が無くなってきたので、日々のランニングを欠かさない様にしています。そして、何とか今年の冬には30歳まで頑張っていたスキーに挑戦したいと思っています。

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動したことなどですが

退職後ですが、私が日本に帰国後、路頭に迷っているかと心配をしてくれて、ベトナム人の友人(後輩)が、仕事の紹介で連絡してくれた事です。

④ICT海外ボランティア会(ICTOV)へのご意見など

NTT在職中に諸先輩の経験談等を聞きたくて会合に参加させて頂き、何時も自分のモチベーションを維持していました。この10年ぐらいは海外赴任等も有り、会合等に出席出来ず、ご無沙汰して大変失礼をしてきましたので、今後は会合等に是非参加して行ければと思います。未だにまだ若造ですが、よろしくお願いします。

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

最近になって、私は親しい友人、先輩、他企業同期赴任者と月1程度会う機会がありますが、話がどうしても健康に関する歳寄り話が中心になってしまいます。今更で申し訳ありませんが、是非皆様から昔話、電電公社時代、昭和のあれこれの話をお聞きしたいです。何方か面白い話を聞かせてくだい。

上記、長々としたメッセージで申し訳ありません、失礼をいたしました。

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岩名 孝夫

①今までの海外活動のご経験など

 1993年大阪研修センタの課長になって二年目に、会社の人事からタイ王国でのTT&Tのプロジェクトがあるので、受けてみないかと言われて、英語もできないのにと思いながら受験したら、東京でのバックアップするタイ事業推進室(後の海外事業推進室)に三月に異動。その年の一月に大阪で右眼の白内障手術を受け、三ヶ月後同じ目を網膜剥離になり関東逓信病院で手術と波乱のスタート。

ベルリッツスクールにも行かせてもらい、バンコクへの出張、TT&Tの要人のアテンド、研修生の受け入れなどあっというまの、二年間でした。

1995年5月からフィリピンのSmart Communicationsへ赴任。若い国で若いスタッフとの仕事は楽しいものでした。1997年7月に帰国し、関西支社の法人営業部で上海の新空港情報通信システムへのプロジェクト応札が帰国後の仕事でしたが失注。その後バンコク第二空港(後のスワンヌブーム空港)、中部国際空港のコンサルティングを経験し、2001年大阪支店に異動するまで約8年海外関連の仕事に従事できました。

②最近取り組んでいることなど(仕事、趣味、旅行、健康など)

 30歳の時、オートバイ(250CC)を再び手に入れ、750CCのホンダ。1000CCのBMWと乗り継ぎ、現在も1978年生まれのBMWR100RSで今年五月に軽井沢で年に二回開催される「浅間ミーティングクラブ」参加しようと前泊地の佐久市でバイクの故障で頓挫。本人もバイクも高齢!

フィリピンより生まれ故郷奈良に帰国以来、父がやっていた米作り(5反)を引き継ぎ、現在も約三反の田圃で「あきたこまち」と「一目惚れ」を「いわな米」として栽培販売しています。

54歳だった2007年からお世話になっている古河電工での仕事は、67歳までフルタイムで雇ってもらい、それ以後週に2~3日の派遣者社員で今も仕事を続けております。

十数年前に始めた、FaceBookでは、フィリピン時代のローカルスタッフ多数と連絡が取れることになり、コロナ渦までにたくさんの、Smart Communicationsの皆さんが、単独で、そして家族で関西を訪ねくれました。

③最近笑ったこと、うれしかったこと、感動ことなど

 5月に長野県佐久市で壊れたバイクを前に途方に暮れていたが、チューリッヒの保険会社のスタッフ、レスキュー会社の若者、奈良のバイク屋MotoPowerの方々に助けていただき感謝です。

⑤その他(皆様への呼びかけ、メッセージなど)

 TT&Tのプロジェクトで大変お世話になった、山下満男さんが、FaceBookで再開し昨年秋に「いわな米」を購入していただいた矢先、今年4月1日に突如向こう岸に逝かれました。

三度目の西国八十八ヵ所参りも終わり、FaceBookに投稿されていた最中でした。謹んでお悔やみ申し上げます。


2023.5.30会報No.108

安達 信男

①1985年から5年程、AT&T社の固定長パケット交換機とDoVモデルをOEM製品にして販売したのが海外との接点でした。その後、国際調達室でノーザンやAT&Tの局用交換機の調達を担当、NTT-WT発足にも参加して米国EC第二位のスターリングコマース社とJVを立ち上げました。その後は、NTT-PCとミライトで海外機器の輸入販売を展開しました。現在は、自分の会社で、英国製品Sophosを販売したり、技術英語を企業様へ講義しております。

②ITコーディネータ協会のケース研修講師をしております。この中でITで経営革新するガイドラインを企業の中堅の方々に話しております。NTTはITCの設立メンバーでしたが、影が薄くなっており、NRI、NEC、キャノン、みずほ銀行など、ビジネス変革を推進するSIナー企業の参加が増えてきております。NTTに戻ってきて欲しい。趣味は多く、テニス、ボーリング、水泳、ゴルフ、英会話(Toastmasters)です。

③米国のベテラン選手がショーマン的なテニスダブルスのYouTubeを発見しました。65歳位の超ベテラン選手のユーモアと神業に笑い転げました。私もああなりたいの憧れを抱きました。テニス好きの方は一見の価値があります。ほんとに笑えます。

④100歳まで生きようぜ!この実現には会話が大事です。座談会を継続願います。

⑤健康で長生きには、刺激を得て、または与えて、友人や新しい方々と会話することがとても大事と思います。懇談会を共に盛り上げてまいりましょう。よろしくお願いいたします。

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久保伸太

①30年以上昔になりますが、懐かしい海外の思い出の一つにインドネシアでの温泉体験があります。1990年9月にアジア・太平洋電気通信共同体(Asia-Pacific Telecommunity)研究委員会(Study Groups Meeting)が、インドネシア、バンドンで開催されました(APT:バンコクに事務局のある地域機関、1979年設立、現在38カ国が加盟)。この会議は9月4日から12日の9日間の日程で開催され、私は事務局員として参加しました。アジア・太平洋各国からの出席者は、域内の電気通信サービス、情報基盤の発展促進のため、白熱した議論を侃々諤々と進めていました。バンドンは、第1回アジア・アフリカ会議開催の地で有名ですが、郊外は火山、田園など自然に恵まれた風光明媚なエリアです。ホスト国は週末にツアーを計画し、景観スポットの山、滝を案内し、ツアー参加者は自然を十分に満喫しました。ツアーの仕上げはチアトルにある温泉でした。温泉プールでの湯治ですが、温まりながらの愉しい歓談の場となりました。私も会議で話せなかった人達と和気藹々に話すことができ交流を深めました。前日までの会議とは異った和やかな雰囲気が生まれ、翌週からの議論は更に活発にかつ円滑となり、ホスト国の粋な計らいだったと思います。 昨今、世界情勢はギスギスとした感がありますが、温泉に浸かってのんびりと、このような和の機会はないものかとつくづく思います。 事務局の秘書達が、SG活動でAPTと付き合いの長いインドの博士が笑う姿を、初めて温泉プールで見たと話題になったことは懐かしい思い出です。

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倉島 渡

②イギリスを代表するリンゴを栽培しています。

 りんごは世界で1万5千種以上栽培されているらしい。原産地はアジア西部と言われています。旧約聖書でアダムとイヴが禁断の果実であるりんごを食べた話は有名ですが、それだけ古くて、約4千年以上前から栽培されていたと言われています。

日本には中国から伝わったとされており、平安時代の記録にりんごの記述があるとのこと。しかし、現在日本で栽培され、食されているりんごは明治初期に主にアメリカから持ち込まれたものがルーツになっているようで、「西洋りんご」と呼ばれています(「紅玉」はアメリカから来た代表的なりんごです)。それまでのりんごは「和りんご」として区別されています。

現在の日本には約2千種のりんごがあるとのことです。

私のふるさとである長野市の北隣りの高原の町「飯綱町」は長野県を代表するりんごの産地ですが、「和りんご」として「高坂」を栽培しています。飯綱町には、りんごパークセンターがあり、ミュージアムとその隣の畑には世界の代表的なりんごが栽培されています。かの有名な「ニュートン」がりんごの落ちるのを見て、万有引力を発見した、いわゆる「ニュートンのりんご」(正式名:Flower of Kent)もあります。

ニュートンのりんごの実は「熟しても青く、部分的に朱色がかった縞模様がある」、との解説があります。一般にりんごは熟しても落下しないのですが、この解説によると、このりんごは「熟すと直ちに落下する」とあり、ニュートンはそれで万有引力を発見したのでしょう。ニュートンが他の落下しない普通のりんごを見ていたら、万有引力を発見出来なかったかも知れません。

ところで、私は2・3週間に一回、東京から飯綱町に通って、リンゴと野菜の栽培をしています。すなわち新幹線農業をしています。

栽培するリンゴの中にはイギリスを代表するりんごがあります。そのりんごは日本では「ブラムリー」と呼んでおり、英国でクッキングアップルの王様として、今でも不動の地位を占めています。1883年英国王立園芸協会から最高賞を受賞しております。英国生産のりんごのうち約45%がブラムリーとのことです。正式名は「ブラムリーズ・シードリング(Bramley's Seedling)」と言います。

一般的に料理用りんごは日本では馴染みがありませんが、ブラムリーは色々な食材と合わせることで、デザートや料理用として今注目のりんごです。加工に適した爽やかな酸味を持ち、熱を加えると、すぐ煮溶けるのが特徴です。

主な用途としては肉料理に合い、そしてパイ、クランブル、焼きりんご、ソース、ジャムなどバラエティーに富んだ料理に使えます。

~ブラムリーりんごの特徴は~ 

・色は青い 

・酸味が強い(砂糖を加えると解消できる)

・肉との相性がよい

・熱を加えるだけですぐ煮とける

・組み合わせると他の食材の引き立て役になる

・平たい大きい形状 (大きいもので300g/個がある)

・ヘタが短い

・身が白い

このブラムリーりんごは私が約7年前の4月初めに接ぎ木用の枝をJAから受け取り、自分で接ぎ木をして栽培しています。

日本の各家で柿の木を植えていますが、イギリスではそれに近い感覚でブラムリーを栽培しているようで、一般の家庭の庭などに植えているとのことです。日本のりんご農家のように、丁寧な消毒、摘果などの手入れは不要で、病気や害虫に強く、栽培しやすいりんごです。

写真(省略)にあるように、緑色のりんごで、食べると非常に酸っぱく、紅玉のりんごを濃くした味です。

私は8月下旬に、飯綱町にあるワイナリー「サンクゼールワイナリー」に出荷しております。サンクゼールワイナリーでは、シードルワインにしています。

このブラムリーは、まだ、日本で栽培が始まって間がないので、りんごもシードルワインも市場にはあまり出回っていませんが、サンクゼールワイナリーでは手に入ります。ただし、ネットで購入することは出来るようになりました。関心のある方は是非購入して味わって見て下さい。

いつも、8月のお盆には避暑をかねて私の家族全員で飯綱町に行きますが、取り立てのブラムリーりんごをジャムにしてパンに塗って食べています。もし手に入ったら以下のレシピのようにジャム作りを試してみて見て下さい(NHKで飯綱町のリンゴの紹介をした時に私が書き取ったレシピを基にしています)。

(りんご1個に対して)

・皮をむき

・種を取る

・乱切りにして

・砂糖大さじ3を加える(好みによります)

・電子レンジ(強)で5分間温める

熱が加わると蒸気が出てきて吹き出すので、重いふたをかぶせるか、ラップをかける場合は空気抜けができるように少し開けてください。私は図のようなガラスのキャセロールを使用しています。

・実が崩れてジャムになる

他のりんごは電子レンジで熱を加えても、実が崩れないのでこのようなジャムになりません。

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佐竹 康雄

①私が海外で長期滞在したのはグアテマラとスリランカの2か国です。

 海外の長期生活ではストレスも多いので週末はスポーツや趣味を楽しみ仕事を忘れるようにしていました。スキューバダイビングやテニスも楽しいですが、一番の楽しみは子供のころから続けているアマチュア無線(以下、ハム)を海外で楽しむことです。

長期間の渡航が決まると現地のハムのライセンスを取得するよう日本国内で現地の情報を仕入れてきます。しかし、外国人に対してライセンスを与えることが明確になっていなかったり、軍部の許可や現地の人の推薦が必要だったり、手続きはなかなか進みません。そこで現地のハムクラブとコンタクトをとり情報を得るようにしています。現地の人達に接してみると、みなさん親切で、手続きを手伝ってくれます。

ライセンス取得後は現地の無線クラブに加入してメンバと各種イベントに参加しました。無線仲間と無線の交信を楽しんだり、クラブの月例ミーティング、食事会、家族を含めたレクレーション等のいろんなイベントに参加しました。仕事とは全く関係ないが共通の趣味を持つ現地の人たちとの交流し、楽しい時間を過ごしてきました。

現地のハム仲間と交流することで、色々な情報が得られます。現地の習慣・風習が理解できることや、クーデータが勃発したときには日本人会の連絡網より早く情報が入ってきました。

インターネットのおかげで、今でも時々情報交換したり、たまには遊びに行ったりして楽しんでいます。

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松田 成就

①1983年、JICAの海外技術協力専門家として、タイに行くことになりました。

タイに行くとなって、まず頭に浮かんだのは、同じ大学の研究室にいたタイの留学生で、帰国してタイの大学で先生をされていた人でした。赴任前に連絡を取り、先生が家族ともどもバンコクの空港まで出迎えにきて下さるなど、いろいろお世話になりました。同氏はその後、タイ政府の通信関係の要職に着かれました。

タイにはNTTの先人たちが、大学設立まで多大な貢献をされたモンクット王工科大学がありましたが、私の勤務するタイ電話公社には同大学の卒業生が多数いて、彼らから親しみをもって迎えられ、人づくりは時間がかかるがとても大きな財産になることを教えてくれました。

帰国後、アメリカ、ドイツの通信会社の日本法人に出向する機会を得、それぞれの国民性、企業文化の違いを肌で感じました。

アメリカの通信会社出向中に、シカゴ郊外にある研修センターで2週間、ただ一人の外国人社員として研修を受けました。当時はまだ通信キャリアを選択すると言う概念が私には少なく、またCCITTの標準化に尽力していたNTTの一員からみると、多くのことがデファクトスタンダードで進められるなど、アメリカの常識が十分には理解できておらず、朝から夕まで早い英語の洗礼を受けて過ごす2週間がとても長く感じられました。

ドイツの通信会社出向中には、1990年の東西ドイツ統合後、ベルリンへの首都移転に伴うベルリン首都圏での通信網整備・運営体制などが喫緊の課題で、同社の複数幹部が訪日し、NTTと意見交換の場を持つことになり、私も一員として加わりました。

東西ドイツ統合及びベルリンへの首都機能移転という歴史の転換点直後に、ドイツ企業に身を置きましたが、こうした場で真摯な議論がなされたことが印象に残っています。

ドイツの通信会社出向中に得た人脈は、その後、関西で広帯域通信網を使ったアプリケーション実験実施時に大きな助けとなりました。

私の海外との関わりは、時代背景もあり、多くは社会的ミッションとしてのものでありますが、それだけに、それぞれの時代背景を反映したものであり、それぞれがとても印象深いもので、私の財産になっています。

②NTTで在宅勤務、遠隔医療、遠隔教育などに関わりましたが、「できない理由を探す」時代が長く続きました。しかし、終わりの見えないコロナ禍が契機となって、オンラインの自己研鑽の機会が増えたことは喜ばしい限りです。

リタイアして自由に使える時間があり、それまでは開催地でしか受講機会のなかったイベント・セミナーが、しばらくはオンラインのみの参加となり、その後は会場での開催に加えてオンラインでも参加できるようになり、積極的に参加しています。

参加するオンラインイベントの開催テーマは、情報通信分野はもとより、国際問題、経済分野など多岐にわたっています。

無料もしくは低廉な参加費用で交通費もいらず、気軽に参加でき、世の中の動きにキャッチアップできるのはとても素晴らしいことです。NIKKEI LIVEは、日経新聞購読者であれば費用負担なしで気軽に参加でき、その分野の専門家などがわかりやすく解説してくれるので、関心あるテーマを選んで参加しています。

普段の趣味は写真・動画撮影、海外旅行のプランニングなどで、海外旅行はこうした趣味がフルに生かせる場で、準備期間、旅行時、帰国後に楽しむことができます。特に海外旅行するとなると、海外ビジネスにかかわる人やバックパッカーのような人以外は、パッケージツアーを選択するか、旅行業者に任せてカスタマイズした旅行を楽しむしかありませんでしたが、高速インターネットが世界中に普及した今日では、旅行にかかわる情報収集から始まり、航空券、ホテル、観光施設入場券、レストランなどの予約・決済が自宅で済ませることができ、ネット社会の利便性を享受しています。

③日本ではコロナ禍が明け切らない昨年9月に、ヨーロッパ(フィレンツェ、パリ)を旅行し、いくつかのトラブルに直面しました。それまでの海外旅行にあったこともありますが、コロナ禍のこの時期にしかなかった経験もあり、貴重な思い出になっています。

④⑤最近の国際情勢が日々の生活に直結することを、誰もが痛感したことと思いますが、海外とかかわることは決して特殊なことではなく、日々の延長線上にあることを認識して、普段からそのための取り組みができるよう心掛けていたいと思います。

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山川 博久

①タイやフィリピンに約10年間海外勤務する機会に恵まれ、その間の現地の人たちの支援への恩送りというほどではないが、現在、在日外国人中小企業や留学生を支援しています。

②データに基づく中小企業経営への支援ができるよう、政府統計やエクセルのデータ分析ツールの活用促進等を進めています。

③ウクライナのゼレンスキー大統領がG7広島サミットに来日・参加したことに感動しました。

④継続は力なり、です。

⑤皆様の当会へのご支援・ご協力に感謝いたしますとともに、今後ともよろしくお願いいたします。

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山崎 義行

①昭和62年に当時の電電公社在職中に青年海外協力隊に参加して南太平洋のサモア(当時は西サモア)に2年間の活動をし田舎者の私の人生は大きく変わりました。その後帰国して職場に復帰したものの海外への気持ちはなかなか強くNTTのインドプロジェクトに応募。

当時のNTTインターナショナルに出向しました。インドプロジェクトは残念ながら没になりましたが東京を拠点に途上国のODAコンサルと言う仕事に関り、カンボジアなどアジアやアフリカでODA調査の仕事をさせていただきました。

NTT退職後はJICAのシニアボランティアに参加ヨルダンで2年間活動しました。帰国後は東京の派遣会社より台湾新幹線の通信部門の工事。パキスタンの携帯電話のプロジェクトなどに関り、10数年前に故郷の大分に帰っております。本当に良い経験をさせていただきました。

②高校生のころ始めたアマチュア無線が趣味で自宅に大きなアンテナを建てて自宅から世界中の方々と電波による交流をしています。現在は日本アマチュア無線連盟の大分県支部の支部長をさせていただいております。

8年前前立腺がんを発症しいきなりステージ4と言われながらまだ生きております。ありがたいことです。

③つきなみですが2か月ほど前に初孫ができました男の子です。毎日息子が動画を送ってくれますがこれが可愛い。既にジジバカ状態です。

④先輩方のお声がけでICTOVが発足しましたが本当に意義のあることだと思います。自分自身、身体の事もありなかなか力になれてませんがいつまでも続けて欲しいと思っています。

⑤みなさまそれなりの年齢を積まれていると思います。健康に気を付けていつまでもお元気でおられてください。